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私の頭は便器に突っ込むには少し大きすぎる  作者: アキーヌ・ササファソー
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第1話 恋文

僕はその日、朝から落ちつかなかった。

いつもは誰よりも真面目に授業を聞き、「教科書よりもはるかにわかりやすい」とクラスメイトたちから絶賛を受けるほど緻密にノートをつけているのに(成績がいいわけではなく、まとめるのが上手いだけだ)、この日にかぎっては僕のペンはほとんど動いていなかった。

それどころか、黒板に書かれた文字も、早口に数式の解き方を説明する先生の姿も、周囲のクラスメイトの姿も、ろくに目に入っていなかった。

暑くもないのに身体中に汗をかき、呼吸は浅く早くなっていた。ヘッドホンで大音量の音楽を聴いているみたいに心臓の鼓動が激しい。頬も赤く火照っている。

事情を知らない大人が注意深く今の僕を観察したら、病気じゃないかと疑ったかもしれない。

しかし、その学校において僕はよくも悪くも『目立たない生徒』だった。自分から体調不良を訴えでもしないかぎり、僕の健康の変化に気がつく人間などいるはずがない。

教壇から離れた席に座っているため、午前中の授業を行った先生たちは僕の存在にすら気がついた様子がなかった。

1度だけ数学の先生に差されたが、その問題は上の空の僕でも答えられるほどやさしいものだったので、誰も僕の変化には気づかなかった。

数学の授業中、ずっと僕が間違えて家庭科の教科書を机に開いていたことにも、誰も気づかなかった(きっと、エロ本を開いてたって誰も気づかない)。

そんな中で唯一、隣の席に座っている親友の風祭二遊間(かざまつりにゆうかん)だけが僕の様子が普段と違うことに気づいているようだった。

何度も彼の視線を感じたが、こちらの心情をおもんばかってか、1度も話しかけてはこなかった。

二遊間というのはもちろん、彼の本名ではない。野球部でいつも二遊間(つまり、セカンドかショート)を守っていることからつけられたあだ名だ。

本名は風祭涼助(かざまつりりょうすけ)というが、学内ではほとんど二遊間としか呼ばれていない。生徒たちはもちろん、最近では先生たちも好んでそのあだ名で呼ぶようになっている。

入部したての新入生であるにもかかわらず、二遊間は野球部のレギュラーだった。その実力は並外れていて、どんなに難しいゴロにもあっという間に追いつき、楽々と処理してしまう。

中学生活3年間を通して、僕は親友として野球部の練習や試合を数多く見学に行ったが、二遊間がエラーをしたところは1度も見たことがなかった。二遊間の守備練習を見ていると、まるでボールの方が意志を持って彼のグラブに飛び込んでいるみたいだった。

二遊間は、二遊間を守ることに誰よりも強いこだわりを持っているらしかった。監督は元々、中1で165㎝という恵まれた体格の二遊間にピッチャーをやらせたかったらしい。

しかし、二遊間は「二遊間を守らせてくれないなら、野球部は辞めます」と言ってゆずらなかった。

野球部の監督の怖さは誰もが知っていたので、この度胸ある発言は全校生徒のあいだで大いにショックを持って伝えられることになった。

気がついたときには、彼は周りの生徒たちから『二遊間』と呼ばれるようになっていた。

打撃センスは平凡だったが、それでも二遊間は周囲から将来を嘱望されていた。僕も当時から、彼が将来プロ野球選手になることを疑っていなかった。

残念ながら高3の春に深刻な交通事故に遭い、二遊間の夢は無残に絶たれてしまった。それでも最終的に彼は大成し、パラスポーツアスリートとして世間に広く知られる存在となる。

高身長で運動神経抜群な二遊間は、誰とでも話せるおおらかな性格も手伝ってクラスの人気者だった。

野球部に入ったころからずっと坊主頭にしているが、彼の坊主頭がかっこいいと女子のあいだで話題になったので、一時期違う部活の男子まで坊主頭にすることが流行ったくらいだった。

