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56 信長★

まくあい…

信濃の国、諏訪。


甲斐の武田が滅んだ。

甲州征伐を発起し、軍勢を催した信長。

信忠の後ろからゆるゆると進軍してきたが、甲斐に入る前にその滅亡を知ることとなる。


「城介殿は誠、将器にあふれておる」


嫡男の器の大きさを褒めては周囲と笑い合い、極めて上機嫌であった。

無論、本音では自ら討ち取りたいという気持ちがあった。

しかし若い当主に箔をつけることの重要性が勝っていたため黙っていたが、後で光秀あたりに愚痴ろうと思っていたのは周囲には内緒である。


信長は明智光秀を高く評価し、信頼している。

通じ合っているとさえ考えている。

それが高じて、時に正妻たる於濃に嫉妬の念を向けられるほどだ。


今や、信長が天下に最も近い位置にいるのは間違いない。

足利義昭という征夷大将軍の現職もいるにはいるが、彼を天下人として見ている者は世間では極少数。

実際に都を制し、四方に軍勢を派遣し、強靭で鳴らした甲斐武田を滅ぼした織田家こそ次なる天下人と誰もが思う。


多かれ少なかれ、慢心している節があると自覚する信長。

諫言するのは正妻たる於濃、実妹たる於市、嫡男たる信忠、それに重臣・光秀だ。

於市や信忠は遠慮があるのか遠回しに少しばかりだが、於濃は真っ直ぐに。

光秀も言葉は多少柔らかいが、やはり直言する。


立場として強くなった信長には横で並ぶ者が居ない。

視点を共有する者が居ないのでは孤独に苛まれる。


女たちは視点が異なるし、信忠は経験が足りていない。

その点、光秀は合格だ。

よって信長としては、つい甘えに近い態度を取りがちになってしまうのだ。


法華宗の寺に入り、甲斐の仕置について指示を送る。

同時に歓心を買うためにやってくる諸将の挨拶も受ける。

上に立つ者として配下や協力者を労うことも忘れてはならない。


細々したところは小姓や側近たちに任せるが、気になる性分はなおらない。

つい口を出したり確認したり、元より多忙なのに余計忙しくなってしまう。


空いた時間は休息に充て、光秀に愚痴る暇もないまま時は過ぎた。


ふと気付けば諸将を持て成す宴の時間。

酒は好まないが、嗜む必要はある。

若干気を滅入らせながら閃くものがあった。


「…ふむ、良い機会やもしれぬ」


甲斐武田が滅び、織田に歯向かう者はより減るだろう。

しかし自分をどう思っているか、その性根を知る必要はある。


「十兵衛ならば上手くやってくれよう」


光秀と打合せは何もしていないが、分かってくれるという期待があった。

本人としては信頼から来る確信であり、一般に言うところの甘えである。


幾分か明るい気持ちになりつつ、宴に出席する途に就いた。

そして事件は起こる。



* * *



旧武田領の配分については大まかに決まっている。

内示という形で打診があり、ほぼ全ての将はこれを受入れた。

今回はそのうち、信忠に従って甲斐の仕置を行っている者を除きいた者のほぼ全てが挨拶に訪問。

宴に参加していた。


祝いの場であり、境内至る所で酒盛りが行われている。

信長が座すのは本陣を構えているところで、従軍した諸将や公家衆などが並び座っていた。


上機嫌な主君を前に、家臣や新参衆も口の端が緩む。


「精強で鳴らした武田も織田様に掛かれば一蹴とは」

「所詮は山猿だったということ」

「いやいや織田家が強く大きくなった証左よ」


その中で、信長の耳がふと捉えたものがあった。


「よくぞここまで来たものと」

「我らも骨を折った甲斐がありましたな」


視界の端に映るのは、大身ではないが譜代で実直に努めている男が涙を流している姿。

そんな彼を労わるように酒を注ぐ光秀の姿。


正確に誰が何を言ったかは関係ない。

ただ、話の流れで口を突いて出ただけの些細な言葉。

しかし信長は即座に立ち上がり、一足飛びにその場に立った。


驚き硬直する男と光秀が見上げるや、


「誰がどれだけ骨を折ったと申すか!

