第2話 ごめんで済んだら警察はいらない
ヒーローになりたいと、思っていた。
高校3年生になった工藤雅人は、いつかの思いを抱え続けられるほど子供じゃなかった。
けれど、将来どうしたいかと問われると、これといった目標はなかった。
だから、ただ、今は汗を流す。
『30秒休憩したら、次は腹筋な』
スマホからキャプテンの安樂隆司の声が届く。
コロナのせいで休校となり、最近のサッカー部の活動は遠隔会議アプリを介して行われている。
自分の部屋でスマホの画面を見ながら体を動かすことを部活と称することに、違和感はあったが、それでも何もしないで家に閉じこもっているよりかは、ましだと雅人は思う。
『じゃあ、始めるぞ』
自覚のないまま新学期が始まって大会は近付いているのに、ボールを蹴ることのできない日々に焦りが募らないでもない。
けど、誰もが口にするように、これは仕方がないことなのだ。
そもそも考えても意味がない。自分にできることは何もない。
そんな考えを打ち消すように、雅人はトレーニングを続ける。
6分割されたスマホの画面には、同じように黙々と腹筋を続けるチームメイトの姿が映っていた。
『雅人、お前、あれ見たか?』
1時間ちょっとのトレーニングを終え、そろそろ接続を切ろうかというころ。
画面の右下に映る土屋英雄が尋ねた。
「あれって、何だよ? いつも言ってるけど、お前の話は分かりづらいんだよ」
残りの4人も画面の中でうんうんと頷くのを見て、英雄は苦笑する。
『悪かったな、分かりづらくて』
「まぁ、別にいいけどさ。で、何の話だよ?」
『あぁ、お前んちの近くにうまいコロッケを売ってる肉屋があるだろ? たまに帰りに一緒に買い食いする店だよ』
「それがどうしたんだよ?」
『こないだたまたま見たんだけど、ツイッターで炎上してたぞ』
英雄の言う店は、老夫婦が営む店だ。ツイッターなんて使うどころか、その存在すら知らなさそうな二人の店が炎上するなんて、どういうことだろうかと、雅人は怪訝な表情を浮かべる。
「どういうことだよ? 相変わらず、お前の言いたいことが理解できないんだが」
『いや、あの店が営業を続けてるって誰かがツイートしててさ、それに、『そうだ、自粛しろよ』なんてリプがどんどん付いて大変なことになってたんだよ』
「何だよ、それ……。そもそも食べ物を扱ってる店は自粛の対象じゃないだろ?」
『あれじゃねえの?』
「だから、あれじゃ分からねえよ」
『何でもいいから叩きたいって奴がいるんだろ。暇だし、何となくイライラするし』
雅人は「はあ」とため息をつく。
そんな世知辛い現状に。そして、その気持ちに少し共感してしまう自分に。
「……まだそのツイートって残ってんのか?」
『昨日の夜は絶賛炎上中だったから、まだあるんじゃねえかな。見るか?』
「そうだな、興味はある」
『分かった。じゃあ、後でラインするよ』
「お兄ちゃんっ、年頃の女の子がいる家の中で、裸でうろつかないでっていつも言ってるでしょっ!」
雅人はトレーニングを終え、汗びっしょりになったTシャツを洗濯機に放り込むと、リビングへ向かった。
扉を開けた瞬間、茉奈にビシッと指差されてしまう。
「妹に気を遣う必要なんてねえだろ?」
自分で年頃の女の子なんて言うもんかな、と思いながら三つ下の妹に一瞥をくれると、雅人はキッチンの冷蔵庫を開ける。
その背中に、茉奈は非難の声を投げ掛ける。
「親しき中にもなんちゃらだよっ」
「……礼儀あり、だろ。そこまで覚えてるなら、ちゃんと覚えろよ」
「もうっ、話を逸らさないでよっ!」
雅人はなおもぶつくさ言っている茉奈の相手はせずに、シェイカーにプロテインの粉を入れる。
少し定量よりは多く入ってしまったが、「大は小を兼ねるしな」と気にしない。
冷蔵庫から取り出した牛乳を入れてかき混ぜる。
