36 擾乱★
義昭君は少しお休みです
其之一
将軍義昭がお忍びで伊賀に行っていたことを知る者は少ない。
南河内からは花押のついた御内書が各地に飛んでいたし、定期的に評定も開かれていた。
評定に参加する者や書状を発送する者は何食わぬ顔をし。
内々に係る者も、閨を整え夜伽を行う女衆も常と変わらぬ日々を送る。
彼らは皆、当然主君がいるという前提で過ごしていた。
そんなある日、義昭は軽い風邪にかかり、大事をとって休息すると発表された。
同時期、裏の者たちの動きが活発化。
特に河内と大和・紀伊・伊賀などで盛んに遣り取りが為されるようになる。
勘の良いものは何かあると考えて主人に報告。
さらに上司へ概略を付与して伝えたり、敢えて静観する者もいた。
数日後、義昭は姿を見せる。
下々の者にも健在だとアピールするかの如く、支配地を巡回してみせた。
これに対して様々な憶測が流れたが、実際は何のことはない。
影武者が風邪で寝込んでいた間に本人が戻ってきたので回復アピールをしてみせただけのこと。
そして元気になった義昭は次の一手を繰り出す。
織田家の軍勢が様子見で和泉に入ってきた。
これを奇禍として紀伊へ引いたのだ。
先導する畠山昭高に続き、将軍と奉公衆が粛々と入国。
義昭一行はまず和歌の浦に腰を据えた。
紀伊に入ったとは言え、河内とは目と鼻の先。
軍勢を差し向ければすぐに後詰の用を為す。
また、雑賀の荘にも近いので本願寺と繋がりの深い彼らと連携を取りやすい地の利もあった。
確かに河内であれば勢力圏とは言え対織田戦線の最前線。
忌避するのも分かるというもの。
周囲はそう納得していた。
織田家においては同様に納得もしつつ、敵軍が恐れをなして無様に撤退したことを殊更強調。
和泉に一軍を置いて河内への備えとし、摂津方面への締め付けを強めるのだった。
* * *
紀伊の国、和歌の浦。
将軍・足利義昭が雑賀衆に迎え入れられ、腰を落ち着ける風光明媚な名勝である。
紀伊国は、一時期織田の軍勢に攻め込まれたりしたものの、今は押し返して昔ながらの独立気風。
雑賀の担当者も大船に乗ったつもりでいてくれと豪語する。
義昭一行は彼らの歓待に感銘を受け、またその気概素晴らしいと絶賛。
その言葉に甘えて鷹揚に構えることにしたのだった。
「この和歌の浦は平安の頃よりうたわれる名勝。
日々のお疲れをきっと癒してくれましょう」
古くは聖武天皇のお気に入りで何度も行幸されている。
確かに良い風景で心が洗われる心地もしよう。
いつかきっと皆の者と一緒に来ると誓う義昭の姿に、近臣たちは一様に涙した。
* * *
織田家の戦線は拡大している。
その中で比較的平穏なのが伊勢と尾張だ。
尾張は織田家の本貫の地。
美濃と伊勢は既に勢力圏に繰り入れて久しく、三河も同盟者の徳川が治めていて問題はない。
三河・遠江と美濃は甲斐・信濃に勢力を持つ武田家と接しているため、小競り合いが散発。
厳しい情勢ではないにしても、必ずしも平穏とは言い難い。
特に遠江では駿河に拠点を持つ武田や北条と対峙しており、徳川家に余裕がある訳ではない。
伊勢はこれといって大義名分もなく侵略した土地。
既存の名家に信長の弟、次男、三男を養子入りさせて乗っ取り、織田家の分国という形に根付きつつある。
長島一向一揆を殲滅して以降、表立って不満を言う者はいない。
そんな伊勢の中でも特に、次男・信意が養子に入った北畠の勢力は大きい。
長野を継いだ信包、神戸に入った信孝とは比べ物にならないほどに。
先代を押し込め当主となった信意はまだ若い。
重臣たちの意見に振り回されているが、それでも問題が表面化しない程度に北畠の家は大きかった。
伊勢に領地を持つ者たちは、織田家の軍勢において遊撃隊を担うことが多い。
現に神戸信孝は既に信長や信忠の一手として、摂津や播磨に従軍している。
今のところ北畠信意は伊勢の抑えを仰せつかり、居城に留まっていた。
信長はこのところ拡大傾向にある戦線に頭を悩ませていた。
そこで一つの戦術を思い付く。
播磨と摂津の間に楔を打ち込み、両者を分断し連携出来ないようにするというもの。
しかし現状、あまり軍勢に余裕はない。
どこかに動かせる一手は…と版図を見渡し、一つの勢力を見つけた。
