今日
朝目覚めて、未紅の胸にすぐ浮かんだのは今日の夜のことである。これから学校へ行き、講義を済ませたのち友達と別れて、図書館に行くかそのまま街へ出て男との待ち合わせの時刻までぶらぶら暇を潰す。それとも、一度家に戻って再度身だしなみを整えるべきだろうか。学校で過ごすうちきっと、帰って姿見に確かめたくなるに決まっている。そう気がついて歯を磨いていると、今日二人で過ごすための服の選定を怠惰にもまだしていないのに心づいて、結句、一旦家へ寄る言い訳をそこに見つけた未紅は、シャワーを浴びて化粧を済ませると朝飯もそこそこに、急いで着がえて片手に薄手のカーディガンを手に取ると二限目からの講義に遅れないよう駆けるがごとく家を出た。
外へ出るとそれまでの焦りは嘘のように胸から飛んで行って、朝一番の喧騒が過ぎ去った道路から、晴れた春の優しく軽やかな涼風を髪と肌とに受けながら自転車をこぐうち学校が見えて、未紅は校門を入ってすぐ脇の駐輪場にとめようと自転車を降りて手にハンドルを押しながらそこまで来かかると、手前からずらりと一列に軒並埋まっていて奥ばかりがぽつぽつ空いている。心に小さく溜息をつきながらすぐにいつもの事と諦めて、未紅はそのまま奥まで押して行き駐輪したその足で教室へ向かおうとしたところ、入れ違いに自転車を押して入って来たゼミが一緒の男子と俄に目が合った。普段から親しく喋るほど格別仲が良いわけでもなく、さして興味もないもののもとより印象悪く思われたくはない。気づけば笑顔で、
「おはよう」とこちらから声を掛けると相手も、
「おはよう」と涼しい微笑で返してくれたその顔に、未紅は突然胸をきゅっと突かれつつたちまち好い気持ちになった。
講義を受けながら、また時間割りが進むたび教室を棟から別の棟へと友達と連れ立って歩むうちにも、未紅の心頭を折々掠め、時に掴んで離さないのはしかし朝の男子のことではなくて、今日これからさきの夜の男のことである。今夜会うのは二十七になる人で、今年二十一になる未紅からすれば勿論お兄さんだけれども、それとまた同時に文字通り二十七の男でもあって、その年齢の男というのはもうだいぶ余裕がでてきてこっちがちょっぴりいい子にして頼めば何でもいう事を聞いてくれそうにも思える。といって何も現金が欲しいとか金目の物を期待しているというわけではないけれど、少なくとも同年代の男の前でのように要らぬ気を使ったり、本当は媚が自分の第一の本性なのにそれをわざと隠して中性に保つ努力とか、そんな面倒から今日は一気に解放されそうだし、してもいい、むしろ自分から進んでそうしたい心持ちになっている。今日は彼に甘えてみたいのである。今までも付き合ってきた人には誰にも甘えるだけ甘え倒してきたつもりだったけれど、今夜これから会う日本的というより東洋風の端麗な顔が自分好みな彼との逢瀬は、韓国ドラマのような遠いようで近い、近いようで遠い、夢と現実の境を行くような出来事なのだ。きっと優しい。ちょっとは怖い。けれど以前別の人も一緒に食事をした時にはあれだけ優しく丁寧で紳士な人だったし、今日の成り行きまでは自分は知らないしあの人に任せるけれどどう進んだにしても間違いはないはず、と頭につぶやきながら今日の予定の先の先までを、刹那脳裏に夢見た折から頬が内からさっと染まって、未紅はとっさに両手を机のステンレスの脚に伸ばして冷やすとその指を頬にぎゅっと押し当てた。
指の冷たさがきゅっと肌に浸透してくる俄の快さに心の熱もたちまち落ち着いた折から、冷たさは指先をもう離れて、代わりに今度は別の男のことが頭に浮かぶ。付き合ってきた男、付き合ったかどうか今ではもう確かめようもない男たちを未紅は胸に数え上げながら、けれど記憶は最早ぼんやり、一人一人との恋の記憶と幻影をしかと頭に固定しようとしても、どうも上手くいかない。つい最近まで時折一緒に過ごした男のことは今もおぼろげでない思い出の中に再現出来たものの、近頃までずっと密な想いで胸に描いていた、出来るならもう一度この腕に捕まえたい。ただただ一緒にいたいと独り夜涙に暮れたこともある彼との記念が、今日もはっきり浮かびながら、それは記憶の中の写真だけ、映像だけが鮮明になって、それに心がついていかない。それは嬉しかった過ぎし日の思い出として美しいだけで、今はもうわざわざ手に取って眺めてみるにも及ばない。冷淡というより、ただ今が幸せで、昨日のことは未紅をもう惹かない。別にいいと、未紅は頭に小さくつぶやきながら、婚期の訪れそうにもない太った冴えない男の先生の優しい声で進む講義にようやく耳を傾けはじめて想いはまたすぐ飛んだ。
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