第4話 クリスとマリーと自動失恋
秋口に入ろうかという時期、日の出が少しづつ遅くなってくる季節、空はまだ薄暗くどんよりとしている、当然ながらカーテン越しの部屋の中は漆黒の闇に近い、夏も終わりだというのに室内の空気は纏わりつくように重く、不快なほど生暖かく湿り気を帯びている、そんな中でいつもより早く目覚めた。
電気ショックを受けたのかと思うほどに、身体中に電流が走り抜けていく、反射的に脚が跳ねてビクつきながら目が覚める。
「母さん……ハァハァハァ」
無意識の内に叫んでいた、すぐに上半身だけを起しまだ混乱が残る中で警戒するように辺りを確認する、いつもの部屋のベットの上、家族など存在しない現実の世界。
ふっと不快感に襲われて顔を歪める、身体も服も布団さえも、不快なほどに汗で濡れていた。
早まる鼓動の音が耳に伝わる、今だに落ち着かない呼吸と脈拍、そして心の底から湧き起こる不安。
「いや違う、これは怒りだ」
そう口にしてかぶりをふる、下唇を噛みじわりと流れる血の味と匂いが、乾いた口の中に広がっていく。
「くそ! 何なんだよちくしょう、夢なのに夢なはずなのに、なんでこんなにも……こんな」
突然、言葉が詰る、理性が効かずに自然と涙が零れ落ちていく、流れる涙に呼応するように、抑圧していた感情が押し寄せ思考を掻き回す、脳裏に焼きついて離れない光景、そこからくる怒り、憎しみ、悲しみ、不安、怒涛のように押し寄せる感情が浮かんでは消えて──消えてはくれずに腹の中に溜まっていき、どす黒い何かに変化していくのがわかる。
抑えきれない感情の昂ぶりがピークに達したとき、身体が耐えきれずに悲鳴を上げた。
「うーなんだ急に、この吐き気と腹痛は」
ベットから飛び跳ねるように降りて、つま先立ちのままトイレに急行する。
「ほあぱー」
訳のわからない言葉を口にしながら天国の扉を開く、が、普段着ているルームウェアのズボンは紐式になっていて、濡れると固くなってなかなか解けない、寝汗で濡れていてこれ以上のない硬さになっていた。
「ぬおおおお〜頑張れ自分、負けるな肛門、ここで粗相したらそんなことをしたら、たとえ独りでもいろんな意味で挫折しそうだ」
身をよじりズボンの紐と格闘する、ほどけれない焦りと、トイレの前にいる安堵感が混ざり合い、無感情な笑みがこぼれる。
──ジャー
「はぁー、危なかった。なんとか間に合った」
さっきまでの昂ぶった感情が僅かに落ち着きを取り戻す、少し冷静になったのもつかの間で、すぐにまた気分が落ち込んでいく。
ため息をつきながら椅子に腰掛けて虚空を見つめる、放心状態のまま無駄に時間だけが過ぎていく、思考が止まったままで、焦点が合わずピンボケした視界だけが広がる。部屋の中を視線が泳ぎ、不意に壁に掛けてあるカレンダーに目が止まる。
「今日は金曜日か、なんかやる気がでないな、仕事……休もっかな」
高校を卒業後に入社して2年目、初めて当日欠勤として休みを取る、電話をかけること自体に慣れてないので、一瞬だけ躊躇ったが、あっさりと承諾してもらい拍子抜けしてしまった。
「まぁ、当然と言えば当然だな、なんだか身構えてた自分が恥ずかしい」
勤務態度も悪くはなく、上司から最後に気遣いの言葉を貰え、嬉しく思いつつ同時に罪悪感も湧いてくる。
「外に出て会社の人に見られると気まずいけど、今日は適当にぶらついて気分転換でもしてくるか、家の中に居ても気が滅入るだけだしな」
身支度を済ませ逃げるように家を出て行く、通勤通学の人達が行き交う大通りを避けるように、ひと気の無い道を選び馴染みの場所へと姿を消していく。
別に行きたい場所がある訳じゃないのだが、目的もなくぶらつくと自然と近所の森林公園に来てしまう。
