37 傾倒★
義昭君は未だお休みです
其之二
北畠信意の侵攻に端を発した伊賀の混乱は未だ収束する気配がない。
守護の佐々木家は織田家に対し抗議。
説明を求めた。
対する織田家は佐々木家に上洛するよう求めており、折衝を続けている。
誰も納得せず、安定する見通しの立たない伊賀の諸問題。
発端たる信意は引き籠り、暗澹たる日々を送っていた。
「三郎左衛門…」
柘植保重は撤退戦の最中に討死している。
多数の重臣が消えた北畠家中は、信包の後見もあって表向き落ち着いている。
しかし信意は孤独感を深めていた。
虚栄心が強く小心な彼の感情を上手く制御し、意向を汲み取り動いていた保重。
彼の代わりとなれるような者は今のところ見つかっていない。
敗戦のショックが徐々に落ち着くにつれ、その不在が重く響いてきつつある。
信意は無意識のうちに頼るべき者、縋るべき何かを探している。
今までは保重が一人、その役割を担ってきた。
何事もなければ彼らは一蓮托生。
互いが互いを補完し合う、最高の主従となっていただろう。
しかし暗転。
信意は父から叱責を受ける。
そして討死した保重は、伊賀への無謀な侵攻を推し進めた奸臣として批判の的となった。
家臣たちは信長の息子や北畠当主を批判するのを憚り、丁度いい相手として死者に鞭打つ所業を繰り広げる。
二人三脚で歩んできた重臣を誹謗中傷の的とすることで、間接的に主君の所業を批判。
父や周囲から無能の烙印を押されたと感じた信意の気持ちは暗い闇の底に囚われているのだった。
そんな信意の下に、一人の織田家重臣が派遣されてきた。
彼の名は明智光秀。
日向守の受領名を持つ儀礼作法に通じた才人である。
「秋田城介様より良しなにと言付かっております」
半ば投げやりな気持ちで引見していると、気になる言葉が飛び出した。
信意の兄・信忠が気を遣ってくれている。
そう感じた信意は途端に機嫌がよくなり、光秀に対して鷹揚に振舞う。
「兄と会うたのか」
「は、都にて引継ぎを兼ねて少々」
気分屋ともとれる信意の有様を見て思うところのあった光秀だが、似たようなことは信長で慣れている。
やはり親子だな…などと思いながら卒なく返答。
最低限の挨拶を終わらせた。
このまま恙なく終わると思い、下がろうとすると予想もしない発言があった。
「後で少し話したい。
良いだろうか」
光秀が知る普段の信意からかけ離れたその姿。
どこか思い詰めたような、不安に揺れる瞳に何かを感じた光秀は了承。
仕事を片付けてから訪問すると約束し、陣所へ戻っていった。
「明智日向守…。
三郎左衛門の如きとなるや」
残された信意は一人呟き、再び浮き上がってきた暗い気持ちを振り払うかのように席を立つ。
この会見は北畠信意にとって岐路となる。
そう確信するのは息を潜めて耳目に徹する者たち。
彼らは己の役柄に全力を尽くし、それが今後に生きてくると確信していた。
その成否が判明するのはまだ少し後のことである。
* * *
北畠信意の居館、その一画。
庭に場を設え月見酒と洒落込もうとしていた。
「まずは一献」
「忝い」
親子ほどに年の離れた二人は淡々と酒を酌み交わす。
話したいことがあると誘った信意であるが、何と切り出したものか悩んでいる。
何せこういった相談をしたことなどない。
その様子を光秀はただ静かに見守っていた。
「…明智よ」
漸く絞り出したのはその一言。
しかも先が続かない。
本人も心苦しいのかその表情は苦い。
「…其方に、たっ、尋ねたいこと、が…ある」
やがて迷いを振り切る形で話始めた。
緊張と不安が極限まで上がったかのように上手く口が回らず、たどたどしいながらも必死に言い募る。
その様子を見ていて何とも言えない気分になった光秀。
思わず説諭したくなるのと同時に憐憫の情を覚える。
相手は主筋の若者。
養子に出た先で当主となったと言ってもまだまだ青い。
本来であれば闊達、もしくは生意気な態度が相応。
話し相手に選ばれるのは通常なら迷惑に思うだろう。
場合によっては僥倖とも。
明智光秀は秀才である前に、その根は善性。
前途明るい若者が、本気で苦しんでいるのを目の当たりにして思うことはいくらでもあった。
