伊久見村
僕は母の運転する車に揺られていた。
僕の目に映る景色は制服に身を包んだサラリーマンや学生たち。
白いシャツに黒い制服。
まるで葬式に参列する人たちのように見える。
「空。こうやって出かけるのも久しぶりね」
母の妙に明るい声が車内に響く。
「そうだっけ?」
「そうよ」
「で。どこ行くの?」
「お婆ちゃんの家。昨日言ったでしょ?」
ふうん。とだけ僕は答えた。
おばあちゃんの家か。
そういえば本当に久しぶりだ。
幼いころ、お爺ちゃんにおこずかいをもらった記憶がある。
そのお爺ちゃんはもういないんだけど。
そういえば親戚の家に行くなんて事も煩わしくていつしか僕は行かなくなっていた。
お盆や正月、みんな集まっているようだったけど。
お年玉をもらう事よりも、僕は人に会いたくなかった。
車は徐々に山間に近づいていく。
左には大きな大きな川が流れている。
流れているといっても、水は少なく砂利ばかりだ。
水が無いのは上流にダムがあるかららしい。
そこかしこにサイレンが鳴ったら川から離れましょうなんて古臭い絵で看板が立てられていた。
僕は台風の過ぎた次の日、この川を見たことがある。
茶色い水が轟轟と唸り声を上げて、木々すら押し流していくのだ。
その流れはすさまじく、普段、公園として使われている河川敷にまで水が押し迫っていたのを覚えている。
焦点の合わない景色を眺めていると川の向こう岸には高校がうっすらと見えた。
僕は慌てて目を反らす。
こんなに離れていれば僕の顔なんて見えるはずもないのに。
僕は何に怯えているんだろう?
僕は何を求めているんだろう?
僕は何を欲しているんだろう?
たくさんの友達?可愛い恋人?優秀な成績?
僕は将来というものを考えていなかった。
なりたい職業があるわけでもない。
目指す学校があるわけでもない。
高校ですら周りの流れに乗ってしまったばっかりに3年間も通わなくてはならなくなった。
それを大学に進む?
考えたくもない。
これから7年も学校という建物の中で何百人もの人間と過ごしていかなければならないかと考えるだけでぞっとしない。
「空。少し、外でようか」
「いい。僕は車の中にいる」
「そう?いいじゃない。誰もいないんだし」
母は採石場を過ぎ、しばらく進んだところで、車を道端に寄せた。
考えてみれば、もう1時間近く車を走らせているのだから、運転に疲れたのかもしれない。
「ほら!空!すごいわね!」
車から降りた母は興奮した声でガードレールから下をのぞき込む。
僕は驚いて車から慌てて下りた。
「なにやってるんだ!危ないだろ!」
「だって。ほら!」
少し前から見えていた。
改めて近づくと、確かにその迫力に圧倒されてしまう。
ダムの放水だ。
眼下に見える灰色の要塞からは濃緑の水が噴き出していた。
「人間って凄いわよね」
「なんで?」
「凄いじゃない!だってこんな大きな壁を作ってしまうのよ」
壁・・・・・・か。
「それに・・・・・・さっき潜った高速道路も凄かった。新しい高速道路らしいけれど。いつか通ってみたいわね」
「母さん。高速道路運転した事、無いじゃないか」
僕は呆れてしまう。
制限速度ですら出しきれない母に高速道路が走れるもんか。
「あら?私は高速道路、走れないんじゃなくて走らないだけよ」
「走ったところ見たことない」
「だって勿体なくない?3時間かけて走るところを1時間で着いちゃうなんて」
「え?意味がわからないんだけど」
「だからぁ。私は道草が好きなのよ」
母は口元を押さえ、車に乗り込んだ。
僕が乗り込んだのを確認すると車のエンジンがかかる。
「あと、1時間くらいね」
「おばあちゃんの家まで?」
「そうそう」
妙に明るい声を出した母はアクセルを踏み込む。
ガードレールがあるとはいえ、左は谷底。右はコンクリートに固められた切り立った法面が見える。
くねくねとカーブを曲がると、見たこともない名前のお店が見ええてきた。
