第8話 アリスの願いと、もうひとりの僕
「うおぉぉぉぉぉい、マジかよ! な〜にやってんだよ、アリス」
井戸から戻ってきたクリスの第一声がそれだった、不測の事態に理解が追いつかず、愕然としたまま立ちすくむ、言葉を継ごうとするもなにも浮かばない、金魚のように口がパクパク動くだけで、言葉ではなく、虚しさの込もる空気だけが肺から押し出されてくる。
クリスは途方もない脱力感に襲われ、おもわず鍋を落としそうになるも、なんとか持ちなおし、とりあえず鍋は脇へと置いた。
「ん? なにって、火を起こしているんだよ」
アリスは空になった木箱を椅子代わりにして、竈の前に座っていた、座ったままクリスのほうに顔を向け、さも不思議そうに小首を傾げて返事を返す、どういうわけか、右手の人差し指を口元にあてている、無邪気さを装っているのか、それとも可愛らしさをアピールしたいのか、ともあれ彼女は声色まで変えて、なにかを愉しんでいるようにも見えた。
「あっ、いや、だから。その〜」
無意味な言葉だけが連なっていく、小刻みに震える身体をなんとか自制して、クリスは事態の把握に努めた。瞳を閉じて雑念を払う、今まで感じていた感情すら捨てて、ひとまず自分が頼んだ火起こしのイメージを思い浮かべてから、まぶたを開けた。
瞳に映るのは当然の顔つきで──本人は止めるつもりもないらしく淡々と事に当たっている──重大な問題点をはらんだアリスの行い、いや、この場合は仕打ちと言うほうが正確かもしれないが、それと自分の思い描いたものとを重ね合わせる──とりあえず、理想と現実とに大きなズレがあることだけは認識できた。それを半眼で睨みやるように見つめ、クリスは静かに黙殺した。
「…………」
クリスは無言だった。無言のまま、今度は祈るような心持ちで、静かにまた瞳を閉じた──もしかしたら、疲れからか幻覚を見たのだろう、と無理矢理に思うことにして──口の端が奇妙に歪むのを自覚しつつ、荒ぶる心を抑えるように指で眉間を押さえた、次はたっぷりと数十秒きつくまぶたを閉じる、プルプルと顔の筋肉が痙攣しているのを気配で知るも、気にせずに続けて──そろそろと重くなったまぶたを開けた。目映い光に一瞬だけ目がくらむ、ボンヤリとしていた視界が回復して、瞳の中に景色が溶け込んでくる。
当たり前だが現実は変わらなかった。が、ひとつだけ変化がおこっていた、いつの間にか手を止めて、こちらを見ていたアリスと視線が絡む、アリスは満面の笑顔だった──にんまりとした含み笑いを笑顔と分類するのであれば──彼女は間違いなく笑顔だった。その笑顔に悪寒を覚えたのは言うまでもないが。
「……あーまぁ、そのなんだ……アレだろ──」
俺になにか恨みでもあるんだろう、そう言おうとしたがすぐに口をつぐんだ、アリスの腕が動いたことに気がついて、思わず言葉を止めてしまっていた。
そのままクリスが訝しげに注視していると、アリスはおもむろに足元に置いてある物を拾い上げ、これ見よがしに胸の辺りで掲げてから、ふっと鼻で笑い、そして迷うことなくポッイっと竈の中に投げ入れた。音もなく燃えていく様子を、アリスはニヒルな笑顔で見送っている。
「なぜだ! どうしてだ!」
クリスは両手をわななかせて、悲鳴にも似た声で叫ぶ。
「俺の頭脳をもってしてもさっぱり理解できんぞ、これはもうアリスのやらかしちゃったランキング、ダントツ1位をくれてやるよ、1番だぞ1番、1番って言ったら1等賞なんだぞ、それ以上うえはないからな、だから──」
クリスは頭を抱え、ひとしきり絶叫したあとに、ビシッとアリスに指を突きつけた、荒くなった息を整えるように一呼吸入れてから、神妙な面もちで口を開く。
「なので、もう勘弁してもらえませんかね。俺達は仲良し兄妹だろ?」
クリスは声のトーンを落して、存外早く根を上げた。
クリスの態度を確認したアリスがそろそろ頃合いと見て──実際には燃やす物が残り少なくなっただけだが──んふっと笑みをこぼす、彼女は人差し指にキスをした後に、こちらに向けてきた、向けた指を声に合わせて、なぞるように中空で指を動かしながら、わざとらしく聞いてくる。
「ど・う・し・た・の? お兄ちゃん──」
いったん言葉を区切り、ふっくらとした唇をぷるんと指で弾ませてから、アリスは悪戯っぽく言葉を口にした。依然として甘声も使ったままでいる。
「そんなところにいつまでも立ってないで、早くこっちにおいでよ。それとも3歩あるくたびに、忘れちゃうタイプの人だから動かないの? まったく、私はいろいろと準備万端だっていうのに」
「いっそうのこと、そうなってしまえば楽なのかもしれないがな」
クリスは半眼になって、おもいっきり皮肉を込めて答えた。
「ふっふっ、馬鹿ね〜」
微塵も憐れみの色も見せずに、冷たく凍るような眼差しを向けて、アリスが言い放つ。
「そんなんじゃ、忘れては疑問に思っての繰り返しで、前に進まないじゃない」
「うっわ! なんかすっげー腹立つわ」
最大限に顔をしかめて、クリスは怒りをあらわにした。
「なによ〜自分から頼んでおいて、その言いぐさは、私はお兄ちゃんに頼まれたとおりに、火起こししただけだもん」
心外とばかりにアリスが頬を膨らませるも、すぐに嬉々とした様子で声を弾ませた。視線を目の前の竈に向けて言葉を付け足す。
「ほら見てよ、もうこんなにも炎が上がってるよ、ほんっと、これは良く燃えてくれるね。なぜかしら? 脂ギッシュだからかしら、きっとそうね、だって汚いもん。まっ、燃えてくれれば私はなんでもいいけどさ」
言いながらもアリス、にこやかな笑顔は絶やさず、さっきからせっせと彼女が竈に放り込んで、焚き付けに使っているのは、クリスの売れ残りの下着だったりする、景気よく燃えていくさまを満足気に見ながら、爽やかに答えてきた。
「あ~アリスさん、なにをやってらっしゃるんですかね? と言うか、なにがしたいんっスか? 下着は着るものであり、決して燃やすものではないんですけど」
クリスはできる限りのスマイル対応で、手を揉みながらアリスに近寄って行く。下手にでている自分を少し情けなく思い、心が折れそうになったが、そこはなんとか理性が頑張ってくれたのか、踏みとどまれた。
「だ~か~ら~火起こしだってば、お兄ちゃん私に頼んだでしょ?」
