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私の頭は便器に突っ込むには少し大きすぎる  作者: アキーヌ・ササファソー
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第6話 地球の片隅で起こったこと

その夜、よりにもよってポテトチップスの袋に手を突っ込んだ瞬間に二遊間から電話がかかってきた。僕はきちんとティッシュで指を拭いてからケータイを手に取った。

「それで、あのあとどうなった? 香川さんは教室に戻ってきたのか?」

二遊間が言った。その声はこれ以上ないほど緊張していた。そういえば、彼はまだ香川さんからのラブレターが本物だと信じていることを僕は思い出した。

僕はなるべく落ち込んでいないふりを装いながら、ラブレターがワナだったことと、朝川運子のいじめ問題を解決するように香川さんから依頼されたことを説明した。

成功すれば香川さんとデートできるという契約については黙っていようかとも思ったが、けっきょく全部話した。隠しごとなど一切しないのが、親友というものだ。

「そっか、それは残念だったな」

二遊間の声はまるでお悔やみを言っているときのようだった。それ以上ラブレターについて話すと僕の傷口を広げると思ったのか、二遊間は急いで話題を変えた。

「折野先輩の件だけど、説得することは充分可能だと思う。野球部では仲よくさせてもらってるし、あの人は普段から後輩のいろんな相談に乗ってるから、いじめの仲裁くらいお手のものなんじゃないか。1度話してみるよ」

「それはよかった」僕はほっと胸をなでおろした。ディズニーランドに向けて、とりあえず第一関門突破だ。

「ところで、鬼頭由梨花って、健四朗が前に綺麗だって騒いでた女じゃなかったっけ? 俺はまったくどういう人か知らないけど」

二遊間が言った。彼は鬼頭由梨花に心を奪われていない数少ない生徒のひとりだった。長いあいだAKBを『秋田のばばあ』の略だと思っていたほどのアイドル音痴でもある。

「そうだよ。鬼頭先輩がいじめをするなんて、ある意味香川さんにふられたことよりもショックだ」僕は言った。

本気で言ったつもりなのに、二遊間は冗談と取ったのかなぜか軽く笑い声を漏らした。

「2回同時に失恋したようなもんだな。俺は女なんてぜんぜん興味ないけど。もちろん、男にもな。毎日野球ボールを追いかけていられれば、それでいい。」

二遊間は言った。彼のように異性のことを割り切って生きられたらたしかに楽だろうな、と僕は思った。


二遊間はゴロをさばくのも速いが、行動も早い。翌日の午前中にはさっそく3年生の教室に出向き、放課後折野先輩と会う約束を取りつけて帰ってきた。その日は休養日ということで、野球部の練習はめずらしく休みになっていた。

「健四朗も一緒に来てくれよ。その方が俺が又聞きの内容を伝えるより、切迫感あると思うし」

二遊間がそう言うので、僕ものこのこついていくことになった。知らない3年生に会うのはそれなりに恐ろしくはあったが、ディズニーランドにはかえられない。

放課後になると、僕たちは急いで折野先輩に指定されたカフェに向かった。店名は、『地球のかたすみ』だ。その店は大通りに面していたので何度も前を通ったことがあったが、中学生が入るには少し大人っぽすぎる雰囲気があったので、僕は1度も中に入ったことがなかった。

しかし、実際に入ってみるとかなりくつろげそうな空間だった。木製の床からはとてもいい匂いが立ち上っていたし、照明はほどよく薄暗く、壁紙の色合いも落ちつきがある。カウンターは狭いが、その分テーブル席が広くゆったり取られていた。BGMとして、90年代のJ・POP が流れている。

玄関の傘立ての隣に山高帽をかぶった木彫りのキリンが立っている以外にはそれほど目立ったオブジェはないが、壁に飾られたピカソ風の絵画が圧倒的な存在感を放っている。ただし、作者名を見るとピカソではなく日本人画家の作品だった。

店内はがらりとしていて、客といえば難しい顔つきで新聞を読んでいるおじさんと、アフタヌーンティーを楽しむ3人のマダムがいるだけだった。

僕たちは他の客から離れた奥のテーブル席に座った。チョビひげをはやした青年のウェイターがやってきて注文をたずねた。メニューを見るとレストラン並に豊富な料理がならんでいたが、僕たちは食事が目的ではない。二遊間はアイスミルクティーを頼み、僕は『手搾り』オレンジジュースを頼んだ。

