突然の恋
たった数秒の出来事が忘れていた感情を呼び起こすことがある。
たった数秒の出来事で人は忘れていた恋を思い出したりする。
遠くでリズミカルな蝉の鳴き声がする。
心地よく暖かいオレンジ色の風が私に最高の居場所を与えてくれている。
放課後の教室、誰もいなくなったこの空間が学校の中で一番好きだ。
教卓と勉強机と椅子しかない無機質な空間なこの場所が一番好きだ。
誰にも邪魔されない、大切な場所。
『どうしてあなたはお姉ちゃんと違ってこんなにデキが悪いの?そんなんじゃいい高校に進学できないわよ』
頭の中でキィキィ声のお母さんの声がよぎる。
毎日毎日同じことばかり言ってて飽きないのかな?
私の姉は私と違ってデキがいい。
でも、そんなの私に言ったところで仕方の無いことじゃない?
それに私はお母さんのために進学する訳じゃないし。
あれだけ怒ってばかりで疲れないのかな?
『ミサ、来週の日曜空いてる?』
今度は級友の佐藤ユイナの声。
休日家にいたくない。
けど、彼女と出掛けるのも気を遣う。
彼女とは高校に入ってからの付き合いだ。
出席番号が近い私たちは前後の席だったので、そこから話すようになったものの、元々、人付き合いがあまり得意じゃなく基本一人でいたい私は、自分から友達を作りに行くような人間じゃない。
だからかな?
これまで親友と思った友達は一人もいない。
ユイナは私の他にもたくさんの友達がいて、友達によって態度をコロコロ変える、言うならば八方美人だ。
だから、彼女自身も私のこと親友だとは思っていないだろう。
昼間の学校は好きではないけど、誰もいない放課後の教室は好きだ。
家にいるよりもずっとずっと居心地がいい。私の居場所なんて元からどこにも無かったのかも。
沈黙の世界にガラっと教室のドアの開く音がした。
幸福の時間が侵入者によって壊される瞬間。
「あれ?椎名じゃん?何してんの?」
入ってきたのは、私の苦手なタイプの立花光洋だった。
クラスの中心人物、バスケ部のエース、成績上位、長身のルックスに栗色の髪、切れ長の瞳。
学校の中のアイドル的存在。
そして、コイツは私の家の隣に住んでいる。
ごくごく一般的な言い方をすれば幼馴染みと言うのだろう。
だが、その言葉の意味を調べたところ、幼い頃に親しくしていた友達、或いは恋愛感情を抱いていた異姓と書かれている。
この文章を読むと、私とコイツの関係はそれではない。
これに当てはまるのは私の姉の方かもしれない。
私の姉とコイツは結構仲がいい。
私とコイツはただの隣人と言うのが適当だろう。
それに、全てにおいて恵まれすぎで、何の悩みも無いと思われるこの男が好きではなかった。と言うより私とは違う部類の人間だと思ってる。
そんな人種に話し掛けられて不愉快極まりなかった。
「…別に。あなたは忘れ物?」
「そそ、明日までに提出する英語の課題を…」
ガタゴトと自分の机をあさりだし。
「で、何してんすか?」
見付けたレポートを手に私の隣に座ってくるものだから、どう対応していいか分からなくて、窓際を見ながら答える。
部活動やら様々な音を風が運んできた。
「別に」
「てか、いつもそんな感じだよな、みんなと壁作って、そんなんで楽しいっすか?」
「え?」
意外だった。
立花のような人間が私の事、私の存在を気にかけているなんて思っても無かった。
「昔はそんなんじゃなかったっすよね?」
意味深に小さく笑う立花の言葉に、しばし考えた。
昔の私って何?立花にそんなこと言われるなんて思いもしなかった。
「オレは昔の椎名の方が好きだよ」
え?
今さりげなくとんでもないこと言われなかった、私?
当の本人の立花は、何ともない顔で言葉を続けている。
「でも、いいよなー、誰もいない教室。こうして机に頬つけてるともう少しこのままでいたいって思うよな」
立花から出た言葉はまたまた意外なものだった。
立花のように目立つ人種がこの空間のことをそんな風に言うなんて思ってもみてなかった。
「でも、そろそろ帰った方がいいよ、さっきネット天気予報で雷雨発表あったし」
キラキラな大きな栗色の瞳が真っ直ぐに私を見る。
屈託無く笑う笑顔。
この笑顔が苦手だった。
「情報ありがとう」
これ以上ここにいても仕方が無い。
イスから立ちあがり、カバンを持ったその時。
「ねぇ、椎名、オレと付き合わない?」
私が立ち上がるのを見て、彼は慌てて立ち上がり、私の腕を掴んできた。
え?