 全てはこのワシこそ、骨を折ったのだ」


甲高い声で発するや光秀を蹴り倒す。

唐突に起こった惨劇に、制止するのも忘れて誰もが見入る。


行動とは裏腹に冷静な頭で状況を確認し内心ほくそ笑む信長。


「申してみよ。

 誰が、どれだけ骨を折ったと!」


続けて光秀の頭を床に押し付け、強く詰る。

やり過ぎたか…と一瞬思うも、こういうことは初志貫徹が大事。

経験則から答えを弾き出して何度も詰る。


「しばらく、しばらく!」


やがて我に返った他の重臣らが止めに入り、何度か振り払おうと力を入れるも制止される。

年のせいか自分で思う以上に息切れしたことを激昂した結果にすり替え、言葉を吐き捨て座に戻る。


「ふんっ…。座が白けたな、ワシは戻る。

 皆はゆっくり楽しむが良い」


激昂した演技をした手前、場に残れば皆が気にする。

そこまで計算して居室に戻ることにした信長。

後ほど密かに呼び出し、謝罪して説明せねばなと思いつつ光秀の方を流し見る。


幾人かが光秀のもとに駆け寄っている様を眺め、奥へと下がるのだった。


*


一方の光秀。

周囲の重臣らから心配され、同情を寄せられつつも今回の事を素早く計算。

信長が何を考え、何を期待して行動に移したのか。

確かに直情的だが理性的に目的を持って動くことを基本とする信長のことだ。

長い付き合いになったせいか、ある程度分かる様になっていた。


そして結論。


──炙り出し、か。


唐突に激昂し蹴られ詰られ…。

当然だが同情される。

中には我関せず、触らぬ神に祟りなしと見て見ぬふりする者もいるが。

本心から同情し慰めるものもいれば、何かを思って擦り寄る輩もいる。


海千山千。

乱世を乗り越えてきた光秀には大よそ分かるものだ。


それらの選別を期待されたということは分かる。

分かるが…。


「腹に据えかねるのもやむ無しよな」


真の主君と思い定める足利義昭。

彼ならばこういうことはしない。

するとしても、必ず事前に調整する。


控の間で瞑想しながら思いを馳せる。

もうしばらく会っていない。

文のやり取りも時候の挨拶だけで、核心に触れることは一切していない。

それでも内に秘めたるものが褪せることはないだろう。


「明智様、上様がお呼びです」


「承知した。すぐに向かう」


信長も後から説明と謝罪があるだけマシかな、と思いつつ側近の後ろに立つ。

為人を理解していても腑に落ちるかは別。

腑に落ちずとも仕えなければならないこともある。

そう思えばまだ、恵まれている方かと苦笑を一つ。


光秀は信長のもとを密かに訪れるのだった。



* * *



「来たか!痛みはどうだ、十兵衛」


「年のせいか沁みますな」


親しみを込め、人好きのする笑顔で十兵衛と呼ぶ信長と相対すれば光秀も気持ちは和らぐ。

真の主とは違うが、それでも主君と仰ぐに不足はない人物だった。


「そうか、すまぬ」


こう真摯に謝ってこられると、許さない訳にはいかない。

無礼であるが、やんちゃな弟の様にすら思えてくるから不思議なものだ。


「実は此度の事、理由があってな」


「御重臣方、従属者の真意に係ることでしょうや」


分かるか、と目配せをされると答えてしまう。

更に我が意を得たりと笑みを見せられると、やはり悪くないと思ってしまうのだ。