ここの公園は山の中に遊具や散策路などが整備してあり、県内でも名のしれた公園になっていた、入口から入って直ぐに管理棟が建っていて、そこで申請すればバーベキューも楽しむこともできる、休日ともなれば家族連れで賑わいを見せている、ともあれ今日は平日の朝なので公園内は閑散としていた、近くにあったベンチに腰を下ろして夢の事を思い出す。
(村を襲ったのは帝国騎兵隊だろうな、タイミング的にも合致するからまず間違いないと思うけど、動機はなんだ? 兵士の勝手な行動、盗賊の真似事、まさか戦争でも始まったのか? う〜ん、わからんな)
こればかりは幾ら考えてもわかるわけもなく、ただ、無駄なことだと諦めることもできずに、様々な妄想が膨らんでいく。
そもそも情報が無さすぎるのも問題であり、帝国兵というのも現時点では可能性が高いだけに過ぎない、それこそ本当に盗賊に襲われただけかもしれないし、村を襲った者達を見てはいないのだから──そこまで考え込んで彼の思考が止まる。
「そう言えば父さんは無事だろうか? 薬草を売りに町まで行ったはずだけど無事に辿り着いたかな、母さんや村のことを知ったら悲しむだろうな……だけど最悪なことも想定して一応の心構えと覚悟はしておこう……ハァ、これからどうすればいいのかな」
現実で起きたことでは無いのに深い不安に襲われる、夢と現実の区別がつかなくなってきていた、夢が現実となりつつある感覚に混乱を覚えながら、感傷混じりのため息が漏れる。
「こんなことになるなら、こんな夢なんて見たくなかった」
ひとりで嘆きながら公園で暇をつぶす、昼頃になり腹が減ってきたのと暇すぎるとで、駅周辺に隣接している商店街の方に足を運ぶ。
一昔前までは賑わっていたみたいだが、今ではすっかり衰退の一途をたどっている商店街、それでも駅の近くなのもあってか他の商店街よりは人通りが多く賑わっている。
その商店街の先で男の子が母親に、何かをおねだりして騒いでいた、年齢的には幼児ぐらいだろうか、周りを気にする事なく大声で叫んでいた。
母親もなだめているが子供の興奮が収まらないのか、はたまた聞く耳が無いのか収まる所を知らないでいる、それを一瞥して通り過ぎたところで苦笑する。
(俺も昔、父さんに駄々をこねたことがあったっけ、確かアレはアニメの主人公が持ってた剣だったな、どうしても欲しくて店の中で我儘言って困らせたっけ、クリスマスに貰えたけど、結局あれが最後のプレゼントになっちまったな)
昔を懐かしんだところで、一度だけ振り返り親子を遠巻きに眺める、今だに母親との攻防戦を続けている、子供に視線を向けて心の中で忠告する。
(そうやって甘えていられるのは幸せな事なんだぞ、俺は現実でも夢の世界でも独りぼっちの孤児になっちまったからよ、失ってから気付いても遅いんだからな! 幸か不幸か俺は5歳でそれを知ったよ、死んだらそれでお終いなんだ、その後は言葉すら伝えることが出来ないんだ……お前も我儘ばかりじゃなくて家の手伝いぐらいはしてやれよ)
自慰的な自己満足にすぎない、自分の言葉なんてあの子供に届かないし理解する事も難しいだろう──軽く肩をすくめて自嘲の籠もった嘆息を漏らす。
その後も商店街周辺の人波の中を彷徨う様に徘徊して、結局その日は朝まで家に戻らなかった、いや帰りたくなかったのだろう。
紫色の闇に青色が混ざりゆく空、ゆっくりと日が登り始める前に家に帰ってくる、室内に入りベットではなくソファーの上に倒れる様に沈み込む、一昼夜、外に居たので疲れと眠気からか自然と意識が混濁していく。
ベッドの上に行かなかったのは、単純に外着のままだったのと、夢を見るのが怖かったのかもしれない、せめてもの抗いにソファーの上で横になる、もしかしたら見ないで済むかもしれない、そんな淡い期待の中で意識が遠のいていく。
