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プロローグ 泣かない男の10年

 その夜、絶対に泣かない男が泣いた。


 台風が異常に多く発生した年だった。

 日本プロサッカーリーグは相次ぐ日程変更を余儀なくされた。

 結果、ホームスタジアムが利用できない日にも試合を組まざるを得ないという状況が生まれる。

 だから、この日は日本列島の南にある小さな街の小さなスタジアムで試合が行われた。

 メインスタンドだけしかないそのスタジアムは当然、リーグ開催規定を満たさない。

 そんな所で試合をしないといけないほど、日程は逼迫(ひっぱく)していた。

 けれど、普段プロの試合を直接見ることができない地元のファンたちはスタンドで歓声を上げ続けていた。


 大盛り上がりのスタンドを仰ぎ見て、椎名彩美(しいなあみ)は一人ため息をつく。

 南国とはいえ、師走が間近に迫る夜は寒い。

 彩美が吐き出した息は、白く漂う。


「どうしたんだよ。ため息なんてついて」


 声を掛けるのは、この日の試合を戦うチームのオフィシャルカメラマン。

 30代半ばといった風体だが、試合の真っ最中だというのに落ち着き払っている。


「だって、こんな試合のリポートをしたって、私の評価は大して上がらないじゃないですかー」

「まぁ、そう言いたくなる気持ちも分からなくもないけどな」

「そうですよー。優勝も降格も関係ないチーム同士の試合なんですよ。両チームのサポーターぐらいしか見ませんよー」

「業界に入ったのは最近なんだっけ?」

「はい、今年になってからで、担当するのはこの試合が2試合目です」

「2試合目でうちのチームを取材できるなんてついてるじゃねぇか。現役の日本代表だっているんだぞ。ほら、見てみろ? また相手選手を潰したぞ」


 カシャカシャカシャと、デジタル一眼レフカメラのシャッター音が響く。

 そのレンズが捉えるのは、安樂隆司(あんらくたかし)

 プロになって10年の28歳。

 カメラマンの言うように現役日本代表のボランチだ。

 上背はそれほどないが、がっちりした体つきで、顎の周りを覆うひげが威圧感を漂わせる。

 愛称は『闘犬』。

 徹底的にマークする相手に食らいつき、味方サポーターからは絶大な信頼を寄せられている。


 ただ――インタビュアー泣かせで有名な選手だ。


「あの人のインタビューって面白くないんですよねー。聞いたことにはちゃんと応えてくれるみたいなんですけど、ニコリともしないし」

「まぁ、そうだな。でも、普段はいい奴なんだぞ」

「そんな風には見えないですけどねー」

「この間も実家から送ってきたっていう野菜を分けてくれたぞ」

「へえー。じゃあ、ちょっと頑張ってみようかな。……あっ、そう言えば、先輩にあの人を泣かせられたら、何でも好きなものを買ってやるって言われてたんだった」


 無邪気に声を上げる彩美に、カメラマンはファインダーから目を離す。


「えっ、どうしたんですか? そんなびっくりした顔して」

「そりゃ、びっくりするよ。……あいつが何て呼ばれてるか知らないのか?」

「闘犬じゃないんですか?」

「あぁ、それもあるな。でも、別の呼ばれ方もしてる」

「ん?」


 彩美はキョトンと首を傾げる。

 資料には一通り目を通してきたつもりだが、思い当たることがない。


「結構、有名だと思うんだけどな。あいつは――絶対に泣かない男って呼ばれてる」

「えー、それって泣かせるのなんて絶対に無理じゃないですかー」

「そうだな。俺はあいつが高校卒業後にうちのチームに入団してからずっと見てるけど、一度も泣いたところなんて見たことないぞ」


 カメラマンは苦笑してから、再びカメラを構える。


「そうだ。もし、あいつを泣かせられたら俺も何かおごってやるよ」

「もー、それって絶対できないから言ってるだけですよねー?」

「さぁ、どうだかな。でも、俺も一度はあいつが泣いてるのを見てみたいな」

「どうしてですか?」

「……たまにさ、ほんとにたまにだけど、あいつはものすごく辛そうな顔を見せるんだよ。何かを我慢しているような顔って言うのかな。だから、泣けば少しは気が楽になるんじゃないかなって思うんだよ」