当然ながら毎日のように女子から告白されていたが、もったいないことに「野球に集中したい」という理由ですべて断っていた。

本来なら、僕のような『下層民』が対等に話せる身分の人間ではない。しかし、常識人に見える二遊間にも少し変わったところがあった。

彼は新しく中学生活を迎えるにあたり、「隣の席に座っている子と親友になろう」と固く決意して登校していたのだ。そして、たまたまその日隣の席に座っていたのが僕だった。

僕にとっては、宝くじを当てる以上の幸運といえるだろう。さすがに二遊間と一緒にいるからといって僕まで人気者になることはなかったが、クラスの中で一定のポジションを得ることはできた。

二遊間効果は抜群で、小学生のときに僕のことをいじめていた奴らも、普通に話しかけてくるようになった。

二遊間がすごいのは、僕のような目立たない人間と本当に親友になれてしまうところだ。容姿も運動神経も学力も、すべてにおいて彼の方が上だったが、なぜか僕らは気が合った。僕の思い違いでなければ、二遊間は僕と四六時中つるむことを心から楽しんでいた。

そのころは二遊間のおかげで、生まれて初めて学校生活が楽しいと感じてきたときだった。


昼休み、僕と二遊間は野球部の練習場を臨む階段に2人で座っていた。

この界隈は放課後は野球部の部員でにぎわっているが、校舎から少し離れているのでわざわざ休み時間にやってくる生徒はいない。秘密の相談をするには絶好の場所だった。

ときどき、僕と二遊間は休み時間に野球場でキャッチボールをすることがあった。運転神経ゼロの僕はわけのわからない方向にボールを投げることが多かったが、性格のいい彼はいつでも根気よく球拾いをしてくれたものだ。

二遊間は購買部で買ってきたソースの薄い焼きそばパンをあっという間に平らげたあと、僕の方を向いてたずねた。

「今日はどうしたんだよ、健四朗(けんしろう)? 少しいつものお前と違うぞ」

健四朗というのは、僕の名前である。父親が北斗の拳の『ケンシロウ』から取ってつけた名だが、親の願いむなしく、ぜんぜん強い人間にはなっていない。

僕はしばらくうつむいていたが、やがて学ランのポケットから1枚の封筒を取り出し、二遊間に手渡した。装飾のないシンプルな薄いピンク色の封筒だ。かすれそうなほど細い達筆な字で『庭崎(にわさき)くんへ』と宛名が書かれている。庭崎というのは、僕の名字である。

二遊間は僕が口紅でも取り出したかのように、きょとんとした顔でその手紙を受け取った。

「まさか、これって…」どうにかそう言ったものの、なかなか彼は二の句をつげなかった。これほど焦っている二遊間の姿を見るのは、入学以来初めてかもしれない。

「手紙、読んでもいいか?」

二遊間がおそるおそるたずねる。僕は彼の方を見ずにうなずいた。すでに僕の顔は耳まで真っ赤になっていた。二遊間は優れた内野手らしい丁寧さで手紙を開いた。そこにはこう書かれていた。


放課後、教室で待っていて下さい。話したいことがあります。

                   香川美花


二遊間は目を見開いた。それはたった2行の素っ気ない手紙だったが、僕たち2人に与えたインパクトははかりしれないものがあった。

香川美花(かがわみか)は僕たちのクラスメイトだが、ただのクラスメイトではなかった。僕は中学に登校した初日に彼女に一目惚れしてしまい、それ以来ずっと香川さんのことばかり考えて生活していた。僕にとっては、正真正銘の初恋である。

僕は彼女への恋心をけっして誰にも悟られぬよう、想いを胸に押し殺しながら毎日すごしていた。ただでさえ女子と話すのは苦手だが、香川さんとはこの2ヶ月間、数えるほどしか言葉を交わしていない。好いていると知られたくないから、あえて距離を取ってきたのだ。僕の本当の気持ちを知っているのは、親友の二遊間だけだ。

