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彼は猫しか愛せない

作者: 雨野夏色

人生で初めて書いた小説です。至らない点などあるかとは思いますが、温かい目で見守って頂けましたら幸いです。なお、理系の話題が作中に多く登場しますが、著者は専門的にそれらの分野を学習したわけではありません。内容には誤りがある場合も考えられます。何卒、ご容赦頂きますようお願いいたします。


プロローグ



北原聡介は猫しか愛せない人間だった。


彼が何かに対して「好きだ」とか「愛してる」だとかいう言葉を使ったのを、私が耳にする事はついに無かった。


彼のそうした感情は視線によってのみ表現され、その視線は猫にのみ注がれた。


膝の上で丸くなっている毛むくじゃらを撫でる彼の目は、どこか物憂げで、私はそのわずかに光る瞳を思い出す度に郷愁に似た形容しがたい感情にさいなまれた。


彼の些細なしぐさや、表情や、ふとしたセリフは、今も私の無意識下にその身を潜め、時折こうして意識の上層へとやってきては一瞬だけ私の思考を奪っていく。


そうして、彼の存在は私の脳みその中で野放図に、無秩序に、そして、確実にネットワークの枝葉を広げていく。




車窓を流れる景色をぼんやりと眺めていると、どれも故郷の風景であるような錯覚に陥る。


新幹線が東京駅を出発してから、せいぜい1時間程度しか経過していないのだから、生まれ故郷はまだ遥か彼方だ。


それでも、窓外にときおり見える小さな町や、穏やかな川面や、夏の陽光を浴びて濡れたように光る雑木林の濃い緑は、まだ遠い故郷の風景を想起させるのには十分だった。


いや、傍らにある缶ビールが一役かっていないとは言い切れないのだが。


しばらく外の景色を眺めては手元に開かれた小説に目を落とし、時折ビールの缶に手を伸ばすという動作を繰り返す。


しかし、私の思考は次第に目で追う文字列を無視しはじめ、遠い過去へ、私の脳みその奥深くへといざなわれる。野放図に伸ばされた枝葉の、その先端へと。




北原聡介との出会いはおそらく二十年ほど前になるだろう。


「おそらく」というのは、厳密な意味で「出会う」というのが二十年前のそれにあてはまるかどうか、私にはわからないからだ。


私が生まれ育った場所はかなり控えめな表現をしても、いわゆる田舎だった。


最寄り駅まで歩いて行くことは(駅に行く事そのものが目的で無い限りは)不可能だったし、信号機も地区内には数えるほどしか無かったし、大抵の家では出かけるときに鍵をかけなかった。


自宅から歩いてたっぷり三〇分の小高い山の中腹にある私の通っていた小学校は、一学年に1クラスというシンプルな構成だった。


そして、そのクラスの人数はどの学年においても、何とか二桁を保つ事によってその体裁を維持しているといった有様だった。


聡介はその小学校に私の1つ下の学年で入学していたらしい。


人間関係が濃密にならざるを得ない、こうした小さなコミュニティにおいて、彼と全く接触しないというのは、学年が違うとはいえ、まずありえない事のだったはずだ。


しかし、残念ながら、私の記憶にはその当時の聡介の姿は存在していない。


そもそも認識していなかったか、記憶されなかったか、あるいは、記憶してはいたものの、ほどなくして遠い忘却のかなたへと旅立っていったかのいずれかだろう。


自慢ではないが、私はいろいろな物事を忘却の彼方へと旅立たせるのが得意だった。


もう少し厳密な意味で聡介に出会った後でその事を話すと、彼は「それは立派な美徳ですよ」と言った。


その時、私に彼の言葉の真意がわからなかったが、今となってはなんとなく理解できる気がする。


いや、理解したい、と言うべきなのかもしれない。


とはいえ、彼に対する認識は他の人間も私のそれと大差は無いらしかった。


私の弟に至っては六年間同じクラスだったにも関わらず「あー、そんな人もいたっけ」程度の印象しか持っていないようだった。


人間とは、それほどまでに存在感が希薄になるものなのだろうか。


それとも、その希薄さもまた彼の言う「美徳」の一つだったのだろうか。



私の慎ましやかな脳みそが彼の存在を確実に認識し、靴紐の結び方だとか、フレミングの左手の法則だとかと一緒に「忘れてはいけないもの」の引き出しに放り込んだのは、さらに数年後の事になる。


 当時、私は高校の二年生で、バレー部に席を置き、ボールを追いかけて飛んだり跳ねたり転げまわったりするのに忙しかった。


今思えば、ほとんど無駄に思える事に日常のほぼ全てのエネルギーを費やしていたような気もする。


しかし、人生においてこれほどまでに無駄を謳歌できる年代も無いだろう。


そういう意味では私の高校生活は極めて全うに消費されていた。


年頃の乙女であれば否応無く絡め取られるという、あの悪名高き「色恋沙汰」とやらの引力すら、私の運動エネルギーを繋ぎ止めるには不十分だった。


日々行われる練習というマゾヒスティックな儀式に没頭する私に、クラスメイトたちは半ばあきれている様子だったが、彼女たちは彼女たちで、化粧の方法だとか、芸能人の情報だとか、英語の文法だとかにご執心の様子で、つまるところ、各々、思い思いの方法で高校生活というやつを、(言い換えるところの「無駄」というやつを)謳歌していたことに違いはなかった。



その日、私はいつものように部活動を終え、大腿四頭筋とか、下肢三頭筋とかに心地良い倦怠感を覚えつつ、通い慣れた帰り道を自転車で走っていた。


深まりつつある秋の夜風を切り、冴え冴えとした空気を吸い込むと、私の脳内ではその日で一番のプレイが鮮やかに再現される。


高々と舞い上がるボール。


放物線を描いて落ちてくるその動線が、私にははっきりと見える。全身がバネになる。


走る。


跳ぶ。


眼前に見える壁のわずかな隙間。


その間隙に向けて私は放つ。


穿(うが)つ。


私はその瞬間の筋肉の動き、息遣い、目線にいたるまで、思い出せる限り全ての感覚を何度も反芻し、大脳皮質の奥のほうにしっかりと刻み付ける作業に余念がなかった。




ふと、ペダルを漕ぐ足が動きを止める。


何かが聞こえる。


私の走っていた細い道の左手には、この田舎においては比較的大きな通りと呼べる道が平行して走っている。


大通り側には、ちょっとした日用品や食料品を売っている小さな商店があり、周辺には、血管にこびりついたコレステロールみたいにいくつかの家々が並んでいた。


その裏手、つまり、私のいる側の道に面しては、小さな広場に、もうしわけ程度の遊具が備え付けられているといった、実に質素で奥ゆかしい公園があった。


小さい頃は表の商店で駄菓子を買っては、公園のベンチに座ってそれを食べたりした記憶があった。


私の足を引き止めた何かは、その公園から聞こえてくる。


甲高く、短く繰り返されるその鳴き声を聞いてなんだか言いようのない不安感に駆られたのは、もしかしたら、私の中に小さな母性のようなものが芽生えていたからかもしれなかった。