 一瞬だけ、ピッチ上の隆司に視線をやって、彩美は亜麻色のミディアムボブを手櫛(てぐし)()く。


「ふーん。でも、そもそもあの人をインタビューする可能性って低いんですよねー」

「そうだな。どちらかと言うと、地味なポジションだし。たまたまゴールでもしなきゃ、インタビューすることなんてないよな」

「そうですね」と応えた彩美は、手元の時計に目を落とす。


 試合は既に後半40分を回っている。

 スコアは動いていない。

 このまま試合が終われば、堅守でチームに貢献したゴールキーパーか、キャプテンが試合直後のヒーローインタビューの対象になるはずだ。

 再び彩美はピッチに目を向ける。


 ちょうど隆司のチームがコーナーキックを獲得したところだった。

 ボールは遠いサイドへ弧を描いて飛ぶ。

 両チームの選手が頭で競り合い、ボールはペナルティーエリアのわずかに外に落ちた。

 そこにいたのは、隆司。

「ふう」と小さく息をつくと、左足を深く踏み込む。

 芝生がえぐれそうになるほど、深く。

 そして、右足を振り抜く。

 芯を強く叩かれたボールは低く、()うように進む。

 必死に足を伸ばすディフェンダーのつま先をかすめる。

 それが、幸いした。

 虚を突かれたゴールキーパーは動けない。

 ボールは静かにゴールに吸い込まれる。

 ポスっと、ネットを揺らす音が響く。


 一瞬の静寂。


 続いて、スタンドから割れんばかりの歓声が響いた。


「いい展開だな」


 シャッターから指を離さず、カメラマンが彩美に声を掛ける。


「試合は面白くなりましたけど、このままだと安樂さんをインタビューすることになっちゃうじゃないですかー」

「楽しみだろ?」


 彩美は笑いながら言うカメラマンを睨む。


「もう、人ごとだと思ってますよねー」

「そりゃ、そうだろ。さて、どんなインタビューを見せてくれるのかな?」

「ああ、分かりましたよー。頑張りますよー。泣かせてみせますから、楽しみにしててください」


 試合は結局、隆司のゴールが決勝点となり1対0で終わった。

 彩美は隆司の資料をバインダーの一番上に挟み直して髪を整える。

 隆司はスタンドのサポーターに挨拶に行く選手たちから外れ、インタビュースペースに向かってくる。

 顔の汗を拭ったタオルをチームの広報に渡すと、カメラの前に立った。


「本日のヒーローインタビューは見事、決勝点を決めた安樂隆司さんです」


 スタジアムには、オーロラビジョンがない。

 だから、インタビューを見たい観客は、手元のスマートフォンで動画配信サイトに接続し、ヒーローの言葉を待つ。


「素晴らしいゴールでした。あの瞬間、どんな気持ちだったんですか?」

「いや、別に。とにかくふかさないようにしようと。それだけです」


 テンション高めの彩美の声と対照的に、隆司はぼそぼそと応える。ニコリともしない。

 彩美は「笑いもしないし。泣かせるなんてやっぱり絶対無理でしょっ!」と内心憤る。

 けれど、こんな盛り上がらないインタビューこそ腕の見せ所だと、自分を納得させて質問を続ける。


「シーズンも最終盤に差し掛かってきましたが、今後の意気込みを聞かせてください」

「……一生懸命やるだけです」


 相変わらず素っ気ない対応に、ため息をつきたくなる衝動を彩美は必死で抑えた。

 ただ、目線は少し落ちる。

 その拍子にバインダーに挟んだ隆司の資料が目に入った。

 そこには、隆司がこの試合の行われた都市の出身だということが書かれていた。

 彩美は何で今まで気付かなかったのだろうと思う一方、この質問になら丁寧に応えてくれるんじゃないかとマイクを握る手に力を込める。


「安樂選手は、このスタジアムのある街の出身ということですが、今日は特別な思いがあったんじゃないですか?」


 いつもはプロが試合をすることのないスタジアムだ。きっと、プロ入り後に試合をするのは初めてのはず。なら、いい答えが引き出せるのではないかと期待していた。