飲み物がやってくるのと同時に、折野先輩が店に入ってきた。さわやかな笑顔が特徴的な、よく日焼けした学生だった。さすがキャッチャーをやっているだけあって、かなりガタイがいい。制服とシャツのあいだにまだ何か着ているのではないかと思えるほどしっかり筋肉がついている。

折野先輩は店の常連なのか、ウェイターに親しげに挨拶したあとブレンドコーヒーを注文し、僕たちの向かいの席に座った。

「貴重な休みなのに、わざわざ来てもらってすみません。こっちが親友の庭崎健四朗です」

「どうぞよろしく」

二遊間が僕を紹介すると、折野先輩が当然のように手を差し出してきた。握り潰されるんじゃないかと心配になるほど大きな手だったが、もちろん危害を加えられることなく友好的に握手は終了した。

初対面で緊張している僕とは違い、まっすぐにこちらを見る彼の顔つきには余裕と自分のカリスマ性に対する自信が窺えた。さすがにあの厳しい野球部の監督から絶対の信頼を得ているだけのことはある。

彼は生まれながらのキャプテン気質で、野球部内だけではなく学内のあらゆる場面で強力なキャプテンシーを発揮し、他の生徒たちを引っ張っていた。生徒会には所属していなかったが、イベントごとがあると必ず『お祭り男』として誰よりも積極的に活動を盛り上げ、生徒たちを一致団結させていた。

5人兄弟の長男というだけあってかなり面倒見がよく、寺の僧侶並みにひっきりなしに誰かの相談に乗っていた。特に有益なアドバイスをするわけではないが、彼のさわやかな笑顔とポジティブ・シンキングを見ていると相談者たちは不思議と悩みごとがどうでもよくなってくるらしい。

課外活動にも積極的で、定期的に仲間たちと河川敷周辺のゴミ拾いをやっていた。優等生がボランティアをやるとどうしても点数取りに思えてしまうが、彼の活動はいい意味でゲーム感覚なので、周りに自然と生徒が集まってくる。見るからにチャラい格好の学生たちの集団が一生懸命にゴミ拾いに精を出している姿は、なかなか壮観だ。

しかし、彼が学内で名を知られている最大の理由は『お祭り男』だからではなく、バンド活動をやっているからだった。彼は学内屈指の人気バンド、『残尿感』のドラマーだった。

野球部でも攻守の要として活躍してはいるが、それよりはるかに折野先輩のドラミングはレベルが高く、一部では中学生にしてすでにプロ並みの技術だと評価されていた。

残念ながら女子生徒の人気はイケメンのボーカル&ギター、柊谷巧也(ひいらぎたにたくや)にほぼ集中していたが、それでも折野先輩には男子生徒を中心にたくさんの『信者』がいた。『残尿感』のライヴはあまりにも人気がありすぎて毎回生徒たちが殺到するので、学校側が安全面を懸念し、去年など文化祭でのライヴ開催自体が危ぶまれたくらいだ(最終的には、『モッシュやダイブなどの危険行為をはたらいた生徒は即停学にする』という条件で実施された)。

そして、バンド内でもやはり折野先輩はリーダーとしてすべての活動を引っ張っていく立場にあった。1年生のほとんどはまだ『残尿感』のライヴを見たことがないが、どこかしらで彼らの伝説は耳にしている。たしかに、折野中彦のカリスマ性は鬼頭由梨花に勝るとも劣らないといえるかもしれない。

「それにしても、涼助が俺に相談ごとがあるってかなりめずらしいよな。やっぱり、アレか? 好きな子でもできたんだろ?」

折野先輩がコーヒーにひと口軽く口をつけてから言った。一瞬誰の話かと思ったが、そういえば二遊間の本名は涼助だった。あとで二遊間に聞いた話では、折野先輩は基本的に知り合いを下の名前で呼ぶ主義を持っているらしい。

「女に興味なんてないっす。それに、たとえ好きな子ができたとしても、先輩に相談するくらいなら女心がわかりそうなオランウータンを見つけて相談した方がマシです」

二遊間が言った。生意気な言い方に思わずどきりとしたが、折野先輩は機嫌を損ねるどころか、むしろ満足気にニヤニヤ笑っていた。どうやら、2人が仲がいいというのは本当らしい。

「冗談はおいといて、先輩に頼みがあるんです」

二遊間は時間をムダにせず、さっそく本題に入った。朝川運子が旧校舎で3年の女子生徒たちから激しいいじめを受けていること、ある女子生徒からいじめを止めてほしいと依頼されたこと(個人情報保護の観点から名前は伏せさせて頂いております)、学校のカリスマである折野先輩ならきっといじめを何とかできると依頼者の女子生徒が期待していること。

