第4話 咀嚼するソーシャル
気付いた時には、手遅れということは間々ある。
何でもない1日になるはずだった4月半ばの水曜日。
宮川朋夏は教室に入る一歩手前で、躊躇していた。
「ここで、あってるよね?」
高校3年生になって初めて学校に来ていた。
休校は続いていたが、健康状態の確認という名目で設けられた臨時の登校日。
仲がいい子がいればいいなとか、問題を起こす子がいなければいいなとか。
いつもの新学期なら、そんなことを感じていた。
けれど、今年はちょっと違う。
前から知ってる子でも、今のこの不思議な状況を過ごして、どこか変わってしまっているんじゃないかと、どうしても不安を覚えてしまう。
ただ、いつまでもそうしているわけにはいかない。
朋夏は2年生の2学期から生徒会長を任されている。
生徒の模範になるべき自分が、いつまでも、うじうじしているというのは、きっと許されないことだと思う。
だから、自分を奮い立たせるように、胸の前で小さくガッツポーズをして、すうと息を吸う。
3年2組のプレートをもう一度確かめてから、教室に入った。
「みんな、おはよう」
普段以上に明るい声を心掛けた。
「おぉ、会長じゃん。おはよう」
「朋夏ちゃん、おはよう。今年も同じクラスだったね」
既に教室でクラスメイトと談笑していた生徒たちが、口々にあいさつを返してくれた。
瞳に映る笑顔に、朋夏はホッと胸を撫で下ろす。
みんな変わった様子はない。
ちょっと前までと同じように、楽しそうにしている。
――ただ、教室の雰囲気には、どこか違和感を覚える。
それはたぶん、分散登校のせいなのだろう。
この日の臨時登校は、午前と午後の2回に分けられている。
全員が揃っても、教室の席は半分しか埋まらない。
がらんとした空間が、例年より気温の低い春を意識させる。
朋夏がそんな感傷を押し隠したまま、新しくクラスメイトになった生徒たちと会話をしていると、予鈴が響いた。
それを合図に割り当てられた朋夏たちは席に向かうが、一つずつ離れている。
これもソーシャルディスタンスってやつか、と朋夏は嘆息する。
ため息の音をかき消すように、足音を立てて年配の男性教諭が教室に入ってきた。
「元気そうだな」
このクラスの担任になるという年配の教諭は、朋夏にとって見知った顔。
昨年は担任ではなかったが、古典を教わっていた。
小難しい話も軽妙な語り口で、上手に教えるということで生徒からの人気は高い。
ぐるりと教室を見回して、
「そんなお前らには素敵なプレゼントがある」
と、口角を上げる。
「どうせ課題なんでしょ?」
茶化す女子生徒に、
「正解っ! 特典として課題を倍にしてやろう」
ベテランらしく軽快に応える。
「えーっ、いりませんって」
「そうか、残念だな。まぁ、さっさと済ませるぞ」
大げさに肩を落として笑うと、プリントの束を配り始めた。
プリントが行き渡り、休校中の過ごし方の注意点などを説明した後。
「さて、じゃあ今日のメインイベントだ」
そう言うと、開け放たれたままのドアから廊下に顔を出すと、ひょいひょいと手招きする。
入ってきたのは、若い女性教諭。
「お前らの副担任を受け持ってもらう先生だ。……じゃあ、先生よろしく」
女性教諭は「はい」と応えて教壇に立つと、一つ頭を下げる。
「初めまして。今年の3月に東京の大学を卒業して、念願の教職に就くことになりました。不慣れな点もあるかと思いますが、よろしくお願いします」
声が聞き取りづらかったのは、マスクのせいだけではないはずだ。
きっと緊張してるんだろうなと、朋夏は思う。
不安を少しでも取り払って上げようと、拍手を送ろうとした時だった。
「何で東京から来てんの? こんな地方にまでコロナ広めないでくれよ」
教室の後方から男子生徒の不躾な声が投げ掛けられた。
朋夏が振り返ると、土屋英雄の姿が目に入った。1年生のころ同じクラスで、確かサッカー部員だったと思い出す。
女性教諭はわずかに瞳を揺らめかせながらも、英雄に向き合う。
「……東京からこちらへ来てから、ちゃんと2週間の自宅待機はしました」
「ちげーって。そんなこと言ってるんじゃないって。東京の連中のせいで、不便させられてるんですけど? 何であんな満員電車に乗ってるわけ?」
「最近は電車の混雑もましになってます」
