00 黒幕★
史実及び通説は概ね承知しております。
備後の国、鞆の浦。
亡命将軍の仮御所として設えられた御座所。
そこに一人の武将が現れた。
「小早川左衛門佐、仰せにより罷り越しましてござります」
武将の名は小早川隆景。
隣国、安芸の国に拠点を置く毛利家一門にして重鎮。
山陽道を受け持つ指揮官でもある。
「大儀である。おもてを上げよ」
下座に控えた隆景に対し、上座にあるのは一人の貴人。
室町幕府の第十五代将軍・足利義昭である。
彼が現職の将軍でありながら都を離れ、毛利家に身を寄せているのは訳がある。
それは畿内を牛耳る織田家との確執が故。
織田家と対立の果てに都を追い出され、捲土重来を期するがためだと目されていた。
そして毛利家は下克上を成し遂げた戦国大名。
徐々に勢力を広げてきたところに転がり込んできた玉。
大名が将軍を戴くことは権威付けに覿面であり、当然の如く毛利家は将軍の為に働いていると周囲に認識されるに至る。
「して、此度は何か重要なお下知があるとか」
隆景は挨拶もそこそこに本題へと入る。
戴いているとはいえ、所詮は流浪の将軍。
あまり時間を割いてもいられない。
なにせ彼は多忙の身。
若年の毛利家当主の補佐をしながら山陽道を一手に引き受け、水軍衆を指揮しつつ毛利家全体の軍略をも任せられていた。
中国地方に覇を唱える毛利家は今、畿内を制した織田家と敵対関係にある。
その発端となったのは隆景の目の前にいる現職将軍であるが…。
「うむ。ここは端的に言おう。羽柴筑前守との和睦交渉を今すぐ停止せよ」
「は?」
そこそこ優秀との評ではあるが、所詮は排斥される程度と軽く考えていたのは否めない。
妙な下知だったら困るなどと失礼なことを思っていたことも吹っ飛ぶ衝撃。
常に冷静沈着を心掛ける隆景だったが、あまりに思いがけない言葉を受けて固まってしまう。
「隠すな。責めてる訳ではない。お主らが水面下で動くのは当然のことと承知もしておる」
「あ、いえ。その…」
衝撃的な内容に、未だ頭が追い付かない。
隆景の混乱を置いて話は進む。
「筑前守、あれはいかん。知れば知るほど弾正忠が可愛く思えてくるわ」
羽柴秀吉。
織田家における播磨方面担当の武将で、外様衆ながらも躍進が凄まじい。
既に播磨から備前、備中へと手を伸ばしつつあり、毛利家との全面対決も時間の問題とされている。
隆景ら毛利家臣の一部は秀吉と水面下で接触しており、そのことを言っているものと思われた。
「さらに言えば、高松の清水長左衛門を見捨てるような真似も許さぬ」
「はて、長左衛門が何か?」
しかし備中高松城主・清水宗治。
確かに織田家との対決は備中国、その周辺で行われるであろうとは予測されていた。
もとより隆景はじめ、毛利家としては宗治を見捨てるつもりなどは毛頭ない。
そのため義昭が何を言いたいかがイマイチ見えず、困惑は増すばかり。
「まあ清水は良い。しかし羽柴との和睦交渉はすぐにでも、必ずや中止せよ。良いな!」
「は、ははー!」
有無を言わせぬ強い言葉。
交渉することに理解を示しつつも中止を指示するその意図は?
