第3話 開拓村襲撃
日が昇り辺りが白み始める頃、鳥のさえずりとともに自然と目が覚める、場所が違えど世界が違えど朝の訪れは変わらない。変化があるとしたら、無機質なコンクリートで囲われた部屋か、薄っぺらい板で囲まれた部屋かの違い、もしくはただ単に、自然の音が聞こえるか聞こえないか、あとは空気が澄んでいるかぐらいか、些細な違いかもしれないが自分にとっては大きな違い──世界が違うのだから当然と言えば当然か、そんな事を思いながら、ゆっくりとまぶたを開け優雅に目覚めるはずだった──それを許してくれない人物がひとり。
突然、身体中に悪寒が走る、脳か意識かそれとも無意識か、自分でも理解する前に瞬間的になにかが反応を示す、脳から神経そして身体に命令が下るよりも先に、脊髄反射の如く回避行動と防御姿勢を取ろうと身体が動く、かすむ視界でよく見えないが黒い影が身体に向かって伸びてくる。躱そうと素早く身をよじるが、それよりも早く音声と衝撃、ふたつ同時に襲われる。
唐突にアリスの大声が部屋中に響き渡った。
「起きろー! 朝だよー」
次いでに勢いよく布団も剥がされ、おまけにしれっと蹴り飛ばされてベッドから転げ落ちた、脇腹を蹴られさらには床に落ちて腰のあたりを強打する、腰を中心に波状の様に痛みが拡がっていく。
痛みに耐えながら決定的な世界の違いを思い出す、家族がいることとその家族から──いやアリスのみからの、毎朝のテロ行為が常態化していることに。始めはまだ可愛いさもあった、ひげメガネをつけたり、ピエロの格好をしたり、鹿の着ぐるみに本物の鹿角を付けて突っつかれたり、とまぁ、とにかくいろいろな変装をして起こしに来る──衣装の入手経路は未だに不明のまま、いまさら知ったところでどうでもいいが。
彼女も次第にエスカレートしていき、耳元でラッパを吹く、ベッドにダイブしてくる、水をかけられる、頭にタライが落ちる、落とし穴を掘る──落とし穴は掘るのが大変だったのと、仕掛けを作るのに技術的な諸問題が発生したため途中で断念──途中まで掘られた穴はクリスがきっちりと埋めた。
最近ではネタが尽きたのかそれとも面倒くさくなったのか、シンプルに布団をひっぺ返すだけになっていた。本日は蹴りのオマケつきだったが。
アリスの奇行をどう思うと聞かれたら──当然、嫌に決まっている、なぜ叩く、なぜ水をかける、なんで床板をぶち抜いて穴を掘る、掘ったら責任もって自分で埋めろ。
独身孤児の人間には貴重な体験であるのはわかる。わかるが、それでもこの習慣化した日常は問題が多すぎる──だって痛いから。
それでもクリスが強く怒らないのは、人肌恋しいからなのだと、どこかで理解していた。それもまたアリスの暴走を激化させている原因なのかもしれない。
床に倒れたままクリスが虚ろな目で天井を見詰めている、染みが広がり今では綺麗な模様になりつつある天井に、しばし心奪われていた。ベッドの上にいたはずの自分がなぜ床で寝ているのか、寝相が悪くて落ちたわけじゃない、それに、落ちる前に衝撃と閃光が走り抜けていったのは、まだ記憶に新しい。
(まぁ、考えるまでもないんだけどな)
背中から伝わる床の冷気が心地よく、遠のいていく意識をなんとか引き戻し、現状の答えを探すように部屋中に視線を泳がせた、ベッドの向う側に嬉しそうな笑顔のアリスがいる、手に持っている布団をベッドの脇へと放るところだった。アリスの事はいったん無視してから思考を巡らせる。そんな事をしなくても答えはわかっているが、もしかしたらどことなく救いが欲しいのかもしれない。
クリスも熟考することなく結論に至る。すでに回答の出ている問題に対して、他の特別な理由付けを考える事に、途方もない労力が必要とわかり思考を放棄する。という結論に──まぁ、特に思いつきもしなかったのも理由のひとつだったが。