北畠信意は織田信長の次男。
養子先は伊勢の名門で家臣団も粒ぞろい。
織田家からも重臣が送り込まれている。
なのに話し相手に選ばれたのが、これまで縁の薄かった自分。
そこまで考えて、光秀はこの若者の相手を真摯に努めることを決意した。
(公方様の御深慮とも相違せぬしな)
織田家の重臣・明智光秀はその実、足利義昭を真の主と思い定めている。
しかし義昭から託された密命に織田家に対する背信はない。
ただ只管真っ当に働く中で、少しばかり目的に沿った動きになるというだけだ。
そして、義昭から与えられた使命の一つに、信意の心を掬い上げるというものがある。
獲ると言い換えてもいい。
ならばどのように動くのは自明の理。
(しかし、公方様は私が派遣されることを読んで…。
否、遣わされるよう仕向けたということだろうな)
「落ち着いて下され。
ゆっくりで構いませぬ。
まずは呼吸を整えなされませ」
信意に言葉をかけて落ち着かせながら、その心中では義昭へ感嘆しきりであった。
(さて。ご期待に沿うためにも今は真摯に応対しよう)
光秀は本心を己が深くに囲い持ち、織田家へ忠節を尽くす重臣として存在している。
将軍家を見限った、など心にもない嘘は言わない。
織田家に属し、旗下として力を振るった暁には天下を制する。
その力で足利家などを保護することを目的としている。
と言うことになっていた。
曲解した本音をうたい、嘘を纏わない徹底したその姿は擬態ですらない。
その姿は真実を知る者ですら惑わせる。
当人とて騙すつもりは一切ないのだから当然であろう。
そして今、彼は教養ある年長者として、迷いの中にある青年の心を救わんとしていた。
* * *
伊勢の仕置にある程度の目途を付けた光秀は、一旦近江に戻ることになった。
その前日、信意は人払いした居室に彼を呼び出した。
「日向守。其方のお陰で助かった」
「恐れ多いお言葉、勿体なく」
酒を酌み交わし、悩みを聞いて話し相手を務めてから信意は元気になった。
もう落ち込み屋敷に引き籠るような無様は晒していない。
内政に勤しみ、家臣と語らい、仲の良い兄妹らと文のやり取りもしている。
柘植保重がいた時よりも良くなったと思われる事がチラホラ。
これには北畠の重臣たちも胸を撫で下ろし、信包なども光秀に感謝の念を示したほどだ。
一度底辺に落ちた後は上がるだけ。
泣き疲れて顔を上げてみたら、色んな事が良い方に転がっていくのだ。
信意にはそう思えてならない。
変えてくれたのは言わずもがな、光秀その人。
派遣されてきた外部の人間と言うのが良かったのか、話を客観的に聞いて思うところを述べてくれた。
阿るでもなく、遜るでもない。
淡々と在るべき姿と目指すべき目標を示し、動き出すよう促してくれる。
年長者として敬い、見習うべき存在がそこにいた。
伊賀侵攻からこちら、信意の心境は目まぐるしく変化してきた。
そして今、一つの結論に達する。
「日向守、私は其方を父とも思うておる」
言われた光秀は驚いた。
確かに真摯に応対し、それなりに若者を導くことが出来たとは自負している。
しかしまさか、そこまで言われるとは想像の埒外にあった。
「それは、なんとも恐れ多いことにて…」
狼狽える光秀を見て、信意はさもありなんと深く頷く。
実の父、信長はこういったことを懇切丁寧に指導してくれるタイプではない。
養父、北畠具房はそもそも義親子としての最低限の会話すら記憶にない。
他にも年長者はいくらでもいたが、ここまでしっかりと教え導いてくれる存在はいないと断言できる。
間違いなく大きな存在だった保重ですらそこまではなかった。
信意にとって、初めて父らしい父と思えたのが光秀だったのだ。
「無論他言はせぬ。
時折でよい、助言を下されよ」
「御意」
信意は初めて父を得た心地がして、とても晴れやかな気分だった。
実父からそのような教えを受けた記憶はないのだから。
しかし光秀を信意のもとに派遣したのは信長である。
これは勿論伊勢を早急に安定させるのが目的であるが、不出来な息子の為を思っての人選なのも間違いない。
せっかちで言葉足らずなだけで実際は深い想いがあるのだ。