反論を試みる女性教諭に、英雄は容赦しない。
「いや、ましになってるって知ってるってことは、最近まで電車に乗ってたってことでしょ? ますます迷惑なんだけど」
朋夏は英雄のその言い分は理不尽だと感じる。
けれど、全く共感できないわけでもない。
自分たちが暮らす街でも数人のコロナの感染者が報告されている。ただ、その全員が県外で感染したと聞いている。
都会の人たちがもっとちゃんとしてくれれば、自分たちの生活は影響されないんじゃないかという思いは否定できない。
だから、こういう場面で仲裁に入るのも生徒会長の役割だと頭では理解しているが、朋夏は浅く噛んだ唇を開くことができなかった。
「……っていうことがあってね。結局、最後は担任の先生がうまく収めてくれたんだけど」
教室での短い時間を過ごした後、朋夏が訪れているのは生徒会室。
「そっか。でも、私も朋夏の気持ちが分かる気がするな」
応えるのは、副会長の国仲亜理紗。
「どうすればいいんだろうね?」
朋夏の問い掛けに亜理紗は、うーんと腕組みして応える。
「やっぱり、こういうギスギスした空気って嫌だよね」
「そうなんだよ。ソーシャルディスタンスって言うでしょ? あれで心と心の距離も離れちゃってる気がするんだよ」
「物理的な距離を離さないといけないのは分かるんだけど、心の距離は何とかしたいよね」
「ねぇ、生徒会で何かできないかな?」
「うーん、したい気はするけど、できるかな?」
腕を組んだまま考え込む亜理紗の肩に、朋夏はポンと手をのせる。
「やってみようよ。本当はやらないといけない行事もできなくなってるし、せっかく生徒会をやってるんだから、何かみんなの印象に残ることをやってみたいんだよね」
「まぁ、会長がやるって言うんならやってみよっか」
「うんっ、ありがと」
朋夏は顔をほころばせて、亜理紗に抱き着く。
「……っ。ちょっ、ちょっと、その過度なスキンシップは止めてっていつも言ってるでしょ?」
「はいはい、ソーシャルディスタンスだね?」
「違うって」
亜理紗は口を尖らすが、朋夏はフフンと笑って気にしない。
「じゃあ今度、生徒会役員で話してみようよ?」
「いいけど、話すってどうするの? 集まるわけにはいかないよ」
「遠隔会議アプリってあるでしょ? あれを使ってみようよ。何かかっこよくない?」
「かっこいいって……」
「ほら、最近、ツイッターでもいろんな背景画像が流れてて、一回使ってみたかったんだよね」
すっかり目を輝かせている朋夏に、亜理紗は、はあとため息をつく。
「分かった。じゃあ、みんなの予定を聞いとくから」
「よろしくねっ、副会長」
学校からの帰り道、朋夏は久しぶりに充実感が胸に沸き上がってきているのに気付いた。
具体的に何をするかは決まったわけではないけれど、とにかく一つ目標ができたことが嬉しかった。
どうしよう、何をしよう、と考えるのが楽しい。
久しぶりに学校に行けて良かったと、鼻歌も出る。
自転車を漕ぐ足にも力が入る。
だから、というわけでもないのだろうけど、のどの渇きを覚える。
自宅まであとちょっとという所にあるコンビニで自転車を止めた。
雑誌コーナーをチラッと眺めながら、ドリンクコーナーに行く。
炭酸飲料の隣に並べられた赤いラベルのアイスティーを取り出すと、レジに向かった。
そこで、ドキっとしてしまう。
高齢の女性が、先に並んでいた。
ドキっとしたのは、彼女がマスクを着けていなかったから。
それなのに、店員に大声で話し掛けていたから。
朋夏は無意識に、その高齢女性から距離を取るように数歩後ずさった。
マスクも着けずに外出するなんて、と背中を睨みつける。
目に力が入ったのに気付いてから、
「――ああ、私も同じだ」と自覚した。
学校で、東京から来たという新任教諭を責め立てた英雄と同じだ。
心底がっかりする。
情けなくて、どうしようもない。
いつの間にか人を区別している、いや、差別している。
いつから私はこんな風にさもしい人間になってしまったのだろうかと、自分で自分が嫌になる。
苦い思いをのみ込んで会計を済ませ店から出ると、空には綿雲が流れていた。
ただふわふわと、漂っていた。
雲の行方を仰ぎ見ながら、朋夏はアイスティーのペットボトルを右の頬に当てる。
とてもとても冷たいと、理不尽にその冷たさを憎んだ。