第4話 ロリコン・スライサー
それは、香川さんが中学に入学してすぐのことだった。
ある日、いつもと同じように学校から帰宅し、自室のベッドに寝転びアイスキャンディーを舐めながらケータイをチェックしていると、知らないアドレスからメールが届いていることに気づいた。
思わずいたずらメールかと思って削除するところだったが、よく見てみるとメールの件名欄のところに差出人の名前が書かれていた。
香川さんはその名前を見て驚いた。そこには彼女の兄の友達である西山明臣の名が書かれていたからだ。
よく家に遊びに来るので、彼のことはよく知っていた。年が離れているというのもあるのだろうが(香川さんの兄の優輝も西山も、20歳の大学生だった)、彼はとても香川さんのことをかわいがってくれ、会うたびに飴やチョコレートをくれるような優しい人だった。
そんな彼に香川さんはすっかりなついていて、「あきおみ兄ちゃん」と呼んで慕っていた。ひょっとしたら、ほのかな恋心さえ抱いていたかもしれない。
どうして明臣兄ちゃんが私のケータイのアドレスを知っているのだろうか。お兄ちゃんに聞いたのだろうか。香川さんはいぶかったが、さらに驚いたのはメールの内容だった。
「今度、2人でクラブに行かないか?」とそこには書かれていた。しかも、優輝には絶対に内緒で、と。
もちろん、夜のクラブなど中学生には縁がない場所だし、校則でも夜間の繁華街への立ち入りは禁止されている。万が一先生に見つかれば、停学は免れない。それでも、大好きな明臣兄ちゃんとクラブに行くというアイディアは、香川さんにとってなかなか魅力的なものだった。
両親は早寝早起きを信条にしているので、夜間家を抜け出してもまず気づかれないだろう。問題は兄の優輝だが、頻繁にひとり暮らしの彼女のマンションに泊まりに行くので、事前に兄の予定さえ把握しておけば充分に深夜の外出は可能だ。
香川さんは悩んだ末に、「ぜひ連れて行ってください」とメールに返信した。
デート当日(そう、香川さんの中では、これは完全なデートだった)、少しでも大人に見えるように精一杯のメイクをした香川さんは、家から程近いバス停の前で彼がやってくるのを待っていた。
明臣兄ちゃんは、お父さんのお下がりの外車に乗ってやってきた。自動車免許を取って間もないはずなのに、まるで何年も車に乗ってきたかのような華麗なハンドル捌きだった。
すっと助手席のドアを開け、香川さんに乗るよう促す。その姿は眩しいくらいかっこよかった。彼はセンスのかけらもない赤いアロハシャツを着ていたが、今の香川さんには服装など関係なかった。すでに彼女は非日常の世界に酔ってしまっていたからだ。
クラブでは、とても楽しい時間を過ごせた。最初は人前で踊るのが恥ずかしかったが、「周りの目は気にせず、自由にやればいいよ」という明臣兄ちゃんのアドバイスで吹っ切れた。
彼女のダンスはクラブ慣れしている周囲の若者たちより不器用で下手ではあったが、ぎこちなさは次第になくなっていった。最終的には、普段のおとなしい香川さんしか知らないクラスメイトが見たら目をひんむいて驚くのではないかと思うほど、激しく首を振っていた。
DJ はかなり年配に見える異常に背筋のいいおじいさんだったが、彼が次々にアップテンポな曲をかけていくので、香川さんのテンションも天井知らずに上がっていくのだった。気がつけばワンピがすっかり汗だくになっていた。だけど、一緒にいる明臣兄ちゃんはさらに大量の汗をかいていた。
「喉かわいた。何か飲み物もらってくるわ」
明臣兄ちゃんはそう言い、バーカウンターの方向に消えた。香川さんがそばで踊っていた女の子(もちろん、初対面)と明るくおしゃべりをしていると、明臣兄ちゃんはすぐに飲み物の入ったグラスを2つ持って戻ってきた。中には、ほんのり赤みを帯びた液体が入っている。
香川さんは深く考えずにグラスに口をつけたが、すぐに異変に気づいた。
「ちょっと、これ、アルコールじゃない?」
香川さんは言った。2人が酒を呑むのは、別の意味で問題である。香川さんは未成年者だし、明臣兄ちゃんには車の運転がある。