作りはコンビニみたいだけれど。
駐車場を同じくした立ち食いソバ屋も隣接している不思議な光景だ。
「空。お腹すいてない?私、このお蕎麦屋さん好きなんだあ」
「好きも何も」
僕は人差し指を伸ばす。
「あちゃあ。早すぎたかあ」
扉は空いているが暖簾は店外に設置されているベンチに垂れ下がっていた。
「まだ営業前なんじゃないの」
「まあまあ」
母は笑ってお店に近づく。
「ごめんくださーい」
僕は気恥ずかしくなって慌てて母の腕を掴んだ。
「やってないって!店の雰囲気みたら開店前だってわかるだろ!」
「いいからいいから」
母は掌をひらひらさせる。
恥ずかしい。
そば一杯の為に開店前のお店に入っていくなんて。
「なんだい?」
母の声に誘われて白衣を着たおばさんが手を拭きながら店の奥から出てきた。
僕は気恥ずかしくなって店から外に出る。
だから。
どうせ。
断られるんだって。
駐車場には先ほどのダムから放水される水の音が聞こえてくる。
「おおい。空。おそば食べようよ」
僕の背中に呑気な母の声が聞こえてきた。
「僕いらない。食べるなんていってないじゃん」
「それは困った。お母さんお蕎麦2杯も食べられない」
「もう頼んだのかよ」
「だって。私と空。二人でしょ。二人だから二杯頼んだの。いけない?」
「・・・・・・・いけないって・・・・・・わかったよ」
僕は顔を伏せてしぶしぶ店内に入った。
店内は静かだった。
包丁がまな板を叩く音だけが響いている。
店内から見えるガソリンスタンド。
時々通る車が吸い込まれるように入っていく。
「お待ちどうさま」
母と僕の目の前に湯気の立つお蕎麦が運ばれてくる。
「ごめんなさいね。無理言って」
「いいよ。いいよ。どうせ暇だったんだから」
おばちゃんはにっこりと笑って店の奥に再び入った。
母は手を合わせいただきますと言った。
灰色の丼に茶色いスープ。
黄色い生卵。緑のネギ。
それだけだ。
それだけしかない蕎麦を母は愛おしそうに口に運ぶ。
店内には蕎母の麦をすする音だけが響く。
「おいしいね」
「僕はまだ食べてない」
「あら。それはもったいない。熱いうちに食べなさいよ」
母に促されて僕は蕎麦を口に運ぶ。
飾り気のない味だが、なんだか懐かしい味がした。
「空。覚えてる?」
「なにが?」
「あなたが小さいころ、よくこのお店に寄って行ったのよ」
「覚えてない」
「そう?私は憶えているわ」
母はその後、言葉をつなげる事もなく蕎麦をすする。
僕は言葉を探すことなく蕎麦をすすった。
温かい。
自然と垂れてきた鼻水をおしぼりで拭く。
春といってもまだまだ朝は寒い。
特にここは山間だ。
温かい蕎麦が僕の体を通っていった。
僕が食べ終わるのを待って母はおばちゃんにお会計をする。
無理言ってごめんなさいね。という声が聞こえてきた。
無理を言うなら我慢すれば良かったのに。
「空。お待たせ」
母は満足そうな笑顔を僕に見せた。
母さんってこんなに笑う人だったかな?
僕はなんとなく思った。
「空。おトイレ大丈夫?これから先、お店は無いわよ」
「お店が無いってどういう事?コンビニくらいあるでしょ?」
「無いわよ」
「は?」
まだ、家から1時間程度しか離れていない。
コンビニすらないって?
コンビニくらいあるだろ?
「まあお店はあるんだけれど、私の実家よりもっと奥にあるの。実家までは車であと40分くらいかしらね」
「え?その間にコンビニあるでしょ?」
「無いわ。強いて言うならここが最後のコンビニ。この奥にいくら進んでもコンビニは無い。もちろん山をさらに越えたらコンビニはあるけれども。ここからその山道を越えていくなら2時間はかかるわね」
僕は絶句してしまう。
コンビニなんて家から5分も歩かずに見つかるのに。
僕がおばあちゃんの家に行ったという4幼稚園の頃から数えたらもう10年以上も経っている。
コンビニくらい出来ていてもおかしくないんじゃないか?