自転車を降りると、私の足は吸い込まれるように公園の奥へと歩を進めた。


暗闇に慣れた私の目には月明かりが眩しいくらいに映り、公園の隅でこちらに背を向けてしゃがんでいる人物の影を浮かび上がらせる。


鳴き声はどうやら、その人物の方向から発せられているようだった。


やがて、その人物は私の存在に気付く。


いや、本当はもっと以前に気付いていたに違いなかっただろう。


そして、少し伏し目がちにこちらを見やった。


彼は泣いていた。


「あ・・・」


咄嗟に出る声というのは、どうしてこう間抜けに響くのだろうか。


暗闇と静寂がその余韻を連れ去っていくまでに、私はなんとも居心地の悪い思いをしなければならなかった。


彼はといえば、何事も無かったかのように、そのまま視線を足元に戻すと、深刻な様子でただ一点を見つめていた。


視線の先には段ボールの箱があり、中では小さな猫がうごめいていた。


茶トラが三匹と白黒が一匹で、メンデルの法則を表現しているみたいだった。


それから私は、その人物が私が通っている高校の制服を着ている事に気がつく。


一応、思い当たる人間が記憶の中にいるか脳内で検索をかけるが、すぐに該当者無しという返事が返ってきた。


「えっと、・・・大丈夫?」


これが、何に対しての「大丈夫?」だったのか、自分でも判断がつきかねた。


もしかしたら自分に問いかけていたのかもしれない。


とにかく、子猫も、そして、彼の事もその場に放置することはできなかった。


どちらも「何か」に助けを求めているようだったし、何故かわからなかったが、そのときの私にはどちらも同じくらい切迫した状況に身を置いていると感じられたのだった。


私は声をかけずにはいられなかったのだ。


彼からの返事はまだ無い。





私は彼に歩み寄ると、隣にしゃがんだ。


「この子猫、君が飼ってたの?」


今度の質問はいくぶんまともだったはずだ。彼が日本語を理解できる人物であることを願った。


「いえ…」


私は言葉の続きを待ったが、どうやら彼の言いたいことはそれだけだったらしい。


もしかしたら、日本語の理解はできるものの、話すことはできないという類いの人種かもしれないなどと訝ったが、私の脳みその比較的常識的な部分が考えを改める。


「ちょっと待ってて」


私はそう言うと、商店の脇にある自販機に向かった。


この田舎で一番の働き者は間違いなくこの自販機だと思いながら、あたたかいココアを二つ買うと、彼のもとに戻ってその片方を差し出す。


ココアに日本語の理解と発声を促す作用があると思っていたわけではない。


本来なら、刺繍でも入ったきれいなハンカチを渡すべきだったかもしれないが、あいにく私の持ち物の中には、既に部活で使用済みとなった手触りの悪いタオルしかなかったのだ。


それに彼は、自分が泣いている事など一切気にする様子がなかった。


もしかしたら彼は、ほっぺたが涙で濡れているときのほうが自然な状態なのではないかとすら思えた。


彼がおずおずとそれを受け取ると、少し間を置いて、「ありがとうございます」という言葉が返ってくる。


多分、言葉が口から出てくるのに多少時間がかかるタイプの人間なのだと、私は解釈した。


同時に、そういう人間に悪い奴はいないはずだとも考えた。


希望的観測にすぎないけれど。


「君が飼ってたんじゃないとしたら、捨て猫かな。随分小さいけど」


ココアの缶をもてあそびながら聞く。


「多分、生後1週間前後だと思います」


意外なほど冷静なトーンの言葉が返ってくる。


子猫たちはやっと目が開いたばかりといった様子で、まともに歩くこともままならないようだった。


きゅうきゅう鳴きながら頼りなげに四肢を動かしている。


きっと「名前はまだ無い」と言う事もできないだろう。


私は指数関数的に粘性を増す空気を分断する。


「あ、そういえば君、T高校の生徒だよね?私は―」


「桐野さんですよね。桐野えみさん」


こちらを振り向く事もなく、彼は私の名前を言い当てた。


「僕は北原聡介といいます。智弘くんとは同級生でした」


智弘というのは件の弟である。


「あ、そうなんだ。智弘の・・・」


もう一度、脳内検索を仕掛けるが、返ってくる答えは先ほどと同じである。


当の弟の記憶があのようなものなのだから、当然の結果だったかもしれない。再び沈黙が訪れる。


「この子たち、どうするの?」


なんとなく、聞かなければいけない気がして、私は尋ねる。


彼は、一瞬だけピクリと肩を震わせ、それから、すこし目線をそらし、たっぷりと逡巡してから意を決したように口を開いた。



「…殺します」



驚いたのは、発せられた言葉そのものせいではない。


彼からうかががい知れる、およそほとんどの人格的な情報が、その言葉とは間逆に位置するように思えたからである。


おかげで私は「殺す」という言葉の意味を今一度検討しなけれならなかったくらいだ。


単純に考えて、それはほとんど無理な事のように思えた。


倫理的に問題があるという意味ではではない。


彼がこの子猫たちを殺すというのは、最早この世の物理法則を覆すくらいの事に思えてならなかったのだ。


あるいは、それこそ「殺す」という言葉の概念を変えなければいけないくらいの事に。


唖然とする私の隣で、彼は再び子猫たちに視線を戻す。


温かく、柔らかな毛玉たちの上にぽとり、ぽとりと彼の涙が落ちていった。


彼は、私がここに来るずっと前から、そうして自分が下した決断を実行しようと試みていたようだった。


もしかしたら、自分の涙で溺死させようとしているのかもしれない。


それが物理的に可能だろうか、と、考えを巡らせる前にまた尋ねる。


「どうして?」


質問が多い女は嫌われる、と誰かが言っていたのを思い出す。


「この子たちは、まだ自力では生きていけません」


嗚咽を漏らすでもなく、彼の言葉には淀みが無い。


「だからって、君が殺す事はないんじゃないかな」


それが体のいい言い訳にしかならない事に気付いたのは、残念ながら最後まで言い切ってしまった後だった。


まったく、自分がやらなくても誰かがやるだろう、という考えは、トーストに塗られたマーガリンみたいに薄く、満遍なく、日常にはびこっている。


「この子たちは」


その言葉には、本当に自分の子供の事でも指しているかのような響きすらあった。


「このまま、ここで朝を迎えれば、カラスに食い殺されます。それは嫌です」


彼は「かわいそう」とは言わなかった。


だから、私は口にしかけた言葉を今度は飲み込まざるを得なかった。


「そんなのは、君のエゴだ」彼もそんな事はとうに理解しているに違いなかったのだから。


「つまり、君はこう考えてるわけだ。この子たちは自力で生きて行く事ができないし、自分もこの子たちを飼う事はできない。ほうっておいたら、いずれ残酷な死に方をする。だから、せめて自分の手で殺してあげたい。と」