リビングに戻ると、ソファーの端に腰を落とした。
逆側に座る茉奈には露骨に嫌そうな顔を向けられたが、その視線には気付かなかったふりをした。
茉奈はひとしきりジトっと雅人をにらむと、クッションを抱え直して、さっきまで見ていたテレビに目線を戻す。
平日の昼間にテレビが映すのは、ワイドショー。
「こんなの見て、面白いか?」
プロテインを半分ほど流し込んでから雅人は茉奈に尋ねる。
「面白くなんてないよ。けど、暇だしね」
「なら、学校の課題でもしてろよ?」
「もう今日の分は終わらせたからいいのっ」
ワイドショーの中のコメンテーターたちは、この日もコロナのことについて語り合っていた。
「ねぇ、お兄ちゃん、この人たちって何でこんなに偉そうなのかな?」
「さぁ? 人ごとだからじゃねえのか?」
「そっか。そうかもね」
この日の話題は休業要請のことだった。『自粛警察』なんて言葉がツイッターのトレンドにも上がってるなんてことを紹介していた。
そういえば、英雄がそんなことを言ってたなと、雅人が思い出すのを待っていたかのように、スマホがピコンと音を立てた。
英雄から届いたリンクをタップすると、ツイッターに飛ぶ。
その画面を見て、雅人は絶句する。
「……何、だよ、これ?」
「どうしたの?」
突然深刻そうな表情を浮かべた雅人に気付いた茉奈が近寄り、スマホの画面を覗きこむ。
画面には、二人が良く知る肉屋の画像が映っていた。
ただ、そのシャッターには赤いペンキで「ヒーロー参上。自粛しろ」と大きく書かれていた。
「何なのこれ?」
「……ひどいな」
茉奈の問い掛けに、雅人は短く応えることしかできない。
人はこれほど醜くなれるのか、と雅人は衝撃を受ける。
「何がヒーローだよ……」
「うん、さいてーだね。……けど、大丈夫かな?」
「……大丈夫って何が?」
「このお肉屋さんのおじいちゃんたちだよ。こんなことされて、すごくショックだと思うんだよね」
第三者である自分でもこれほど心を揺さぶられたのだ。当事者の思いを推し量ることは雅人にはできなかった。
「分からない」
「そう、だよね。……けど、私たちに何かできることってないかな?」
「難しいな。こんな風にツイッターで炎上してる時に、下手に何かすると余計に火に油を注ぐことになるしな」
「それに」と、雅人は心が痛むのを無視して続ける。
「俺たちも人の心配をしてる場合じゃないしな。茉奈も今度、受験なのに、授業がないんだしな」
「もうっ、また私の勉強の話に戻すの?」
「だって、しょうがないじゃねえかよ。みんな大変だけど、まずは自分のことをしっかりしなきゃいけないだろ?」
「それはっ、……そうだけど」
反論しようとした茉奈の声も次第に小さくなる。
「とにかく、今できることはないだろ。まぁ、いろいろ落ち着いたら、一緒にコロッケ買いに行くか?」
「うんっ」
茉奈が笑顔を浮かべたのを見て、雅人は残ったプロテインを飲み干した。
1週間後の夕食時のことだった。
リビングのテレビはローカルニュースを流していた。
インターハイの中止に対する県内の高校生たちのコメントに続いて、ニュースキャスターが言葉を発した。
『続いては、長年地域に親しまれたお店。今日で歴史に幕を下ろします』
そして――画面に映ったのは、件の肉屋だった。
「はっ?」
食卓につこうとしていた雅人が声を上げる。
『本当にこの地域の皆さんには良くしてもらったよ。皆さんのおかげで今日まで商売をしてこられたことを感謝したいね』
見慣れた老店主が、生中継のインタビューに応えていた。
晴れ晴れとした、まさに好々爺といった表情を浮かべる。
それを目にした瞬間、雅人はリビングから飛び出していた。
「お兄ちゃん、どうするの?」
背後から掛けられた茉奈の問い掛けに応える余裕はなかった。