即ち、北畠信意である。
この時点では信意の派兵は決定していない。
ただ周囲に意見を求め、一考の余地はあるとの判断に至っていた。
伊勢は平穏であるとはいえ、それは一定のまとまった力がそこにあるからともいえる。
これを動かして、あるいは伊賀や近江などが揺らぐのは困る…。
信長は未だ、深い悩みの中にあった。
* *
織田家の家臣に浅井政貞という者がいる。
尾張に根を持つ武将で、見聞きしたことのみを伝えることが出来る実直な人間だった。
そんな政貞を信長は評価し、各地への使者を頼むことも多かった。
政貞は信忠に従い都にあったが、所用があり信長の元へ赴いた。
その時の信長は悩んでいる真っ最中で、どこに妙案が潜んでいるかもと目下検討中のことを彼にも尋ねた。
元より政貞は武骨な一武将。
妙案がある訳でもなく、しかし家中にあって戦の備えは常にしておくべきと回答した。
信長はもっともであると破顔一笑。
そのことを尾張や伊勢の諸将にも伝えておくように、と言って下がらせた。
政貞は実直な人間である。
主命であると解釈して尾張・伊勢の諸将に自ら足を運び、その言葉を伝えて回った。
役目を果たした政貞は信忠の元へ戻り、再び常の任に立ち返る。
別段特筆すべきこともない、織田家に仕える武骨で実直な侍の一コマでしかない。
しかしこれが波紋を呼ぶことになる。
* * *
伊勢国、北畠当主の信意は私室で考えていた。
内容は先日やってきた浅井政貞から聞いた信長の考え。
常に戦時に備えておくべし。
なるほど、もっともである。
しかし何故その伝達に至ったかが問題だった。
北畠の軍勢を摂津、ないし播磨に差し向ける。
まだ本決まりではないようだが、あの父の事。
遠からず用命があるだろう。
先の備えよという言葉もそれを後押しする。
まず、間違いなく自分は播磨くんだりに赴かなければならない。
ハッキリ言って面倒だ。
伊勢が落ち着いているとは言うが、それは北畠のゴタゴタが漸く片付いてきたから。
幾多の北畠に所縁のある武将たちを粛清した。
それはそのまま国力の低下に繋がる。
自分の権威が上がるのはいいが、家の力が下がるのは困る。
どうにかしなければ…。
「誰か、柘植三郎左衛門をこれへ」
そうして信意に呼び出されたのは重用さている柘植保重。
伊賀の出身で、野心はあるが異心はない。
心利きたるこの男は中々に使い勝手が良かった。
また、伊賀出身で忍びに対する理解がありつつも自身が忍びでないのも都合が良かった。
服部半蔵などと似て非なる立ち位置。
網に掛けるに適した存在。
などと義昭たちから評価されているとは露程も思わず、保重は信意の前にやってきた。
「御本所様、お呼びとか」
「うむ。早速だが相談したいことがある」
信意と保重は信長からの指示と今後の見通しを語り合う。
彼らの小姓と近侍以外にも耳目があると気付かぬままに。
「(柘植は三介の意向を汲み取っておるな)」
「(判り易くはあるが、凡人には出来ぬ真似よな)」
「(上手く誘導し、奴の思惑と合致したようじゃ)」
伊賀衆と甲賀衆の得意。
上忍と一部の中ノ忍しか扱えない忍声。
忍びの何たるかを知る保重をして認知し得ぬ妙技。
場に溶け込む彼らは小者であり庭師であり、時にネズミでもある。
「(柘植は優秀じゃな)」
「(棟梁の意向は)」
「(始末せよと)」
耳目たちは情報を交換・共有し、連なる者らに指示を出す。
そうして潜んだまま常に最新の情報を得ているのだ。
「(そういえば公方様が果心殿となったとか)」
「(なんじゃそれは)」
「(言葉の通りじゃが、全く不思議なお人じゃて)」
雑談レベルの内容であろうと共有させる。
彼らの領袖からの下命。
どんな些細なことでも耳に入れるのが耳目の役割なのは事実。
そして適度な息抜きも兼ねている。
「(果心居士と称し、伊賀に忍んだそうじゃ)」
「(宇野殿が勧めたとか)」
「(千歳丸様は先が楽しみじゃのう)」
耳目たちの無駄話に花が咲く。
それは一見、全く関係ないことにも見える。
「(であればやはり柘植、そして植田)」
「(うむ。今宵ワシは木造に向かう)」
「(承知した)」
しかし全て回りまわって帰結する。
主君の意向を踏まえた保重が献策し、信意の心が傾くことを見て取る耳目。