もったいぶるように、アリスが身体を揺らしては、さり気なく下着を拾い集めている。
「それはそうなんだけど、その手に持ってる俺の下着を使って、火を起こすのっわ〜って言ってるそばから、まだやるか!」
クリスの問いかけなど、どこ吹く風といった具合にポイポイ竈の中に放り込んでいく、最後に残った数枚の下着を雑に丸めて、片手で握りしめてから、すくっと立ち上がり。クリスと対峙したアリスは、にんまりと薄ら寒い笑顔で表情をゆるめた。その笑顔でクリスの背筋に悪寒が走る。
「お兄ちゃん忘れたの? 私はお兄ちゃんの手伝いをしてるんだよ」
アリスのねっとりとした陰険な声が、クリスの耳に不愉快なほどに絡みつく、クリスはムッとするのを抑えて、なんとか落ち着いた素振りで、言葉を継いだ。
「いや、ちょっと意味わかんない。焚き付けなら燃えやすいスギの葉とか樹皮だとかいっぱい外にあるぞ、わざわざ下着を燃やさなくても……つーかその下着は返して欲しいんっスけど」
「チッチッチッ、これは焚き付けなんかじゃないわよ」
クリスの言葉は無視して、アリスは人差し指を振りながら、身体を斜めに向けてポーズを取った。彼女は悪びれることなく返事を返す、本当に悪気が無いのだろう、その顔からは悪意の欠片も感じさせない、確実にいまの現状を愉しんでいる。
(たぶん悪の大魔王とか魔界の王とか、悪魔でも死神でもなんでもいいけど、きっとそういう奴らはみんな得てして、こんな笑顔で人をいたぶるんだろうな)
彼女自身が邪心であり、悪意の根源そのものなのだろう、とりあえずクリスは胸中で納得した。それを知ってか知らずか、アリスがさらりと続けてくる。
「下着はなかった事にするんでしょ? さっき言ってたじゃない、忘れたの?」
(うーん、確かに言った、言いました、でもな〜それを実行に移すなんて、いくらなんでも本当にやったら駄目だろうが、この決断力と行動力をもっと別の何かに向けてほしいよな)
返答に困っているクリスを置き去りにするように、アリスが笑顔でピッと指を立てて、まるで子供を躾けるかのように毅然と言う。
「自分の言葉には責任を持ちましょう。いい、わかりましたか?」
「……ええ? ああ……はい」
クリスは不貞腐れた態度でそっぽを向き、唾を吐く仕草を見せた。クリスの態度にアリスは笑顔のまま固まる──僅かに眉がピクピクと動いていたりもするが、表情だけは努めて冷静さを保っていた。
握りしめている小汚い下着を、思わず竈の中に放り込む衝動にかられるも、なんとか堪えて、アリスが話題を変えるように話をふるう。
「ふーん、私に対してそんな態度でいいのかな? お兄ちゃんにいい見せ物があるんだけど……まぁそれなりに覚悟するんだね」
立てていた指をこちらに突き出すように向け、細めた目をキラリと光らせてアリスが笑う。
「へっ?」
いい見せ物と言いつつも、最後に覚悟と言う単語が飛んできて、さらには光る笑顔を見せつけられたら、否応なく、クリスの脳裏に嫌な予感──を通り越して、痛い思い出が頭のうえに重くのしかかってくる。
「えっ? ちょ待って」
クリスが制止させようと手を伸ばす、その手から逃れるように、アリスが1歩後退しながら身体を反転させた。彼女の薄茶色の長い髪が、しなやかにそして鋭く、クリスの顔面を捉える。
バシッ──
乾いた音が虚しく響き、直後にクリスの悲痛な呻き声。
「イダ! おおおおぉぉぉ、めに目に入ったぞ、これは痛い」
顔──というよりも目元を押さえて、クリスが後ろによろめいた。うずくまり両手で顔をおおったクリスが悶絶する。意識と痛覚が拮抗しあって、気を抜くと意識を手放しそうにもなるが、クリスはギリギリのところで痛みに打ち勝った。
「うぅぅ、泣くな、泣くな俺、俺は勝ち組だ!」
クリスはあまり力のこもってない言葉とともに、よろよろと力なく立ち上がり、前方に顔を向けて、涙で滲む視界にアリスを捉えた、彼女はクリスのことなどまったく気にかける事もなく、自分の髪の毛を入念に調べている。
髪の毛を調べている? 頭の中に湧き上がった疑問と言葉が反復していく。数分間、なにも言わずに彼女の動きを観察していた。目の痛みはとうに引き、涙も拭い滲んだ視界はもうあけていた。いまだに鼻だけは押さえてはいるが──実は激痛からか鼻が垂れていたりもする──クリスはとりあえず理解できずにいた疑問を投げかけた。
「なにやってるんだよ、髪の毛なんかイジって」
「…………ん〜」
アリスは曖昧な返事を返すだけで見向きもしない、両手で掴んだ自分の後ろ髪を小脇に抱え、丸い目を最大限に細めて毛先の辺りを入念にチェックしていた、調べ終わった髪の毛はサラサラと下へと流していく。
アリスがなにをしているのか理解できずに、クリスが首を傾げる、待てど暮らせど返答がないことに痺れを切らせて、口を開こうとしたとき、アリスはこちらに喋らせまいと、言葉を遮るように、少し不快そうな尖った声で当然の如く言い放つ。
「私の綺麗な髪に、クリスにいの鼻水や鼻くそがついてたら、ヤダなって思って調べてるんだから、邪魔しないで」
「うおぉい! 失礼だぞ。直撃したのは目だ、それに鼻なんてタレとらんわ」
言いながらも、唾だか鼻水だかを飛ばしてクリスが詰め寄っていく。その姿に説得力の欠片もなかったりもするが。
アリスは動じることなく半歩下がり、身体をひねって飛んできたものを躱す、避けきれずに頬についた飛沫を袖で払うように拭い、不快感を示したものの、すぐに気を取り直してつぶやいた。
「まっ、いいわ」
掴んでいた残りの髪を、ぴっと弾くように後ろへ流して、あっさりと答えた。
「いや、よくないよくない、俺はしっかりと傷ついた」
クリスがブンブンと手を横に振り声を荒らげるも、アリスはまったく取り合うこともなく、瞳を閉じて、ゴホンとひとつ咳払いをしてから間をつくる。真剣な顔つきになり、声さえも今までの軽い口調から一変して、どことなく重みも感じられた。
「いろいろとテンポがズレて、ぐでぐでになっちゃったけど──それでは始めるわよ!」
「いや、まあこの際、どうとは言わんが」
なにを言っても聞く気はないのだろうと諦めて、クリスは腕組みして動向を見守ることにした。なにがしたいのかはさっぱりわからない、彼女のおこす騒動には、なにかしらの意味があるのかもしれないし、まったく無いのかもしれないし、そもそも意味のあった例があったかどうかも疑わしいが。