クリスが悔しげな視線を送る。彼の視線の先には部屋の出入り口があり、今は乱暴に開け放たれた部屋の扉が、ギィギィと錆びれた音を鳴らし静かに揺れていた。扉が動くたびに廊下から射し込む光が揺らめき、薄暗い部屋に濃淡のある陰影を作り出す。
クリスがなんとか痛みに耐え腰を擦りながら起き上がる、すぐにアリスに顔を向け非難の声を上げた。
「イタタタタ、何だよ今日はいつもより早いじゃないか、て言うか、いま蹴っただろ! なんか、もうちょっとあるだろ、こ〜う……何ていうか甘く優しく起こす方法っていうのが、もうちっと愛情を持ってくれてもバチは当たらないと思うぞ」
クリスの非難ともお願いとも取れる言葉を完全に無視して、腰に手を当てて仁王立ちしたアリスが、さっさとしろと言わんばかりに捲し立てる。
「当たり前じゃない今日はまき割でしょ、事前に集めてあるからっていっても、割って乾燥のために並べてって、時間が掛かるじゃない、昨日は私の手伝いをして貰ったから、今日は私が手伝うよ、だから早く準備してね」
「うー分かった」
うめきながらクリスが手を振る、起きたのを確認したアリスが部屋を出ていく時、アリスが背中越しに「もう、いつも遅いんだから」と嘆息混じりに言うのが聴こえてくる。
「部屋の鍵を二度と壊されないためにも、頑丈な鉄製の鍵が欲しい……」
頭を押さえて呟く。何度直しても鍵を取り付ける度に、罵声を浴びせられながら、アリスに破壊されてきた。
アリス曰く──
『なんで鍵を取り付けるのよ! 兄妹なんだから、部屋の出入りは自由でいいでしょ! 鍵をかけたら私が部屋に入れないじゃない』
アリスが部屋の扉を指差して、いまだにベッドで寝転んでいるクリスに向って叫んでいる。
『何でそうなるんだよ! 兄妹でもプライバシーは存在するぞ、だいたいアリスの部屋にだって、鍵は付いてるだろ』
クリスが堪らずに起き上がり、悲鳴じみた反論を返した。
『私は女の子だから鍵付きの部屋でもいいの! それに私が起こしに行かないと、お兄ちゃんは昼まで寝てるでしょ! みんな朝早く起きて仕事しているっていうのに、ほんっと村一番の寝坊助なんだから、お父さんとお母さんが許しても、私が許さないからね。いい! 働かざる者は怠け者って言うのよ』
クリスに人差し指を突き付けて、アリスが得意気に吠える。
『まぁ、なんだ、いろいろと言いたい事はあるけど、名言や格言、それは慣用句だっけ? まぁそう言った類いの言葉は、ちゃんと覚えてから使おうな』
クリスが頭を掻きながら、呆れ顔で軽くあしらう、クリスの言葉に頬をふくらませたアリスが、不満そうに口を尖らせた。
『なによ、言葉の意味は間違ってないもん!』
『いや、まぁ、言葉の意味自体は間違ってはないんだろーけど、なんつーか直球過ぎるというか、ひねりがないと言うか──』
『もう、クリスにいはごちゃごちゃとうるさいんだから!』
クリスの言葉をかき消すように、アリスの怒声が響く、突然の大声に虚をつかれたクリスが言葉を飲み込んだ。動きが止まったのを確認したアリスが、満足気な笑みを浮かべて、扉の前まで進み腕を振りかざす。
『ふふん、こんなショボい鍵なんて、簡単に壊せるんだもんね!』
アリスが躊躇うことなく扉に備え付けてある、歪な形の鍵を叩き壊した。
『ああああ! 俺の力作の施錠君が〜』
こんな不毛なやり取りを、1年近く続けていた。
最近では鍵を取り付けるのを諦めて、そのまま放置している、少し前まではクリスも諦め悪く、木製の錠を作り、取り付けては破壊されての繰り返しだったが、ある時、扉ごと外され、えらく風通しの良い部屋にされたのを最後にクリスの心が折れた、それ以来アリスのモーニングコールを黙って受けるようになった。
「はぁ、1人部屋なのに1人じゃない……物理的な壁が欲しい」
クリスの悲痛な独り言だけが、部屋の中に渦巻いて消えていく。