保重にとって大事なのは北畠の家を保ち、その中で己が栄達すること。
だから北畠が織田の分家であろうと、大殿の信長が何を思おうと関係ない。
柘植の主君は北畠信意。
虚栄心が強くて小心者。
万人受けはしないであろう若者を上手く制御し、心安らかに過ごして欲しいと努力する。
有能な忠臣なのである。
小心者な信意にとって、親身に献策してくれる重臣は父とも兄とも頼む存在。
実の父は遠い存在。
兄は優しいがやはり遠い。
自然、柘植保重へ傾倒していくのは仕方がないことだった。
「よし、三郎左衛門の案を採用する」
「はっ、万事この三郎左衛門にお任せ下され」
麗しき主従愛は取り立てて崩すべきものではない。
しかし今は戦国乱世。
弱点は突かれる運命にある。
保重は誰にも唆されていない。
主君の意向に沿いつつ、織田家の不利益にならない様に考えた。
ただ、そう考えるように誘導されたというだけの話。
一人の有能な家臣に対して寄って集っての口裏合わせ。
伊賀出身という地の利、地縁も生かした。
生かしてしまった。
「御本所様の命である。
伊賀へ出兵する。戦の準備を」
筆頭家老とも言える権力を有する保重の命令。
快く思わない者も多数いるが、しかし伊賀侵攻の内容自体に不満を言う者は少ない。
隣国伊賀を平定すれば間違いなく織田家の為になる。
しかも、今の伊賀は昔のような群雄割拠の国ではない。
守護の佐々木に実権はなく、腕利きは外に出て将軍義昭と共に河内へ去った。
伊勢から本気で侵攻すれば平定するのも夢ではないと、多くの者が思っていた。
伊賀の情勢は柘植や福地から適宜入ってくる。
間違いはあるまい。
ならばここは柘植への不満を飲み込み、勝ち馬に乗るべし。
伊賀出兵を知れば確実に反対するであろう織田信包や周囲へは目的が漏れることなく、北畠家中は戦支度を進めていった。
表向き、戦への備えは信長の意向と相反しない。
だから信包や周辺の諸将も余り不思議には思わなかった。
これが悲劇に繋がる。
全てを知るのは手遅れになってから…。
* * *
天正伊賀の擾乱。
後の世にそう呼ばれることになる大戦。
それは北畠信意による、突然の伊賀侵攻から始まった。
この頃の伊勢と伊賀は、特に敵対する関係にはない。
伊勢は織田家の分国であり落ち着いている。
伊賀守護の佐々木家は将軍義昭に近い存在ながら、クーデター後も織田家との対決姿勢を表してはいなかった。
そんな佐々木家にとり、突然の侵攻劇は寝耳に水。
当初は中々有効な手立てを打つことが出来なかった。
そのお陰もあって、北畠軍は破竹の勢いで進撃。
早々に伊賀四郡のうち三郡の過半を制するに至る。
しかし状況を把握し態勢を立て直した佐々木家は、仁木義視を大将に反転攻勢。
伊賀在地領主の協力を得て北畠勢を各地で撃破していく。
業を煮やした北畠軍は、柘植保重を主将とする大軍を派遣。
仁木義視の伊賀軍と柏原にて対峙し戦端を開く。
当初こそ伊賀衆に苦戦を強いられるものの、後詰の北畠信意が押し出して来るや盛り返し、一進一退の戦いを繰り広げる。
そこに佐々木義郷率いる軍勢が到着すると、戦況は徐々に伊賀側へと傾いていった。
伊賀勢はさらに遊撃隊の百地正西が参戦。
北畠軍の後方を攪乱すると、退路が断たれる危機感を覚えた信意の戦意が急速に萎んでいく。
これを敏感に察知した柘植保重は撤退を進言。
渋る主君を説得し自らは殿を引き受ける。
「きっと生きて帰るのだぞ!」
「御意。皆、御本所様を安全な所へ」
柘植軍が佐々木軍の攻勢を持ち堪えている間に北畠信意は撤退。
横合いから義視が率いる伊賀衆が抜け出し、北畠本隊を執拗に狙い撃つ。
やがて柘植軍が堪え切れず決壊。
保重は必死に信意の元へ急ぐが、柘植軍決壊の影響は本隊にも波及する。
遂には柘植保重が討死。
他にも多数の北畠家臣が信意を庇って討死していく。
最早北畠勢は軍勢の体を為しておらず、完全に敗走へと移った。
「何故、このようなことにっ」
遠くへの外征を嫌い、近くの平定を狙った今回の出兵。
献策したのは柘植保重だが信意の意向を踏まえたものであることは間違いなく、決めたのも己である。
それを認めたくなくて、保重の無事を願いながら必死に伊勢へ向かって駆けに駆ける。