残暑も薄らぎ少し肌寒くなってくる季節、虫の音とピリッとした風に包まれながらクリスの意識が戻る、村の入口付近にある柵に、背中を預けた状態で座りこんでいた。
「ここは?……やっぱりこの世界か、でも珍しいな目覚める時はいつも朝でベッドの上なのに、今日は夜で外なんて、それに襲撃された事実は消えないか、みんな壊れたままだ──あれ?」
クリスが暗闇に包まれた村内に目を向ける、村の奥に僅かな明かりが見えた。破壊され寂れた民家が無音の闇を受け入れている中、一軒だけが夜を拒絶するかのように周囲に光を放っている、オレンジ色の明かりが妙に優しく目に映る。
(俺の家だけ灯りが点いてる)
怪訝に想い恐る恐る家に向かう、もう日が沈み辺りは暗闇に満ちていた、月明かりがボンヤリと足元を照らしてくれるおかげで、村内を歩く分には問題はない。
暗闇の中で壊れた壁の隙間から、赤い炎がクリスを誘い込むように揺らいでいた、忍び足で近づき壊れた壁の隙間から家の中を覗こうと顔を近づけた、それと同時に室内からも外を覗こうとした者と鉢合わせをしてしまい、お互い悲鳴を上げながら尻もちを付く。
「うわぁ!」 「キャァ!」
あたたたた、と聞き覚えのある声が聞こえてくる、クリスが立ち上がりながら手に付いた汚れを払っていると、その声の主からの怒声が響く。
「もう、お兄ちゃん急にいなくなってどこ行ってたの? あの後、本当に大変だったんだから」
怒ったアリスが破壊された壁から顔を覗かせた、まだブツブツと文句を言うのが聞こえてくる、アリスが壁に足を掛けて外に出ようと前のめりになり、壁を蹴って飛び越えようとした瞬間、何かに引っかかったのだろう、あっ! と言うアリスのかすれた声だけが残り、そのまま顔面から勢いよく地面に沈み込み──長い沈黙が走る。
「お、おい、アリス大丈夫か……アリス?」
クリスのかけ声に呼応するように、がばっと頭を上げて顔を覗かせる、やっぱり痛かったのだろう少し涙目になっていた、痛みに挫けそうになりながらも、なんとか持ちこたえたアリスがクリスを睨み付けながら食って掛かる。
「クリスにい! いつも勝手な事ばっかして、どれだけ私が心配してたかわかってるの! それに、その後を知らないってのはいい気なものね、私だけになってから、ほんっと! もの凄く忙しかったんだから、生き残った人達と一緒に、負傷した人の介抱や亡くなった人の埋葬なんかも、一家の代表として私がひとりで動き回ってたんだからね」
アリスが息を弾ませて身体を激しく上下に揺らす、怒気のこもった声でクリスに文句を言う、いったんアリスが言葉を止めて渋い顔を見せた、記憶を辿るように人差し指でこめかみをトントン叩いて、なにかを思い出そうと眉根を寄せ目を瞑っている。
「あと……なんだっけ? あっ! そうよ集会よ、緊急集会が1時間ほど前に終わったのよ。そこでちゃんとうちの長男の駄目っぷりを、ご近所さんに吹聴しといたからね、この先の将来はかなり覚悟しておくといいわ、結婚なんてできないんだから、それにあいつギランよ、ここぞとばかりに俺に付いてこいって、しつこく言い寄って来るし──」
ずいぶんと恨みが溜まっていたのか、愚痴なのか説教なのか分からない話が始まる、途中にしれっとエグいことも混ぜながら、なおも話を続けていく──続くと思いきや、突然、涙を流しながら泣き言に変わっていった、普段見ることの無いアリスの物悲しげな顔が、屋内から漏れる赤い光に照らされて揺らいでいる。
「急に姿が見えなくなって本当に心配してたんだよ、いまの今までずっと探し回ってて、それに一人は嫌だって言ったじゃない! 私……心細かったんだから、ねぇ、お兄ちゃん聞いてるの?」
まくし立てる様にアリスが喋り、最後のお兄ちゃんと呼ぶ強めの語気にクリスが我にかえる。