彼はゆっくりと、1度頷く。


どうやら、「殺す」という事が本当に救済になるか、疑念を差し挟む余地は無かったらしい。


「・・・君ってさ、今までずっとそんな感じで生きてきたの?」


このとき、彼ははじめてまっすぐこちらに顔を向けた。


私の言っている事の意味がよくわからなかったらしい。


真意を測りかねているという表現が正しいだろうか。


無造作に伸びた髪の間からは、確かに二つの目が並んでいるのが見える。


それらは、まるで雪の穴蔵から出てきたばかりの白熊の子供みたいに、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。


「そうやって、ベストからワーストまでの間に、三つか四つくらい選択肢並べて、無理やりどれかを選んで生きてきたの?」


彼はまだ返答を探しているようだった。


「どうやら、君はまだ全然若いくせに、あきらめというやつに慣れっこになっちゃってるらしいね」


私は立ち上がって伸びをした。


乳酸が蓄積した筋肉に血液を供給してやらないといけない。


「バレーってのはさ、あきらめたら終わりなんだよ。」


彼の困惑は加速したかもしれない。


「ときには、間に合わないとわかっていても、ボールを追わないといけないんだよ」


私はそう言って、すこし冷めたココアを一気に飲み干した。


「さて、付いて来たまえ、ワトソン君。もちろん、その毛玉ちゃんたちも一緒にね。」






 今思うと、軽い興奮状態にあったのかもしれない。


私は小説を読むのをあきらめ、ぱたんと本を閉じる。


紺の布製のブックカバーには、クリムトのあまり有名じゃない絵画がプリントされている。


買った当初に比べると、それは随分と色あせてしまっていたが、私にはこの絵はそのほうが似合っている気がして、今ではいくらかの愛着を感じていた。


本の上に置かれた手は、あの頃に比べれば、色々な事を覚えてきた。


当時の私といえば、バレーボールみたいにぽんぽん空中に放り出すような方法で、なんでもかんでも解決できると思っていたのだから。


レシーブ、トス、スパイク!で、一丁上がりという具合にだ。


一つの場所に留まっていることなんかできなかったのだ。




 私の家に着くまで、聡介はずっと子猫たちから目を離さなかった。


彼は自分が持つ段ボール箱を揺らさないでいる事に全神経を集中させているようで、私はそのほうがかえって危ないんじゃないかとはらはらしていた。


その道中で交わされたぎこちない会話の中で、私は子猫たちを(殺す以外の方法で)救済する案を提示した。


つまり、一時的に私の家で預かり、知り合いに猫を飼う事ができる人がいないか探すという、ごく一般的な方法だ。


私の家では今の所、猫も犬も亀も金魚も飼ってはいなかった。


両親はあまり動物が好きではないからだ。


それでも、その両親を説得する事は、この世の物理法則を覆すよりはいくらか簡単なように思えた。


彼は子猫を飼育するにあたってのいくつかの注意点を、熱心に私に伝えた。


寒さに弱い事や、牛乳を与えてはいけない事や、排泄の処理の方法などだ。


どうしてそんな事に詳しいのかと聞くと、昔、家で飼っていた事がある、とこの事だった。


多分、何らかの理由で今は飼えないのだろうが、何故だか私はその理由を尋ねる気にはなれなかった。



家に着くと、聡介から段ボール箱を受け取り、彼には家に帰るよう言った。


子猫たちの事と聡介の事をいっしょくたに家族に説明するするには、私はいささか疲れていたし、そもそも、家族にうまく説明できるほど、自分がこの状況を理解しているとも思えなかったからだ。