 だが、

「……」


 隆司は何も言わない。

 もしかして、間違ったかなと、彩美は再び資料に目を落とす。確認するが、やはり間違っていない。

 だったらどうして何も言ってくれないの、と視線を上げる。


「っ……」


 隆司の頬には涙が伝っていた。

 唇を必死でかみしめていた。


 ――泣かない男が、泣いていた。


「あのっ、すいません。変なこと聞いちゃいましたか?」


 隆司を泣かせようと意気込んでいたものの、実際に目の前で泣かれてしまうと戸惑う。

 しかも、それほど変わった質問ではなかったはずなのに。


「……いえ、ちょっと思い出しただけです」


 隆司は声を震わせ、顔を俯かせて応える。

 簡単なことだと、彩美は思う。「何を思い出したんですか?」って聞けばいいだけだ。

 でも、だけど、気軽に尋ねられない雰囲気があった。

 だから、インタビューにできてはいけないはずの間ができた。「まずいっ、放送事故になっちゃう」と彩美は焦る。


 その時だった。

 スタンドから声が響く。


「隆司ーっ、いつも俺たちのために頑張ってくれてありがとうなーっ」


 声につられて、隆司は顔を上げる。

 その視線に映るのは、隆司の背番号の入ったユニフォームを着た一人の青年。


「今日もかっこよかったぞ。お前は俺たちのヒーローだ。これからも頼むぞっ!」


 拳を突き上げる青年の顔を見て、隆司の涙は止まらなくなる。

 腕で拭っても、拭っても、あふれる。

「うっ、うっ、うわぁぁぁぁぁぁ」

 しまいには、声を出して号泣してしまった。



 結局、彩美はインタビューを打ち切らざるを得なかった。

 広報担当者に肩を抱えられながらロッカールームに引き上げる隆司の背中をただ黙って眺めることしかできなかった。

 でも、どうしても気になる。

 何があったのか。

 なぜ隆司が泣き出したのか。

 だから、スタジアムにとどまっていた。


 試合が終わって30分ほどたってから、彩美は隆司のチームの関係者に呼び出された。

 あんなひどいインタビューをしたから、文句の一つでも言われるのかと身構えていたが、指定された場所に現れたのは、隆司だった。


「あのっ、すいません。私のせいで変なことになっちゃって」

 彩美はいまだに状況が飲み込めていなかったが、とりあえず謝るしかないと、頭を下げる。


「いや、君は悪くないんだ。あんなことになってしまって、俺の方こそ悪かった」

 隆司も腰を折り曲げて丁寧に謝る。


「いえいえ、そんな頭を下げないでください」

 慌てて彩美は顔の前で手をブンブンと振って、隆司に顔を上げるように促した。


「……聞いてもいいですか? 何を思い出したのか?」

 再び視線を合わせてくれた隆司に、恐る恐る尋ねた。


「そうだな、どこから言えばいいのか分からないから、少し長くなるかもしれないけどいいかな?」

 そう言う隆司の顔は、少しすっきりしているように見えた。


「はい、お願いします」

 真剣な目で見つめてくる彩美に、隆司は小さくうなずく。


「10年前のことだ。俺たちの高校は、このスタジアムで選手権の地区予選を戦うことになっていたんだ」

 彩美は10年前という言葉にどこか引っかかる気はしたのだけれど、すぐには思い至らず黙って隆司の言葉を待つ。


「覚えてないかな? コロナが流行った年だよ」

「あっ」


 ようやく彩美も思い出した。春から猛威を振るったウイルスのせいで、ほとんどのスポーツが中止された年だった。

 当時中学1年だった彩美はサッカー部のマネージャーをしていた。3年生は最後の大会もないまま引退していったのを覚えている。でも、ほとんどの生徒は高校でもサッカーを続けることになっていたから、残念がりはしたけど「高校で頑張るよ」と、どこか前向きでいられたんだと思う。