支度を済ませてから父さんと母さんに挨拶をして、アリスと共にまき場まで向かう、家のまき場は開拓村の東側に広がっている山地の中にあり、村民からは裏山と呼ばれていた、この裏山の中腹ほどの場所にクリスたち家族で使うまき場が作られている、裏山には各家庭で専用のまき場が点在する。
山と言っても30分程で頂上まで登れる程度の山なのだが、山の地形が複雑で、まき場までは洞窟で出来たトンネルを通った先に在り、人目につきにくく隠れ家的な場所になっているため、クリスもアリスもお気に入りの場所となっていた。
「うーん、ハァー!」
アリスがまき場に着いてすぐに気持ちよく伸びをしている、彼女の何気ない仕草を微笑みながらクリスが見入っていた、兄妹が居たらたぶんこんな感じなのだろうと考え込んでしまう、なんでもないけど幸福な時間。
此れが夢じゃなく現実ならどんなに良いことか、アリスを見ていると、ついつい顔の表情が緩くなってしまうクリスがいる、それに気づいたのかクリスの顔を見てアリスが寄ってくる。
「どうしたの? お兄ちゃんニコニコして」
「いや、何でもないよ、さぁ仕事に掛かるか」
アリスに言われてクリスは自分の感情が顕になり、顔がほころんでいたことに気が付いた、照れを隠すように斧を持って、まきを割っていく。
すると、後ろからアリスが柔らかな声音で語りだす。
「ふふ、いつも優しい笑顔でいてくれるお兄ちゃん……私は好きだよ、暮らしはそんなに豊かじゃないけど、家族皆で居るとすごく幸せを感じられるの、此れがいつまでも続けばいいのになって」
アリスのそんな言葉にクリスはおもわず振り向いていた、そこには薄っすらと朝霧が残る中、朝日に照らされてキラキラとしたアリスが、優しげに微笑んでいた。
アリスの姿を視界に収めた時、クリスが思わず息を呑む。
目の前で屈託のない笑顔を見せているアリス、その姿が蜃気楼の様に揺らぎ薄らいでいく錯覚を覚えた。まるでこのまま朝霧と共に霞んで消えてしまうんじゃないかと、一瞬、クリスの心に動揺心が顔を出す。
(あれ? 今、アリスの姿が消えかけた様に見えたけど……気のせいか?)
クリスが目を擦り再度アリスの姿を見据えた、今度は特段変わった変化は見られない、クリスが軽く吐息を漏らした。
(なんだろう、いま瞬間的に感じたものは、なぜか妙に……)
そこでかぶりを振る、自分の杞憂に過ぎないだろうと、ふいに感じたことを否定して心の葛藤を振り払う、気合いを入れて作業に戻る、アリスに微笑みを向けて声を掛けた。
「そうだな、さぁ、その幸せのために労働に励めよ」
「はーい」
2人でせっせと作業に掛かる、事前に伐採して丁度よい長さに揃えてあるので、後はひたすらに細かく割っていくだけにしてあるのだが、それだけでも結構な重労働なので、少し数をこなしただけで身体が火照り始める、クリスが割ってアリスがまき置き場まで運んでいく。
正午前からアリスが食事の支度のために抜ける、ひとりで作業を続けながらクリスが眉間にしわを寄せた、この夢の不思議さについて思いを巡らす。
(まず物を持った時の感触や重さを感じるし、動けば疲れるし汗もかく、食事の時も味覚や満腹感も感じる、まるで現実世界にいるかのようだ)
初めは夢遊病かと思い、寝ているところをビデオで撮影してみたが、寝返りを打つぐらいで何の問題もなかった。
寝ながら外出している訳ではないので安心はできた、が疑問は残ってしまった、もしかしたら夢ではなくて、本当に別の世界に飛んでいるのかもしれない。
しかしクリスもここまできたら、夢でも幻でも異世界でもたとえ異次元だろうと、とにかくなんでもよかった幸福な事には変わりはないのだから。
「まぁ、何にせよ幸せな気持ちにさせてくれるので、気にはしなくなったが、ついつい考えちまうよな」
「お兄ちゃーん、ご飯できたよー」
アリスの呼ぶ声で作業を止めてクリスが休憩小屋に向かう、小屋と言っても壁のない柱と屋根のみの小屋なので、雨は凌げるけが風が吹くと吹き込んできて、風雨の日はあんまり役にはたたない。
