携帯電話
僕は何の気なしに携帯電話を開いた。
「ほおお。それがスマホってやつかい。実物は初めて見たよ」
婆ちゃんは僕の手元を食い入るように見つめる。
「うん。スマホ。これ。ゲームとか出来るんだよ」
僕は誇らしげに婆ちゃんに見せる。
「ああ。空。言い忘れてたけど、たぶんこのあたり電波届かないと思うよ」
母はお茶をすすりながらあっけらかんと言った。
「え?電波届かないって・・・・・・それ本気で言ってるの?」
「スマホ見たらわかるでしょ?電波は通じないの」
「本気でで言ってるのそれ?え?ここ日本だよね?」
「日本だし、県内よ。でもまあちょっと歩けば電波の通じるところもあるけど。でもさ。携帯電話が通じないってそれだけで贅沢なのよ」
「贅沢なもんか!携帯電話が通じないって普通じゃないよ!」
「そう?私、本当は携帯電話持ちたくないよ。どこでも通じるってことはどこでも誰かの相手をしなくちゃいけないわけでしょ?それって大変じゃないの?」
「大変・・・・・・じゃなくない」
「空は優しいんだね。私には無理。本音を言えば携帯電話に振り回されたくない。携帯電話を忘れたら不安になるってのも嫌。だいたい、電話を忘れたから不安になるってのは自分が連絡取れなくなる不安よりも、相手の着信を無視したって思われたらどうしようって不安じゃないの?」
「それでも。なんだか気持ち悪いじゃないか」
「気持ち悪いって何?24時間誰とでも繋がってたいの?空。それは違う。24時間繋がってると思うのはあなたの勘違い。だと私は思う。でも私はあなたを言い負かそうと思ってこんな話をしているんじゃない。これはあくまでも私の意見。空がどう感じるか?空がどう考えるか?空がどんな意見を持つか?それは空にしか出せないものなのよ。その上で私は言うわ。24時間他人と繋がるなんて私はまっぴらよ」
「まっぴらって。だって夜中に電話かけてくる人なんていないでしょ?」
「電話だけじゃない。メールだってそう。結局は相手の暇つぶしだったり、相手の不満を聞くだけのものだけじゃないの?食事する時間だって人それぞれ。自分が食事し終わったからって相手は食事中じゃないって保証はどこにあるの。自分がお風呂出たから相手はお風呂に入っていないってなぜ言い切れるの?自分が暇だからっといってかけた電話の相手が、相手にとって大事な時間じゃないって誰が言い切れるの?」
少しだけ母の顔が赤くなっている。
「・・・・・・私は空と話をしたかった。これも私の主観でしかない。でも、突然かかってくる電話の相手をするよりも、私は空ともっともっと話がしたかった」
「・・・・・・母さん」
僕は言葉に詰まる。
返す言葉が見つからないのだ。
母さんが僕ともっと話をしたかっただなんて。
「と。いう事で、空は今から私に反論しなさい」
母は机に座り直し、両肘をついて、僕の顔を覗き込んだ。
「反論って。突然言われても」
「そう?僕には携帯が必要だ!とか、人と繋がるのは大事な事なんだ!とか言わないの?私はね。空の意見が聞きたいのよ」
僕は目が泳いでしまう。
母さんは家でこんなに多弁ではなかったように思う。
実家に帰ってきたからなのだろうか?
いや。
もしかしたら元々、よく喋る人だったのかもしれない。
部屋の扉を閉ざしてから僕は父と母との接触を避けてきたのだから。
僕は婆ちゃんに目で助け舟を求めるが、婆ちゃんは呑気にお茶をすすっている。
逃げられない。
僕の心がそう答えた。
「・・・・・・んんっ。携帯電話は必要だと思う」
僕は咳ばらいをしてやっと声が出た。
咳払いしなくては声が出ないほどであったのだ。
「どうして?」
「・・・・・・人は繋がりたいんじゃないの?」
「そうだね!」
母は優しい微笑みを浮かべた。
「それも答えよね。うんうん」
母は大仰に頷く。
滑稽なほど頷いて。
そして笑った。
「人は人と繋がりたくて電話を作ったんだもんね。わかるよ」
母は僕の頭を優しくなでた。
母に頭を撫でられるなんていつぶりだろうか?
それどころか、母の体温を感じる事すら久しく感じた。
「ね。空。子は親の半身なんて言葉があるけれど、親と子でも、意見が違うの。おもしろいでしょ?」
「いいセリフ言うタイミングじゃないのかよ?」
「いいセリフって何よ」
母は笑う。
「・・・・・・僕を諭すみたいなセリフを言うんじゃないの?」
「私はそんな事言うつもりないわよ。私はあなたより20年長く生きただけ。あなたの生きている世界はあなたしかわからない。アドバイスはするけど答えはあなたしか出せない」
「答えは・・・・・・僕が出すの?」
母は頷く。
「愚者は経験に学び愚者は経験に学ぶなんて言葉があるけれど。さっき話し合った携帯電話の歴史なんて50年もないのよ。携帯電話ひとつとっても経験で学ぶしかないじゃない。賢者は経験則を無視するのかって私は言いたいわ」
「名宰相を否定するとか。母さんは恐ろしいな」
「恐ろしいって何よ。否定はしない。肯定もしない。誰かの意見に流されるのもいい。誰かの意見に反発するのもいい。でも。結局最後の答えは自分で出すものなのよ」
母は喉を鳴らすようにお茶を一気に飲み込んだ。
「空。面白い話があるわ」
「面白い?」
「閉店ガラガラ」
「ハードル上げ過ぎるなよ!」
「井の中の蛙、大海を知らず。知ってる?」
「それくらいは知ってるよ」
「意味はわかるわよね?」
「まあ。なんというか・・・・・・お山の大将みたいな?」
「でも。この熟語には続きがあるの」
母はもったいつけてコホンと咳ばらいをした。
「続き?」
「されどその深さを知る。よ」
「え?そんなことわざだったの?」
「噓よ」
「ええ??凄くいいセリフだったんじゃないの?」
「正確に言うと、ある大学教授が後付けした言葉らしいのよ。でも、それで私はこの諺が好きになった。歴史に学んで経験に学んだから出た諺じゃないかしら」
「うん・・・・・・・うん。確かに良い諺に生まれ変わったよね」
「そこで私は考えてみたの」
「何を?」
「ネガティブな諺を前向きにしようって」
「ネガティブな諺を?」
「犬も歩けば棒に当たる」
「ああ。うろついていると人に棒で殴られるって話だよね」
「されど躱す」
「母さん?」
「猫に小判」
「価値のわからない人に与えても価値がわからないって話ね」
「されどその重さを知る」
「いいような悪いような」
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
「何事もほどほどが大事って意味だよね」
「されど、その深さを知る・・・・・・・よ」
「母さん。センス無い」