僕は慌てて先ほど出たお蕎麦屋さんのトイレを借りた。
おばちゃんは「伊久見村に行くんだってね。道が狭いからお母さんに運転気をつけなさいねって伝えといて」
僕はその声にただ頷いた。
伊久見村。
少しだけ記憶がある。
お爺ちゃんの笑顔。お婆ちゃんのお菓子。
そして。
家族でしたバーベキュー。
僕は車に乗り込む。
母は誰かと電話で話していたようだが、僕の姿を確認するとすぐに切った。
エンジンの振動が体に伝わる。
くねくねとまがる道。
道路の上には山から這い出したように生える木々が影をつくる。
道路にかかる木って。
僕は内心呆れてしまう。
そして山肌から流れてくる水が道路を濡らしていた。
「婆ちゃんの家ってこんなに凄いところだった?」
「私は毎月来てるから違いはわからないけど、まあ。昔からこんなところだったわよ」
母は笑う。
「強いて言うなら道は良くなった」
「これで?」
車は区画線すら引かれていない道路を進んでいく。
「もっと左に寄ったほうがいいんじゃないの?」
僕は呟いた。
「寄りたいんだけど」
母はハンドルを右に切る。
「寄りたいんだけどね。落ち葉で側溝が埋まっているからあんまり寄ると脱輪しちゃうのよ」
僕は母の言葉を聞いて視線を移した。
確かに道の端には茶色く染まった落ち葉が積もっている。
この下に側溝?
こんな側溝じゃあ水は流れないんじゃないか?
蓋は?
「なんでかしらね?私もわからない。蓋くらいつければいいと思うけど。蓋つけたら溝さらいが大変だからじゃないの」
よっと。
母はハンドルを左に切った。
右手に川が流れている。
水量は多いように感じるが、底まで見える清流だ。
向こう岸の森の中から伸びるワイヤーがとても不思議に見えた。
「母さん。あれは何?」
「ん?ああ。あれはね。あのワイヤーで向こう岸から積んだ茶葉をこちら側に送るの。茶葉だけじゃないけどね。タケノコだったりシイタケだったり」
「あの箱は?」
「ミツバチを飼育しているのよ」
テレビで観たミツバチの飼育場は大量の箱が置いてあったように見えたけど。
苔の生えた木の板で四角に作られた箱にトタンの屋根が乗っているだけ。
あんなものでミツバチを?
「不思議?」
母は悪戯っぽく笑う。
「うん」
僕は素直に頷いた。
「あれは日本ミツバチの巣なのよ」
「日本ミツバチ?え?蜂に日本とか外国とかあるの?」
「あるわよ。びっくりじゃない?」
「外来種ってこと?」
「どうかしら?外来種って言葉って外から来たって事でしょ?だいたいは人間が運び込んだものだから外から運んだ外運種って言いたいところだけど。でも誰も責任持ちたくないんじゃない?日本のブラックバスにしてもアマゾンの鯉にしても誰が最初に運んだかは記述がないもの。もちろん西洋ミツバチは人間が運んだものよ」
「じゃあ。西洋ミツバチは日本ミツバチの敵なの?」
「敵かどうかはわからない。人間が運び込まなくてももしかしたら何千年後にはなにかのきっかけで西洋ミツバチが日本で繁殖してたかもしれないしね。それに日本ミツバチはもともと養殖が難しいって何かで読んだことがあるわ」
母は得意げに話す。
あれ?
母さんってこんなに話す人だっけ?
「ほら。見てみて。吊り橋よ」
清流にかかる吊り橋。
その吊り橋も森の中に伸びていく。
「思い出すわ。空。あの吊り橋の上で大泣きしたのよね」
「覚えてない」
「父さんに抱かれてよ。タケノコ掘りに行くんだってプラスチックのシャベルをもって息巻いてたんだけど。空は橋の中央で大泣きして。お父さんも困り果てた挙句に結局何も取らず戻ってきたのよ」
「母さんは?」
「笑ってみてた」
「ひどいな」
僕は少しだけ笑う。
「ほら。見えてきた」
母がハンドルから左手を離して指さした。
道路には僕の記憶よりも少しだけ背中の曲がったおばあちゃんが手を振っていた。