結局のところ──
(ようわからんのだよな、求めているものを素直に言ってくれれば、話が早いんだけど、なにかしらのアクションを入れないと気が済まないのか……)
色々と思索してみたが、彼女の行動を理解しようとすることは、空に浮かぶ雲を掴もうと、腕を伸ばすようなもの、手が届かないことには掴めない、触れられないものは握れない──すぐに無駄なことだと気づく。
クリスは虚無的な吐息をもらして考えるのを諦めた、頭を上げ前方をしげしげと眺める。ちょうど彼女が動きだしたところだった。それを熱のこもっていない虚ろな瞳で見やる。
アリスが竈に向かって片手を突き出し指をクネクネしている、まるで手品師が魔法をかける仕草で、次に竈の前で変な踊りをしだす、それを得意気にそして大仰に身振り手振りを使って、大きく腕を振り上げて彼女が絶頂を迎えた、最後に息を吐きだして声高らかに叫ぶ。
それと同時にクリスの苛つきも絶頂を迎えていた。
「さあさあ、よってらっしゃい見てらっしゃい、これ見て不思議と思うなら銭を出せ、これぞまさしく奇々怪々、見るも無惨なボロ布が、あれよあれよという間に、消えて無くなるは摩訶不思議、5分もしたら無かったことになりま〜す、まるで魔法のようで〜す! お兄ちゃん残りのコレも投入して私の魔法を見せようか?」
絶頂を迎えていた怒りも一瞬で消え失せ。クリスは漠然とした敗北感を噛み締めてから、捲し立てるように言葉を継ぐ。
「ごめん! なんか俺がいろいろと悪かったことにするから、頼むからやめて、お願い。そのシャツは俺のお気に入りだから解放してください」
「なら、私のお願い聞いてくれる?」
「お願い?」
唐突な要求に自分の顔が奇妙に変形していくのを感じて、陰鬱な感情が込み上げてくる、どうせいつもみたいに、ろくなもんじゃないんだろうな、そう心の中で毒づき、クリスは嫌な顔になるのを眉間に手をあててなんとか抑えた、重くなった口を開けて声をふり絞る。
「とりあえず……聞くだけなら」
ふくみをもたせたのが悪かったのか、すかさずアリスが竈の上に手をかざし少しだけ握力を緩めた、手元から下着がはらりとめくれて落ちかける、しれっと1枚だけ炎の渦に消えていくのを涙ながらに見送って。
クリスはアリスへと視線を戻した。彼女の冷たい表情からは、いつでも投げ込むぞ、と脅迫めいた無言の意志がはっきりと映し出されていた。
「わかった! 俺の負けだ、ちゃんと聞くから頼むから落ち着け」
クリスは両手を合わせて懇願する。
クリスの敗北宣言を聞いて、うふふふっとアリスが笑みを浮べた、満足そうにうんうんと頷いてから。アリスが勝利宣言をするように片腕を上げて、ぴょんと飛び跳ね、嬉しそうに告げる。
「家の応急処置をしてから出発したいの、せめて壁の穴だけでも塞ぎたい」
「はぁ? そんなことしてたら到着が夜になるぞ、だいたい補修材も道具もないのに、どうやってなおすんだよ」
「それなら大丈夫だよ、他の家の壁を取ってこればいいんだから、どうせ捨てた家でしょう、私達が有効活用しても怒られないよ、これだったら早くなおせるんじゃない? 道具はまぁ……知恵を出せばなんとかなるでしょ」
「それはそうかもしれないけど、俺達も移住するんだろ? この家をなおす必要ってあるのか、なおしたところで無駄になるんじゃないのか?」
「無駄って……」
無駄という言葉がぐさりと胸に突き刺さり、痛い。胸をきつく絞り上げてくる。少し心がささくれた。ひっぱたいてやろうかとも思ったがそれはやめた。騒動をおこしても理解にはつながらない、クリスの無頓着な言葉がそれを物語っていた。同じ気持ちでいるのだと思っていたが、自分の思い込みだったのかもしれない、ふたりの間にズレがあることに気づいて、傷ついて……
取り憑いてこようとする感情を必死に振り払うも、無駄な努力だった。泣き顔に近づいているのをアリスは悲しく自覚した。抑圧できなかった感情が瞳を揺らす、悟られまいとアリスは視線を逸らし、うつむく。
それでもアリスは認めなかった。情動に支配された精神も、慟哭に濡れた心も、懐疑心に苦しんだ自我も、彼女は全てを否定した。
(だって、わたしは)
我知らずと握っていたスカートを放す。熱気を帯びた吐息を吐き出した。伏し目がちのまま。
(私はちゃんと向き合わずに話してる、自分の気持ちを正直に言葉にして伝えていない……だから──頑張れ自分。取り乱すなわたし)
決意を固めたら不思議と心が軽くなった。だれかにそっと背中を押してもらえたような感触に、胸が熱くなる。自然と顔を上げ、ごく自然と1步足が前にでる。
アリスはどこか吹っ切れたように語気を強めて、叫んだ。
「私は移住するとは言ったけど、家を捨てるとは言ってないもん」
アリスは気づかれないように唇を噛み締めた。瞳を逸らさないで真っすぐクリスを見返す、感情をぶつけるのではなく、訴えるように視線に気持ちをのせて──このふたつには違いがあるのだとアリスは信じていた。感情をぶつける行為は、感情に振り回されて自分を見失っている証明、でも訴えでるのは理性で感情を制御できている証なんだと。
しかし違いを認識したからといって、そう都合よく感情をコントロールできるものでもなく。どちらかと言えば彼女は抑制するのが苦手で、感情をむき出しにすることのほうが多かった。
母──クレアから激情家だと言われた時にも怒ってしまった記憶がある、なぜ怒ってしまったのか、今となっては理由も思い出せないが、そんなことを頭の隅で考えるだけの余裕が、まだ残っていたことに驚きを覚え、それでも表情にはださずに、じっとクリスを見据える。自分の努力が功を奏したのか、とりあえず目の前にいる男の表情を、真剣なものに変えることには成功していた。
クリスは驚き目を見開いた。真っすぐ見つめてくるアリスの顔に、幼かった頃の自分の顔が重なって見えた。幼い自分の顔は無表情で感情は読み取れず、ハッとした瞬間には消えてしまい、言葉にならないほどの戦慄を覚えて硬直する。だんだんと動悸が激しくなり、心臓の脈打つ速さに合わせて呼吸が浅くなるのがわかる、クリスはじんわりと汗ばんだ手を握りしめた。
消えた幼い自分を探すように周囲に視線を配るも、見えたはずの顔はどこにも見当たらない──幻だったのだろうか?