「先に申さなんだは済まなかった。

 年を考えず強く押しすぎてしまったと反省もしておる。

 だが流石は十兵衛!まさにそれよ」


で、どうだと尋ねられる。

近しい者にだけ見せる為人。

若かりし頃の苦い思い出が故に、柔弱さを嫌う信長は損をしていると光秀は思う。

それはさておき今は答えを。


「まず三河殿。浅井殿、津田殿、そして稲葉殿」


「稲葉もか」


三河殿は徳川家康。

浅井信政と津田元治は一門衆。

稲葉は美濃を領す重臣だが、光秀とは因縁浅からぬ仲である。

そのため逆に不穏を感じたと説明する光秀。


「変わらず修復の兆しはないか」


「申し訳ありませぬ」


「まあ人の好悪はな、致し方ない」


表では互いに弁えているし衝突もない。

であれば信長も最早言うことはなかった。

こういう案外理解があるところもギャップがあり魅力的に思えるのだ。


ここで二人は敢えて言葉に出さなかったが、大きな問題は一つ。

徳川家康。

三河と遠江を領し、今回駿河も得て三ヵ国の太守となることが決定している。

織田家とは同盟関係にあり、実質従属的でありながら表向きは対等な同盟者。

しかし今回武田が滅んだことで、両者にとってこの同盟が難しいものとなっているのだ。


信長からしてみると、家康という男は信用は出来ても信頼は置けない。

光秀としても、本心を隠して上辺が上手い信用ならない人間である。


また織田家として徳川家を見ると、東海道の主要な地域に居座る邪魔者。

徳川家としても、従属的が故に領国を増やすには織田家の認可が必要で不満が残る。


関東の北条は織田家に誼を通じつつ、半ば独自の動きを見せている。

余談は許さない。


どうすべきか。

光秀が考えあぐねていると、信長から思いもよらぬ指示を受けた。


「十兵衛、鞆の公方様に遣いを送れ」


「公方様に?」


余りに唐突過ぎて、らしからぬオウム返しに返してしまう。

思わぬ失態に弁明を考えるも、信長は矢継ぎ早に話を急ぐ。


「西国の平定に力を貸して欲しいとな。

 対価は帰洛後の安寧…将軍位も構わぬ」


「…我が密使でありましょうか」


「いや、ワシからの遣いで良い。

 人選はお主に任せる」


何と信長が光秀を通じて義昭に遣いを送ると言う。

その理由はすぐさま明らかになる。


「十兵衛、お主や細川のまことは未だ公方様にある。

 ああいや責めてはおらぬぞ?

 それも結果としてワシの為になり、天下の為になるからの」


信長は光秀の意志をある程度察していたのだ。

それを踏まえて、飲み込み躊躇なく使っている。

まさに覇道を征く者。


流石の光秀も圧倒され、言葉が出ない。

まさか己の真意を見透かされて、しかもそれを直接言われるとは。

しかも責めてないとまでいう。


確信は持てないが、信長の性格からして恐らく本心だろうと光秀は結論付ける。

そうなると目的は何か。

悩む光秀だが、回答は容易く提示された。


「公方様はな、ワシと同じ目線を持つ稀有な人物よ。

 今更ではあるがやはり戴いておくべきだと思ってな」


信長にとって義昭は味方にあるべき者。

遠ざけてからようやくハッキリと認識し、是正する機会を窺っていたのだ。


もっとも、それが全てではなかったが。

光秀もそうと分かりつつ、この場で質すことはしない。


「良いな?