「今日は何にしたんだ」
「うんと、今日はね野菜と豆のスープとパンだよ」
小さな鍋から湯気が立ち込めている、湯気にのって微かな青臭さが鼻孔を突いてくるが不快感は感じられない、キャベツに玉ねぎとジャガイモがメインのスープ、アリスがスープをかき混ぜて器に移すたびに、具材に隠れている黄色い豆が見え隠れしている。
とても色とりどりとは言い難いが、塩がベースの透明感のある液体に艷やかな野菜。見ているだけでクリスの胃袋を刺激して、うごめくたびに喉の奥を鳴らす。
クリスが掻き立てられた食欲を抑えて、渡された器の中を訝しげな顔で、丹念に中身の確認をしている、クリスの不審な行動に気付いたアリスが、怪訝な面持ちで問いかけた。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「いや、キノコは入ってないだろうなって思ってよ」
クリスが半眼で告げる、クリスの言葉に身じろぎして、気まずそうにそっぽを向きながらアリスが答える。
「だ、大丈夫だよ、もう前回のことで懲りました、あの日、帰ったらお母さんにもめちゃくちゃ怒られたし、ちゃんと反省もしています」
「ふーん、ならいいんだけど、まぁ、見た限りでは野菜だけだから、今回は安心だな」
言葉とは裏腹にくすくすと、はばかることなく笑い声を漏らしているアリスに、クリスが疑いの目を向けてから、声に出さずに独りごちる。
(反省の言葉はどこにいったんだよ)
未だに涙を浮べて笑いこけているアリスに、恨めしげな視線を送ってから肩をすくめ、今度こそクリスが野菜スープに口をつけた。塩味の効いたスープが汗をかいた身体に優しく染み込んで、心も身体も幸福感に満たされていく、彼にとってアリスが作ってくれる料理は格別に美味しく感じられた、家族という精神的な部分も大きいかもしれないが。
「アリスが作ると何でも美味しくなるよな、アリスは料理の才能があるよ」
「えー本当に? でもそう言ってもらえると嬉しいよ」
「何か隠し味でも入れてるのか」
クリスが何気なく聞いてみる、アリスが人差し指を唇に当てて、首を傾けてから、悩ましげに答える。
「んー、それは聞かない方がいいよ」
アリスの含みを持たせた返答に、聞くんじゃなかったと後悔の念を隠しつつ、胸中だけでツッコミを入れる。
(はぁ? 何だよそれ何を入れてる、いや、そもそもなぜ言えない、と言うか、言えないものを入れるなよ)
心の叫びが聴こえたのか、はたまた表情が引きつっていたのか、アリスが笑いながら答えてきた。
「冗談だよ、私も美味しくない物は食べたくないから、一生懸命努力してるんだよ」
「あぁーそうか悪い、アリスの事をよく分かってなかった、スマンな」
そう言ってこの話題から下りる、ただ妙にアリスのニヤニヤした顔が引っかかるのだが、見なかった事にしようと、クリスは心の奥底にしまい込む動作をして、気を取り直した。
夕暮れ前、青色の空に薄っすらとオレンジ色が掛かる頃、クリスが上空を見上げて帰り支度をする頃合いだと判断する、小さな山だが暗くなると下山するのにも危険が伴う、アリスに帰る準備をするように頼み、クリスも残りの作業を手早く終わらせようと斧に手をかけた時、アリスが声を上げた。
「ねぇ、お兄ちゃん、村の方から黒煙が上がってるよ、火事かな?」
「えっ?」
声を掛けられたクリスが村の方を見る、言われてみて初めて気がついた、木々のあいだから湧き出る黒煙が、蒼天を焦がすように立ち上がっているのが確認できる。
「いつからだ、火事か?」
そんな呆けた言葉をクリスが口にする、口にしてすぐに悪寒が走る。
「いや違う」
そう呟き頭を振る、クリスが嫌な予感を感じ取る。強烈な胸騒ぎに襲われて、呼吸が荒くなり汗が出てくるのに血の気が引いていく。
「ねぇ、お兄ちゃん早く帰ろう」
何かを感じ取ったのだろう、アリスが急かしてくる。
