第5話 小悪党になることの喜び
香川さんが衝撃的な体験談を語り終わったとき、すでにHR が終わってから1時間以上が経過していた。
部活がない生徒が用もないのに長時間学校に居残っているのはあまり褒められる行為ではない(帰りが遅くなると、それこそ変質者に襲われるかもしれない)。生活指導の先生に見咎められる危険があるし、香川さんの体調も悪そうなので、僕らはとりあえず帰りながら話をすることにした。
香川さんは校門前の坂を下りながら、なおも朝川運子の話を続けた。
「私、朝川先輩に助けられて以来、すっかり彼女のことが大好きになってしまったの。鬼頭先輩にも入れ込んでたけど、いじめの件を知ってしまった今では鬼頭先輩よりも朝川先輩の方が好きかもしれない。
野性的な外見や茄子みたいに細長い顔、目の下のくっきりしたクマ、独創的なファッションセンス、自由奔放な発言、唯一無二の存在感、行動力、特に誰よりも個性が光輝いているところが大好き。できたら男に生まれ変わって朝川先輩と結婚したいぐらい」
「はぁ、そうなんだ…」恋する少女そのものの表情を浮かべている香川さんを、僕は少し白けた気分で眺めていた。どうやら僕が思っていたより、香川さんは変わった子だったみたいだ。この学校で朝川運子に好感を持っている人間など、彼女ひとりだけに違いない。
僕だったら、たとえ命を何度も救われようが、1000万円もらおうが、決して朝川運子本人のことは好きにはならないだろう。
「ところで、僕しか朝川先輩を助けられないっていうのは、一体どういう意味なの?」
僕は香川さんにたずねた。そもそも殺人犯にひとりで立ち向かえるくらいなら、いじめくらい朝川運子は自分で解決できるんじゃないかと思ったが、また香川さんを怒らせかねないのでそこは言わないでおいた。
「お前は二遊間の親友だろ」ローザンヌが言った。
「野球部の主将の折野中彦は野球部だけじゃなくて全校生徒のあいだでカリスマ的な影響力を持ってる。この学校に鬼頭由梨花を止められる人物がいるとしたら、折野だけだろう。二遊間は野球部のレギュラーだから、折野と顔見知りだ。彼が頼めば、上手くいけば一肌脱いでくれるかもしれない」
「つまり、折野先輩を説得するように、僕から二遊間に頼んでくれってこと?」
僕は首をひねった。
「それなら、直接二遊間に頼めばいいじゃないか。わざわざ僕をあいだに挟まなくても」
ローザンヌは舞台女優のように大げさに腕を広げて首を振った。身体が大きいので、肩がキャノン砲にぶつかる。
「わかってないな。二遊間はたしかに悪いヤツではないけど、面倒ごとに積極的に関わるのは嫌いなタイプだ。直接頼めばきっと断られるだろう。
だけど、親友のへなちょこ小僧の頼みだったら、きっと彼は引き受けるはずだ」
なるほど、僕は上手い具合にダシに使われているわけだ。巻き込まれるのは不本意だが、3人がそこまで策略を練っていることには感心せずにはいられなかった。
「もちろん、ただでやってくれとは言わない。謝礼が必要なら、ある程度の金は用意できるだろう。私は知り合いの布団屋でバイトをやってるし、夏音は毎月たっぷりおこづかいをもらってる。それでも足りなければ、フミが見知らぬおっさんとカラオケで遊んだときにもらった金を少し渡してもいい」
ローザンヌが言った。後半少し新たな犯罪に繋がりかねない発言があったが、聞き流すことにした。
僕は言った。「お金なんていらない。それより香川さんとデートできるって話、今ここで確約してもらえないか」
3人が一斉に足を止めた。ローザンヌとキャノン砲が心配そうに香川さんの顔を見る。香川さんは無言で唇を噛み、かなり長い時間考え込んでいた。彼女は僕への生理的嫌悪感と朝川運子を助けたい気持ちとのあいだで板挟みになっているようだった。
「わかった。もし朝川先輩のいじめ問題を解決してくれたら、1回だけ庭崎くんとデートしてもいい」
香川さんはよほど気が進まないのか、ほとんど聞き取れないくらいの小声で言った。それでも、約束が成立したことに違いはない。僕は思わずガッツポーズを取りそうになったが、懸命にこらえた。