 誰ぞ心利きたる者を我が使者として遣わすのじゃ」


「承知仕りました」


*


──ああ、それと。


大事なことを指示した後、軽い追伸のように信長は続けた。


「この後、駿府で三河殿から供応を受ける予定じゃ。

 その返礼として安土に招くが、これに穴山も同道させる」


──饗応役をお主に任せたい。


言葉にすればそれだけ。

特に問題のある文言はなかった。


「…御意」


光秀は何か感じるものがあったようだが、この場は頷くに留めたのだった。



* * *



近江の国、安土。


甲州征伐の仕置が終わり、畿内に戻ってきた信長たち。

光秀は家臣の斎藤利三を鞆の浦に信長の密使として送り、反応を得ていた。


「どうじゃ十兵衛。糸に掛かったか」


「是とは行きませなんだが、お会いして話はしたようです」


密談した信州と現在では状況が若干異なる。

信長は予定通り諏訪をたち、甲府を経由して駿府で家康の接待を受けた。

その見事さに信長は大いに喜び、次は自分が安土で持て成すと意気込み帰還した。


言葉通り、信長は家康を接待するため安土に招待。

新たに服属した穴山梅雪も武田滅亡の功労者として同行させ、一緒に饗応することになっている。


義昭に対する使者を除き、額面通りの言動しかしていない二人。

しかし信長には裏の意志があり、光秀もまたそれを感じ取っている。


あとはそれをどのタイミングで言うのか。

あるいは最後まで言わず察した者が動くのを待つのか。

不思議なせめぎ合いだなと光秀は思うのだった。


「まあゆるりと行こう。

 毛利はどうやら筑前めが上手くやっておるようじゃ」


筑前。

羽柴筑前守秀吉は信長のお気に入りだったが、最近は少し鼻につくように感じていた。

以前と違い、己とは見ている景色が違うのではないかと。


「五郎左と手を組み三七を取り込み、何を目論んでおるものやら」


そして丹羽長秀は信長の信頼厚い織田家の重臣。

必ずしも武略に富んだ存在ではないが、城普請に造詣が深く政治力もあって重宝している。

どうやらこの二人が手を組み、信長の三男・信孝を擁立する動きを見せている。

警戒しないはずがない。


しかし信長はそれほど気に留めていないようで、喋りも軽い。

光秀は多少の不審を覚えるが、織田家については気にする程でないと流した。


「そんな訳でな、公方様の件は急がずとも良い。

 城介が戻れば上洛させ、二条にて報告させる。

 その折に於市らを交えて話せばよかろう」


信長は秀吉の報告から、近々西国への出陣を考えている。

今回は信忠に後ろ備えを任せて自ら先んじて出る構えである。


「西国征伐は天下仕置の第一歩。

 織田に仇為す不穏な輩は成敗せねばならぬ。

 …上杉は権六に任せておけば良い。

 五郎八に犬と内蔵助、玄蕃もおるでな。

 やはり問題は伊賀の佐々木、若狭武田、紀州畠山よなあ」


秀吉が毛利を降す、その最後の一手に信長が出る。

道中、鞆の浦に座す義昭を牽制しながら帰洛を促すことになる。


今しがた信長が呟いた本音。

佐々木、若狭武田、畠山といった旧来の名家たちが邪魔になっている。

畠山はともかく、佐々木と武田は織田と敵対していない。

にも拘らずである。


そうなると、義昭の帰洛はその意志より信長の意志が強く反映されたものになるだろう。

或いは奉行に秀吉の息がかかった者が入るかも知れない。

となれば、貴人としての面目が立たないことになる可能性も捨てきれず…。


光秀は人知れず決意を固めつつあった。


「以前言った通り饗応役は十兵衛、お主に任せる。

 まあ途中で五郎左と久太郎に変えるがな」


西国出陣の副将に任命されるのだ。

場合によっては密命を下されることもある。

やはり信長は光秀を手放すつもりがない。


「…未だ乱世。王道より覇道が近道よ」


ふと呟かれた言葉に、光秀は理を感じつつも頷くことが出来なかった。


* *


「殿」


考えに耽りながら自陣に戻る光秀の傍らに、そっと家臣が近寄ってきた。

その手には何やら符号が記された短冊が…。


「都からです」


光秀は無言で受取り、小さく頷いた。



* * *



信長は考える。

乱世を鎮めるには覇道で行かねばならぬと。


しかしまたこうも思う。

天下を治めるには王道であるべきだと。


真の天下を希求するのは自分か義昭しかいない。

自分は覇道を征き、義昭は王道を進む。

幸い嫡男の信忠は義昭の猶子。

ゆくゆくは跡を継がせて将軍職を継承、王道での天下を作らせたいと。


その為には自らと共に乱世を走った者達は邪魔でしかない。

最たるものが立身出世の申し子である秀吉。

他にも数多の武者たちが邪魔になるだろう。


信忠は賢い。

信雄は賢くないが、兄には忠実だし何より光秀に懐いている。

問題は担がれつつある信孝だが、長兄に盾突くほどの無器量者ではないと見た。


その辺りの手綱も締めて行かねばならない。


信長が夢見る理想は光秀を介して義昭と共に進む道。

頭の片隅で囁く声なき声。

真の理想は最早叶わない。

これを無視し、眠りにつくのが恒例となっていた。


光秀を経由した信長の物語。

人間って複雑ですよね。


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