「あぁ、でもアリスはここに残れ、俺が様子を見て来る」
「えぇ⁉ ひとりは嫌だよ私も行く」
「ダメだ、アリスはここに残れ、昨日のこともあるし何だか嫌な予感がする」
「だからひとりは嫌なの、それに暗くなったら私ひとりじゃ下山できないし、お兄ちゃんも暗くなったらここ迄来れないでしょ、ひとりで待つのも嫌だし、朝までここに居るのも怖いから嫌、私も行く! お父さんもお母さんも心配なの」
ひとり──アリスの必死の言葉を聞いて、現実世界で孤児になってからの、嫌な記憶を揺り動かされる、飲み干し忘れかけていた、つらい記憶、苦い時間、それらが胸の内からこみ上げてくる、クリスは湧き上がる激情を押し殺すために、眉間にシワが寄るほどきつく瞼を閉じた。
(確かにひとりは嫌だよな、なんでだろうなこんな時に、孤独だった時のことを思い出すなんて)
頭を掻きむしりながらクリスが思い悩む。ただアリスの物悲しそうな顔を見てしまうと、どうしても根負けしてしまう。
(でもアリスの言う通りか、本当は此処に居てもらうのが、一番の安全対策なんだが仕方がないか、もし帝国兵と鉢合わせたら、アリスを逃して俺が戦うしかないな、だけど夢の中の俺はどれくらい通用するんだろう、戦ったことがないから分からんが、夢だから何とかなるのか、それよりも斬られて死んだらどうなるんだろ? イヤイヤイヤ、今はそんなことを考えてる場合じゃないか)
ひとしきり考え込んでから、アリスに叫ぶように話す。
「アリス、もし帝国兵と鉢合わせたら、俺が時間を稼ぐからアリスはすぐに逃げろよ」
「え、でもお兄ちゃんを置いて逃げれないよ」
「馬鹿、アリスがいても戦えれないだろ、それにアリスがいつまでも居たら俺の逃げるタイミングがなくなる、いいかコレだけ守れるなら一緒に来てもいいぞ、どうだ? 守れるか」
「うん、分かった、帝国の人に見つかったらすぐに逃げるよ」
「よし、それともしもの時の集合場所はここにしよう、暗くなって来れないときは、この裏山周辺に隠れていればいいからな、俺がちゃんと探し出すから」
「うん、嫌だけどひとりになったら、ここに来て待ってる」
アリスと約束をして急いでふたりで家まで戻る、村に近づくにつれて焦げ臭い匂いが鼻を突く。
そのまま村の中に入るのは危険と判断を下し、集落を一望できる裏山の斜面まで行く、様子を伺おうとクリスが顔を出したところで言葉を失う。
そこには──
「何だよこれ、なんなんだよこれは」
アリスも後に続いて顔を出して村の様子を確認した。
「えっ、うそそんな……なんでどうして、こんな酷いこと──」
アリスがつい言葉を漏らす、おもわず口走ったことに気が付いて、すぐに口に手を当てて押し黙り、慌てた様子で周囲に視線を向けて誰もいないことを確認する。
驚愕から一転してアリスの表情が、だんだんと強張っていくのがわかる。恐怖から言葉を失い、黙って目の前の惨状を目に焼き付けることしか出来ないでいた。
家は乱暴に破壊され崩れていたり、火を放たれて燃え盛っている家もあれば、すでに燃え尽き炭化した柱が無残に残っている家屋もある、外のあっちこっちに遺体が転がっていた、村の畑も荒らされていて作物などは持ち去られている。
「お兄ちゃん、お父さんとお母さんは無事かな、大丈夫かな」
アリスが震えながら聞いてくる、だがクリスは厳しい表情を見せるだけで質問に答えない、眼前に広がる光景、非日常的な現実を否応なしに突き付けられて、クリスの持っていた淡い希望を打ち砕くのには、十分過ぎるものだった。この惨劇を前に希望を持てと言う者は、危険に対する認識に欠けた者か、もしくは相当の楽観主義者か、そんなくだらない事がクリスの頭を過ぎっていく。
クリス自身も自分の無力さに歯噛みしていた、アリスを元気づける言葉など出てこないし思いつきもしない、この惨状の中で励ましの言葉を言えたとしても、意味をなさないだろう、何を言われてもうそにしか聞えない。