「明日、あらためてお邪魔してもいいですか?」


「いいよ、明日は部活もないし」


そんな輸入車販売の営業マンみたいな口調を何処で拾ってきたんだと思いながら、返事をする。


都合のいい事に翌日は土曜日で特に予定も無かった。


聡介は子猫たちの身長でも測っているみたいに、一匹一匹を眺めまわし、最後に私の目を見て「よろしくお願いします」と言って頭を下げ、帰っていった。


ココアの缶はまだ開けていないみたいだった。



段ボール箱を抱えたまま、なんとか玄関を開けて(もちろん鍵はかかっていない)リビングに行くと、弟がソファに寝転んで本を読んでいた。


「ただいま。お父さんとお母さんは?」


少し間があって、「まだ」とだけ返事が返ってくる。


最近は両親が仕事で遅くなる事は我が家では珍しいことではなくなっていた。


きっと息子の高校入試が終わって、親としての義務はすっかり果たした気になっているのだろう。


しかし、おかげでその日は助かった。


「ねえ、使い捨てカイロってどっかに無い?」


そこではじめて弟は顔を上げた。


私が持っている段ボール箱を見ると怪訝そうな顔をしている。


「何、それ?」


「砂鉄の酸化作用による発熱を利用した―」


「いや、カイロの事じゃなくて、その箱だよ」


私の使い捨てカイロの原理解説が始まるのをすばやく制して、弟は質問を続ける。


「ああ、これ、猫」


「猫?」


「猫。知らない?ネコ目、ネコ科、ネコ属の―」


「俺が知りたいのはそこじゃない」


「何?もしかしてこの箱に書いてある絵についての質問だった?それはおねぇちゃんよくわかんないなー」


段ボールには、かわいいのか、かわいくないのか良くわからない、何とも形容しがたい笑みを浮かべたみかんのキャラクターが描かれていた。


弟は短いため息をつくと、起き上がってこっちに歩いて来る。


手には本を持ったままだ。


百聞はなんとやらだよ、弟君。


「どうしたの、これ」


「公園で溺死させられそうになってるのを寸での所で助けたんだよ」


「はあ?どういう事?」


弟はようやく、本を手放す気になったらしい。



私は公園であった事をかいつまんで弟に説明して、最後に「今日は月がすごく明るいよ」と付け加えた。


この猫達がいなかったら兎を愛でたいくらいだった。


「ふうん」


弟は最後の言葉は無視してこう続ける。


「で、まさか、ウチで飼う気じゃないよね?」


当然の質問である。


「問題はそこなのだよ、ワトソン君」


今日はワトソン君の大盤振る舞いだと思いながら弟の目を見る。


「嫌な予感しかしないんだけど」


「ま、とりあえず、しばらくの間だけって事にしとくからさ。それに、流石に四匹全部飼うなんて無茶な事は言わないし」


「当たり前だよ」


弟はめんどくさそうな顔をしていたが、なんだかんだ言って協力してくれる事を私は知っている。


その後、私はたんすの奥から去年の残りの使い捨てカイロを引っ張り出して、段ボールの底に敷いたタオルの下の置いた。


上からも薄い生地のタオルをかけると、子猫達はしばらくしておとなしく眠った。


その日は子猫用の餌が無かったので、翌日までは我慢してもらうしかない。


私が子猫達の様子を見ている間に、弟はフライパンを振るって私の分の夕食を作ってくれた。


それは、適当な野菜と豚肉を炒めて甘辛い味付けをしたもので、なんて名前をつけるべきかわからない料理だったが、おいしいことには違いなかった。


弟は両親の帰りが遅くなる夜はこうして手際よく料理を作った。


いつも違う食材で作ってあるはずなのに、だいたいいつも同じような味がして、だいたいいつもおいしかった。


もし、自分の分も食べずにかいがいしく私の帰りを待っていたら、危うく私のお嫁さん候補に入るところだった。



その夜、私は子猫たちの箱の隣に布団を敷いて眠った。


隣からは、「子猫の匂い」としか表現のしようがない匂いが時々漂ってくる。


猫は夢を見るのだろうか、と私は思った。生まれて間もない子猫には母親の記憶しかないのだから、きっと母親の夢を見るに違いない。


私はなんだか悲しい気分になりそうな気がして、そうなる前に眠る事にした。寝つきがいいのも私の美徳なのだ。





翌朝、子猫たちが鳴き出す時間を知っていたかのように聡介は私の家にやってきた。


両親は昨晩は結局帰ってこなかったらしく、弟よりも一足早く、子猫たちに起こされていた私が玄関を開けた。


「すいません、こんなに朝早くおしかけるのは非常識かとも思ったんですが」


そういうセリフはすらすら出てくるんだ、と思いながら家にあがってもらう。


「いいよ、ちょうどあの子たち起きちゃってたし、幸いにして朝髭を剃る習慣も無いしね」


それから私は、聡介が持っているものを見て尋ねる。


「何持ってきたの?」


彼が手に提げていたビニール袋には、例の段ボールに描いてあったのと負けず劣らず何とも言えない、犬のキャラクターがこっちを向いて笑っていた。


「子猫用のミルクと哺乳瓶です。昨日、買ってきました」


「この辺にそんな遅くまでやってるお店あったっけ?」


そもそも、そんなマイナーな商品を取り扱ってるお店を思いつかなかった。


「N市まで行ってきました」


初潮を迎えて以来、私の脳みそのセルスターターは調子が悪いままだ。


朝は単純な計算すらままならない。


ぐずる脳みそに鞭打って、昨日彼と別れた時間と、N市までの距離を思い浮かべる。


五〇キロはあるはずだ。


ええと、登りの電車はまだ動いてただろうか?まさかタクシーは使わないだろう。


そうした私の疑問を察したのか、彼はこう続ける。


「自転車で」


その一言でようやく私は目が覚めた。


どうやら、彼は私と別れた後、延々三時間以上も自転車を漕いで、閉店直前のディスカウントストアに滑り込んで、ミルクやらを買い込んで、また自転車を漕いで戻って来たらしい。


「なかなか面白いね、君ってやつは」


子猫達からするとそれは確かに死活問題かもしれなかった。


だが、私にはどうにも可笑しくてしかたなかった。


彼はどんな顔をして何時間も自転車を漕いでいたのだろう。


流石にもう泣いてはいなかっただろうけど、きっと鬼気迫る表情だったに違いない。


「そうですか?」


彼は本当に何の事だかわからないといった口調で言う。


もし彼がそういう自分の魅力を知った上で十数年間も隠していたのだとしたら、きっと将来は女泣かせになるに違いないと、私は思った。



キッチンでミルクを作ってから私の部屋に入ると、彼はすぐに子猫たちにミルクを与え始めた。


子猫たちはよほどお腹を空かせていたのだろう、哺乳瓶の口をちゅうちゅういわせてミルクを飲んだ。


おなかはは樽のように膨らんでいたが、破れて何かが飛び出してくるという心配は無さそうだ。


私のせいで地球がエイリアンに侵略されてしまうのはいささか忍びない。


その後、ティッシュで肛門の辺りを刺激して排泄の処理をして、効果が切れそうなカイロを交換してしまうと、とりあえず一息つく事になった。



そこで私は、自分がまだ朝食を食べてないのに気がつく。


聡介の分も用意しようと思ったが、(といっても菓子パンがあるくらいだが)朝は食べてきたと言うので、私は自分の分の菓子パンとコップ二杯の牛乳を持ってきた。


「牛乳嫌いじゃないよね?」


私が聞くと、「好き嫌いは特に無いです」と彼は答える。その言葉はなんだかすごく彼になじんでいるような気がした。



「小学校の四年生の頃の事って覚えてますか?」


私が二つ目の菓子パン(最初のがフレンチトーストで、二つ目がチョコデニッシュ)の袋を開けたあたりで、聡介は何か思い出したかのように切り出した。


「うーん、事と次第によるかな」


繰り返しになるが、私の記憶力には多少の偏向性があった。


美徳その一だ。


「四年生のクラスの係に、うさぎ係ってありましたよね」


「あー、あったかもね」


私の通っていた小学校では、鶏とか、インコとか諸々の小動物を学校の敷地内で飼っており、学年によってそれぞれ世話をする係が割り当てられていたのを思い出す。


「うさぎ係、女子に人気だったんですよ。だから決めるときもちょっと取り合いになりました」


「可愛いからね、うさぎは」


私はひくひく動くうさぎの鼻を思い浮かべながら返事をする。


よく考えたらそんなに可愛いものでもないかもしれない。


「でも、夏休みに入る前になって、その子たち、クラスの皆に手伝って欲しいって言ってきたんです。夏


休みに毎日登校して世話するのが大変だからって」


「うん、私のクラスの時もそんな感じだったかな」


「僕には、それが許せなかったんです」


言葉とは裏腹に、彼の口調は淡々としたままだった。


「言われてみれば確かに無責任だね。要するに、その子たちはかわいいものを独占したかっただけなんだよね」


たかだか、十才の少女が考える事なのだ。


そういう事もあるだろう。


私は段ボール箱の中で再び眠りについている毛玉たちを人差し指で撫でながら、しばらく考えを巡らせた。


「ねぇ、世の中にはさ、大事なんだけど、直視しちゃいけないって事あると思わない?」


私は言った。


「例えば、何ですか?」


「太陽とか」


彼はそこで、初めて声を出して笑った。



色々な物事に目を背けたままではいられない。


私たちはそれがだんだんとわかってくるお年頃だ。


でも、少しくらい何も考えずに笑ってる瞬間があってもいいじゃないか。


思いつきで言った屁理屈にしては上出来だと思った。

 

それから、私たちは堰を切ったかのようにしゃべり続けた。


通学路の途中にある、なんで潰れないのかわからない喫茶店の話から、この銀河系に生命体が存在する可能性の話まで、(ある計算によると、地球と似たような環境の星は十億個くらいあるらしい)私たちには語り合うべき話題がいくらでもあった。


