51 沈思
織田家の進撃が止まらない。
感じる圧力はまるで巨人のようで。
それに晒された播磨の親毛利勢力はもはや風前の灯火だった。
そんな中、しぶとく二年近くも持ち堪えたのは誠に天晴。
凄まじい意地と底力は見事と言う他ない。
中心となったのは三木城主・別所長治。
若き名将は武威を示し、支柱になりえたが遂には羽柴秀吉を大将とする織田家の山陽方面軍に敗れ去った。
織田家と戦った別所だが、当初は織田に加担していた。
足利を奉じて上洛し、三好を蹴散らし畿内を制すなど、名実ともに十分だったことがその理由。
緩やかな帰属支配の受入に大きな障害はなかったようだ。
別所氏は戦国大名であるが赤松氏の庶流にあたる。
本人たちは名門の系譜を持っている意識もあっただろう。
将軍(つまり私)の側室に赤松由縁の娘が入っていることも、彼らの頭にあったはず。
直接的なものは何もない。
それでも遠い親戚・同族に著名人がいると、我が事の様に何となく嬉しく感じるもの。
いざとなれば縁故を辿り何らかを──なんてことも考えていたかも知れない。
こういう強かさも大事なものだ。
表に出さない密かな名門意識。
自分たちが思ってる以上に強いものだったらしい、そこを上手く突かれた。
多少なりともの忌避感を。
*
織田が戴く足利将軍。
これに供奉して転戦する別所一門。
畿内への遠征が主だったが、やがて戦線は中国路に及ぶ。
相手は毛利。
今後を見据えて早めに手を打つという策謀があった。
練ったのは黒田孝高。
小寺の家老から羽柴の与力に鞍替えした油断ならざる切れ者。
自信家にして野心家な一面を隠し持つ戦国武将である。
元々織田家…信長は西進軍の大将を信忠かみっちゃんにと考えていた。
実際途中までは信忠だったしな。
みっちゃんはむしろ有能過ぎて、一方面を任せるには勿体ないと遊撃的な側近という扱いだった。
ところが事態は大きく変わる。
東で武田が動いた。
上杉・武田・北条・蘆名らは時に結び時に干戈を交え─。
中でも織田家と領地を接する上杉と武田は、やがて結びつきを強めていく。
関東の覇者たらんと欲する北条は蘆名との連携を模索しつつ、親織田に舵を切る。
遠交近攻の見本みたいなものだな。
それぞれが色々な思惑を持って行動した結果、最大の危機感を持っていたのが甲斐武田である。
焦燥感を募らせた武田勝頼は、織田信忠との関係を深めようと頑張った。
望月という手管と流れ公方の仲介で妹を岐阜に送ることに成功。
平行して上杉へも妹を嫁がせ身内を送り込む。
なんてことをして時間を稼ぎつつ、北条との関係修復、徳川との不可侵条約の締結に臨む。
…が、破綻。
徳川は信長の支援を取り付けて武田討伐を志向。
承諾した信長の指示を受け、信忠は已む無く東征軍の大将に就任したのだった。
信忠としても、義兄になった武田勝頼のことは己が手でやるしかないと覚悟を決めた。
救済にしろ処断にしろ、他人に任せることは出来ないとの断固たる信念を持って臨む…と手紙には綴られていた。
手紙には武田の姫…正室についても書かれていた。
しばらくは軟禁状態に置かざるを得ないが、決して手放すことはしない。
例え恨まれても乗り越えてみせるという決意と共に。
ウム、流石は我が自慢の息子。
多少の逆境など跳ね返してしまうが良い!
