pf.A.T.E.M.--Automat1c replicating Transistor Elucidate M0dule
シンダバッタの冒険
ある日、バッタが死んだ。
シンダバッタは風に吹かれ転がる。
当初存在していた砂浜から段々海へと近づいていき、波打ち際にたどり着いたシンダバッタは考えた。
「……」
と。
そしてシンダバッタは自分の右前足先が風に吹かれ飛んできた砂に埋まるのをじっと見つめる。その虚ろな瞳に生命の光はなく、砂に埋もれていく自分の右前足先を映している。
シンダバッタの右前足先から根本へ、砂は容赦なく尚も降りかかってくる。
シンダバッタは考える。
「……」
と。
それは焦燥故の混乱かはたまた諦め故の無念か、所以はシンダバッタ自身にも知ることは出来ないだろう。
左前足根本の聴覚器官をもがその孔を砂に満たし、シンダバッタの砂中における風化なり腐敗なりが約束されようとしたその時、シンダバッタの運命を大きく変えるそれはやってきた。
遠くに見えていた揺らぎは今までのものとの違いを意識させないような大きさをもって浜を滑り、波打つ海は際を変えて乾いた砂を濡らす。
波が砂をさらって色の濃くなったそこには海藻が残り、シンダバッタの姿は無かった。
辺りはやけに静かで、波の音と日の照り付ける音位しか聞こえないだろう。
煌く水面と青空、遠い積乱雲はシンダバッタの消失を気にする様子も無くただそこに有り続ける。
ウミガメがシンダバッタの近くを通り過ぎた。恐らく産卵の時期なのだろう。
そのウミガメが浜へと進み、またシンダバッタも波にたゆたい更に沖合いへと流され、尚も虚ろな複眼にウミガメの姿が映らなくなったころ、シンダバッタは下から突き上げるような水流によって押し上げられ、次の瞬間には深淵の中へと消えていた。深海から浮上してきたザトウクジラの口に吸い込まれ、そのまま胃まで流し込まれてしまったのだ。
既に尽きていたシンダバッタの命運はここに来て、その遺体各部の結合と共に、ザトウクジラの胃酸により消滅した。
そしてある日、バッタが死んだ。
シンダバッタは自らの遺体がある公園の芝生のほぼ真ん中から段々移動していく。アリがシンダバッタを運んでいるのだ。
数匹の黒い、極小の虫にシンダバッタは引き摺られていく。巣穴の前でシンダバッタの六肢は体と永久の別れを告げ、然しシンダバッタは死していた故に流されるべき涙は持ち合わせていなかった。というかそもそも虫であったシンダバッタに涙を流すことなど望むべくもなかったのだ。
そしてシンダバッタの触角が、羽がその胴体と最早二度と出会うことのない旅へ出て、シンダバッタが泣かなかったのは感傷的でなかったから、という至極単純な理由からかもしれないし、もしかするとやっぱりシンダバッタが虫で、それ以上にもう死んでいたからかも知れない。シンダバッタの「生命の光なき虚ろな」複眼の片方に穴が開き、アリが内部に侵攻してきた時点においては、この期に及んでシンダバッタの落涙不能性については論ずるべくもない。そんな訳でシンダバッタは最早そうだったとは想像もできないほど細分化された。まあ有り体に言って食われて消化された。
そしてある日、バッタが死んだ。
路地裏の水溜まりに浮かぶシンダバッタはその右前足先を、左前足根本の聴覚器官を、と言うか体の片面と六肢を水に浸けながら、水によって隔てられた二つの世界をその両の黒光りのする、もしかして生きているときから生命の光など灯っていなかったのかもしれない複眼に、ただただ映していた。
水溜まりがすっかり干上がる頃にはその六肢は体に御無沙汰していて、特に水についていた方の片面はより朽ちていた。そして軽くなったシンダバッタは風に吹かれ路地裏の隅に吹き溜まる。初めから無かったみたいに忘れるか、例えどれ程パーツが失われていようとこれはシンダバッタだと強弁するか。何なら最早シンダバッタではないとして妥当なのだろうか。
そしてある日、バッタが死んだ。
シンダバッタは森の中、モズに食われて落ちた右前足先だけを残しモズの胃の中に収まった。
右前足先は朽ちたり他の生物に摂取されたりと段々原型を無くしていった。