だから、ひとしきりの話が終わって、短い沈黙が訪れた時には、私たちはまるで世界の創造主にでもなったかのような気分だった。


森羅万象、この世の全てが私の部屋の中でふわふわと浮遊していた。


そして、私たちは短くて、ぎこちないキスをした。


この世の全てを補完するキスだ。




 それからの一週間で、私は実にバラエティに富んだ「猫を飼わない理由」を聞くことになった。


借家の問題や、アレルギーの問題や、経済的な問題などなどだ。


そして、それらに対して、「猫を飼わなければいけない理由」は、バリエーションにおいても、説得力においても、なんとも貧弱なものにならざるを得なかった。


まさか、ネズミ捕りに役に立つなんて説得をするわけにもいかない。



両親の説得は拍子抜けするほど簡単だった。


私の方から提案したいくつかの取り決めを確認してもらって、最後に、「責任をもってやりなさい」と言われただけだ。


物理法則を覆すどころか、二次関数よりも簡単だった。


部活動で家にいない事が多い私の代わりの世話役は、弟が勤めてくれた。


聡介も頻繁に来てくれてはいたが、流石に毎日来てもらう訳にはいかない。


その代わりに学校では頻繁に子猫たちの様子を彼に伝えた。


新人の研修医みたいに彼は真剣に話を聞いた。

 


弟は中学時代にバスケ部に所属していたが、椎間板ヘルニアをこじらせたせいでバスケットマンとしての人生をあっけなく終えてしまった。


それは、彼にとっても、私にとっても多大なる損失だった。


彼の操るボールはまるで生きているかのように、自在に彼のまわりをくるくると跳ね回った。


私は部活の無い休日に、彼が家の外で練習をしているのを見るのが好きだった。



高校に入ってからは弟は狂ったように本を読み漁った。


家の中にある両親の本を片っ端から読んでいるようで、リア王とか、ファウストとか、モンテクリスト伯とか、名前から国籍を判別しずらい本を黙々と読んでは、また本棚の元あった場所にしまった。