「1杯くらい、バレやしないよ。どうせアルコール度数も低いし、甘酒飲むのとそう変わらない」
そう言われても、普段の香川さんなら飲酒は頑として断っていただろう。しかし、彼女は踊りすぎた結果としてハイになっていたので、つい明臣兄ちゃんの要求を受け入れてしまった。香川さんはあっという間にそのグラスを空にした。
しばらくすると、猛烈に気分が悪くなってきた。周囲の空間が歪んでいる。足がふらついて、まともに立っているのも厳しい状態だ。明臣兄ちゃんの助けを借りて、ようやく店を出ることができた。
「どうやら、踊りすぎて疲れたみたいだね。家まで送るから、後部座席で横になってるといい」
抱き抱えるようにして香川さんを車に乗せながら、明臣兄ちゃんが言った。そうじゃなくてお酒のせいでしょ、と香川さんは思ったが、口を開くと吐きそうになるので、何も言うことができなかった。
軽快に車を走らせながら、明臣兄ちゃんは日本語か英語かもよく判別できないようなわけのわからないラップの曲を聞いていた。
香川さんはぼうっとした頭で車内をなんとなく眺めていたが、やがてある違和感を覚えた。来るときはおしゃべりに夢中で気づかなかったが、車の中にかわいらしい動物のぬいぐるみがいくつも置いてあるのだ。
明臣兄ちゃんはもう2年くらい彼女がいないと前に言っていた。だから、どう考えても車内にぬいぐるみがあるのはおかしかった。まさか、本人の持ち物ではないだろう。どちらかといえば彼は動物より、ガンダムやエヴァンゲリヲンが好きだったはずだ。
香川さんは横になったまま、脇に置いてあったぬいぐるみを手もとにたぐり寄せた。子犬くらいの大きさの薄汚れたテディベアだ。ぬいぐるみの顔を正面に向けたとたん、香川さんの背中を戦慄が走った。そのテディベアには、左耳と左目がなかったのだ。
最近、隣の市で幼稚園や小学校の女児が相次いで誘拐され、のちに凄惨な遺体となって発見されるという恐ろしい事件が起きていた。
女児殺害はすべて同一犯の仕業と考えられている。まるで測ったかのように正確に遺体を等間隔で輪切りにしていることから、犯人には『スライサー』という異名がつけられ、ワイドショーで連日にわたっておもしろおかしく報道されていた。警察は躍起になって捜査しているが、未だに『スライサー』の手がかりはひとつもつかめていないようだった。
先日、ひとりの被害女児の両親が記者会見をおこなっていた。とても胸の痛む会見だったので、香川さんの目にはそのときの映像が焼きついている。両親は苦しい胸の内を語ったあと、たしかこう言っていたはずだ。
「娘はテディベアのぬいぐるみが大の親友で、どこに行くにも持ち歩いていました。ずっと一緒にいるので、クマの左目と左耳がもげてしまったくらいです。
連れ去られたときにも娘はテディベアを持って出かけていました。ですから皆さん、どうか左目と左耳のないテディベアを探してください。犯人に結びつく何らかの手がかりになるかもしれません」
思わず、酔いが覚めるかと思った。身体の震えがとまらない。明臣兄ちゃんが連続女児殺人事件の犯人? そんなバカな。だけど、よく考えてみると、明臣兄ちゃんの家は隣の市にある。巧みに人に話しかける彼なら、疑われずに子どもを人気のない場所に誘い出すくらい、簡単にできるだろう。
気分はまだかなり悪かったが、香川さんは何とか身体を起こした。そのとき、足が何かに触れた。座席の下に手を伸ばしてその物体に触れてみる。それは傘だった。身長178㎝の明臣兄ちゃんが差すには、あまりにも小さすぎる傘…。明らかにその傘は子ども用だった。さらによく見てみると、柄の部分に赤い血痕のようなものがこびりついている。
間違いない、『スライサー』は明臣兄ちゃんだ。香川さんはそう確信した。
車はしばらく走ったのち、唐突に止まった。そこは香川さんの家の前ではなかった。明臣兄ちゃんの家の前でも、もちろんなかった。
そこは人里離れた暗い山奥だった。民家のようなものは、どこにも見当たらない。街灯の明かりすら存在しない。彼女はまったくの孤立無援だった。
「下りろよ」
