朝
その日の朝は不思議な空気だった。
学校に行きなさいと口うるさく言う母が静かに僕の部屋に入って来たのだ。
「空。学校行かなくていいから一緒にご飯食べよ」
目は覚めていたが、僕は寝たふりをする。
「・・・・・・空。お願いだから」
僕の体を揺する母の声は震えていた。
いつも気丈だった母がである。
僕は「んん・・・・・・」と、起こされたふりをした。
「・・・・・・おはよう」
「おはよう。空」
母の複雑な表情は僕のなにかを強く叩く。
でも、それが何かはわからない。
僕は寝巻のまま母の背中についていくように階段を下り食卓についた。
父は僕の目を見ようともしない。
僕の事よりも新聞の方が大事なのだろう。
テーブルには炊き立てのご飯と、納豆。そして目玉焼きがならんでいた。
「あなた。空。お茶飲むでしょ?」
僕の家には急須が二つ並んでいる。
父は玉露のような深い緑のお茶が好きだった。
僕はその渋いお茶がどうしても好きになれない。
母もそうらしい。
だから我が家には自動的に、父専用の急須。母と僕が使う急須。二つの急須が並ぶようになったのだ。
僕は納豆をかき混ぜる。
ねちゃねちゃという不愉快な音だけがリビングに響く。
父はそんな音など意に介さぬように新聞を凝視している。
・・・・・・僕の目すら見もしない。
僕が、納豆をご飯にかけようと器を傾けると、突然、父が立ち上がる。
時計を見ると針は7時と5分をさしていた。
この人は。
僕は心の中で舌打ちをする。
父は昔から判を押したように7時5分に家を出る。
母が話をしようが。僕が話をしようが。
7時5分を過ぎると、何事もなかったように玄関に向かうのだ。
くだらない。
僕は思う。
1分2分過ぎたとして何だというのだ?
この人はいつもそうだ。
時間というものを分単位でしか考えられない人間なのだ。
くだらない。
僕は心の中でつぶやく。
母が、父の後を追っていく。
リビングからはその姿は見えないが父に弁当を手渡しに行ったようだ。
母のいってらっしゃいという声が聞こえる。
玄関の扉が開く音が僕の耳に届く。
僕は小さな声でいってらっしゃいとだけ呟いた。
父の耳に聞こえるはずもない声量で。
いつまでも扉の閉まる音が聞こえてこない。
春風がリビングまで通り抜けていく。
学校に行きたくないとき、扉の閉まる音は僕にとって一つの峠を抜けた事を意味していた。
学校にいけ。学校にいきなさい。
父が、扉を閉めることで、学校に行けという声は消えるのだ。
だが、なぜか母も戻ってこない。
父の不愉快なほど低い声で「いってくる」という言葉も聞こえてこなかった。
僕は不思議に思い耳をそばだてた。
「空!」
突然。父の声が響く。
「空!お前は一人じゃない!お前は・・・・・・お前は俺の大事な息子だ!」
僕は驚いて息を止めてしまう。
水中でもないのに。
「お前は大事な大事な息子だ!俺はお前を一生守る!・・・・・・守りたい!でもな!」
父の声が震えていた。
いつも低い声でしか話さない父の声が震えていた。
「俺の一生では、お前の一生を守ってやれないんだよ!・・・・・・・それでも」
突然、扉の閉まる音が聞こえる。
父の声はその後、聞こえて来なかった。
妙に静けさの残るリビング。
時計は7時11分を指している。
母は静かに戻ってきた。
僕は慌てて携帯電話に目を向ける。
視界に飛び込んだ母の目が赤かったからだ。
「・・・・・・空。お父さんから伝言」
「伝言?」
「うん」
「伝言?顔見て言えばいいじゃん」
そんな僕の言葉に母は笑顔を崩すことはなかった。
真っ赤な目で、笑顔を崩すことはなかった。
「空」
「なんだよ」
「遊んでこいってさ」
母の真っ赤な目は強い意志を秘めているように。
僕には見えた。