クリスは怪訝に思いながらも身体の緊張を緩めた。とその瞬間になにかの気配に触れる。にじんだ汗がスーッと引いていくのを感じた。
(なんだ? 急に寒くなってきたぞ)
室温が急に下がりだし冷気が身体に纏わりついてくる。吐く息も白い。戸惑う心が焦りを呼び込んでくる。
不意になにかに引っ張られるような感覚に襲われ、思わず視線を下へと向けた。
「──ッ⁉」
視界に飛び込んできた姿に慄然とする。衝撃をうけたように、クリスは後ろへとよろめく。アリスの足元に重なるように幼い頃の自分が立っている。
彼は無表情なのか、それとも怒っているから無表情に見えるのか、判然としないが、こちらを力強く直視してきている、首には赤黒くうっ血した痕跡が確認できた。
彼は大きなクマの絵柄のトレーナーにジーンズを穿いていて、幼い子供には似つかわしくない剣が腰から下げられていた、彼が所持している剣も、クリスとまったく同じ形をした、飾りっ気のない物だった。
クリスは彼の視線に束縛されたように、身動きできずにいた。視線も彼から外すことができない、幼い自分と睨み合うように対峙している。思考も言葉も失ったまま、わけがわからずに混乱だけが訪れた。
アリスには見えていないのか気付いた様子もなく、こちらを一心に見つめてきている。アリスになにか言わなければ、いったいなにを? 考えても考えても、うまく思考が働かない、思い及ぶ前に闇に塗り潰されて消えていく。まるで目の前の幼い自分に思考を阻害されているようで、もどかしさだけが募っていく。
アリスが大きく深呼吸をして肩を上下に揺らした、胸元に当てた手で、シャツを握り締めて小さなシワを作りだす。不安を振り払い勇気をだすための、彼女のジェスチャー。
アリスと幼い彼が、ふたり同時にくちを開く。
「この家は家族みんなの思い出のつまった家……私にとっても大切な場所で帰る家、それはお兄ちゃんだって同じ気持ちだと私は思ってるよ」
ふたりの声が噪音となって響き渡る。周波数の合っていないラジオを聞かされているようで、耳が痛い、奇妙な感覚にクリスは顔をしかめた。
ノイズが酷くて聞き取りにくいが、確かに自分の声だった。
「この家を捨てたら置き去りになんかしたら──」
アリスの涙声と幼い彼の叫ぶ声が言葉を紡ぐ。
「お父さんもお母さんも、きっと悲しむよ」
紡がれた言葉が熱を帯びて脈動とともに動きだす。
あったかい──最初にアリスが感じたのは人肌の温もりだった、肌ではなく胸の内側から感じる不思議な温もり。それが言葉に呼応するように、感情に反応するように、高鳴る鼓動に合わさるように、胸の内に潜むなにかが熱量を増していく。熱く、ただひたすらに胸が熱くなるのを感じる──でも悪くない。
「それにふたりのお墓だって、この村の中にあるんだから!」
アリスが語気を強めた。と同時に力強く脈動していた熱いなにかが産声を上げたように、アリスの胸の中で弾け飛ぶ。
命の息吹を宿した言葉の波動──目に見えないが心を容赦なく突いてくる、力の奔流を形容するのなら、その言葉以外にクリスは思いつかなかった。自分に向かって津波のように押し寄せる──深く、激しく、渦巻くように、心に干渉しようと波が手のように伸びてくる。
(これって……このセリフは)
幼い自分の言葉が胸をつく。蓋をして閉じ込めた記憶を、無遠慮に彼にこじ開けられ、そのたびに記憶が鮮烈に蘇り、クリスは困惑した。
「昨日も言ったでしょ、移住しても思うようにいかなかったら、そのとき私達はどこに帰ればいいの?」
雑音が薄れていく、幼い彼の声が次第にはっきりと聞き取れるようになってきた。彼の表情に変化はなく声も平坦だが、言葉だけが激しく泣き叫ぶ、幾度となく同じ言葉を繰り返して、最後に助けを求める声が聞こえた。
(俺があの家から、無理矢理に引きずり出された時の言葉じゃないか)
心が軋む音がする、不快とまではいかないが、心地のいいものでもない。クリスはいつの間にか片手で耳を塞いでいた。
「私達が最後の最後に帰る家はここなんだよ! 私はこの大切な場所を失いたくない、守っていきたい」
波動は幾重にも重なる波紋へと変化して、室内に拡がり溶け込んでいく──静かな余韻を残すようにゆっくりと。ふっと彼も口を閉ざした。無表情のままクリスを見つめ、なにかを我慢しているようにも見える。
震えた声も揺れる瞳も、アリスはもう抑えることができなかった。でも、近くで──だれかに──それでいいんだと励まされたような、そんな優しい錯覚に触れる。心地よく染み込んでくる安堵感に元気をもらい。
「だから、お兄ちゃん──」
心の中で感じていた熱いものを、言葉と共に解き放つ。
「お願いだから、なおすの手伝って」
アリスが頭を下げた。と同時に感情を抑えきれずにアリスの瞳から大粒の涙が零れ落ちていく──アリスの最期の言葉に合わせて、彼が大きな声でクリスに怒鳴る。
彼の声を受けてクリスの身体がドクンっと脈打ち、束縛されていた身体に自由が戻った。
「……あっ、動ける。さっきまで蛇に睨まれた蛙みたいに、うごかな──」
身体の調子を確認するように腕を動かしていたら、ふっと妙な違和感に気づき、クリスの言葉が詰まる。
アリスが頭を下げたまま微動だにしない、クリスが声をかけても無反応で凍りついたように固まっている。
「なんだよこれ、どうなっちまったんだよ」
クリスは辺りを見渡すも、とくに変わった様子はなく、窓辺に近づき外に目を向けると──風がやんでいた。ざわめいていた木々も鳴りを潜めたように動きを止めている、光すらも止まっているのか揺らぎもしない、クリス以外の全てが──世界が静止した。