水面下の動きを知られていた驚きとともに、あまりにも強い表現に困惑の度合いが増すばかり。
しかし将軍として戴いている以上、その下知に背くわけにもいかない。
隆景は内心首をひねりながら平伏するのだった。
* * *
時は進み、備中国の高松城周辺。
「まさか、あの時言っていた長左衛門がことは、これを予見していたというのか」
「如何した左衛門佐」
「あ、これは兄上。いえ、少し前に公方様が…」
隆景は水浸しになった高松城下を眺めつつ嘆息していた。
黄昏れるような彼の様子が気になったのか、兄・吉川元春が声をかけた。
それに対して己の考えをまとめるかの如く語った隆景。
以前、突然織田方の秀吉との和睦交渉停止を命じられたこと。
無論これはあくまで水面下のことで、表に出るか否かは最終局面まで分からない類のもの。
何故それを備後に座する将軍が知っていたのか。
しかもわざわざ呼び出してまで止めさせたのか。
義昭が織田信長と対立して備後まで流れてきたのは周知の事実。
将軍を戴く損得を考えて織田家との対決に踏み切ったが、一抹の不安もあった。
何せあの将軍義昭である。
伊賀衆を抱え、守護家や公家衆に未だ大きな影響力を保持する現職将軍の権威は実に魅力的。
そのような義昭が何故、信長と対立したとはいえ備後の国まで流れてきたのかという疑問。
やはり当時覚えた不安は事実であったということか。
隆景はそう結論付けざるを得なかった。
「つまり公方様は織田家の伸張を先見の上で羽柴筑前守は信用できず、清水長左衛門の見事な忠節は必須であると申された?」
「ええ、織田家が備前を制する前の話です」
元春の表情は驚きに満ちており、隆景もそれは仕方がないと思っている。
足利義昭が将軍となれたのは間違いなく織田信長のお陰である。
多少中央の趨勢を知る者ならば誰もが知る、疑いようのない事実。
一方、地方においては事実無根とも思える様々な噂や憶測が飛び交っていた。
曰く、伊賀衆や甲賀衆、雑賀衆などといった草の者の束ねである。
曰く、側室は伊賀に連なる者であり、内情を外部に漏らしたことがない。
曰く、貴人らしい振る舞いで血統を重んじるも、それでいて身分に拘らない姿勢を持つ。
曰く、没落寸前の大名家を救い、再び返り咲かせる再生の名人である。
などなど、他にも真偽不明で意味もよく分からないものまで様々である。
当然のこと大名、武将たちは所詮は噂であると話し半分以下程度にしか認識していなかった。
「ですが、この様を見ればやはり」
「噂の大半は事実であったと、そういうことか」
「こちらにおられましたか左衛門佐様。それに駿河守様も」
兄弟二人で話していると、別の声が混ざる。
「恵瓊か」
隆景が応じる。
「たった今、将軍家より使者が参りましたぞ」
「何!?」
呼びに来た安国寺恵瓊が嫌いな元春は敢えて無視していたが、その内容に思わず大声をあげてしまう。
たった今、話していた渦中の人物からの遣い。
元春ならずとも気になってしまうのは仕方のないことだろう。
「分かった。参りましょう、兄上」
「うむ、恵瓊。案内を」
「御意」
隆景に促された元春はすぐさま切り替えて厳しい表情を作る。
二人の兄弟は恵瓊に先導されながら、面倒ごとが起こるのだと感じていた。
その予感は残念ながら当たることとなる。
* * *
「上意にござる」
使者としてやってきたのは一色藤長。
義昭の側衆の一人である。
官位の上下によらず、使者として丁重な行動を心掛ける藤長に感心する者も多い。
藤長は毛利家の面々に与えられた席から挨拶をした上で、将軍の意向を伝えるために上座へ立った。
「承ります」
当主代理として元春と隆景が受け、後方に毛利家臣らが並ぶ。
恵瓊は毛利家の使僧であり立会人として臨んでいる。
「第一、織田方との交渉においてはいかなる譲歩も不要」
「第二、高松城の将兵は一人たりとも見捨てることなく、必ず助けること」
「第三、いつでも追撃戦に移れるよう、準備を怠るべからず」
伝達途中であるため誰も声を発しないが、思わず身じろぎした衣擦れの音がざわめく。
「最後、前右府が中国路を踏むことはない。よって以上三件、もれなく全うすべし」
以上であると藤長が読み終え、一礼して元の席に戻る。
直後、爆発したかのように座が騒然としだした。
「静まれッ」
数瞬の後、我に返った元春が場を一喝。
それでもざわざわと静寂が戻ることはない。
「ご使者殿。質問してもよろしゅうござるか」
「左衛門佐殿、何なりと」
周囲のざわめきを敢えて無視し、隆景が藤長に対して気になることを述べる。
「まず、織田殿がこの地を踏むことはないとは、一体どのような事でござろう」
「言葉通りにござる。公方様のお味方は各地におり申す故」
「それでは分からん。具体的にお教え頂けねば、こちらも動けぬ」
藤長の返答が気に食わなかったのか、やや乱暴に元春が追及した。
「明智日向守殿、細川兵部大輔殿。いずれも昵懇の衆。他にも武田、佐々木、斯波などもおり申すなあ」
元春の態度を気にすることなく、藤長は淡々と答える。
それは織田家中に将軍に心を寄せる者がいるというもの。
つまりその中の誰かが、あるいは全員が結託して織田家を食い破るということだろうか。
これに気付いた者らは思わず身震いした。