「この手紙、どこで受け取ったんだ?」

二遊間がたずねた。

「朝、学校に来たら、靴箱の中に入ってた」僕は言った。ベタすぎるラブレター渡しのパターン。

「そうか」二遊間は相変わらず文面をにらみつけたまま、ふっと息を吐き出した。

「それで、二遊間はどう思う?」

今度は僕がたずねた。二遊間はゆっくりと、手紙から僕に顔をうつした。

「どう思うって?」

「だから、僕は香川さんにからかわれているんじゃないかってこと。だって、彼女が僕のことを好きになるなんて、普通に考えて100パーセントありえない。何しろ、今までろくに接点がないんだ。香川さんが多少なりとも僕に興味を持っているとしたら、そっちの方が驚きだよ」

「そう決めつけるのは、まだ早いんじゃないか」

二遊間は便箋を丁寧に折り畳み、封筒の中におさめた。

「しゃべってないからって、好意を抱かないとはかぎらないだろ。健四朗が初対面で香川さんを好きになったのと同じように、香川さんの方でも何かお前に対して感じるものがあったのかもしれない。どちらにしろ手紙をもらったのは事実だから、俺は素直に喜んでいいと思うけどな」

「だけど…」

「もっと自分に自信持てよ。それに、香川さんってお前をワナにかけるような悪い人間じゃないだろ。俺だってクラスで何回も彼女としゃべってるから、それくらいはわかる」

たしかにそれはいえている気がする。香川さんはそこそこ美人ではあったが、同時にとても謙虚で地味な存在でもあった。

とても優しい性格で、人の悪口を言っているところなど見たことがない。彼女が他人をワナにかけるとしたら、この世界はワナだらけである。

「まぁ、そんなに深く悩むなよ。どっちにしたって、放課後になればわかる話だ。なるようになるさ」

二遊間は明るくそう言うと、僕の肩をポンと叩いた。相変わらず胸の中は不安でいっぱいだったが、少しだけ勇気づけられた。持つべきものは親友だ。


そうして、何だかよくわからないうちに放課後になっていた。

僕は手紙で指示された通り、ひたすら教室で香川さんが戻ってくるのを待っていた。(香川美花はいつもと同じように、HRが終わると親友2人と共に教室を出て行った。その表情は普段とまるで変わらなかった。)

二遊間は僕のことを気にかけつつも、足早に野球部の練習に向かった。僕自身は『周辺散策部』という部活に所属しているが、ほとんど活動実体のない部なので放課後特に用事はない。

僕は自分の席で英語の復習をしているふりをしながら、落ちつかない時間をすごしていた。居残っておしゃべりをしていた生徒たちも10分ほどでいなくなり、僕はあっという間に1人ぼっちになった。

やはり香川さんはもう教室には戻ってこないのではないか。僕はやはり彼女にからかわれただけではないか。頭をよぎるのはそんな考えばかりだった。

HR が終わって30分が経過し、僕の疑いはようやく確信に変わった。

「もう帰ろう」

僕は自分の机に向かって言った。ふだん僕はひとりごとを言わないタイプだが、このときばかりは声に出さないと踏ん切りがつかなかった。みじめな気持ちを噛みしめながら、のろのろと帰り支度を始める。そのとき、誰かが勢いよく教室のドアを開いた。

「遅くなってごめん。なかなか勇気が出なくて」

そこに立っていたのは、香川美花だった。走って戻ってきたのか、少しだけ息が弾んでいる。おそらく親友2人に疑われないように、いったんいつも通りの帰り道を歩いたあと、急いで戻ってきたのだろう。

すでにあきらめていたので、現実の出来事とは思えなかった。僕は何も言うことができず、ひたすら彼女の顔を見つめていた。驚いたことに、彼女もじっとこちらを見つめている!

「手紙に書いた通り、私、庭崎くんに話したいことがあるの」

一瞬の間がとてつもなく長く感じる。そして、とうとう香川さんは例のワードを言った。

「私、入学したときからずっとあなたのことが好きだったの。よかったらつき合ってくれないかな?」

そのときの僕はおそらく、世界中で1番幸福な人間だった。














         












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