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きのこクラブ  作者: 海老ピラフ
4/5

塩昆布

母は少しだけ坂になったところを勢いよく上がり車を停車させた。


庭には落ち葉が積もり、庭というより、落ち葉の絨毯のようでもあった。


母は車を降りると道端に立っていたおばあちゃんに駈け寄る。

「母さんただいま」

「ただいまなんていつまでも言うんじゃないよ。あんたは島田家の嫁になったんだ。だからただいまじゃなくてお邪魔しますだろ」


「ええ?お邪魔しますも変じゃない?だってここは私の家でもあるんだよ」

「それもそうだねえ?なんていうのがいいんかねえ?」


お婆ちゃんは憎まれ口を叩きながらも目を細めている。

やっぱり母が来たから嬉しいのかな。


祖父を亡くしてからずっと一人暮らしだったって言うし。


お婆ちゃんは僕の顔を見るとさらに目を細めた。

目がまるで線のようになっている。



「おお。空かい。大きくなったねえ。いくつになった?」

「え?・・・・・・・ああ。15歳。もうじき16だよ」

「儂より大きいんじゃないか?」

「お母さんより大きいのは当たり前よ。この子、中学校の時、1番背が大きかったんだから」

「ほう。そうかいそうかい。それはすごいねえ」


お婆ちゃんは歩み寄ると僕の手を握りしめた。

がさがさとした手だが、温かい体温が僕に伝わってくる。


「ほう。なんだい。手が冷えてるじゃないか。婆ちゃんが温めてあげよう」


婆ちゃんは僕の手を優しく撫でた。

気恥ずかしい。


でも。


人の体温ってこんなに温かいのか。


僕は背の曲がったばあちゃんの白い髪を見ながらただただ、乾いた音のする手のぬくもりを感じていた。


「母さん。私には?」

母が甘えた声を出す。


「あんたは母親なんだから我慢しな。なんだいいい歳して」

「ぶううぅ。じゃあ握手」


母はばあちゃんに手を差し伸べた。

婆ちゃんは笑いながら母の手を取る。

「あんたはいつまで経っても子供だねえ」

「あたりまえじゃん。私はいつまで経っても母さんの子供だよ」


二人はにっこりと笑う。


僕は今まで母のこんな顔は見たことがない。


「さあ。疲れたろう。汚いところだけど二人ともあがりな」


婆ちゃんは引き戸の玄関をからからと小気味よい音を立てながら開ける。

「汚いところってなによ。先週、私が掃除したばかりじゃない」

母が小さくむくれた。

「あんたは日本人の心遣いってのがまだまだわかってないねえ」

婆ちゃんは笑う。


僕たちは客間に通された。

客間という表現が正しいのだろうか?

