プロローグ
「あいつはまだ寝ているのか」
あの人が帰ってくるといつもの言葉が聞こえてくる。
低い低い親父の声。
本人は声を潜めているようだが、あの人の声は妙に響く。
扉を閉めているはずの僕の部屋まで聞こえてくるのだ。
「よくもまあ、毎日同じセリフが言えるもんだな」
僕はベットの中で悪態をつく。
もう、21時だ。
いつまでも寝ているわけがないだろう。
とはいっても何をしているわけでもないが。
おもむろに携帯を開く。
暗闇の中、妙に明るい画面に俺は目を細めた。
そういえば昼間、ニュースで言ってたな。
町を歩くだけでモンスターが捕まえられるアプリができたって。
「くだらない」
僕はただ呟いた。
「くだらない。くだらない。くだらない。全部がくだらない。なんで、僕は生まれたんだ。なんで僕はここにいるんだ?なんで生きているんだ?こんな思いするなら生きていない方がましだ」
僕は目を閉じる。
「死にたい。でも死ねない。自殺は逃げだなんて言うけど、死ぬことすらできない。僕は弱虫だ」
自分に悪態をつく。
答えの出ない思い。
目を閉じて眠る。そして僕に明日は来ない。
それだけでいいのに。
僕に未来なんてない。
未来なんてこなくていい。
明日なんて来なくていいのに。
僕は硬く目を瞑った。
だが、寝れるはずもない。
ああ。眠りたい。
寝ていれば僕は現実の世界から逃れられる。
「空ちょっといいかしら?」
突然、僕の部屋の前から母親の声がした。
「空?」
僕は聞こえないふりをする。
部屋の電気は消しているし、しばらくすれば諦めるだろう。
「空。開けるね」
僕は慌てて携帯を布団の中に押し込め寝たふりをする。
「空?寝てるの?」
僕は壁に顔を向けた。
母親に背を向けたのだ。
「空。聞いて。今、お父さんと話したんだけど・・・・・・明日。私の実家に行こう。お婆ちゃん覚えてるでしょ?といっても、空が最後に言ったのは幼稚園の頃だったかしら?」
明日?明日は平日だ。高校は?
無為な事を僕は頭に浮かべた。
僕は高校に通っていない。
入学して1日だけ通った。
それから1週間学校には行っていない。
嫌なことがあったわけではない。
ただ。
くだらないと思ったからだ。
小学校も、中学校も、嫌々通っていた。
1週間に3日も通わなかったけれども。
小学生の頃は勉強のくだらなさに辟易して通わなくなったことを覚えている。
教科書を数分めくれば答えはわかったからだ。
数分読めばわかることを授業という名のもとにだらだら過ごす無為な時間が許せなかった。
そんな僕が、1年だけ通った時代がある。
それは僕が6年になった頃。
何の気なしに毎日、通い始めたのだ。
通い始めただけで僕は学級委員長になった。
でも。その時の記憶は薄い。
だが。少しだけ夢中になった事がある。
柔道だ。
小学生の僕は痩せすぎていた。
なぜか陸上や水泳では学校でもトップクラスだったけれど。
でも。
陸上も水泳も興味が無かった。
仕方なくやっていたという方が正しかったのだろう。
水泳は特に嫌いだった。
水泳を辞めさせてほしいと先生に言ったこともある。
でも。
辞めさせてもらえなかった。
学校の中でも早く泳げるからだという理由で。
そんな中、自分で初めてやりたいと母親にせがんだのは憶えている。
幼馴染に借りた漫画がきっかけだった。
漫画の主人公は拳法をやっていた。
その漫画に憧れて僕はパソコンで格闘技を学べる教室を探した。
だが。
拳法はなかった。
その変りに見つけたのは剣道塾と柔道塾だった。
小学校を休んだ日に、剣道塾を見に言った記憶は今でも目に焼き付いている。
僕は道場には入らず、入り口で生徒たちが一心不乱に剣を振るう姿を見つめた。
外は真っ暗だ。
彼らに僕の姿が映っていたのかはわからない。
その後、地域主催で行う柔道場を見学に行った。
道場は町営体育館の2階にあった。
剣道場のように、暗がりから見学ができる場所ではなかった。
母親がつぶやく。
「空。どうする?」
僕は。
僕は。
くだらないけど。
「見てみたい」
とだけ言った。
今にして思えば道場で鍛錬する彼らにはどう映ったのあろう?
小学生にしては妙に背が高く、そして妙に痩せた僕を。
母親に手を引かれ道場の片隅に座った。
「空。みてごらん」
僕は母に言われるまでもなくあっけにとられていた。
中学生なのだろうか?高校生だろうか?
男ばかりの道場で、一人汗を流す女の人がいたのだ。
その女の人は特別強かったわけではない。
ただ、3度に1度は自分より大きな男の人を投げ飛ばしていたのだ。
僕は。
その名前も覚えていないお姉さんに憧れた。
恋だったのか?
憧れだったのか?
それは今になってもわからない。
中学校に通わなくなったのは、突然授業についていけなくなったからだ。
今にして思えば、小学校と、中学校の授業スピードが違ったのだろう。
方程式のひとつも知らない僕は完全についていけなくなった。
僕は心の中でつぶやく。
くだらないと。
一生懸命やって何になる。
たかが義務教育。
いずれこのくだらない生活から抜け出せられると思っていた。
でも、僕にとっての3年間は長かった。
15年という人生の中の3年間だ。
長くて当然なのだろう。
授業についていけない僕は学校に通わなくなった。
でも。
なぜか、柔道に関しては結果を残せた。
そのおかげで、高校には推薦をもらう事ができた。
でも。
やりたい事もない学校に推薦をもらったからと言って何になるのだろう。
本当は中学校を卒業したら就職したかった。
中学校で、幼馴染以外にできた唯一の友達が左官屋さんに就職したのを見て心底うらやましいと思っていた。
僕は今でも後悔している。
その友人に言ってしまった言葉を。
僕は唇を噛んだ。
そんな事で許されるなんて思っていないけれども。
「空。明日は起きてね。学校行かなくていいから・・・・・・起きてね」
僕の背中に母のか細い声だけが妙に突き刺さった。