急に緊張感がほぐれ安堵したのか、クリスがその場にへたり込む、半笑いになって笑っているのを、アリスが眉間にシワを寄せて不満気味に見つめ返していた。
(ハハハハハ、そうだよそうなんだよ、こっちの世界の俺には、妹がアリスがいるじゃないか! なに勝手にボッチだなんて思ってたんだよ、本当に俺は馬鹿だな)
涙目になりながらも、なお笑いが止まらずクリスが身をよじる、暫くして落ち着いたところで立ち上がり、口を開く。
「悪いアリス、余計な心配かけて本当にごめん……こんなことが無いように、今後は気をつけるから許してくれ」
「本当にもう一人で勝手にどこにも行かない、次からはちゃんと行き先を言ってから出かけるって、約束して」
「あぁ大丈夫、約束するよ、約束する、だからアリス──」
そこでクリスの口が固く閉じられる、両手を腰に当て力無く項垂れて落胆したような長い吐息を吐き出す。そしてゆっくりと顔を上げる、クリスは悲壮感を漂わせながらも辛抱強く明確になにかを堪えていた、抑えきれない感情が僅かに漏れだし彼の表情をいびつな形に変えていく、目にはしっかりと涙の粒が光っていた。
アリスも察しがついたのか、乾いた笑い声をあげて後ずさる、クリスがすかさずアリスの頭を鷲掴みにして捕獲した、歪んだ笑顔を挨拶代わりに向けてから、大きく息を吸って怒鳴り散らす。
「俺のこと皆に何て言ったんだよ、どうせまた、無いこと無いこと捏造して話したんだろ! 結婚できないってなんだよ、どんだけ悪者扱いしてもそこまでにはならないだろう、頼むからなにを言ったんだよ、白状しろー」
焦燥感に駆られたクリスが詰め寄り、必死の形相でアリスの肩を掴みガクガクと乱暴に揺さぶる。
アリスも何食わぬ顔でそっぽを向いて反抗を示していた、クリスの隙きをついて腕を振りほどき素早く距離をとり、アリスが乱れた髪を整えるようにかき上げた。
そして心外とばかりに胸に手を当て、無意味に嘆き悲しんでいるポーズを大仰に取る──しっかりと目線は逸して、彼女は空気よりも軽くまったく感情の籠もってない声であっさりと続けた。
「クリスにいも失礼ね、私は無いこと無いことなんて話してないわよ、今までしでかしてたかもしれない事とか、これからやらかすであろう事とか、希望的観測に基づいて、理屈抜きに屁理屈を理論的に、且つ聞こえが良くなるよう虚言も交え、主観と妄想で脇も固めつつ、辻褄の合わない事は横に置いといて、ごり押しで説明しなが……あら?」
話している途中で混乱したアリスが、どうでもよさげに頬に指を当て首を傾げる、クリスも頭を押さえながら次の言葉を待つことにした。もとより今更ではあるが、それでも一応は最後まで聞いておかないとスッキリとしない、絶望感に圧迫されながらも、クリスが促すように視線を送る。
「ま、まぁアレよ、お兄ちゃんの醜態が露見したってことよ、それにまだ起こってない事でも、今後、私が話したことが偶発的にでも起きれば、それはないからあるに変わるわけだから、少なくとも捏造ではなくなるわ……うん、そうよ、そうよね? お兄ちゃん」
「つまるところ、それを捏造って言うんだよ」
クリスがげんなりと肩を落とし嫌味を込めて呟く。
「あっ、でも1つだけ、いい話もあるんだよ」
アリスがなにかを思い出したように軽く手を叩く、彼女のニヤついた悪意のある笑顔に、嫌な予感を感じつつクリスが訝しげに聞き返す。
「アリスのいい話ってのはアリスにとっていい話であって、俺にとってのいい話だった例が無いんだが」
クリスが頭を抱えてうめく、クリスの言葉を気にも留めることなく、アリスが腕を組み堂々とした振る舞いで、あとを続けた。
「お兄ちゃんにつき纏っていた、マリーて女は、私が追っ払っといたからね、安心してちょうだい」