外の様子を確認していたクリスは、背後から視線を感じて振り向いた。依然としてアリスは頭を下げたままでいる、だが、アリスの足元に重なっていたはずの幼い彼は、いつの間にか1歩前に出ていてクリスを見ていた。
「……お前!」
自分以外にも、もうひとり動ける者がいたことに、警戒心が高まる。
アリスの足元から迫り出していた、幼い自分が動きだす。無表情のままクリスに向かって歩みを進め、1メートルほどの距離をあけ立ち止まった。無言のままこちらを見上げている。
「俺は幻覚を見ているのか? なんだよお前は、どこから現れた」
「…………」
彼は答えなかった。クリスは苛立たしげに声を荒らげる。
「俺の子供の頃の姿をした、お前は誰なんだよ!」
「僕は僕だよ」
抑揚のない声で彼は答えた。
「……俺って言いたいのか?」
「そう、僕だよ」
「……なんだよどういう事だよ、お前は本当に俺なのか? なんで俺の子供の頃の姿をしているんだ。どうやって出てきた……いや、それよりも──」
クリスはいちど言葉を区切って周囲を見渡した。相変わらずアリスは頭を下げた状態で止まっている。アリスの様子を痛々しい気持ちで見やってから、彼に視線を戻す。
「これはいったい、なにが起きているんだよ」
「…………」
彼はまた質問には答えない。黙ったままクリスを見つめている。
「おい! なんか言えよ。これはお前が起こしたのか? なにが目的なんだ」
「……僕が大事なことを忘れているから」
「忘れている? 俺がいったい、なにを忘れているって言うんだよ」
「僕はさっき言ったよね、聞こえてたでしょ? あの家のことだよ」
あの家のことと言われて、クリスの表情が険しくなる。
「……忘れてねーよ」
クリスは怒気をふくませた声で、静かに答えた。
「忘れてる!」
彼がすかさず言い返す。
「忘れてないって言ってんだろ!」
「でも、あきらめた」
「しかたないだろ! 俺が地元に戻ってきた時にはもう、あの家は売り物件じゃなかった……ほかの誰かが住んでいて、家には……いいか! 現実ってのはな、そうそう自分の思い通りにはいかないんだよ」
「そんなの、子供の僕にだってわかるよ」
彼は無表情のまま言い返す。表情もそうだが声にもメリハリがない──彼はたぶん怒っているのだろう──がクリスはいまいち感情が読み取れないでいた。相手の感情が判りづらい、それだけでやけに疲労感を強く感じさせてくれる。
「じゃあなんだよ、俺は忘れてないだろうが! それに今だって俺は──」
クリスは続きの言葉を口にしようとしたが、すぐに取りやめた。幼い自分になにを話そうとしていたのか、それを考えたら嫌気がさした。すぐに言葉を変えて話をしようとするも、なにも思いつかない、結果として会話が途切れてしまう。
しかし彼は見逃さなかった。相変わらずの無感動な声で、けれど彼の言葉は純粋で──クリスの心を見抜いているのか、気持ちを代弁するように言葉を連ねていく。
「そうだよ、僕は今だって時間さえあれば、あの家の前を通ってる。もしかしたらって思うんだ──」
「やめろ!」
「──やめない、僕は家の灯りがついているのを見るたびに、恨めしく見上げていることも、笑い声が聞こえてきたとき、淋しい気持ちに押し潰されそうになったことも、小さな自転車を見ては悔しさを滲ませていることも──」
「やめてくれ」
クリスは小さく呟いた。もうやめてほしかった。自分が意図的に止めた言葉は意味があって止めたのだから、それを自分から──それも幼い自分から聞かされるとは思ってもみなかった。本心を暴かれては息苦しさが増していく。
しかし彼は躊躇うことなく言い切ってくる。クリスの言葉を拒絶して、あっさりと──最後まで。
「──いやだ、僕はそうやって自分勝手に傷ついて、なんども諦めようとして、でも諦めきれなくて……こういう気持ちをなんて言うのかな? 僕には分からないけど」
彼はわざと聞いてきているのか、それとも本当に分かっていなくて聞いてきているのか、判然としなかった──がもとよりどちらでもよかった、彼の疑問にクリスは素直に答えた。
「……女々しい」
クリスはどこか観念したように言葉を漏らす。
「あとはなんだろうな……未練がましい? まぁ意味は変わらないと思うけど、お前の言うとおりだ。認めるよ」
胸の内を──本音を全て吐かれて、クリスは認めざるを得なかった。目の前にいる子供はやはり自分自身なんだと、だが、認めるにしろ若干の抵抗感は残っていて、それがほんの少しだけ言葉に混ざる。
「お前じゃないよ、僕だよ」
「……お前じゃないっか。誰かと一緒のことを言うんだな、それで、俺は何しに来たんだ? なにも悪戯に自分の心に風穴を開けに来たわけじゃないんだろ」
自嘲するようにクリスは肩をすくめて、言い放つ。
「……誰か……そんなんだから僕はダメなんだよ。兄妹なのに家族なのに、やっぱり分かってないじゃないか」
「あの家のことだろ! ちゃんと分かってる。俺は帰りたい……でも帰れない、悔しいがそれが今の現実だ! ああそうだよ、俺の言ったとおりだよ、諦め上手は大人の証なんだって自分に言い聞かせて、心に嘘ついて誤魔化して、それでも断ち切れなくて俺は必死に金をためてる、家族で過ごしたあの家を、いつか必ず取り戻すために、俺はな、今できる事をしているだけだ……悩みながら」
「ちがうよそうじゃない。そこまで分かってるのに、なんで妹のことは理解してくれないんだよ。僕の馬鹿」
「……え?」
「あの家もこの家も僕の──僕達の家だ。それなのに僕は区別する、僕はいつまで他人行儀でいるの?」
「……いや、俺はそんなつもりは──」