最近では彼の脳みその本棚に、それらの人物と一緒に北原聡介の名前も並んだらしい。


意外と話が合うようだった。



その日は珍しく、聡介が私の下校を待っていた。


手には弟から借りたのであろう、ヘミングウェイの「老人と海」を持っている。


短い物語だったから私も一度読んだことがある。


美しい話だ。


そして救いの少ない話だ。


「用事があるなら言ってくれればよかったのに。もう少し早めに帰り支度すればよかった」


と言っても、私はいつも誰よりも早く部室を出る。


「いえ、特に用事があったわけではないので」


「たまたま近所に来たのでご挨拶をって奴かな?営業君」


「常套手段ですね」


この頃には聡介はこうした会話には難なく乗っかってきてくれるようになっていた。


会話を重ねて気付いた事だが、彼は頭のいい人間だった。


私には、彼の瞳孔の奥に様々な思考と、言葉の断片が渦巻いているが目に見えるようだった。


そして、それらの抽出方法は会話を重ねる度に最適化され、精度を増していった。


「それで、哀れなサンチャゴ老人の変わりに、私が君の暇つぶし役をおおせつかればよろしいので?」


「是非とも」


下校の道すがら、私はその日していなかった子猫たちの近況報告をして、それから、次の休みにクラスメイトが何人か子猫を見に来る事を伝えた。


「とりあえず、見てもらうのが一番早いかなって思うんだよね。あの子たちの魅力は言葉で説明しても限界があるよ」


「感覚は欺かない。判断が欺くのだ」


私は一瞬考えたが、あきらめて聞く事にする。


「誰の言葉?」


「ゲーテです。智弘君から本を借りました」


「気のせいかな?なんだか、詐欺師呼ばわりされた気がするんだけど」


「そんなことないです。ただ、一時的な感情で猫を飼ってほしくないだけです」


「それって、まだ、うさぎ係の件を根に持ってるって事?」


彼の評価に粘着質属性を追加する。


「それもありますが、僕は基本的に他人を信用してないので」


「それってまさか、私も信用されてないって話じゃないよね」


「先輩を一般論でとらえるほど僕の観察力は鈍くはないつもりですよ」


「それはそれは。うれしくって涙が出ちゃうね」


彼はいつもより機嫌がいいみたいだった。


いや、無理やり、機嫌を良くしてるみたいだった。


私の観察力が鈍くなければ。



あの日、聡介と出会ってからも、秋は日を追うごとに深まったていた。


二人で自転車を押して歩く道の脇には、幅が五メートルくらいの底の浅い小川が流れている。


その川辺には、この間までヒガンバナが群生して、けばけばしい赤色を主張していたが、それもいつの間にか消えていた。


きっと元いるべき場所に帰って行ったのだ。


彼岸に咲く花なんて、そう長くこの世にいられては困るのだから。


時折吹く風には、もう冬の匂いが混じっていた。



それからまた、しばらく歩いて、「それで?」と切り出す。


「今日はどうしたの?」


聡介は少し黙って、そして観念したかのように言った。


「今日は、家に母親がいるんです」


彼の家が母子家庭で、親子二人で暮らしている事は弟からも聞いていた。


別に珍しい事ではない。


「なるほど。で、ご多分に漏れず、お母様も信用されてない人間の一人という訳かな?」


「というか、その原因を作った張本人、ですね」


まただ、と思った。


あの日と同じ顔をしている。


聡介の目は遠くを見たままで、どこに焦点が定まっているのかわからない。


暗闇の先に、彼が何を見ているのか、私には検討もつかなかった。


それで私は質問を続けることができなくなって、馬鹿みたいにその横顔を眺めているしかなかった。


「聞かないんですね」


「聞ける訳ないよ。そんな顔されたら」


そう言われて初めて気付いたのか、彼は、少し表情を緩めると、会話を続けようとする。


「いや、大した話ではないんです。母親は、僕が6歳の時に離婚して、その後お酒とタバコの濾過機に変身。で、今に至ります」


私は黙っていた。


「すいません」


「駄目な日本人の典型みたいな謝り方だね。営業君」


「・・・すいません」


はあ、と息を吐いて、私も前を向いて歩く。


「いつか」


本当に、いつになっても構わなかった。


「そのうち、話してよ。私は君にとっては幾分マイノリティな女なんだからさ」


卑下た口調にならないように細心の注意を払う。


「はい、ありがとうございます」


そして、自転車を押してなるべくゆっくりと歩いて帰った。


秋は安々と私たちを置き去りにできただろう。




 私は平凡な家庭の子供だった。


それはつまり、恵まれた家庭の子供だったという事だ。


両親の愛情を感じながら育ってきたし、住んでいる場所が田舎だという事意外では、特に生活に不自由を感じたことも無かった。


というか、都会に住んでいたら住んでいたで、不自由はあったのだろうから、その点は考慮には入れる必要もないだろう。


特に厳しく育てられた訳でもなかったし、そういえば反抗期みたいなものも無かった。


両親同士の仲もそれなりにいいし、今でも弟との関係は良好だ。


だから、聡介が、たった一人の自分の親の事を避けている理由を、あの頃は想像することもできなかった。


私は、彼が抱えている闇が怖かったのだ。



* 


1匹目の猫のもらい手は意外なほどあっさり現れた。


智弘の彼女である。


「藤本真菜です。はじめまして」


と、彼女は少し緊張した声色で挨拶してきた。


弟と同じ高校のクラスメイトらしい。


私も適当に挨拶をすると、しげしげと彼女を眺めた。


なるほど、これが噂に聞くカノジョという生き物らしい。


確かに、小動物的な可愛らしさを毛穴中から漂わせている感がある。


しかし、小動物的な人間が小動物を飼うというのも何か皮肉めいたものを感じるな。


などと考えていると、弟が「ガンたれてねぇで早く部屋に案内しろ」と言ってきた。


私は謹んで居室へとご案内(たてまつ)ることにした。


子猫たちは最初に私の部屋に連れてきてしまったので、その後もずっと私の部屋に置いたままだった。



部屋に入ると藤本女史は「ふわー」とか「はわー」とかいう、記述しがたい声をあげて子猫たちに見入っていた。


「さわっていいですかっ?」


と聞かれたので、それは子猫に聞かないとわからないな、と思ったが、「いいよ」と答える。


もしかして、私にさわりたくなったら、弟に確認を取るのかもしれない。


藤本女史は一匹ずつそっと抱きかかえ、それぞれに「こんにちはー」と小さく挨拶をしていた。


彼女には「我輩は猫である」と聞こえたのに違いない。


そのまま子猫たちを寝床である段ボール箱から出し、しばらく遊ばせておいた。


子猫たちは好奇心旺盛に狭い箱庭を歩き回る。


その際に、茶トラの内の一匹が藤本女史の膝に登って眠ってしまうと、彼女はそれですっかりその猫を気に入ってしまったようだった。


無事に飼う猫が決まると、手を洗ってリビングで藤本女史が買ってきてくれたケーキを食べた。


「選べないとアレかなと思って、余分に買ってきたんですけど」


という彼女の気遣いの甲斐も無く、両親は不在だったのでケーキは余ってしまう。


結局、「ウチの親はいつ帰って来るかわかんないから全部食べてしまおう」という事になり、一人につき、二種類ずつのケーキを食べることになった。


藤本女史は甘いものが好きらしく、ガトーショコラとイチゴのロールケーキに黒目がちな目を輝かせている。


しかも、一緒に出したコーヒーにも砂糖を大量に投入していた。


私はフルーツのタルトとモンブランを、智弘はチーズケーキとティラミスを食べた。


「最近もう体形がヤバくて!駄目だとはわかってるんですけどねー」


などと言う藤本女史はしかし、全然太っているようには見えなかった。


「そんなの気にする事ないのに」と私が言うと、智弘が「姉ちゃんは少しは気にしろ」と介入してくる。


そういえば、一度、智弘に食事のカロリーの事を注意された事があった。


「これ、千キロカロリー超えてるよ」と言われたので「TNT火薬1キロ分だね。今日は空だって飛べるよ」と返事をしておいた。


それから、銃弾の発射に必要なエネルギーがポテトチップス一口分よりも少ないという話をして、きっと機関銃よりもハンバーガーのほうがたくさんの人間を殺してる、という話を付け加えた。


藤本女史はその話も楽しそうに聞いていた。


ケーキを食べ終わってしまうと、聡介が私に散々レクチャーしてくれたように、猫を飼う際の注意点を藤本女史にも伝えた。


トイレのしつけや病院に連れて行くタイミング、それから、避妊や去勢手術の事だ。


彼女ははメモまで取って真剣に聞いてくれた。


くるくると表情がよく変わる、見ていて飽きない子だった。


家にまだ準備ができてないという話だったので、その日はそのまま弟が送っていった。


早速、帰りに色々な備品を買うらしかった。


 

面白い事を思いついたので、夜になって帰ってきた弟に「いつの間にカノジョなんて作ったの?」と聞いてみる。


「いつって、こないだだよ」


それは答えになってないんじゃないかと思ったが、どうやら自分の肋骨から作ったという訳ではなさそうだ。


「ほほーう」


「何?」


「いや、恋愛なんてままならないなって思ってね」


「今度は何言い出すんだよ」


「だってそうじゃない?終わることなく続くのが目的なくせに、円周率とか二の平方根と違って計算方法が不確定なんだ。散々進めてみた結果、終わって初めて計算の間違いに気付く。それでまた最初からやりなおし。まるで悪夢みたいだ」