家を出ると、店に向かって駆け出す。
歩いても5分はかからない距離だが、もどかしい。
外出時に最近はいつも着けているマスクもしていないことに気付いたが、どうでもいい。
ただ、足を動かす。
雅人が店に着いた時には生中継は終わり、店主はテレビ局の取材スタッフに挨拶をしていた。
「あのっ、今日で、店を閉めるって本当なんですか?」
突然、雅人に声を掛けられ、店主は目を見開く。
「あぁ、君はいつも来てくれてた子だね」
「はいっ、帰りがけに食べるここのコロッケを楽しみに、いつも部活を頑張ってました」
「嬉しいことを言ってくれるな」
はっはっはと、店主は声に出して笑う。
「あの、それで……」
「あぁ、そうだよ。今日で店を閉めるんだ」
分かりきった答えだったが、改めて突きつけられた現実に雅人は唇をかみしめる。
「……それってやっぱり、コロナがあったからなんですか?」
「跡継ぎもいないし、そろそろ潮時だと思ってたんだよ。まぁ、コロナのことがあって、ちょっと予定より早くはなったけれどね」
「……そう、ですか。何と言えばいいか分からないけど、ほんとに、残念です」
肩を落とす雅人を、店主は目を細めて見る。
「そう言ってもらえるだけで、嬉しいよ。これまでありがとうな」
「いいえ……」
「これからも部活頑張れよ」
「……はい」
今の状況で何をどう頑張ればいいのか、見当も付かなかったが、雅人にはそう応えることしかできなかった。
つらいのはみんな一緒なのだから、我慢するしかない。今できることをやるしかない。
そう考えることしかできなかった。
雅人は店主と握手を交わし、別れを告げると帰路に就いた。
いつにもまして人通りの少ない道を歩くと、寂しさが胸を覆う。
ふと、あのツイートの主は、店が閉まったことを知っているのか、今、何をしているのかと思い至る。
立ち止まり、ポケットからスマホを取り出す。
ツイートの主は、ニュースのことを知っていたらしい。
最新のツイートは――『俺は悪くない』だった。10分前に投稿されていた。
「……っ。何だよ。何なんだよっ!」
雅人は叫ぶ。
スマホを強く握りしめる。
『俺は悪くない』だと? なら、誰が、何が、悪いんだよ?
思わず地面に叩き付けようとしたスマホが震える。
その画面は、隆司からの着信を知らせていた。
「……どうした?」
『大丈夫か?』
「……大丈夫に、する」
『だよな。ショックなのは、俺も一緒だ』
雅人はその言葉に違和感を覚え、尋ねる。
「待て、隆司は何の話をしてるんだ?」
『何って、インターハイのことだろ? 違うのか?』
あぁ、そうだった、ニュースはそのことも伝えていたと、雅人は思い出す。
この気の利くキャプテンは、俺のことを何でもお見通しだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。
きっと、インターハイ中止でショックを受けたチームメートを心配してみんなに電話しているんだろう。
だけど、こいつになら俺の夢をやはり託してもいいんじゃないかと思う。
「なぁ、隆司」
『どうした、突然真剣な声で?』
「インターハイが中止になっても俺たちにはまだ冬の選手権があるよな」
『そうだな』
「お前、そこで絶対に活躍しろよ。そして、絶対にプロになれ」
『何だよ、いきなり。……まぁ、俺はもとからそのつもりだけどな』
「あぁ、頼んだぞ」
俺の代わりにヒーローになってくれ、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。
けれど、こいつはいつか俺の夢を叶えてくれるはずだ。
雅人は、そう確信していた。
隆司との通話を終え、スマホのスリープボタンを押す。
カチャリと音を立てて暗転した画面は、静かに雅人の顔を映し出していた。