「そんなつもりはない? でもそうでしょ……前よりはマシになったけど、それでも心の隅でブレーキかけてる。だからこの家も迷うことなく捨てることができるんでしょう? 隠さなくてもいいよ僕には分かるから」
彼が胸に手を当てて、きっぱりと告げた。
「無駄って言葉に僕の妹は傷ついてるよ。僕が昨日の夜に感じたこの気持ちは本物なのに、それでも僕は自信がないから、どこかで線を引こうとする、もうそんなのやめてよ。僕達はたったふたりっきりの兄妹なんだよ」
「──いいんだな」
流れるものを身体で感じる。感じるだけで実際には流れてはいなかったが──だが、流れ出るものがダムのように溜まっていくのを、クリスは心の奥底で感じていた。
「俺は信じていいんだな。ここに来てからずっと感じていた、この感触を──信じていいんだな」
クリスも胸に手を当てながら、幼い自分に向かって叫ぶ。彼は無言のまま大きく頷いた。クリスも彼に合わせて小さく頷き返す。
「俺は、どうすればいい?」
ぽりぽりと頭を掻いて、クリスはどこか気まずそうに質問する。
「もう分かってるでしょ、ここは僕達の帰る場所に、帰る家なんだから」
「……ああ、そうか……そうだな。馬鹿なこと聞いたよ」
クリスはそっぽを向いて素っ気なく答えた。
クリスの言葉を受けて彼も小さく頷いてから。踵を返してアリスの元へと歩いていく、どこか名残り惜しそうな様子でクリスも見送っていた。半分ほど歩いたところで、ぴたりと彼が歩みを止めて。クリスへと向き直り、言い忘れていたことを口にする。
「あぁーそれと、僕の妹をイジメないでよね。もう泣かせたら駄目だよ、妹の守護天使になってくれって、お母さんから頼まれてたでしょ」
「はっ、そんなことも知っているのか」
クリスは片手を上げて了承のサインを送る、がすぐに釈然としないものを感じて、彼に噛みついた。
「……ちょっと待て、誰が誰をイジメているって? ちーとばかり自分の胸に手を当てて、思い出してみろ」
案外、素直に胸に手を当てた彼が──うつむき加減で黙考する。
「…………」
「ふっふっふっ、どうだ? 俺は思い出したかな?」
「じゃ、僕は帰るから」
彼はそれだけ言うと、くるりと回ってまた歩きだす。クリスは勝ち誇った様子でひらひらと手を振って、彼の背中に別れの言葉を送った。
「はっはっはっ、逃げるのか? まぁ、逃げるが勝ちとも言うからな、気にすることはないぞ俺、最後は大人の俺が一枚上手だったということだな」
大人気ないとも思いつつも、クリスは高笑いを続けていた。幼い自分にも、いままでの苦労を分からせてやった、という満足感からか、どうにも笑いが止まらない。
彼はなにも言わずにアリスの前まで歩いて──立ち止まった。頭を下げたままのアリスを、じっと見上げている。
「…………」
「どうした? なにか反論でも思いついたのか」
彼はクリスの問いかけには答えなかった。ただ黙ってアリスに手を伸ばす。
「……おっぱい」
彼は迷うことなく、アリスの胸元を指差して、平然と言う。
「あっ! てぇめえ、アリスの胸に触ろうとするな!」
クリスに顔を向けて彼は首を傾げた、ぼそりと言う。
「僕は僕だよ」
「うるせぇ! 俺にそんな欲望はねぇーよ」
待ち望んでいたと言わんばかりに、彼はニヤリと無表情な笑みを浮かべた。
「あれは去年のこと」
「……去年?」
「僕が4歳のとき」
「……ああ」
「お母さんの胸の感触を確かめたくて、腕を伸ばすは──夏の思ひで」
彼はなにかを触る仕草で腕を上げた。無表情な仮面を被ったように、ぴくりとも表情に変化は見られないが、なんとなく遠い目をしているのだけは分かった。
「あああぁぁぁぁ、違う違う! 断じて違うぞ、あれは、たまたま偶然うっかり指が触れただけだ。俺にそんな邪まな考えはない!」
クリスが頭を抱えて絶叫する。いやいやしながら両耳を押さえて身体をくねらせている姿は、はっきりとみっともない大人だった。
こんな大人にはなりたくはない、がこんな大人になってしまったんだな──彼は憐れむように眺めてから、ため息を吐いた。
「それじゃ、そろそろ僕は帰るからね。へなちょこ野郎」
彼の声を聞いてすぐにクリスが復活した。さり気なく最後に吐き捨てられた、彼の言葉は聞かなかったことにして。
「あっ、待てよ。帰る前に教えてくれ、俺が見ている俺は幻なのか? 俺はどこから来たんだよ──どこに帰るんだ?」
「…………」
「それぐらい教えてくれたっていいだろ、俺なんだからさ」
「……盾の石」
「盾の石? なんだそりゃ?」
「僕は盾の石に定着している残留思念。だけど幻とは違う、もう少し高次な存在」
「……ふ~ん、そうか。俺にはさっぱりわからんが、答えてくれて、ありがとな」
「妹に──アリスに聞いてみて、知っているから、全部じゃないけど」
「……あぁ、わかった。落ち着いたら聞いてみる」
「ねぇ、忘れないでね。いまも胸の奥で渦巻いている、この熱い気持ちを……」
僕は妹を守るって決めたんだから──彼は最期の言葉は、あえて言わなかった。言わずとも分かる、クリスの感情を感じる──感じとる──自分の中にも同じ量だけ流れ込んできている、心がいまにも決壊しそうなほどに──彼は視線だけで確認をとった。
「……妹だけじゃなく、子供にまで敗北を喫した、この惨めで情けない感情をか? それとも、もうひとつの──」
「もうひとつのほうだよ!」
彼は即座に叫び返した。地団駄を踏むようにアリスに向かって歩いていく、その後ろ姿を苦笑まじりに、クリスは見つめていた、アリスと重なると同時に、忽然と彼は姿を消す。