ちなみに越後上杉には柴田が大将として攻め込んでいる。
この辺りでうっすらと、織田家は方面事に大将を置く感じに形作られていったようだ。
こういった事情もあり、中国路方面は羽柴が大将に抜擢。
当初は副将に荒木、別所などが任じられていた。
結果として荒木も別所も織田に反旗を翻す。
荒木村重は自滅に近いが、別所長治は親毛利・反織田というより反羽柴として戦い抜いた。
両名とも、理由は違えど贄にと選ばれた。
羽柴の与力の竹中とかいう者が大枠を作り、その没後に詳細を詰めたのが黒田とのこと。
策を講じた黒田孝高だが。
兼ねて詳しく探らせていたところ、出るわ出るわ胸糞悪い話が大量に。
無論、噂話程度で確実性に乏しいものも多かったよ。
しかし火のない所に煙は立たぬ。
何かはあるのだろう。
私としては大まかな事さえ分かっていればいい。
仮に全て誤解だったとしたら、考えを改める心積もりもしてはいる。
だがまあ其処彼処に切支丹が絡んでいるらしく、中々に闇は深い模様。
全て誤解という心配は無用になりそうだった。
まあ別所が反羽柴になった理由の詳細は今更どうでも良い。
名門意識や危険思想など色々あるが、結局のところは人間性の不一致だろう。
勝敗方いずれも家を残すことには成功しているのだから、彼らの主張を事実と認めるのも吝かではないさ。
有体に言って、今を生きる者が一番大事なのは紛うことなき事実と思う。
次点で未来、過去はそれに次ぐ、言わば三番手。
忘れはしないし、汚名を濯ぐ努力も必要ではある。
しかし、それは余裕がある時にすべきことだ。
戦国大名・別所家が滅亡した事実のうち、我々が一番着目すべき点は羽柴らの攻略方法だ。
三木城は兵糧攻めにあった。
飢えと渇きで彼らは満足に戦えず、意地で粘った上で降服。
城主一族の切腹で開城に至った。
もちろん兵糧攻めがダメと言う訳ではない。
別に珍しい攻城戦法ではないし、戦傷者の削減にも繋がるという一面もある。
しかし、残酷だ。
早々に降服させることが出来れば良いが、今回は意図的に戦線を長引かせたきらいがあるのだ。
籠城を選んだ別所が悪いという声も聞こえてくるが、そう仕向けたのは相手。
毛利の後詰、宇喜多の裏切り、山名の内通など虚実交えた論争の果てに追い込まれた。
敢えて水の手は切らず、内通者を使って意地が通る様に制御。
一方で領民など非戦闘員をも押し込み消費を増やすよう仕組むなど、悪辣だった。
二年間。
持ち堪えたのは素晴らしいが、実情を知るとむしろ凄惨でしかない。
無論、一年を超えたあたりで降服已む無しとの密使も送った。
しかし意地が通り…否、意地を張らせて長期化させられた。
羽柴らは開城後に労いの宴を開いたと賛美されているが、極限までやせ細った多くの者への急な食はむしろ毒。
多くの者が帰らぬものとなったという。
戦傷者が出ないだと?
確かにそうだ。
戦らしい戦はほとんどしてないのだから傷はつかぬ。
しかし、戦以上に人は死ぬ。
…。
これは、私の感傷なのだろう。
戦は非情なもの。
そこに善悪はない、という者も多い。
強く否定は出来ぬ。
だからこそ平和な世を作り出さねばならぬと決意したのだから。
しかし、しかしだ。
全て王道を征けとは言わぬ。
我が事ながら後ろ暗いことなど幾らでもある。
それでも、敢えて悪辣な方に進む必要はないのではないか。
少なくとも、領民や非戦闘員を巻き込む必要はなかったのではないか?
…先を、戦後統治を見据えてのこと。
分かる。
理解できてしまう。
領民は統治者である別所を慕っていたからな。
ちなみに、内通者は黒田によって処分された。
城内でそれなりの地位にいたが故、当然ながら許されず。
約束を反故にされたのだが、当人も覚悟の上だったか、あるいは罪の意識があったのか。
彼は年の離れた義弟に全てを託し、最後まで演じ切って逝ったらしい。
報告してきた甲賀衆の義憤に駆られた顔が忘れられない。
いや、忘れぬようにしよう。
余は征夷大将軍であるが故に。
播磨戦線は羽柴と黒田が主に担当し始め、およそ二年で織田家の手に落ちたのだった。
* * *
備後国、鞆の浦。
亡命将軍の仮御所として設えて貰った我が屋敷。
私はある武将を指名し、ここで待っていた。
いやしかし、思えば随分と長の逗留になったものだ。
腰を落ち着け早数年。
実質滞在時間は影武者たちの合計とトントンかな。
「公方様、間もなくでございます」
おっと来たか。
思考を現実に引き戻す。
「うむ、情報に相違はないな?」
「御意」
隣に控えた昭光に確認する。
ちょっとドキドキだ。
「お出でになりました」
「うむ」
小姓が来客を伝えてきた。
大和を出、還俗してから十数年。
最早クセになった薄い深呼吸で平常心を心掛け、廊下を進む。
向かう先は謁見の間。
決して小さくはないが、広大過ぎても意味がないとコンパクトにまとめた屋敷内。
すぐに着く。