「百桁の素因数分解でもしながら死ね」


そう言うと弟は自分の部屋に引っ込んで行った。まったく可愛い奴だ。




 同級生達は家に来て猫たちを散々弄んで、写真を撮った後、本当に残念だ、という表情を顔面に貼り付けて、やはり飼えないという趣旨の言葉を口にした。


さすがに私の考えが甘かった。


いや、聡介の言うとおり、一時的な感情に付け込んで飼ってもらう事にならなくて良かったとも言える。


しかし、もらい手探しは早くも暗礁に乗り上げかかっていた。



聡介は週に一、二回の頻度で私の部活動が終わるのを待っており、そういう日は私たちは一緒に自転車を押して歩いて帰った。


私を待っている間は、いつも智弘から借りた本を読んでいるらしく、読み終わったものを図書館の司書よろしく受け取るのが、ここの所の私の仕事になっていた。


「気に入ったのがあったら返してくれなくてもいいよ」


私は言う。


「そういう訳にはいかないです」


彼は少し困った様な顔をして返事をする。


「いや、ホントにいいんだよ。『本は貸すな、与えよ』ってのが桐野家の家訓なの」


実際は、父親が何かの拍子に口走った事だったが、まあ、いいだろう。


「なかなかいい家訓ですね」


「北原家は無いの家訓」


「無いですよ。ある家の方が珍しいんじゃないですか?」


「じゃあ、作ろう、今」


聡介は「そうですね」と言ってしばらく考えてから答える。


「『特売日、忘るべからず』にしましょう」


「あ、それ桐野家も頂きます」



聡介は所有物の少ない人間だった。


そして、その数少ない所有物をとても丁寧に扱った。


彼に貸した本は(結局戻ってこない本は一冊も無かったのだが)汚れたり折れたりして返ってくる事は絶対に無かった。


いつも表紙も帯もきれいなままで、しおりは必ず表紙と見返しの間にはさまっていた。


もしかしたらアイロンでもかけていたのかもしれない。



いつだったか、こんな会話をしたことがあった。


私の部屋で猫たちの世話をしている時だ。


「知ってましたか?猫って、前足は五本指で、後ろ足は四本指なんですよ」


彼がミルクをあげながら言う。


「うわ、ほんとだ。何で?」


本当に猫の事となると無駄なくらいに知識があるな、と私は思った。


「前足は獲物を捕まえるために指が多い方が有利ですが、後ろ足は走るのに有利になるように一本退化したらしいです」


「人間は足も五本指のまんまだね」


「つまり、それだけ強欲って事ですね。身軽でいるために足の小指も捨てられないんです」


「きっとそのうち、手に六本目が生えるよ」



聡介は、身軽でいるために、小指ではない「何か」を切り捨ててしまったのかもしれない。


と、その時私は思った。


それほどまでに、彼の手は多くを求めようとしなかった。


まるで、世界を拒んでいるかのようだった。





 その日は、藤本女史が子猫を迎えに来た。


本来なら、智弘が付き添うはずだったが、そんな日に限って弟は風邪で高熱を出した。


藤本女史(この頃には私は真菜ちゃんと呼んでいたが)の母親が車を出してくれたので、子猫の移動には大した苦労はないのだが、環境に慣れさせるために、日ごろから世話をしている人間がついて行った方がいいだろう、ということになっていたのだ。


その場には動ける人間が私しかいないので、当然、私が彼女の家へとお邪魔することになった。



藤本女史の部屋は私の部屋とも、弟の部屋ともかなり趣きを異にするものだった。


主要な家具、調度品は明るい色調の木製の物でまとめられており、小物類は暖色系のものを慎重に選んで配置しているようだった。


クッション一つでも動かしたらこの部屋のバランスが崩れ、原子核崩壊の連鎖反応よろしく、全部めちゃくちゃにしてしまいそうな気がして私には少しおちつかなかった。


藤本女史は新しい家族になる茶トラを移動用のかごから出した。


子猫は急な環境の変化に戸惑い、私と同様に所在無げに周りを伺っていた。


しばらく、子猫を遊ばせて、子猫用のエサを与え、トイレの準備もした後で、「さてと」と切り出す。


「それで、智弘とはもうしたの?」


私の質問に一瞬の間を置き彼女は答える。


「ちゅ、ちゅうですか?」


私は吹き出しそうになってから、「いやいや」と首を振る。


「セックスに決まってるじゃん」


彼女は口を開けて、しばらく私の顔を見つめたあと、気がついたかのように言った。


「んな、何を言ってるですか!」


顔がみるみる真っ赤になっていくので、赤方偏移かと思ったが、彼女が急激に遠ざかっているという事実は無かった。


少なくとも物理的には。


「別に、女同士なんだから恥ずかしがる事ないじゃん」


「いや、そういう事じゃないですよ。おかしくないですか?自分の弟とのそういうの聞きたがるなんて」


「そう?でも私、智弘の事も好きだし、問題無いよ。で、したの?セックス」


「連呼しないでください!私!まだ!そんな!」


口をぱくぱくさせる藤本女史に、追い討ちをかけるように「『まだ』ねぇ」と言って笑った。


揚げ足を取られてさらに顔を赤くしている。


藤本女史は智弘とは違ったからかい甲斐があった。


「いや、ごめん、単なる知的好奇心だよ。他意はない(もちろん嘘だ)。私も処女だから(これは事実)聞いてみたかっただけ」


私のカミングアウトが有効に働いたのか、彼女はいくらか表情を和らげる。


「その、最後までしたことはないです。だ、抱き合ったり?とか、したことは、あります」


自分が言っている事が恥ずかしかったのか、うつむいてしまったが、私は彼女の顔が緩んでいる事には気がついていた。


「なるほど。で、どうなの?」


「ど、どうと申しますと?」


「感想は」


「感想!」


「何も感じなかったの?」


「感じ!」


これは、「何かを感じた」が正解だろう。


しばらく黙っていたが、何か思いついたかの様にこちらに顔を向けた。


「私!お兄ちゃんいるんですけど!」


「あ、そう」


「三つ上なんですけど!」


「もう少しリラックスして話してもいいんだよ?」


「は、はい、それで、小さいときにじゃれあって遊んだりとか、するじゃないですか」


「するね」


私も智弘とのじゃれあいを思い出す。


壮絶なやつを。


「そういうときのあるじゃないですか、何と言うか、ええと、…フィジカルコンタクト?」


「真菜ちゃんサッカー部?」


「いや、バスケ部のマネージャーです」


「続けて」


「あ、そういうのとは違う感じでした!」


そりゃ、そうだろう。


「なんというか、筋肉がこう、勝手に反応するといいますか!」


「筋肉がねぇ、脊髄反射とかじゃなくて?」


「弟さん危険物みたいな扱いですか?」


「いや、何でもない。続けて」


「ふ、触れ合った所が勝手にぴくぴく動くと言いますか!」


私は試しに藤本女史の二の腕あたりを突っついてみた。


特に反応は無い。


そのまま、おなかと太ももで試させてもらったが、結局反応はなかった。


(おっぱいは試させてくれなかったと記載しておく、彼女の名誉のために)