彼の姿が消えた瞬間に、クリスの身体がドクンと脈打つ、低下していた室温が急速に戻っていく、自由を取り戻した風も気の向くままに流れだし、光も揺らぎはじめ世界が動きだす、遠鳴きのようにアリスの声が耳から伝わってくる。
「くっそ〜」
クリスは小さく毒づいた。
「こうなるなら、ちゃんと言っとけよな。まぁ聞いたとて、止められるものでも、ないんだろうけど」
クリスの止まっていた感情も動きだしていた。胸中に溜まっていた想いが勢いよく吐き出され──平静だった精神が音をたてて決壊していく──自制しようとするも止められない、止まってはくれない、今度はちゃんと流れ出るものを肌で感じていた。多少の息苦しさこそ残っていたが、それは心を締めつけるものではなかった──気持ちよく感じられる自分に苦笑する──だが嫌じゃない。
心が軽くなるのをクリスは感じていた。大声で泣き叫んだあとのように、気持ちがスッキリと晴れ渡っていく。
「そうか……うん、そうだよな、帰る家に、帰る場所か」
クリスは自覚した。自分が泣いていることを──もう無駄な抵抗はしない、クリスは心地よくそれを受け入れた。静かな声でアリスに返事を返す。
「よし! わかった。どこまでできるか分からないけど、なおそうか!」
クリスの同意の言葉を聞いて、アリスの頭がぴくりと動く。聞き間違いではない、確かに、わかったと言ったのが聞こえた。頭の中で反芻するうちに──鼓動が急ぎ足で駆けだしていく、歓喜のあまり身体も小刻みに震えだす。
クリスの静かな声音が心地よく心に染み渡り、喜びのあまり思わず飛び跳ねそうになるも、そこはどうにか自重して。とびっきりの笑顔を作ってから、アリスが顔を上げて歓喜の声を上げた。
「お兄ちゃん、ありが──と……う……」
アリスの口から発せられた声は、だんだんと小さくなり消え失せる。彼女の表情も笑顔から一転して青ざめていく。身体の震えが先刻にも増して激しくなり、震えの意味すらも違うものへと変わって──
アリスが見上げた先に待っていたのは、思い描いていたクリスの笑顔ではなく、涙を流して佇んでいるクリスの姿だった。彼の表情は笑顔なのか悲しいのか、その中間というべき曖昧な表情を浮べて──ただ前方を漠然と見ている。
クリスの焦点がどこにあるのか、アリスには分からなかった、彼はただ静かにそして穏やかに、前だけを見つめて立ち尽くし、なにかを感じ取っていた。
「──っね、ちょっとお兄ちゃん。なんでどうして」
その表情に驚きを隠せずにアリスが悲鳴を上げる、とどまるところを知らない涙が頬を伝って、大粒の雫となり、落ちては地面に染みをつくる。
クリスの泣き顔を目の当たりにしたアリスは、動揺を隠しきれずに小走りでクリスまで駆け寄ると、つま先立ちで腕をのばし、袖をつかってトントンと目元を押さえて、涙を拭いていく。
「お兄ちゃん、ごめん。私がわがまま過ぎたよ、家なんてもうなおさなくてもいいから、わたしは……もうなにも求めないから、だからお願い、そんな顔しないで──泣かないでよ」
かなり取り乱し狼狽えたアリスが、クリスの腕にしがみつき涙目で懇願する。不安や恐れに後悔。さまざまな感情がアリスの震える小さな手から、クリスに流れ込む。
初めて見る狼狽えたアリス、彼女の態度を見て、いけないと思いつつも胸中で笑ってしまう。クリスは意地悪して、もう少しだけ味わわせてやろうと思い、こっそりと視線を落として観察していた、が幼い自分の言葉が──イジメないでよね──蘇る。
クリスは頬を掻いて、苦笑するように肩をすくめた。この時にはもう、アリスは自分の胸元に顔を埋めて震えていた。そっとアリスの頭に手を添えて、手ぐしで髪を梳かしながら、やさしく言葉を紡ぐ。
「いや、これは違うんだ。その……昔を思い出したと言うか、あぁ、え~とアリスの言葉が胸に刺さってって言うか、とにかく気にしなくていいから、それよりもごめんな、アリスの気持ち気づいてあげれなくて」
「ううん、そんなことないよ、お兄ちゃんはいつも優しいから、それよりも本当に大丈夫……無理してない?」
顔を上げてアリスが確認をとる。揺れる瞳に罪悪感を覚えて、クリスは誤魔化すように答えた。
「あはは、大丈夫だよ、さぁひとまず食事にしよう……か」
そこまで言ってクリスの言葉が途切れた、ぷるぷると竈の方に指を向けて、声にならない声で訴えてくる、クリスの様子を怪訝に思ったアリスが、恐る恐る後ろを振り向いて竈に目を向けた。視界に収めた瞬間に、サーっと血の気が引いていくのを全身で感じとり。
「お兄ちゃん、ごっめ〜ん。やっちゃった」
先ほど駆け寄ったときに、うっかり放り投げた下着が、竈の中に入ったようで盛大に燃えていた。アリスが両手で口元を覆って気まずそうに、しかしどこか強気で胸を張る。
「私達は一蓮托生でしょ、ねっ! とりあえず食事にしようよ、ご飯を食べたら忘れられるって」
もう一度、クリスがキラリと光る涙を流したが、今度は拭われることは無かったという、かくしてクリスの下着を燃やしてまで炊いたご飯は、少し水っぽかったものの、おおむね満足のいく炊け具合で完成した。
クリスとアリスのサイドストーリー
ボツネタ編
食前の出来事
木箱をテーブル代わりにして、その上に器が4つ置かれている。器の中には湯気を立たせたご飯が艷やかに煌めいていて、食されるのを待ちわびているようにも見えた。
もともとあったテーブルは、粉砕されて使用できなくなっていたので、仕方なしに木箱を使っているのだが、こんな所にも帝国兵達の陰険な嫌がらせが窺えた。が、今のふたりに、そんなことはたいした問題ではないようで、気にも止めていない。