入室前に歩を緩め、浅い深呼吸をもう一つ。
覇気を纏って入室すると、壮年の武将が綺麗な所作で頭を下げていた。
…うむ。
ススッと流れるように入ることが出来たので、意図して覇気を緩めて上座に座る。
一拍置いて、平伏する武将が挨拶の口上を述べた。
「小早川左衛門佐、仰せにより罷り越しましてござります」
低いながらもよく通る良い声だ。
武将としての貫禄も凄い。
彼の名は小早川左衛門佐隆景。
安芸国に拠点を置く毛利家の一門にして重鎮。
山陽道を受け持つ優れた指揮官でもある。
既に何度も会ってるが、今回はちょっと久々だ。
さて…とひとつ頷き、こちらは心持ち弱めに声を張る。
「大儀である。おもてを上げよ」
本来、貴人である私に正面から相対するのは作法に反するが、今回は略式でな。
こちらの目的もあって、下座の隆景と視線を合わせることにしたのだ。
*
我々は毛利の使者と会う前に、徹底して情報の擦り合わせは行った。
毛利家での認識がどうなっているか。
私は現役の将軍。
しかしながら都を離れ、毛利家に身を寄せるのは畿内を牛耳る織田家との確執がある故。
対立の果てに追い出され、捲土重来を期するがために足利家に所縁ある鞆に流れ着いたと。
毛利家は下克上を成し遂げ、大内家の後釜に座った戦国大名。
徐々に勢力を広げてきたところに転がり込んできた玉は劇物だ。
大名が将軍を戴くことは権威付けに覿面であり、当然の如く毛利家は将軍の為に働いていると周囲に認識される。
これには良い面もあれば面倒な点もある。
最初の頃はメリットが大きかったが、最近はデメリットが無視できなくなってきた…。
なんて声が燻っているらしい。
そこで毛利からは隆景を招聘することが決まった。
現状を危険視する者の一人である眼前の武将は、それをおくびにも出さず慇懃な態度を崩さない。
流石は毛利元就の息子だな。
「して、此度は何か重要なお下知があるとか」
と、挨拶もそこそこに本題を促される。
毛利家が推戴するとは言え、所詮私は流浪の将軍。
紀伊畠山も織田家に靡き、今となっては四国も危うい。
何かと多忙の隆景としては、こんなところに時間を割いていたくないのだろう。
若年の当主を補佐しつつ、山陽道を一手に引き受け瀬戸内水軍衆の指揮も行う。
さらに毛利家全体の軍略担当でもある。
そりゃあ時間はいくらあっても足りないだろう。
とても優秀だと知っているが、それでも限度はあるものだ。
さて、多忙な彼を長く引き止め煩わせるのは私としても本意ではない。
中国地方に覇を唱える毛利家は織田家と敵対関係にある。
その発端となったのは紛れもなく現職将軍の私であるのだから。
と言う訳で端的に言おう。
はっきりズバッと簡潔であった方が効果は大きいだろうし。
「端的に言おう。羽柴筑前守との和睦交渉を、今すぐ停止せよ」
「…は?」
効果は絶大だ。
澄ました顔がポカンと呆ける姿が面白い。
どうせ変な話だったら嫌だなあとか考えてたんだろ?
ここ数年は表立って大きく動かず、時折変な依頼や話をしてきた自覚はある。
果心居士も平島と紀伊以外には行けてないし。
お陰で唐突な衝撃を与えることが出来たとすれば悪くなかったか。
冷静沈着で才知に長けると評判の隆景を硬直させることが出来たのは痛快至極。
おっと、内心で面白がってる場合ではない。
「隠すな、責めてる訳ではない。
お主らが水面下で動くのは当然のことと承知もしておる」
私だって水面下どころかむしろ深海を泳いでいるのだし。
どこまで知られて良いか、隠し通すべきか、隠したのがバレたと見せるべきか。
その辺が大事なんだよね。
「あっいえ、…そのぉ…」
余程衝撃的だったのか、まだ回復してこない。
せっかくだから畳み掛けてしまえ。
「筑前守、あれはいかん。
知れば知るほど弾正忠が可愛く思えてくるわ」
羽柴秀吉。
官途名の筑前守と通称される躍進著しい悪漢。
播磨を制して備前から美作、備中へ手を伸ばし、毛利家との正面衝突も時間の問題と見られている。
だからこその事前折衝は水面下。
考えたのは黒田だろうが、隆景ら一部の毛利家臣は既に接触済。
信長のことを弾正忠と呼ぶのも敢えての事。
まあ気にしてないかも知れんが。
「さらに言えばな。
高松の清水長左衛門を見捨てるような真似も許さぬ」
「は、長左衛門が何か…」
続けて言った内容はちょっと唐突過ぎたか。
呟くように反応したが、そこから正気に戻ってきてしまったようだ。
しくじったな。
清水長左衛門は備中高松城主。
まだ攻められてはいないが、遠からず対決の地になると予測している。
毛利家としても大事な国衆。
見捨てるつもりなんて毛頭ないだろう。
だけどなあ…。
鳥取のこともある。
あれが切欠だったのだが──。
ま、今はまだいいか。
むしろまた悪癖が出たとかお茶を濁しておくのもあり。
「まあ清水はよい。
しかし羽柴との和睦交渉はすぐにでも、必ずや中止せよ!