明臣兄ちゃんが聞いたことのない素っ気ない声で言った。怒らせたらどんなひどいことをやられるかわからない。香川さんは黙って命令に従った。
明臣兄ちゃんは暗闇へとずんずん進んでいき、車から30メートルほど行ったところで止まった。その先には、魔界のような不気味な森が広がっている。香川さんは逃げたくて仕方なかったが、足がふらついて車に寄りかかって立っているだけで精一杯な上に、どこに向かって逃げればいいのかもわからない。
香川さんはハッとした。いくら酒を呑んだことがないとはいえ、たった1杯でここまで酩酊するわけがない。おそらく、グラスの中にデートレイプドラッグか何かを入れられたのだろう。
「どうやら、俺の正体に気づいちゃったみたいだね。まあ、最初から殺すつもりだったから、どっちでもいいんだけど」
明臣兄ちゃ…いや、『スライサー』が言った。濃い暗闇の中でさえ、顔中に笑みを浮かべているのがわかる。
「いや、殺さないで。私が何をしたっていうの。明臣兄ちゃんのこと、いい人だって信じてたのに」
「俺は今でも、自分のこと『いい人』だって思ってるけどな。まぁ、価値観の相違ってことで」
『スライサー』は懐から狩猟用のナイフを取り出して、鞘を抜いた。暗闇の中で刃がまばゆく光る。よく切れそうなナイフだ。キャンプに持っていけば重宝するかもしれない。
「こう言っても信じてくれないかもしれないが、本当はきみは殺すつもりはなかった。俺は小学生以下の女が専門なんだ。ロリコンって言われたら、ちょっと恥ずかしいけどな。
だけど、何度も優輝のそばで美花ちゃんを見てたら、何だか無性に殺したくなってきてしまった。それくらいきみは魅力的な少女だ。自信に思っていいよ」
香川さんは声のかぎりに叫んだ。こんな山奥で聞いている人がいるとは思えない。それでも叫ばずにはいられなかった。『スライサー』はまったく動じる様子もなく、楽しげに香川さんの顔を眺めている。
「いいねぇ、ムダな抵抗! 地面でのたくり回る瀕死の虫並みの必死さだな。心配しなくても、これからもっといい声で啼かせてやる。魅惑の初体験だ」
『スライサー』がナイフを手ににじり寄ってくる。香川さんは数歩あとずさったもののまともに歩く体力が戻っておらず、けっきょくその場にへたり込んでしまった。このまま変態殺人犯に殺されるしかないのか。とめどなく、涙が溢れてくる。
「動くなよ。そのきれいな顔にだけは、なるべく傷をつけたくないからな」
『スライサー』がナイフを頭上高く振りかぶる。そのときだった。森の奥深くからイノシシのようなものが突然現れ、猛烈な勢いで2人に向かって突進してきた。あまりにも唐突に出現したので、まるで暗闇に産み出されたモンスターのように見えた。
『それ』はかなりのスピードを出していたにもかかわらず、香川さんは巻き添えにせずに正確に『スライサー』だけを吹っ飛ばした。狩猟用ナイフが宙を舞い、どこか遠くに落下していった。『スライサー』自身は幹のどっしりした木に派手に衝突し、「ぐぇっ!」とうめき声を漏らした。そのまま『スライサー』は気を失った。
香川さんは何が起こったのかわからず、しばらく呆然としていた。どうやら、何者かが自分を助けてくれたらしい。ようやくそう理解できたとき、その『何者か』が目の前で自分を見下ろしていることに気づいた。
それはイノシシではなく、朝川運子だった。よれよれの白シャツに男の子が履きそうなチノパンというスタイルで、薮の中を疾走するためか頑丈そうな迷彩柄の靴を履いていた。ぼさぼさの長い黒髪が、ゆっくりと風に揺れている。
「お前か? 今大声を出したのは」
運子は激しく香川さんを睨みつけた。なぜか彼女は猛烈に怒っていた。あまりの剣幕に、香川さんは何も言うことができなかった。
「どうしてくれるんだよ、カラスの親子が起きちゃったら。このマザーファッカーめ」
運子はそれだけ言うと、きびすを返して森の中に戻っていった。
香川さんはしばらく呆気に取られていたが、やがてケータイを取り出して警察に連絡した(幸いにも、電波が通じる場所だった)。
『スライサー』は暴行罪で逮捕され、数日後車内に残されていたぬいぐるみなどの証拠が決め手となり、連続女児殺人犯として起訴された。