彼女の言った言葉が理解できずに、クリスの時がピタリと止まる。意識も思考も感情さえも凍りつく、呼吸すら忘れて停止していた。
つき纏った、マリー、追っ払う、アリスの発した単語がグルグルと頭の中を旋回して、まわりに回ったところで、ようやく意識が解凍され脳と繋がり反応を起こす、クリスの思考が活動を再開して言葉の意味、さらにはアリスのやらかした事を理解した。脳が熱をもち頭痛がおこる、身体も熱を帯びて汗が止まらない、そんな中で感情だけはどこか空虚なものへと変わっていく。
「お? おお? おおおおお〜」
クリスは言葉にならない悲鳴を上げた。目を見開き大口を開けて、アリスに向ってなにかを掴む仕草で両腕を突き出し、プルプルと震えさせながら距離を詰める。
「うんうん、そんなに喜んで貰えたら私も頑張った甲斐があったよ。なにせあの女、私もクリスさんが帰ってくるのを待ちます。って強情なんだもん、だから言ってやったの、あんたはとっとと荷物をまとめて、家族と一緒に故郷へ帰れってね」
アリスが指で鼻の下を擦り自慢げに話す。アリスの話にクリスの気持ちが浮上して復活する。
「お、おお〜、マリーちゃんが俺のために、そんないじらしいことを言ってくれてたのか? 嗚呼、やっぱり俺の目に狂いは無かったんだ、んで、マリーちゃんはどこに居るんだ?」
クリスが星空を仰ぎ歓喜の声を上げた、祈るように両手を広げ天空へと向ける。クリスの態度にアリスが静かに舌打ちをしたのが聞こえた。だが、闇夜に照らされた彼女の瞳に、狂喜の光が宿り顔も不敵な笑みを浮かべている。
「でもあの強情っぱり帰らないのよ、だから言ってやったの! あなたの知らないクリスにいの真実の姿を教えてあげるってね。もちろんお兄ちゃんのことは、徹底的に貶めておいたから心配しないでね、例えば──」
アリスが言葉を止めた。あきらかになにかを楽しむような笑顔になり、口に手を当ててクスクスと笑ってから、あとを続けた。
「中古の剣を嬉しそうに振り回しては、子供みたいにはしゃぐ20歳とか、仔犬を拾ってきてはいつもお母さんに叱られて、泣きべそかきながら拾った場所まで返しに行く、哀れで物覚えの悪い男とか、次元を越えた風変わりな性癖持ちとも言ってやったし、とにかく私の思いつく限りの意見を吹き込んでやったわ」
鼻息を荒くしガッツポーズを取るアリス、彼女の気合いの入ったひとり語りに、先ほどのポーズのままクリスが冷や汗を垂らして硬直する。夜の静寂の中、虫の音だけが涼やかに辺りに響いていた。クリスも自分の心にどこか涼しい風が吹き抜けていく感覚を覚える。
クリスを置き去りに、アリスがさらに語気を強めて続けた。
「だけどこのクソ女、そんなことは信じません。って耳を塞いで首を横に振るのよ、それもあざとく健気に振る舞ってね、いちいち鼻につく身振りに私の腹いせ根性に火がっ……ゴホン! 私の兄妹愛の魂に火がついたのよ」
「やっぱりか、素晴らしい女性だ! 誰かの毒牙にかかっても気丈に振る舞うマリーちゃん、くぅー、その場に俺も居合わせることができていたら、それだけが今は悔やまれるぞ!」
クリスがマリーの心の強さを垣間見て、また復活を果たす。クリスの言葉には構わずに、アリスが近くの石に片足を乱暴にのせた、だん、と乾いた音が周囲に響く。左手を腰に当て、特に意味もなく右手の人差し指を適当な星に向けて差している。アリスの興奮が最高潮に達した時だった。虫の音も以前にも増して大音量になり、さらに彼女を後押しするかのように様々な昆虫たちが大合唱を始めた。
「その時、私の耳元で天使と悪魔が囁いたのよ、もちろん、私は悪魔の言葉なんかに耳を傾けるつもりなんて、これっぽっちもなかったわ、でも、今回だけは違ってた! 右からも左からも同じ事を言うの、そう、これはまさに──天使と悪魔との共同宣言だったのよ! 私が彼らから受諾した言葉は──」