そしてある日、バッタが死んだ。
シンダバッタは住宅の庭で朽ちていき、虫に食われて消化された。
そしてある日、バッタが死んだ。
シンダバッタは自分を食った熊の胃の中で溶けつつ思う。
「…」
と。
そしてある日、バッタが死んだ。
そしてある日、バッタが死んだ
そしてある日、バッタが
そしてある日、バッタ
そしてある日、
そして
世界では余りにバッタが死にすぎていて、余りにシンダバッタが生まれすぎている。
余りに死を経験しすぎたバッタは、余りに生を経験しすぎたシンダバッタは、遂にたどり着いた。どこにということの難しい場所、ありきたりで不正確な言い方をすれば、死の向こう側とでも言える場所に。
この世に存在しているシンダバッタの数は遥かにバッタの数を凌いでいる筈で、シンダバッタは絶対に死なない事も理由の一つだ。この世で生まれるバッタとシンダバッタの数は時間的ラグを除けば同数であり、シンダバッタは絶対に死なない。この時、シンダバッタの数M[シンダバッタ]はバッタの生まれるスピードV[バッタ]かける時間tの式M=Vtで表わされる、これはバッタが生まれた瞬間に死ぬという近似値であるので、実際にはバッタの寿命Δtを引いてM=V(t-Δt)の式となる。従ってバッタとシンダバッタの差の比M´[シンダバッタ/バッタ]はM'=(t/Δt)-1となり、Δtの値は変わらないためとんでもないスピードで増大している……
しかしおかしい。バッタとシンダバッタの量の違いとは何なのか。シンダバッタは死なない故に自身の体裁の崩壊をバッタ以上に許容せざるを得ない。
シンダバッタの足は取れ、胴体は引き裂かれ、内臓はバクテリアに侵される。
全てはエントロピーの増加の渦、即ち時の流れに飲み込まれてランダムに崩壊していく。
それでもシンダバッタは死なない、二度と死なない。その時、もしもシンダバッタを構成する炭素が樹木の一部として取り入れられたとして、最早その炭素がシンダバッタであるのかそこに運ばれる過程がシンダバッタであるのか、はたまたその樹木自体がシンダバッタであるのかは不明であり、この世界のどこにでもシンダバッタは、質量、空間、概念として存在しているし、バッタの中にシンダバッタがあることも珍しくは無いだろう。勿論妥当性という判断基準は付きまとうが、強弁を制限する理由もない。
そう、シンダバッタは思うかもしれない。
しかし、きっとそんなことは無いのではないか、と思ったのは、バッタなのかシンダバッタなのか、他の何かなのか。
そしてある日、バッタが死んだ。
そこは夢のように幻想的で広大な場所、緑が地平を覆い尽くし空が何処までも高く広く無限をも思わせる大きさを持つ、この世界のどこにもない場所。
そのシンダバッタがかつてバッタであったかどうかも霞んで分からなくなってしまいそうな漠然とした空間。
しかし、シンダバッタにはそんなことはどうでも良かった。
それに、シンダバッタは死んでいたからどうでもいいとも思わなかった。
その複眼は多くの目の一つ一つに様々な情景を映す。
深海ともクジラの中ともつかぬ真っ暗闇や自身の上を這う蟻を、
その聴覚は様々な音を聞く。
吹き荒れて一面を白く染め上げていく吹雪の音や路地裏から聞く都会の雑踏を、
春を、夏を、秋を、冬を、
空も、川も、海も、山も、
朝だって、夜だって、なんだって感じていた。
そんなシンダバッタが無限にいた。地平を覆い尽くす緑は全てシンダバッタだった。
地面はシンダバッタに覆い尽くされ、何処まで深く探ってもそこにはシンダバッタしかなく、最初の地面があったのかすら分からない。
太陽なんて昇らないのに青い空があり、高く何処までも上がって行けばそこにはまたシンダバッタの山があるのだろう。
全てのシンダバッタが感じるそれぞれが無限の世界共はいかなる過酷であっても必ずどこか美しく、情緒に満ちている。
感じるはずは無かった感覚にシンダバッタ達は打ちひしがれ、喜び、悲しみ、震える。
それらは幸せだった。
ただ一つの問題点、それらは死んでいる為に何も感じる事が出来ないという点を除いては。
シンダバッタは思う。
「……」
と、