「ディズニーランド」僕は言った。
3人の目が一瞬にして点になった。
「は?」
「だから、僕と香川さんがデートに行く場所だよ。ディズニーランドはどうかって提案してるんだ」
香川さんはデートの場面を想像したのか、今まさに大ナメクジが喉を通ってるんじゃないかと思うくらい気持ちの悪そうな顔をしていた。
僕と一緒にディズニーランドに行ったところで、彼女は100%楽しめはしないだろう。ミッキーマウスだってドブネズミにしか見えなくなるかもしれない。
「あんまり調子に乗るなよ、へなちょこ小僧」
ローザンヌがすごんできたが、僕は動じなかった。
「いいのかな、僕にそんな口のきき方して。僕は個人的には朝川先輩がいじめられようが、大便と一緒にトイレに流されようが、汚物処理場で全身腐ろうが、超どーでもいいんだけど」
ローザンヌは拳を振り上げたものの、すぐにまた下ろした。悔しげに顔を歪める。完全にこの契約の主導権は僕が握っていた。
「わかった。ディズニーランドでもどこでも、好きなところに行けば」
香川さんがあきらめたように言った。こんなに投げやりな様子の彼女は見たことがない。自分が原因とはいえ、少し気の毒だ。
「もちろん、ディズニーランドのチケット代は香川さんが払ってくれるんだよね?」
僕は、なるべく優しげな声を装ってたずねた。
「この腐れ外道」
キャノン砲がつぶやいたが、僕が鋭い視線を向けるとあわてて口を覆い隠した。
「わかった。チケット代は私が払う」
しばらくして、ようやく香川さんが言った。その声にはAIロボットのように感情が込もってなかった。
「ディズニーランドの中では、一緒に手を繋いでいてくれる?」
低く優しい声を保ったまま、続けてたずねる。これでは僕自身が変態みたいだが、1度どSモードのスイッチが入ってしまうと、自分でもどうにも止められなかった。
香川さんは生理的嫌悪感のためか、それとも単純な怒りのためか、わなわなと全身を震わせていた。それでも最終的には無言でうなずいた。
僕はもう少しだけ調子に乗ってみることにした。
「じゃあ、デートの最後に…キス…しようか?」
無双モードの最中でさえ、そのワードを使うのはさすがに緊張した。香川さんはもはや呆然としていて、思考停止に陥っているようにさえ見えた。いつ気を失って倒れてもおかしくない。
「もう、やめて! これ以上美花をいじめないで!」
キャノン砲が泣きながら香川さんの肩を抱いた。
「そうだよ、美花。へなちょこ小僧にそこまでしてやる必要ない。朝川運子を助ける別の方法を考えよう」
ローザンヌが言った。ローザンヌは僕よりずっと身長が高かったが、その彼女すらありありと僕に対する畏怖の表情を浮かべていた。それでも、香川さんを守ろうと、必死に彼女の前で『壁』になろうとしていた。とても美しい友情だ。
「きみらには、言ってない。僕は香川さんに聞いてるんだ。
どうする香川さん。僕とキスできる?」
僕はピシャリと言って、2人を牽制した。2人には目もくれず、邪悪な視線でじっと香川さんだけを見つめ続ける。
僕は何も持っていなかったが、そのときの僕には本物のピストルを突きつけているぐらいの威圧感があったと思う。
相当怯えていたのは間違いない。しかし、香川さんは気丈にも僕の視線をまっすぐに受け止めた。彼女は唇を震わせながらも、はっきりと断言した。
「考えておくわ」
ある意味、柔らかな拒絶とも取れる発言ではあるが、僕はとりあえず満足した。交渉なら運子問題が解決したあとにいくらでもできる。今はこれ以上彼女を追いつめるのは得策ではない。
「わかった、契約成立だね。さっそく今晩、二遊間に電話して頼んでみる」
僕は一瞬にしていつもの柔和な表情に戻ったが、相変わらず3人はこちらを警戒したままだった。
「へなちょこ小僧。お前ってやつはおとなしそうに見えて、とんだ小悪党だな」
ローザンヌが呆れたように言った。僕はそれを褒め言葉として受けとった。