その時ふと、視界の端に光るものをとらえた。
「!!」
瞬間、足が縺れて無様に転ぶ。
近臣たちが何か言いたそうにしたその刹那、大きな破裂音と共に今度は彼らが地に伏した。
「悪運は強いようだ」
硝煙の香りと共に、聞きなれない、しかし恐怖を煽る言葉が飛んでくる。
「だ、誰か。奴を討てっ」
確かに言葉を発したはずだが、果たして誰も動かない。
何故だ。
「残念ながら死人は動かぬ。
柘植も植田に討たれた。
あとは御本所、お主のみ」
鉄の筒が信意の眉間に照準を合わせられる。
意味が分からない。
一体何がどうなっているのか。
「…む」
何がどうなっているのか、どうなったのかは分からない。
しかしどうやら信意は助かったらしいとぼんやり思う。
「ご無事か三介殿!」
目の前には鉄の筒などなく、よく見知った叔父の顔がある。
そして間もなく殴れらたらしい。
北畠信意の伊賀侵攻を知った時、織田信包は一瞬訳が分からなかった。
そのような命令は聞いていない。
伊賀も伊勢も平穏そのものなのに、敢えて攻め入るなど言語道断。
青天の霹靂も良い所だ。
驚愕し、愕然とし、次いで激怒した。
「あの愚鈍めが!」
そう吐き捨てると早急に軍備を整え、信意の侵攻口に沿って伊賀へ急行。
心情的には放置したいが、立場上捨て置く訳にはいかない。
情報を集めてみると、何と既に敗北したと。
しかもズタボロにやられて敗走しているという。
ここで信意に討死でもされようものなら織田家の威信は地に落ちる。
伊勢に所領を持つ諸将は無能の烙印を押されてしまう。
急ぎに急いだ結果、何とか信意を拾うことに成功した信包だったが、余りの惨状に思わずその場で甥を殴ってしまった。
昏倒したが、まあ都合がよかろうと戸板に乗せて搬出。
かくして北畠信意による伊賀侵攻は失敗に終わり、あわや討死の危機すらある始末。
ギリギリのところで織田信包の救援が間に合い一命を取り留めた。
今回の敗北は北畠家中にとって、柘植をはじめ重臣を多数失う手痛いものとなった。
さらには織田家の威信すら低下させてしまうのだった。
報告を受けた信長は激怒し折檻状を送り付ける。
この中で信意の最大の失態は、信包に何の相談もなく独断で侵攻を決めたことにあるとされた。
そして信包を正式に信意の後見人とすることを決定。
今後は何事も信包へ相談するよう命じ、その権限に大きな制限をかけたのだった。
* * *
「以上が顛末にござる」
「ご苦労」
耳目を通じて収集した情報は頭の元に集約される。
それは精査を経て、主と仰ぐ相手に報告されることになる。
「ふむ、伊勢に明智殿が派遣されるか」
「どうやら三十郎だけでは心許ないと判断されたようですな」
「三介殿の後始末の手伝いとはまた…」
報告者が目と声色で笑う。
信長の覚え目出度き明智光秀。
元を辿れば将軍義昭の側近でもあった彼だが、今は織田家に出仕して出世頭となっている。
失態を晒した次男の尻拭いを頼むほど評価されていると言えば聞こえはいいが…。
「ま、事は順調と言えよう。
されど油断はすまいぞ」
「承知」
「果心殿のためにも、ですな」
今度は皆声を出して笑う。
一つの事件が終わり、終わったならば次の事案に取り掛からねばならない。
その合間、一時を互いに労いあう。
伊賀を巡る乱は終わっていない。
北畠信意による侵攻は失敗したが、織田家としてはこのまま終われない。
すぐには無理でも挽回できるまで終わる訳にはいかなかった。
「伊賀は成った。次は甲賀だ」
しかし今この場にいる彼らの仕事は一段落。
引き続き頑張る同胞も彼らが受け持つ仕事に誇りを持つ。
他人が口を出すことではない。
そして全体を見通す仕事はまた別の彼らが…。
「さて、甲賀に参ろうか」
そう言って一人は背負子に大荷物を積み直す。
「千夜丸様にお目にかかれると良いのう」
もう一人は呟いて荷車を引いて別々の方向へと歩き出す。
既に次の仕事は始まっている。
残った一人は手元を眺めて黄昏れた。
「贄となりし者らよ、安堵せよ。
全て無駄なく血となり肉となる。
我らに任せ、安らかに眠るが良い」
動乱はまだ終わらない。
擾乱とは安寧を破り見出し騒がす様子。
北畠信意にとって柘植保重という人が如何に大切な存在であったのか、という話。