右腕を真横に振りながらアリスがくるりと回った。半回転した勢いでアリスの長い髪の毛がふわりと宙を舞う、クリスの前に向き直ったアリスが、腕を横に振り上げたまま無駄にポーズを決める。
月明かりに照らされたアリスの顔は、悪魔の様な笑顔で輝いていた。彼女の顔を見たクリスが、耳元で囁いたのは悪魔だけだったのだろうと、密かに悟る。
「──このあばずれを叩き壊せと、さすればきっと面白いことになるぞって、私ですらこの啓示からは逃れられなかった。だって面白いことになるのよ面白いじゃない──むかしね、お母さんから教わったのよ、食欲、睡眠、嘲笑うこと。これが人間の三大欲求なんだって」
頬に手を当てて首を傾げながら、しみじみと思い返している、ひとしきり思い出したのか、満足な笑みを浮かべたアリスが淡々と語りだす。
「お母さんが言ってた嘲笑うことってのはね、人を奈落の底まで文字通り蹴り落としたり、嘘の証言で人にぬれぎぬを着せ陥れたり、人の恋路に茶々を入れて楽しんだり、無実の令嬢と悪役令嬢どっちともやっつけたり、とにかく安全圏の中で自分だけが最後に、ざまぁみろ! と嘲笑する。この欲求からは誰も逃れられないって、だから──」
ぴっと人差し指を立てたアリスがさらりと答えた。
「──だから私は毅然とした態度できっぱりと告げてやったの、私達はひとつ屋根の下、同棲生活を送っているのよ、そして朝一番、私の笑顔と共にお兄ちゃんは目覚めてるんだからってね──ふっ、そしたらあのバカ女、呆気なく堕ちたわ、泣きながら逃げるように走り去っていったよ、へっへーんだ、ざまぁみろ!」
なぜか自分に、ざまぁ! と言われたような気もしたが、それは勘違いだろうと思う事にして、即座にクリスが抗議の声をあげた。
「全体的に間違ってなくもないような気もするが──はっきりと悪意を感じる間違った言い方だよ! あぁぁ、いい関係までいってたのに、マリーちゃんに盛大な勘違いをされたまま別れることになるなんて、マリーちゃんもなんでこんなしょうもない妹の、しょうもない言動を信じ込んじゃうんだよ〜」
しょうもない妹──アリスはその言葉でピクリと自分の頬が引きつったのを自覚した。さらに付け足すのなら、こめかみにうっすらと青筋が浮かんでいる事も。
興奮して自分の世界に入ってしまったクリスは気づいていない、いつのまにか膝を抱えて座り込んだクリスが、取り憑かれた様にぶつぶつとひとり言にいそしんでいる。
「マリーちゃんは、マリーちゃんは、新人事務員の真理ちゃんと、うりふたつだったんだよ〜、歳も一緒だし名前も真理とマリーで似てるし、年下なのにしっかりとしてて駄目なものはダメって、はっきりと言ってくれるところとか──そりゃ〜現実は上手くいかないよ、そんな事は俺でもわかってる、でも夢の中ぐらい夢見させてくれてもいいんじゃないの? 俺だって幸せになる権利ぐらいは持たせてくれよ。あぁ〜開幕直前の大恋愛が、始まる前に夢物語で終わっちゃったよ〜」
クリスが立ち上がり、涙ながらにアリスに視線を投げた。
とりあえずクリスの鬱陶しい視線を無視して、アリスがくるりと踵を返し数歩ほど歩みを進め立ち止まる。後ろ手に組み背筋を伸ばしてから小さく嘆息して、今までの様子と違い拗ねたように顔を横に向けて、こっそりと視界の隅にクリスを捉えてから、アリスが口を尖らせる。
「お兄ちゃんは私とマリーと、どっちが大事なの!」
「なっ!」
アリスの一言でクリスの全身に衝撃が走り、力無くその場に崩れ落ちた、複雑に枝分かれした稲光が秋の夜空に流れ落ちる──幻覚を見た。現実の空は薄雲がかかる程度で穏やかに晴れているのだが。