良いなっ?」
「は、ははー!」
良くても悪くても承諾させる強い言葉。
勢いで時期尚早過ぎて変な空気になったセリフは流してしまおう。
…うん、余計に困惑しているな。
しめしめ。
混乱しつつも諾と言ったからには平伏するしかない。
すまない隆景。
機が熟したらちゃんとまた伝えるからな。
* * *
隆景率いる毛利家使節団が連絡役を残して帰還。
本拠で一門重臣と善後策を練ることだろう。
第一弾はこれで良し。
あとは経過観察を怠らないようにするのみだ。
「公方様」
「佐古か」
居室で沈思していると何時の間にかアザミちゃんが来ていた。
まだ表なので愛妾佐古の方様。
「里より報せが届きました」
そういって取り出した文を渡してくれる。
待って、今どこから出した?
背中には誰もいない、よな…いや何でもない。
報せに集中しないとネ!
えー、何々?
拝啓、公方様。
干しシイタケも石鹸も万事順調。
最近は大樹酒も軌道に乗り、綿花にも手が伸びました。
ウハウハでございます。
目下の目標は大樹酒の廉価版、仁木酒の醸成です。
左馬入道様の御加減は全てを凌駕する。
至言ですぞ!
恐々謹言
追伸
織田信長公が右大臣に上られました。
凄いね!
(超意訳)
「…これだけか?」
「それだけにございまする」
そうか…。
うん、まあ良い報せだな。
里からって何事かと思ったら、義郷君からの定例報告だった。
追伸がメインだと思うけどな?
伊賀の経営が軌道に乗っていて、大分楽しくやれているようだ。
これが彼の素なんだろうなあ。
伊賀には懸案もあるけど、伊勢の信意とは良い関係を保っていると聞く。
まあ悪い方向じゃないから良かったわ。
「それと、口伝です」
「む?」
「彩殿…いえ、安居殿が孫三郎様と邂逅。
七郎殿をお味方に説教なされたとのこと」
「お、おう」
彩が孫三郎と会った?
同行する景泰が味方したということは、孫三郎がやらかしたということ。
額面通りに受け取れば、だが。
「それから、千歳丸が御台所様に謁見したと」
ええ…っ
孫三郎のことが吹っ飛ぶパワーワードが出てきたぞっと。
「あ奴は何をやっておるのかっ」
「以心居士と称して二条御所に入ったとか」
変名…果心居士の親戚かな?
おっとアザミちゃんの声色がおかしいぞ。
これは非難か呆れか諦めか。
「一体どなたに似たものでしょう」
果心居士と称して各地に出没する私。
伊賀衆中ノ忍として影に潜み風を奔ったアザミちゃん。
紛れもなく我々二人の子だな!
なんて言いたいけど決して言ってはならぬ事実。
ぐぬぬっ
「はあ、御台に密書を送る。
孫三郎の方は…七郎に問うとするか」
「承知しました。
…ふふっ、後でお部屋に参りますね」
ぞくりとする微笑を湛えて下がる愛妾殿。
去っていく微かな足音を聞いてふと思う。
あー、これはあれだ。
遠回しに元気づけてくれた訳だ。
最近色々あったからなあ。
隆景の訪問を前に各地に人を飛ばし情報を吟味。
九州に下向する公家と会ったり武田一族に対応すべくゴローちゃんを送り出したり。
平島との擦り合わせは楽しいのだけど、長宗我部と三好の動向は毛利と深く絡む。
楽しんでばかりもいられない。
屋敷にあっては昭光を影武者要員として。
式部も外交官として常に侍らせていた。
まあ疲れもするよね。
最も付き合いの長い愛妾の心配りに癒されていると、来訪を告げる忍声が。
「(公方様、和田主膳よりの遣いが参りました)」
惟増は甲賀裏方まとめ役。
裏から来るとは、はてさて何があったかな?
別所長治
播磨三木城主。
織田勢と二年以上渡り合い、滅亡。
背後で蠢く謀略の犠牲になったらしい。
小早川隆景
備後三原城主。
毛利家の重臣にして当主の叔父。
知勇兼備の勇将ながら苦労性でもある。
佐々木義郷
伊賀府中城主。
守護職を解任されて一郡を領すのみだが殖産興業に成功。
北畠信意や織田信包とも懇意で経済的には圧勝。
仁木義政の養嗣子であり当初は遠慮があったが、振り切った。
安居景健
朝倉孫三郎。
七郎景泰と一緒に紀州を拠点に活動中。
越前への返り咲きを夢見ている。
娘に黙って後妻を迎え、子をなしていたことがバレて殴られた。
和田惟増
近江和田城主。
甲賀裏方衆まとめ役。
国人衆だが目立たず影に徹しているため、ほとんど表に出てこない。