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私の頭は便器に突っ込むには少し大きすぎる  作者: アキーヌ・ササファソー
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第2話 生理的嫌悪感を上回る絶対的嫌悪感

そのとき、不意に再び教室のドアが開いた。

現れた人物の姿を見て、僕は呆気にとられた。そこにいたのは、すでに帰宅しているはずの香川さんの親友、北山田南波(きたやまだみなみ)切原夏音(きりはらかのん)だった。2人とも、顔全体に薄ら笑いを浮かべている。

「ぎゃはははは! あー、おかしい。へなちょこ小僧のくせにさかってやんの」

ローザンヌが言った。ローザンヌというのは、幼少のころスイスのローザンヌで暮らしていたことからついた、北山田のあだ名である。

帰国子女なので英語だけは流暢に話せるが、あとの教科の成績は劇的に悪い。身長が高く、一応バレー部に入ってはいるが、あまり運動神経がよくないので、さぼってばかりいる。

「ねえねえ見てよ、コイツの顔! へしゃげたバームクーヘンみたい。超ウケるんだけど」

切原夏音が僕の顔を指差しながら、腹を抱えて笑った。

切原はローザンヌとは好対象の、背の低い小太りの女子生徒だ。3度の飯よりゴシップが好きで、学内の『誰と誰がつき合っているか』をすべて把握していることが1番の自慢だった。

電光石火のスピードで生徒や先生たちの他人に秘密にしておきたい情報を手に入れ、校内新聞で惜しげもなく暴露することから、『キャノン砲』の愛称で恐れられている。

突然2人が現れてパニックになった僕は、すがるような気持ちで香川さんを見た。

香川さんは僕と目を合わせようとせず、暗い顔でうつむいていた。自分のことを恥じているような彼女の表情を見て、ようやく僕はすべての事情を理解した。

やっぱり僕は、だまされていたのだ。彼女に、ではなく、彼女たち3人に。ラブレターも告白も、ただの演技だったのだ。

親友2人はおそらく、教室の陰に隠れて全部聞いていたのだろう。笑い声を必死に押し殺しながら。そう思うと、猛烈に腹が立ってきた。

「一体、誰がこんなこと考えたの?」

僕はたずねた。ローザンヌがなぜか胸を張って答える。

「悪いけど、あんたが美花のことを好きなのはハタから見ててもバレバレなんだよ。ときどきねちっこい視線で美花の顔を見つめてるし、美花がそばに近づいただけでアホみたいに緊張してるしさ。

だけど、美花ははっきり言ってあんたのこと気持ち悪がってる。だから1回、ギャフンと言わせてやろうと思って」

「香川さん、本当にそんな風に僕のこと思ってるの? 気持ち悪い奴だって…」

僕はショックのあまり、自分を制御できなくなっていた。今にも凍えて死にそうな人のように、激しく身体が震えて止まらない。

香川さんはその質問に答えることをためらう素振りを見せた。だが、耳元でキャノン砲が「はっきり言っておかないと、ストーカーになるよ」と悪魔のようにささやくのを聞いて、意を決して言った。

「私、庭崎くんのことが気持ち悪くて仕方ないの。庭崎くんを見ていると、毒々しい色をした大ナメクジをまるごと呑みこんだような不快な気分になる。教室で一緒にすごしているだけで、背中に謎の発疹が出てくるようになった。顔を思い出すだけで、少し体調が悪くなってくる。生理的に絶対にあなたのことは受けつけられない。…だから、ごめんなさい」

誰でもいいから今すぐ僕を殺してくれないだろうか、と僕は思った。好きな女の子に静かに淡々と生理的嫌悪感を口にされるなんて、これほどの拷問は世界中の捕虜や奴隷もおそらく未体験だろう。激しく罵倒された方がまだマシだった。

「本当にごめん、気持ち悪い奴で…」

僕は香川さんに頭を下げると、足早に3人のそばを通り抜けようとした。早く1人きりになって、思う存分泣きたかった。しかし、ローザンヌがその巨体で僕の前に立ちふさがった。

「待ちなよ、へなちょこ小僧。まだ話は終わってないよ」

僕は眉をひそめた。これほど人を侮辱しておいて、さらにどんな追い撃ちをかけるつもりなのだろう。

「そこをどいてくれよ。僕はもう帰りたいんだ」

思いがけずキレ口調になってしまったが、ローザンヌは気を悪くした様子もなく、余裕の笑みで僕を見下ろしていた。

彼女は言った。「ちょっとあんたに助けてもらいたいことがあるんだよ、へなちょこ小僧。条件次第では美花とデートさせてやってもいい」

僕の脳内は、有史以来最大の混乱を呈していた。

「どういうこと? たった今香川さんは僕のことが気持ち悪くて気持ち悪くて仕方ないって言ったばかりじゃないか。それなのに条件次第では僕とデートしてもいいって、まったく言ってる意味がわからないよ」