折野先輩は最初の方こそ冷静に聞いていたが、朝川運子へのいじめの実態を知ると、みるみるうちに怒りで顔が真っ赤になっていった。彼はそれほど正義感が強い男だった。

「たしかに、朝川運子はかなり変わってる。それは事実だし、俺だって友達になりたいとは思わない。だけど、人としてやっていいことと、悪いことがあるだろ!」

折野先輩は怒りのままにテーブルに拳を打ちつけた。コーヒーが勢いよくカップから飛び跳ねる。離れた席でおしゃべりをしていたマダムたちが驚いてこちらを見たが、先輩の激昂した顔を見てあわてて視線を逸らした。

さっきまでのさわやかな笑顔が別人に見えるほどの豹変ぶりに正直僕も恐怖すら感じたが、心の奥ではホッとしていた。この様子なら、先輩は自らすすんでいじめの解決に奔走してくれるに違いない。

「涼助、教えろよ。一体誰がそんな卑劣な暴行をやってる? いじめの主犯格はどこのどいつだ?」

折野先輩が声を震わせながらたずねた。二遊間の顔を、まるで彼もいじめに加担しているかのように強く睨む。その勢いにさすがの二遊間も気圧されたようだったが、ためらいながらようやく口を開いた。

「さ、3年3組の鬼頭由梨花です。有名人なんで先輩もよく知ってるかと思…先輩?」

話している途中で、二遊間はとつぜん眉をひそめた。鬼頭梨花の名前を耳にしたとたん、あれほど真っ赤になっていた折野先輩の顔色が、急速に青白く変わっていったからだ。それだけではなく、両目は一瞬にしてうつろになり、口は猫を丸呑みできそうなほどあんぐりと開けられている。

「大丈夫ですか? 折野先輩」

二遊間の問いかけに先輩はうなずいたが、ちっとも大丈夫そうではなかった。半袖で真冬の南極にいるかのように、全身をプルプル震わせている。彼は言った。

「悪いが、今回の件では俺は役に立ってやれそうにない。他をあたってくれないか」

「鬼頭由梨花と何かあったんですか?」

二遊間の問いかけに彼は答えなかったが、沈黙は肯定と同義だった。僕は気の毒になって思わず彼の顔から視線を落としたが、そこで見てはいけないものに気づいてしまった。

折野先輩の制服のズボン、その股間周辺に大きなシミができてしまっていたのだ。一体、過去にどれほど彼は鬼頭由梨花にひどいことをされたのだろう。名前を聞いただけでおしっこを漏らしてしまうなんて、尋常じゃない。

折野先輩にもプライドがあるだろう。だから、せめてお漏らしのことは二遊間に教えないでおこうと思ったが、どうやら二遊間も気づいてしまったようだ。二遊間は尊敬する先輩の股間を微動だにもせずに見つめたまま、言葉も出ないようだった。

先輩は両手で顔を覆った。彼の身体中から苦悩が発散されていた。

「具体的に何があったかは口が裂けても言えない。しかし、これだけは言える。鬼頭由梨花は恐ろしい女だ。悪魔の化身のような女だ。信じられないほど残酷で、信じられないほど頭が切れる。『シートン動物記』のオオカミ王ロボみたいな奴だよ。

朝川運子のことはたしかに気の毒だが、お前らも地獄を見せられたくないなら、鬼頭由梨花には関わらないでいるのが賢明だ。俺に言えるのは、それだけだ」

「わかりました。アドバイスありがとうございます」

二遊間はそう言うなり、そそくさと立ち上がった。これ以上ここにいても、得られるものは何もない。それに、この様子では折野先輩は椅子までぐっしょり濡らしているだろう。先輩からすれば、カフェ店員の前で恥をかいている姿など後輩たちにさらしたくはないはずだ。

「悪いが、今日のことは誰にも言わないでいてくれないか」

レジで支払いを済ませ、店を出ようとしていた僕たちの背中に先輩が声をかけてきた。もちろん、『今日のこと』というのは、お漏らしのことだ。二遊間は先輩をはげますように、うっすらほほ笑んだ。

「しょせんは地球の片隅で起こったことです。誰にも知られることはないし、僕らもすぐに忘れます」

「すまない」折野先輩がホッとしたように言った。とはいえ、この先彼のことをカリスマとは二度と考えられなくなるだろうな、と僕は思った。

















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