机の上──クリス側に器が1つ、そしてアリス側には、なぜか3つの器が鎮座していた。クリスは木箱に座って黙したまま腕組している、瞑想しているのか瞳は閉じられていた。
机を挟んで対峙しているアリスは、クリスに鋭い視線を送りつけていた。それは無視して、クリスは片目だけを開けて、テーブルの上をちらりと見てから、すぐにまた瞳を閉じた。陰鬱なため息などを吐いて、かぶりを振る。
(……さて、俺はこの難題を、どう理解したらいいのだろうか? いや、それとも解決か)
兄妹にとっての問題点は、ご飯の量ではなかった。もちろん、無問題というわけでもないが、現時点では小さな歪にすぎない、解決すべき案件は別にある。
「ねぇ、お兄ちゃん」
先に口を開いたのはアリスだった。不機嫌そうに口を尖らせて、テーブルの真ん中にひとつだけ、ぽつんと置かれている、白色で楕円形の物体を指差して、聞いてくる。クリスは眉ひとつ動かさないで、沈黙を貫き通した──が限界は近い。ぎしりとなにかが軋む音がして、次いでにカタカタと器が揺れる音、その物音でクリスは一筋の汗をたらした──いつまでもこのままと言うわけにもいかない、なによりも目を瞑っていてもわかる、今にも拳が飛んでくるのではと、鬼気迫る雰囲気が肌から嫌なほど伝わってくる。
クリスの無言が気に入らないのか、再度アリスが語気を強めて、呼ぶ。
「ねぇ、クリスにい」
「ああ、わかってる。みなまで、言うな」
クリスは冷静だった。静かにゆっくりと言葉を並べるように、告げる。
「じゃあ、なんでよ。なんで1個なのよ! 馬鹿なの?」
アリスが勢いよく立ち上がり、椅子にしていた木箱が音をたてて倒れた。テーブルの上へと身を乗り出し、凄むようにクリスに顔を近づけて、まくし立てる。
「しらん、しらん、俺はしらん」
さっきまでのストイックな態度をぶち壊して、首を左右に大きく振り、ヒステリックにクリスが叫んだ。
「なに言ってんのよ! この卵は、お兄ちゃんの鞄の中から出てきたんでしょ。それに私に論破されたからって、子供みたいにだんまり決め込んで、いい加減やめなさいよみっともない。そもそも、ふたつ手に入らないなら持ってこないでよ。馬鹿!」
(くっそ〜、言いたい放題いいやがって、だいたい論破ってなんだよ、アリスはひとの話を聞かないだけだろうが、バカ、アホ、ボケ……しっかし、あの置き手紙みたいなのもムカつくよな、なにが数の指定はなかったのでっだ! どいつもこいつもツッコミどころ満載なんだよ)
「で? どうすんのよ」
腕を組んだアリスが、嘆息まじりに話を促してくる。
「それじゃあ、じゃんけんで、どちらが卵を食べるか決めようぜ。これなら恨みっこなしだろ?」
「いやよ! わたしはじゃんけん弱いもん」
「なら、どうするんだよ」
「ここは、あみだくじで決定でしょ。運も実力のうちって言うし」
「嫌だね。アリスはインチキするから」
「それなら仲良く、はんぶんこにしようよ」
「どうやって?」
「私が中身で、お兄ちゃんが外身(殻)と言うことで、どうよ?」
親指を立てて、アリスが自信たっぷりに同意を求める。
「却下だ!」
クリスは即答で拒否した。
「…………」
沈黙の中で互いに睨み合ってから、クリスが立ち上がった。ゆっくりと同じ動作で両者がテーブルの横に出る、そしてふたり同時に拳を握り、緩やかに身構えた、兄妹なかよく不敵な笑みを浮かべて、視線だけで言葉を交わす。
こうなれば恨みっこなしの、どつきあいで決着をつける──お互いが臨戦態勢へと入り、兄妹がピッタリと息の合った動きで腰を落とし、飛びかかるタイミングを見計らう、あまり緊張感のこもっていない空気が、辺りを支配した。
がすぐに緊迫した空気を破ったのは、第三者の発した乾いた音だった。
カシャン──
聞こえたのは、そんなような音だった。ふたりが音の聞こえたほうに視線を向ける。
「ああああ~」
これまた同時にふたりが、悲鳴じみた声を上げた。
ふたりが向けた視線の先に、いつの間にか男の子が木箱に座っていた。彼は卵をご飯にかけて、スプーンで軽く混ぜている。
「お前、なに勝手に飯にありつこうとしてんだよ。つーか食べれるのか?」
「頑張れば、なんとか」
「……頑張ればって。そんなこと頑張んなよ、て言うかそれ俺の飯だし、返せ」
「ちょっと〜、誰よこの子は、私は知らないんだけど、あなた村外の子? 勝手にひとの家に入ったら駄目でしょ、お父さんとお母さんはどうしたの? 君ひとりなの?」
卵を取られたことよりも、いきなり現れた子供にアリスは興味を示した。しゃがみ込み、まじまじと好機の視線を送る。
「僕は……僕だけど」
彼は困惑したように、弱々しく返事を返す。
「えぇ、なにそれ? そんなんじゃ意味わかんないよ……それよりも何故かしら?」
アリスが眉根を寄せて思案顔をつくる。彼をじっと凝視して、数秒間の黙考を挟んだ後になにか閃いたのか、急に立ち上がり、あらぬことを口走った。
「何故か君を見ていると──落とし穴に突き落としたくなるわね」
スッキリとした顔つきで、どことなく嬉しそうにアリスが言う。
「……ほう」
すでに経験済みのクリスは感慨深く頷き、言葉を漏らした。
「──ぼっ」
アリスの辛辣な言葉を受けて、彼は器を持ったまま身震いしだす、無表情だが、どこか悲しんでいるようにも見える顔をクリスに向けて、すくっと立つと、即座に大声で叫ぶ。
「僕の馬鹿〜」
ご飯を持ったまま、彼は外まで駆け出していった。
「ちょっと待て、なんで俺なんだよ! つーか俺の飯はおいていけよ」
クリスは捕まえようと腕をのばすが、間に合わず、彼はそのまま外へと姿を消した。
結局、卵どころかご飯も食べることが叶わずに、クリスは、その日1日を乗り切ることとなった。