なら、今やるべき事をしようと行動に移す。
「取りあえず家まで行こう、ここから見た感じだと、敵はもういなさそうだし」
「…………うん」
斜面を滑るように下りて行き真っすぐに家に向かう、逃げる人を斬り捨てる様に殺していったのだろう、いたる所に遺体が無造作に転がっていた。
小さな村なのでみんな見知った人たちしか居ない、朝に挨拶を交わした時の光景が頭の中に蘇ってきて、涙が出そうになるのを堪えるので精一杯でいる。
アリスを見やると涙を浮かべ震えているが、なんとか耐えているようだ、つくづく強い妹だとクリスが実感する、こんな光景を目の当たりにしても、大声で泣き叫ぶことなく必死に平常心を保っていた。
クリスも自制心を保つのに必死になっている、いたる所に転がっている惨劇を、視界に入れないように真っすぐ前だけ──自宅だけを見詰めている。
下に視線を向けてしまうと呆気なく正気を失いそうで怖かった、アリスのいる前でそれだけは避けなければと強く思っている。
周囲の惨状から目を背けアリスの手を握り、何食わぬ顔で急いで家まで駆けていく、途中で数人苦しんでいる者もいたが、見て見ぬ振りをして通り過ぎていく、クリスは己の下した判断に苛まれ、苦悩の表情を浮かべながらも、それでも全力で走り抜けて行く。
アリスも手を引かれながら時折り、なにかを言いたげにしているが、チラチラとクリスの横顔を見るたびに、言葉を飲み込んでいた。
自宅の前まで駆け抜けて家の状態を確認する、クリス達の家は壊されているだけで燃えてはいなかった。玄関近くで足が止まる、扉は破壊され壁も壊されていて外からでも室内を確認できる、そして玄関近くで母さんが血塗れで倒れていた。
「母さん」「お母さん」
ふたり同時に絶叫じみた悲鳴を上げる。
「あぁぁぁ、お母さん、お母さんしっかりして、お母さん」
母さんを発見して泣き叫びながら、クリスとアリスが寄っていく、アリスが母さんの身体を揺さぶり絶叫する。
アリスの悲壮な泣き声が響き渡る、彼女の擦れた声で余計に悲しみが場に充満していく、アリスが半狂乱になりながら腹部にできた傷口を圧迫止血するために衣服を捲っていく。
だが殺されてから数時間が経っているのだろう、止血などはもう意味を成さない、すでに血液は出尽くしていて傷口からは流れていなかった、もう亡くなっていた。
「アリス、母さんは……もう」
制止するために、クリスが言葉を掛けながらアリスの肩に手をのせる、どんなに叫んでも揺さぶっても目を覚ますことはない、たとえ傷口を塞いだところで蘇ったりはしないのだから、しかしクリスの腕を乱暴に弾きアリスが叫ぶ。
「っいや! お母さんはまだ大丈夫だから、早く傷口をどうにかして塞がないと、お兄ちゃんも手伝ってよ! じゃないとお母さんがし──」
傷口を塞ごうと触れた瞬間、アリスが急に言葉を失う、嫌な感触が手のひらから這うように伝わる、無慈悲にそして鮮烈に死という言葉が脳裏に浮かび、否定していた現実をいや応なしに突きつけられ、アリスの思考が止まり虚無感に包まれていく、それでもアリスが首を横に振り唇をかみしめる、なにかを訴えるようにクリスに視線を移した。
苦悶の表情を浮べたクリスが俯き加減で頭を振る、クリスの無言の返答を受けて、アリスが母さんの身体に顔を埋める、堪えていた感情を吐き出していく、母さんの遺体とアリスの泣く姿を見てクリスは、悲しみよりも怒りが、恨みが、憎しみの感情がクリスの心を蝕んでいく。
吐き気がするほどの感情の高ぶりを抑えられない、クリスもいきなり訪れた理不尽な現実を受け止めきれないでいる、思考が追いついていかず、ただ叫ぶことしかできないていた。
「何でだよ、どうしてだよ、夢の中でも俺は親を失うのかよ、こんなのってありかよ、かぁ──」
叫ぼうとした瞬間、クリスの意識が融け浮遊感に襲われた、そして彼の視界も閉ざされ、闇の中に沈んでいく。