応接間というには心苦しい。

しかし、埃一つない、清められた畳の上に黒い艶のある机が置かれた部屋だ。


僕は畳の香りを肺一杯吸い込んだ。


「待ってな。今、お茶淹れてくるからね」

僕たちを客間に通した後、婆ちゃんはお湯を沸かしに席を立つ。


「ああ。そうだそうだ。」


婆ちゃんは慌てて戻ってくると、大きな窓を開いた。


「あんたら花粉症じゃないよね。せっかくだから綺麗な空気を吸って待ってな」

「だからぁ。私が先週掃除したんだから綺麗な空気だって」

「あんたは侘びさびがわかってないよ」


婆ちゃんは再びキッチンに向かった。


大きく開かれた窓から見えるのは新緑の木々。

川のせせらぎ。

そして時折聞こえる鳥の鳴き声。


灰色の道路は見えるが、車はまったく通らない。


僕は思わず呟く。

「日本?ここ?」

母は笑う。

「日本よ。不思議でしょ?夏だって窓を開けたら涼しいし。エアコンなんていらないくらいよ」

「へえ。エアコンいらずなの?」

「まあ、川が近いから蚊は多いけどね。それもやぶ蚊」

母は腕をぱちんと叩くふりをする。


「でもね。夏になると蛍が見えるの。空。見たことある?」

「うっすら記憶はあるけど」

「今でもここには蛍がいるのよ。近所の人が田んぼを起して水を入れるのが合図。その後は不思議と蛍が一面に飛び回るの」

「蛍・・・・・・か」


僕は何の気なしに呟いた。

「私は空に蛍を見せたい」

「蛍を見せたいって。まだ何か月も先の話でしょ」

「だから見せたいんだってば」

「じゃあ、蛍が出たころまた来るよ。僕も蛍見てみたいし」

「じゃあ蛍を見るまでここで暮らすよ」

母は力強く微笑んだ。

「は?何言ってるの?今日はお婆ちゃんの家に来ただけでしょ?」

「何言ってるの?私たちはここで暮らすのよ」

「は?」


僕は絶句してしまった。

「空は、お婆ちゃんと私の三人でここで暮らすの」


「な・・・・・・何言ってるんだ?え?何?離婚とかいうやつ?」

「何言ってるの。私とパパは仲良しよ」

「え?意味が分からないんだけど」

「だから。パパは今朝、空に遊んで来いっていったでしょ。そのままの意味よ」

「それは今日一日、遊んで来いって意味じゃないの」

「1日じゃ遊んだ事にはならないでしょ。パパの言った意味は学校を忘れるくらい遊んで来いって意味なの」


その言葉を聞いて僕は突然激高してしまう。

「なに言ってるんだ!学校を忘れるくらいってなんだよ!学校を忘れられるわけがないじゃないか!!学校は行かなければならない場所なんだろ!お母さんだってそう言ってたじゃないか!」


母は笑顔を崩さない。

「空。聞いて。私はあなたが嫌だと言うなら私は高校を辞めても構わないと思っている。あなたは私の可愛い息子。世界が敵に回っても私はあなたの味方なの。あなたを苦しめる学校が憎い。あなたを苦しめる環境が憎い。・・・・・・そしてあなたが毎朝、戦っているのを私は誰よりも知っている」

「だったら・・・・・・僕が高校を辞めてもいいってのかよ」

母は力強く頷いた。

「いいわよ。パパも私と同じ意見」

「でも・・・・・・」

「無理してまで苦しむ事はないの。もしかしたら、今、私がしている事もあなたを苦しめているのかもしね。でも。人生は色々あるから人生なの」


母は立ち上がり縁側に座り直した。


「空。見て。あの吊り橋」


僕は母の伸ばした指先を追う。


「あの吊り橋は空が生まれる前からあそこにあるの。ただ人を渡すために存在するのよ」

「だから・・・・・・だからなんだよ?」


母は笑う。

「へへ。私にもわかんない」

「うまいこと言うんじゃないかって思ったじゃないかよ!」


いつの間にか僕の顔は笑っていた。


「まあまあ。あんたら喉乾いただろ。お茶と梅干。今年の梅はうまく漬けられたから自信作だよ」

「梅酒は?」

「あるけど。あんた昼間から呑む気かい?そりゃあ甘いってもんだ」

ちえーっという声が聞こえ、母は黒く艶やかな机についた。


母はお茶を一口吸うと湯呑を高々と掲げた。

「くうう。この一杯の為に生きてるなあ」

婆ちゃんは母の大仰な仕草に笑う。


「空。あんたも飲みな」



鮮やかな若草色。

湯気とともに、お茶の香りが僕の鼻をくすぐった。

「・・・・・・いただきます」


ぬるめのお茶が舌の奥に甘みを感じさせる。

お茶が甘く感じたのは初めてだ。


「おいしい・・・・・・」


言葉に出ていた。


婆ちゃんは自慢することもなく、小皿を僕の目の前に差し出す。


「今年漬けた梅干と、塩昆布だよ。空にはチョコレートのほうがいいかもしれないんだけど。今、家にあるのはこれくらいしか無くてねえ」



僕は細く切れた昆布に指を伸ばした。


「・・・・・・おいしいよ」

「ああ。良かった。ばあちゃん嬉しいよ」


お婆ちゃんはそれ以上、何も言わず自分もお茶をすすった。


春風の若葉が薫る風が部屋を通り抜けていく。


僕はいつの間にか言葉を忘れていた。


学校では、喋らなくてはいけないという妙な使命感をもっていたのに。


誰かと会えば、話したくなくても言葉を発していたというのに。


今は沈黙が苦ではない。


ばあちゃんも、お母さんも、そして僕も湯呑を両手に抱え、ただ、ただ外を眺めている。


小鳥のさえずりが愛おしい。

川のせせらぎが愛おしい。


そして。

この時間が僕には愛おしくてたまらなかった。




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