「インターハイが中止になってさ、他の部活の連中に言われたんだよ。『サッカー部は冬の選手権があるからいいな』とか『俺たちの分も頑張ってくれよ』って。だから、夏前に部活を再開できた時は、それまで以上に気合を入れたんだ。でも……」


 いったん口を閉じた隆司の言葉を彩美が引き取る。


「秋にまたコロナが流行りだして、選手権も中止になったんでしたね」

「そうだ。あの年は本当にいいチームができてたんだよ。県予選も絶対勝てるし、全国では国立にまで行けるって思ってた。でも……挑戦すらできなかった」

「辛かったですね」

 軽々しく言っていいことではないと思ったが、彩美には他に掛けるべき言葉が見つけられなかった。


「いや、俺はまだいいんだよ。こうしてプロとして、サッカーを続けられてるんだから」


 隆司は浅く唇をかむ。


「チームメートにはさ、高校でサッカーをやめる奴が大勢いたんだよ。だから……俺はずっと、自分だけがサッカーを続けているのが申し訳なかったんだ。サッカーをすることを楽しんじゃいけないんだって、自分に言い聞かせてたんだ。だから――俺は感情を殺した。絶対に喜ばなかったし、絶対に泣かなかった」


「そんなっ、なんで、ですか?」

「たぶん、自分だけサッカーを続けられるって特権を与えられた気になって、それが申し訳ないと思ってた、のかもな」

「思ってたということは、今は違うんですか?」

「そうだな。……インタビューを受けてる時にさ、スタンドから叫んできた奴がいただろ?」

「はい。知ってる方なんですか?」

「高校の時のチームメートなんだよ。俺さ、プロになってから当時のチームメートとも連絡を取らないようにしてたんだよ。どうしても後ろめたくて。だから、応援してくれてるって聞いて、それでやっと、あぁ、俺はサッカーをやってていいんだなって思えるようになったんだよ」

「そう、なんですね。……あのっ、もう一つだけ聞いてもいいですか?」

「いいよ」


 こんなことを聞いても意味はないのは分かっている。けれど、彩美にはやっと泣けるようになったこの男に聞いてみたいことがあった。


「もし、10年前の自分に声を掛けられるとしたら、どんなことを言いたいですか?」

「なかなか難しいな」


 隆司は人差し指で頬をかく。少し考え「うん」とうなずく。


「泣きたけりゃ泣け、って言うだろうな。みっともなくてもいい、情けなくてもいい、心の赴くままに涙を流せって」

「どうしてですか?」

「泣きたい時に泣けないってのは、結構辛いんだよ。だから、今日はすっきりした。君のおかげだよ。ありがとう」

「そんなっ。お礼を言われることなんて、私はしてませんよ」

「それでもいいんだ」


 隆司は白い歯を覗かせて笑う。

 ちょうどその笑い声を合図にしたかのように、チーム関係者が隆司を呼びに来て彩美は別れを告げた。



「まさか本当にあいつを泣かせるなんて思ってなかったよ」

 隆司と別れた後もその場を動けずにいた彩美に声を掛けたのは、カメラマンだった。


「はい。自分でもびっくりしました」

「で、何が食べたい?」

「はい?」

「あいつを泣かせたら何かおごってやるって言っただろ?」

「あっ、そうでしたねー」


 彩美は身に染みついた湿っぽい空気を振り払うかのように、大きく伸びをする。


「忘れてたのかよ。黙ってりゃ良かったな」

「もう遅いですよー」

「分かったよ。で、どうする? 鳥? 豚? 牛?」

「えっとー」


 彩美は唇に人差し指を当てる。

 フフっと、笑ってから口を開く。


「全部がいいでーす」

「全部って、そんなに欲張るなよ?」

「嫌でーす。私まだ若いですから。若いうちは欲張りでいようって思ってまーす」


 そう言うと、彩美は「さぁ張り切って行きましょー」と、右手を突き上げ歩き出した。

この物語はフィクションです(念のため)。

第2波なんて起こらずに、冬の選手権が無事、行われることを心から願っています。

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