しかし残念ながら、そこに思い至れるほど信意は老成していなかった。
ともかく二人は今後も付き合いを続けることを約し、差し当たり文のやり取りでもしようと話してこの場を後にした。
* * *
近江の国、甲賀郡。
とある東屋。
「北畠は思いの外うまくいったようだ」
「うむ。しかし伊賀の方は今一つじゃな」
「織田の目論見は?」
「伊賀の完全制圧じゃろうて」
場に満ちる静寂。
街道から外れた山間。
壁などない、数人が腰かけると埋まってしまう程度の小さな空間。
そこに集まった行商人たちが囁くように語らっている。
彼らの生業は様々だが、根はそれぞれ伊賀や甲賀や雑賀に熊野。
山を越えることを目的とした小路は、その実彼らの抜け道でもある。
「さてさて、佐々木様はしくじったかの?」
「目論見の一端と言えなくもなかろう」
「しかし潰されれば終わりぞ」
「降服するにしても条件がな」
北畠信意の伊賀侵攻に端を発した騒動は、織田家による伊賀再侵攻という形で収める方向に定まりつつあった。
守護の佐々木家は懸命に抵抗しているが、大勢は決まったと誰もが見ている。
佐々木は信長率いる都の政権に恭順している。
それを難癖付けて攻め潰すというのは悪手である。
しかし、今の織田家は強硬策を採ることを厭わない。
クーデターを起こして現職の将軍を追放。
蜂起した石山本願寺の鎮圧。
蠢動する甲斐武田家との折衝。
南下を志す越後上杉家を食い止める方策。
将軍を抱える紀伊畠山家は安芸毛利家、相模北条家らを対織田戦線に巻き込もうと画策している。
こういった状況を覆すには、力と勢いで押し切るのが一番なのだから。
織田家が抱える戦線は播磨、但馬、摂津、丹波、丹後、河内、伊賀、越前、美濃に及ぶ。
同盟者の徳川家に援軍を送っていることを加味すれば、これに三河と遠江が含まれる。
さらに大和と伊勢、近江も伊賀のために落ち着きがない。
この中で一番小さいのが伊賀である。
伊賀を制すれば近隣は落ち着く。
その分を他に回すことが出来る。
何事も順番通りに行うのがセオリー。
「落としどころは」
「仁木右近かの」
「磔か」
「あるいは打首か」
信意の失敗で傷ついた威信は回復させなければならない。
しかしそれは、伊賀を制するだけではまだ足りない。
生贄が必要なのだ。
北畠勢を散々に打ち破った仁木義視。
彼を討ち取るか、生け捕りにするか。
落ち度のない佐々木家を取り潰すための口実になる一手。
断れば滅ぼすし、承諾すれば屈服させたと溜飲が下がる。
妙手と言えよう。
「ま、狙い通りじゃな」
「問題は討死してしまった場合だが」
「そこまで阿呆ではあるまい?」
「しかし万が一ということも…」
始まってすらない戦いの終わり方を論議する不可思議な光景。
これがどこかの城、武将たちの話し合いならばよかった。
しかしただの東屋に集う行商人の体をした者たちの口から出る違和感。
もっとも、それを感じることが出来る者はこの場に生きていないのだが。
「さて、千夜丸様の御壮健な御姿も拝見出来たし」
「何?聞き捨てならんぞ、よもや御言葉を賜ったなど言うまいな!」
「はっはっは。さ、次は都に参ろうかの」
「これ待たぬか!」
二人の影が声高く音もなく去っていく。
「公方様は紀伊におわすのか?」
「一応な」
「相変わらず腰の軽いことで」
「行くのか」
「うむ。どうやら摂津に動きがあるようでな」
「ほう。池田か?」
「さて…」
言いつつ、また影が去る。
そして山間の東屋はただ一つの影が残るのみ。
「明智日向守は北畠侍従を繋いだ。
細川兵部大輔は一色五郎と結ぶ。
佐々木左衛門佐も此度見えてこよう。
あとは斯波と武田をどうするかだが…」
「棟梁」
そこに声が降ってくる。
影は一つ。
「摂津と安芸が動いた」
「ほう、世鬼め。やりおったか」
「どこにいく?」
「源兵衛に伝えよ。
石見が三河に向かったと」
「わかった」
答えた声はそれっきり。
残りの影もゆっくりと動き出す。
動乱はまだ終わらない。
しかし、少しずつ見えてきつつあった。
傾倒とは全力で仕事にかかること。
また、特定の人や物事に熱中すること。
北畠信意にとって父とも呼べる大きな存在ができました、という話。




