お庭は値段を付けられない程の絶景です
「おじいちゃん、こっちは本物だけど、あっちは偽物だよ。だってサインが違うもん」
「ほー、エリは分かるのかぁ。お前は見る目がある、立派な目利きだなぁ」
頭を撫でてくれる皺くちゃの大きな手。大好きなおじいちゃんの手。
私の前世の記憶の断片―――。
「おじいちゃん…」
たまらない懐かしさを感じて目が覚めた。覚醒したばかりの視界には見慣れない天蓋があって、大きなガラス戸の向こう側は明るく、世界は朝を迎えたのだと分かる。
一人で寝るのには大き過ぎるベッドからのそのそと起き上がり、東側にあるドアを開けた。
「…素敵だわ」
真正面の大きな窓からは朝日が差し込んでくる。眩いばかりの光が部屋いっぱいに広がっていて、まるで魂から浄化されていくかのようだった。
感動をそのままに、南側のガラス戸を開けてテラスへと踏み出す。朝日の時間帯に初めて眺めようと決めて昨日は見なかった、公爵家の巨大な庭園が眼下から目前まで続く。
『あっちは薔薇園かな…。グラデーションになるように配置されてる。一年中何かしら咲くようにいろんな花が植えられてるんだ…。でも、ちょっと淋しい感じがするな…』
ローゼンベルク公爵家の庭園はかなり有名だ。公爵家の成り立ちにも関わる薔薇園がその最たるものであるが、ここ何年も公にされてこなかった。
それをこんな独り占めするかのような特等席から眺められるとは思っていなかった。
「…まぁ、奥様、おはようございます。もうお目覚めだったのですね、ご挨拶もせずに入室しまして申し訳ございません」
控え目ながらもちゃんと室内へ響くノック音の後、静かにドアが開いた。何とはなしにドアへ視線を向けると、朝の支度の手伝いに来たテリアが顔を覗かせ、こちらの姿を見つけると驚いて見せたものの、さっと室内へ入りドアを閉め、丁寧な礼を見せた。
「いいのよ、気にしないで。今朝はたまたま早く目が覚めちゃって。それより、身支度よね?お願いするわ」
「はい、奥様」
普通の貴族というものは、身の回りの世話を侍女や使用人に任せているが、実家で冷遇されていた私は、ほとんど一人でこなしていた。
と、いうよりも。物心ついた頃に甦った前世の記憶もあって、自分の世話を自分ですることが苦ではなく難しいとも思わなかった。
前世の記憶と言っても、そこまで明瞭なものではなく。
名前はエリであったこと。
祖父が大好きであったこと。
祖父に影響され美術品や骨董品が好きで、目が利いたこと。
『今世で名前がエリーナであることも、祖父を尊敬していて大好きだということも、目利きを商売に生かせていることも…、それなりの縁があってのこととしか思えない』
テリアに世話をされながら夜着から淡い水色のワンピースに着替える。公爵夫人としては簡素過ぎる装いではあるが、どうせ誰かに公爵夫人だと名乗るわけでもないのだからと、渋る侍女二人を言いくるめて、服装は自由にさせてもらった。
もっとも、公爵夫人という肩書に釣り合うような衣装の持ち合わせはないのだが。
昨日、持ち込んだ衣装やらアクセサリーやらを整理していた時に分かったことだが、この部屋のクローゼットもアクセサリーボックスも、空だった。浴室にも鏡台にも何もなく、用意されていた備品は執務机にあったブックスタンドと羽ペン、インク壺のみだった。
『これは冷遇のうち…?いやでも、趣味に合わない宝飾品やらドレスがあっても困るし、自分の好きなものを自分で揃えれば良いだけよね』
普通に嫁いだ普通のご令嬢ならご立腹ものだろう、夫からの贈り物がないのだから。私が普通ではないのだ。
嗜好品ならばともかく、贅沢品に関してはほぼ関心がない。
「奥様、アジル様のことなのですが、今日の午前中には伺いますとのことでした」
「そうなのね、伝言ありがとう、テリア。…ということは、公爵様は早くにお出になるのかしら?」
いつの間にか鏡台に座らされて、髪結いと化粧を施されていた。
髪飾りも化粧品も最低限しか持ち込んでいないので、その少なさに侍女二人が何とも言えない様子で固まっていたのが、申し訳なくも面白くて表情に出さないようにするのに苦労した。
大袈裟に飾り立てる必要はない。装いも予めの注文通り、ハーフアップを白い花のバレッタで留め、化粧も淡い色で仕上げた所謂ナチュラルメイクだ。
「はい。…あの、奥様のお支度が思いの外早く済みましたし、今から朝食へ向かえばご一緒することもできるかと思うのですが…」
鏡台の鏡越しに、テリアは窺うような視線を寄越した。結婚初日から放置されている妻を気遣っているのだろうか。
私と公爵様との婚姻が単なる契約であるということ、その際に提示された条件がどのようなものなのか。あの場にいた執事長のアジルと書類を受け取った執事以外の使用人達はどこまで知っているのだろうか。
あれこれと気になっていることを聞く為に、最も事情を把握しているだろうアジルとの面会を希望したのだが、あの見た目だけは貴公子であるローゼンベルク公爵が、今後私とどう接するつもりなのかを直接確かめる良い機会かもしれない。
「…そうね、とっくに起きてて支度も済んでいるのに、夫との朝食や見送りをしないわけにもいかないわよね」
それとなくテリアを窺ってみたが、心底良かった、ほっとしたといった様子を見せただけで、それ以外の思惑が何もないとしかとれず、少し肩透かしをくらった気分だった。
テリアに案内されたのは昨夜と同じ食堂で、道中の話では公爵様もいつもこの食堂で食事をするらしく、晩餐は時間が合わないから別にしたのだろうとのことだった。
『 一緒に食事をしたくないのなら部屋を分ければ良いのだし、それをわざわざ専属にした侍女に伝えないわけがない。もしかして、冷遇とかじゃなくて、関心が無いってこと…?』
答えが見つかった気がするが、本人に会って確かめるまでは、と気を持ち直し、静かに深呼吸をしてから目の前の扉を開くように目で合図をした。