「仮に明智や細川らが織田殿を討ったとして、後が続くと?」
「それ故の第三条、追撃への備えを怠るべからずではないでしょうか」
隆景の疑念に応える藤長の言。
それにハッと気付かされる者多数。
元春はそれを苦々しく感じつつ、さらに問う。
「突発的な軍事行動が上手く行くとは思えぬがの」
イライラする余り、問うというより吐き捨てるような口調になってしまった。
内心しまったと思うが藤長は至って平静。
このやり取りを見た者は、流石は流れ公方に従って紀伊から備後まで下向し、そのうえ各地に赴く使者を務めるだけのことはあると感心してしまう。
「あまり詳細を語ると謀にならないのですが…」
一部の者は場が呑まれかけていると気付くも既に遅し。
若干苦笑しつつ、藤長により決定打となる一撃が放たれた。
「決行の時は、既に決まっており申す」
* * *
本能寺の変。
後にそう呼ばれる事変は起こるべくして起きたと言われている。
「決起は予定通り明智殿。細川殿と三好殿協力のもと、前右府と徳川三河守が討たれ、中将殿も無事に」
備後国鞆の浦、仮御所で報告を聞くのは将軍・義昭。
「大儀。他は?」
「大隅守殿は降服。三七殿は大坂にて七兵衛殿により討たれ、三介殿は安土を接収したと」
「やはり荒れておるな。守護らは」
「武田が若狭を、安宅が越前、近江は京極が入りました。また、佐々木は伊賀にて司令塔となっております」
淡々と紡がれる会話は計画との齟齬を確認する単純作業を連想させる。
その内容は、このうえなく物騒だというのに。
「太閤殿と関白殿は?」
「万事恙なく。特に太閤殿は、良しなにと」
「重畳」
「すべては公方様の御威光の賜物かと」
「ふふっ、阿諛追従も達者たれば一芸よの」
さらりと流された不穏なセリフ。
太閤とは関白を辞した近衛前久を指し、彼は朝廷内において未だ大きな影響力を保持している。
「さて源兵衛。この後は分かっておるな?」
「御意にございます」
「悪逆の前右府と一味同心する者らを討ち果たし、ようやく公方様が上洛なされるのですね」
源兵衛と呼ばれた者の隣にいつの間にかいた女性。
彼女が紡ぐ言葉はただの確認に過ぎない。
「佐古殿。表に出るのは少々」
源兵衛と呼ばれた報告者が苦言を呈すもどこ吹く風。
どうやら本来表に出てくる立場の者ではないらしい。
「わたくしは公方様の隣にあるよう定められた者。動くとあらば…」
「分かっておる。だから今しばし控えておれ」
義昭から窘められようやく後ろに下がる佐古殿と呼ばれた女性。
彼女は義昭の側室であり、事実この場にあるのは相応しくない。
「まあ気持ちはわかるがな」
不満さを隠そうともしない佐古に苦笑を一つ零し、義昭は下知を発する。
「では仕上げといこう。いざ、羽柴と黒田の策を打ち破れ!」
「御意。しからば御免!」
そう言うや源兵衛は疾風のように去って行く。
残された義昭は、その姿を満足そうに眺めていた。
* * *
足利義昭上洛。
この時をもって室町幕府再興がなされた。
そう解する者もいれば、そもそも崩壊してないとする者もいる。
いずれにしろ、義昭が幕府中興の祖であるとの評価に異論はない。
強いて挙げるとすれば、義昭の幕府とそれ以前の幕府は別物だと唱える者がいるくらいか。
織田がつき、羽柴がこねた天下餅。
最後に食すは足利義昭。
このような狂歌がうたわれるほど、評価は極まっている。
戦国の世。
足利幕府の力は衰え、確かに新しい時代の足音が聞こえていた。
流れに乗り、古きを砕き新しきを切り拓いたのは間違いなく織田信長である。
信長が見出し、出世街道を直走った羽柴秀吉。
しかし二人は道半ばで倒れる。
妙な策を弄さねば、あるいは黒田の甘言に乗らねば或いは…。
などと惜しむ声も時折聞こえてくるが時すでに遅し。
後を引き継いだのは足利義昭。
革新的すぎることは穏やかに、性急すぎる動きは緩やかに。
過渡期に起こる様々な問題を解決に導いた。
それは義昭の手腕が見事だったという事実は当然あるが、信長や秀吉のやり方をじっくり見た上での行動なのは間違いない。
一通り流して見ると義昭の一人勝ちである。
信長を利用し、秀吉を踏み潰して新しい時代へ到達した。
全ては義昭の掌の上。
つまり、戦国の風雲児・織田信長を滅ぼした黒幕は足利義昭なのである。
* * *
「思えば遠くに来たものだ」
将軍の居城、二条城から空を見上げて呟く義昭。
傍らに侍るのはお気に入りの側室、佐古の方。
「公方様を信じてついてきてよかったと思います」
「其方には随分と助けられた。当初なんぞは、中々」
「それは禁句にございますよ」
「おっと余としたことが。まあ続きは睦み事にて、な」
佐古の肩を抱いて過去に思いを馳せる義昭。
私的な空間とは言え、男女の接触は避けるべきとされる時代。
義昭の行動はとても保守的とは思えない。
佐古も若干頬を染めるに留まり嫌がる素振りは見せていない。
実は意外と突飛な言動が多い義昭。
当初は周囲に良く思われなかった過剰なスキンシップも、続けていくうちに広まりを見せている。
時代は明らかに変わりつつあった。
彼らが見据えるものは未来。
しかし大本は過去にある。
黒幕となった軌跡とはいったい、どのようなものだろうか。
今も研究が続いている。
完。