な、何?
聞き間違い?
「は?急に何言ってんの?」
立花の右手が頬を掠り、背後のロッカーに勢いよく触れる。
な、何このシチュエーション!
不覚にもときめいてしまってる自分がいることに驚いた。
そんな自分の心バレたく無いけど、何も言えない。声が出せない。
「急じゃないよ、前から言おうとしてた」
「え?」
喉の奥から絞り出した精一杯の言葉がそれだけだった。
「さっきの返事聞いてない」
立花のボタンの空いてるポロシャツにドキドキが止まらない。
そんな私の気持ち見透かされていたのか、彼はニコッと笑みを見せてから、私の顎をくいっと持ち上げ…。
ーーーーー突然のキス!
にはならず、寸前で止められた。
え?え?えーーーーーーーーー!
「この先は正式に彼氏になってからで」
何?何が起こったの?
全く分からなかった。
キス?今キスしそうになったの?
立花と?
パニックの頭の中
けたたましくなる蝉の鳴き声がこれは現実なんだと教えてくれた。
「気を付けて帰れよ」
ずるい、私はこんなに胸がドキドキしてんのに、何であんな涼し気な顔で帰ってくの?
私、バカなの?
つい数分まであいつのこと嫌いだったじゃない?
遠くで雷鳴が聞こえた。
**********
最近の私は変だ。
身体は至極健康だし。
いつも一人でいることが好きなのは変わってないし。
お母さんのキィキィ声がうるさいと思うのも変わらないし。
でも…。
最近の私は確実に変だ。
暖かみを帯びたオレンジ色の教室で、私は今日の体育の授業での事を思い出していた。
体育館シューズの擦れる音。
バスケットボールが弾む音。
それに加えて生徒たちの声援が体育館の中をいっぱいにしていた。
今日の体育の授業はバスケットボール。
一際注目を集めているのは、アイツ、立花光洋だ。
軽いドリブルから華麗にシュートを決める立花に黄色い声援が飛ぶ。
男子部の試合を見守っている女子たちの視線をくぎ付けにしている立花が私がいる方を見て二本の指をおでこにつけて、ニコッと笑った。
その瞬間、私の周辺にいた女子たちが卒倒寸前になる。
自意識過剰だよね?
さっきの彼の笑顔が私のためなんじゃないか?なんてそんなこと思ってる自分がいる。
あの時からだ。
あのキス未遂の一件以来から私はおかしいんだ。
自分以外の人間に興味など無かった私が誰かの事をこんなにも気にかけるなんて。
初めてで。
あれ以来、立花も何にも言ってこないし。
『また明日な』
って言ったくせに、あれから数日経った今立花からの接触は無し。
一体何なのあの男。
教室の中、一人きり。
ボソッと声を出してみた。
「私はやっぱり立花にからかわれただけなのかな?」
きっとそうだ。そうに違いない。
立花が私にあんなこと言うはずなんてないもの。
「また一人でこんなとこにいるんすか?」
不意に頭上から声がした。
「え?」
ベランダの窓から最も会いたくなかった立花が顔を出していた。
「え、え、えーーーー?な、何でアンタがこんなとこにいるの?」
突然の事で頭がついていかない。
今の一人言聞かれてた?
ドキドキと胸の鼓動が速くなる。
「部活サボり中っす」
どうしよう?どうしよう?あんな恥ずかしい一人言聞かれてた。
聞こえてなかったのかな。
何も言ってこないし、うん、きっと聞こえてない。
自分にそう言い聞かせる。
「あ、そう…、私、もう帰るから」
これ以上話を続けていたくなくて、鞄を取り教室を出ようとした、その時。
「オレ、からかってなんていないっすよ、本気だよ」
後ろから聞こえた立花の声に身体中硬直してしまい、顔から火が吹き出そうだった。
聞かれてた、完璧に聞かれてたー。
どうしていいか分からず、後ろを振り返る勇気も無い私は孟ダッシュで教室を出た。