(なにを言っているんだ、そんなのマリーちゃんに決まって……いるのか? いや、でもアリスは大事な妹で今ではふたりっきりの兄妹だ。そんなまさか──これは究極の選択というやつか)
再びクリスに衝撃が走る、そして彼の脳裏に究極の選択肢が現れた。
うんこ味のカレーを食べるのか。
カレー味のうんこを食べるのか。
人はこれを実にくだらない幼稚な議論と言う。だが今のクリスは大真面目に頭を悩ませていた。
(クソ〜俺はどうすればいいんだ、アリスかマリーちゃんか、どっちを取るべきなんだ。いやそもそも、うんこ味がアリスなのかそれともカレー味の方がアリスなのか…………違う違う、そうじゃないだろ何故どちらか選ばないといけないんだ! 食さないというチョイスはないのか……待て待て、落ち着け俺、根本的な本質的な、なにかが間違ってるぞ、もっと大所高所から物事を考えるんだ。アリスの言葉と今の現状をよく考えっ──あっそうか)
クリスが不意に結論にたどり着く。
(冷静に考えたらマリーちゃんはもういないんだった。ここで彼女を取る意味はないし、取ったら余計にごねるよな…………危うく派手に爆死するとこだった。つーか、究極の選択じゃなかったな1択のみだったぞ、俺には選択権すらなかったんだ……なんだか急に虚しくなってきた)
急にうら寂しくなったクリスが胸中で落胆の声を上げた。嘆息をついてからアリスに視線を転じると、項垂れて背中をまるめたアリスが映る。
(でも、そうだよな、どんなにうんこ味だろうと、俺はカレーを取るべきなんだよ、なんだかんだ言ってもアリスは大事な妹だし、いつでも元気なアリスに励まされてたよな。それに……ついさっき俺はボッチじゃないんだって思い知ったばかりじゃないか、あのときに感じた嬉しさや安堵感はどこにいっちまったんだよ、ったく自分が嫌になるな)
クリスがほんの少し嫌味な言葉を混ぜながらも得心する、いまだにアリスがうつむき加減でいじけたように、地面を靴で蹴って砂塵を立たせていた、時折り、後ろ手に組んだ手をトントンと腰を叩くように、落ち着きなく動かしてクリスの言葉を待っていた。
アリスの寂しそうな後ろ姿を視界に収めたクリスが、おもわず苦笑する。
「アリス……アリスだよ、俺が一番、大事に想ってるのは妹のアリスだ、マリーじゃない」
クリスの言葉を聞いた瞬間、アリスの頭がピクリと上がる、パタパタと忙しなく腕が動きだし、アリスが夜空を見上げて少しの間を置いた。小さく息を吐き出し顔だけを振り向かせ、ぼそりと呟くのが聞こえてくる。
「……本当にそう思ってる」
「ああ、心の底からそう想うよ、嘘じゃない」
アリスがにんまりとした自然な笑顔を見せた。クリスの前まで歩み寄り、目線を下げたまま静かに身体を揺らし佇んでいる、月明かりに浮かぶ彼女のシルエット、クリスからは逆光でぼんやりとしか分からないが、アリスの表情はどこか誇らしげに見えた、クリスも満足した様子で軽く頷いている。
「どうしたんだよ黙ったままで、まだなにか俺へのびっくり箱が残ってるのか? それとも俺の言葉が信用できないのかよ」
「ううん別に……なんでもないよ、それよりも早く家の中に入ろう、寒くなってきた」
アリスが笑顔で手を差し伸べて。
「お兄ちゃん! お帰り」
クリスがアリスの手を握り立ち上がる。帰宅したときに誰かがいる安心感、そしてアリスからのお帰り──彼女の言葉にクリスの心がほどけていく。
「あぁ、ただいま」
アリスが袖で目元をこすった後、えへへ、と恥ずかしそうな笑顔で迎え入れてくれた、彼女の仕草にクリスもどこかはにかんだ様子で目線を下げて笑顔を作る──家の中へと兄妹が吸い込まれる様に消えていく。
虫達がまた静かな音色で語りだす、星と月明かりが兄妹を見守り祝福しているようにも見えた。