僕は香川さんを見たが、相変わらず彼女はうつむいていて、その表情からはどんな感情も読み取れなかった。

「つまり、それぐらい私たちも困りきってるってことだよ。ところでへなちょこ小僧、あんた朝川運子(あさがわうんこ)って知ってる?」

今度はキャノン砲が言った。

朝川運子・湿子(しっこ)姉妹のことを知らない人間など、この学校には皆無だろう。およそ愛する我が子につけるとは信じられない名前ではあるが、姉妹の名は間違いなく戸籍上の本名だった。

運子が生まれたとき、彼女の両親は『誰よりも幸運に恵まれた人間になってほしい』という願いを込めて『運子』という名をつけた。

大便のことがちらりとも頭をよぎらなかった両親にも問題があるが、キテレツな名前をそのまま受理した役所にも問題がある。

そのせいで運子は、人生の大半を他人から「ウ~ンコ、ウ~ンコ!」とからかわれる運命を背負ってしまったのだった。

運子に『運子』という名前をつけたことが原因かはわからないが、2年後に湿子が生まれたときには、夫婦の仲は最悪になっていた。

母親は今度こそ娘にまともな名前をつけようと決意していたが、次女が生まれてまだ10時間しか経過していないとき、酔っ払って病院に帰ってきた父親が衝撃的なひとことを放った。

「娘の出生届『湿子』で出してきてやったぜ! ぎゃははは。『うんこ』と『しっこ』の便所姉妹の完成だ。あー、愉快! 愉快!」

体調が回復したあと母親は何度も役所に出向いて直訴したが、1度受理された名前を取り消すことはできなかった。2ヶ月後夫婦は離婚し、ちょっと変わった名前を持つ娘たちは母親が1人で育てていくことになった。

以上が学校の噂で僕が聞いた話だった。僕は直接朝川姉妹とかかわり合いになったことがないので、2人の人物像についてはよく知らなかった。

ただ、朝川運子が名前通りの奇抜な人間であることは、彼女の姿を1度でも目にしたら感じずにはいられないだろう。

朝川運子はいかにも伸び放題といった感じのぼさぼさの黒髪を太ももの位置まで垂らしていた。その姿はさながら、現代によみがえった原始人だった。

ボロ布のような制服を着て、室内では決して上履きを履かず、裸足で歩き回っていた。

身のこなしは獣のように俊敏だったが、なぜか何もないところで頻繁に転んだ。

まっすぐに歩かないので、電柱に頭から衝突することも多かった。さらに奇妙なことに、分厚い百科事典を常に脇に抱えて行動していた。

そして、何よりも不気味だったのは、いつも人殺しそのものの狂気じみた眼で周囲を睨んでいることだった。彼女は殺人犯としていつニュースで写真が紹介されてもおかしくないような顔つきをしていた。

ひとことで言えば、運子は本物の変人だった。たとえ彼女の名前が『さやか』とか『ともみ』だったとしても、やはり変人として全校生徒に認識されていただろう。

一方妹の湿子は、運子と血がつながっているとはとても信じられないほど、いたって普通の女の子だった。

外見も異父兄弟かと思うほど似ていなかったし、性格も運子とは正反対の落ちつきのあるおとなしい子どもだった。

何よりも彼女には運子にはない『協調性』という武器があった。湿子は変な名前という呪われた十字架をもろともせずに、上手く周囲の生徒に溶け込んでいた。

湿子は彼女のことを知っているほぼすべての人々から好かれていた。生まれつき人に好印象を与えるすべを知っていて、かつそれが鼻につかないという稀有な才能を持った女の子だった。

初対面の人は彼女の名前を知ると、バカにするのではなく必ず深く同情するのだった。女子の中には、これまでの彼女の苦労を思って泣き出してしまう子もいたという。

湿子をからかったり、いじめたりする人間なんて、少なくとも学校内には1人もいなかった。彼女の名前が『さやか』や『ともみ』だったとしても、おそらく誰も違和感を持たなかっただろう。

特に整った顔立ちでもなかったが、何しろ姉が運子なので、男子生徒の目に彼女は実際以上に美人に見えているらしかった。そういうわけで、ひそかに湿子は人気があった。

「朝川先輩が一体どうしたの?」

僕はたずねた。3年生の運子は僕にとって一応『先輩』ということになる。妹の湿子は同じ1年生だ。

キャノン砲は、香川さんの方を意味ありげにちらりと見てから言った。

「あんたに朝川運子を助けてやってほしいんだよ。私の見たところそれができるのは、へなちょこ小僧、あんただけだ」


















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