「ふーん、直接触れ合った時と間接的な時との違いは?」


「あまり、無いです」


「つまり複数回経験あり、と」


「うわー!えみさん、三国時代の軍師ですか!桃園の誓いですか!」


「真菜ちゃん、そこ、軍師いないよ」


そんな反応しなけりゃごまかせるのにと、ますます彼女の事を気に入ってしまう。


「ふむ、なるほどね。もしかしたら弟は何らかの方法で放電をしているのかもしれないな。それで勝手に動くんだよ、筋肉が。ガルバーニのカエルの実験、知ってる?」


「ガルバーニ、ですか?」


私は切断され、電極に繋がれたカエルの下半身がなまめかしくうごめくのを想像する。


見方によっては官能的と言えなくも無い。


しかも、背徳的で猟奇的だ。


「なんか、いろんな愛情が詰まった実験だよ」


「へー、そんな実験あるんですね」


一応、私が納得したのを見て安心したのか、彼女は無邪気に笑った。


「猫の名前、決めた?」


「はい、きなこもちにします!」


私は子猫に食べられないように気をつけろよ、とテレパシーを送ってその日は帰った。


後で弟に怒られたのは言うまでも無い。





 N市の駅に降り立つと真夏の熱風が容赦なく襲い掛かる。


ここの所、最高気温は狂ったように上昇を続けており、太陽は、積年の恨みでもあったのか、じりじりと地上の人間の肌を焼いていた。


「あいかわらずごちゃごちゃしてるな、ここは」


初めて東京に行った時も、どこもかしこもごちゃごちゃしてる、という印象だったが、ここにはそれと違った種類の無秩序さがあった。


延長された遺伝子の表現型という考え方を思い出す。


「何難しい顔してんの?」


そう声をかけてきたのは母親だった。


わざわざ地元から車で迎えに来てくれたのだ。


「遺伝子の表現型の事だよ」


「お酒飲んでる?」


「もちろん。新幹線だよ?お酒飲まないなんて冒涜的な事できないでしょ」


それから母親の運転する車に乗り込んだ。


エンジンをかけると車内にはソニー・ロリンズのセント・トーマスが流れ始める。


私にはジャズは良くわからないが、お酒との親和性は認める所だ。


シートに身を沈める。


「くるしゅうない、よきにはからえ」


車は故郷へと走り出す。




子猫たちのもらい手が現れないまま、季節は冬へと変わりつつあった。


私は子猫たちに未だ固有名詞をつけておらず、「白黒の奴」とか、「茶トラの片割れ」とか呼んでいたが、それに関して子猫たちから不服申し立てが行われることは無かった。


ただ、骨格は徐々にたくましさを纏いはじめ、段ボールの小さな壁は侵略の対象として認識されつつあった。


この防衛ラインを突破されると、子猫たちは一気呵成に活動領域を私の部屋全体へと広げることになるだろう。



その日も子猫たちに起こされる事になった。


私は離乳食を与えてから、あくびを一つして、目を擦った。


窓の外では登ったばかりの太陽が、世界に新しい秩序を生み出さんと、遍く光の矢を放っていた。


私は着替えを済ませると、キッチンに下りて、牛乳を一杯飲んだ。


そして、ランニングシューズを履いて玄関を出て、軽くストレッチを済ませると、ゆっくりと走り始めた。



脳みそのセルスターターは壊れたままだが、かわりにクランクでなんとか始動することはできる。


私は走りながら、子猫達の今後の事を考え、効率のよいバレーの練習メニューを考え、そして聡介の事を考えた。


私は彼の何を知っているだろう。


彼は私の何を知っているだろう。


その事が、ある種のパラドクスのように頭の中をぐるぐると回り、そして何の答えも出さないままバターのように溶けていった。


あとは、シューズがアスファルトを蹴る音と、自分の呼吸の音しか聞こえなかった。



家に帰ると、弟も起きて来て、朝食の準備をしていた。


私がシャワーを浴びて、制服に着替えると、完璧なタイミングでココアとトースト、そして目玉焼きが出来上がっていた。


「ココアと猫の違いについて考えた事ある?」


トーストを齧りながら聞く。


「いや、ない。朝食にはもってこいの議題だと思うよ」


気の無さそうな返事が私を刺激する。


「ココアはすぐに冷めるけど、猫は冷めない。要するに増大するエントロピーをどうやって処理するかって問題なんだよ」


エントロピー。


空間内の無秩序さを現す指標。


「生命は外部からのエネルギーを主体的に取り込むことによって、身体の秩序だった構造を維持できるんだ」


弟は黙って聞いている。


いや、聞いているかどうかはよくわからないが、そんな事は大した問題ではなかった。


「台風の散逸構造と同じだよ」


「それって、人間も台風も同じって話?」


「ある意味ではそういうこと、人間の、特に女は男なんかより、むしろ台風に近い」


「つまり?」


「全部引っ掻き回していって、後に残るのは瓦礫の山」


「自分で言ってて虚しくないか?」


「何が?」


私は朝からエンジンが調子良く回りだしたのでご機嫌だった。



誓って言える事だが、こうした私の発言は、弟に対する嫌味や、藤本女史に対するあてこすり(・・・・・)という意味を全く含んでいない。


こんなのは学問でも理論でも何でもない。


ただのジョークだ。


長年の経験から弟はそれをわかってくれているので、私は気兼ねなく思いついた事を口にできる。


そういった人間は私にとって貴重な人的資源だった。





 「それは立派な美徳です」聡介はそう言い、そして続けた。


「忘却だけが過去を清算できるんです」


私はその時、校舎の渡り廊下で彼の過去に対する不思議な印象を話していた。


「まあ、一理あるかもね。見方によっては、『過去も未来も存在しない』という事もできるからね。過去なんて、蓄積された膨大な記憶データに過ぎない」


その日は太陽は明るかったが、いささか風が強く、屋外には生徒の姿はまばらだった。


遠くから昼休みの喧騒が聞こえる。


「先史時代の戦争の恨みを誰も抱えていないのと同じですよ」


「それを個人の記憶と結びつけるのは多少乱暴だとは思うけどね」


「でも何にも記録されてなければ、無かった事と変わりはありません」


私は、一瞬だけ彼の過去について考えそうになったが、すぐにやめた。


そういうのは生産的な事だとは思えないし、簡単に言えば無粋だと思ったからだ。


少し考えてから、私はしゃべりだす。


聡介は私が何か考えているときには絶対に余計な口出しをしなかった。


「縦、横、高さに時間を足して、この世界は四次元空間ですっていう話、間違ってるって知ってる?」


「説明に釈然としないものを感じはしますね」


「四次元『空間』ってつけるなら、この世界はそれにはあてはまらないんだよ。縦、横、高さを表す直線の交点に、全ての直線と垂直に交わる直線が描ける空間が四次元空間だからね」


「想像がつかないですね」


「そりゃそうだよ。わたしたちは三次元空間の住人だからね」


「続きをどうぞ」


「たとえばさ、二次元世界の住人がいたとするでしょ?」


「ぺらぺらの人間?」


「そう、彼らには『厚み』という次元がすなわち『時間』という事になる」


聡介は少し考えて言う。


「つまり、僕らにとっての四つ目の次元が時間であるように?」


「君は本当に優秀な生徒だね。それで、その二次元人間がおぎゃあと生まれて死ぬまでを、ぱらぱら漫画にしてみるとしよう。コマ割りとかセリフはなくていいよ。全て全身像の輪郭を切り取ってね」


彼は本当に頭の中でページを積み重ねているようだった。


「かなり分厚い漫画になりますね」


「どういう形になる?」


「うーん、いびつな『漏斗』みたいな形です」


「うん、つまりそれが二次元人間を三次元的に捉えた姿だよ。好きにめくって彼の老いも若きも自由自在」


「彼のプライベートをのぞき見るのは若干忍びないですね」


「それで、もし、四次元空間から漫画でも読むみたいにこの世界を覗いたら、私たちは生まれてから死ぬまで移動した空間と時間、全部を含めた連続体として表現できるだろうね」


私がそう言うと、彼は一瞬だけ悲しい顔をして、すぐに元の表情に戻した。


それはあまりにも自然な動作で、長年連れ添ってきた病魔に対するあきらめのようなものを垣間見た気がした。


「私たちは悲しいくらいに連続体だよ」



聡介は忘却という方法で、何らかの過去を清算しようとしていた。


しかし、そう考えれば考えるほど、彼は過去から目が離せなくなっているように感じた。


眠ろうと思えば思うほど、眠れなくなるように。


過去は忘却の代償を求め続けた。




10


 聡介との会話は確実に私の日常に馴染んでいった。


彼の言葉や、目線や、しぐさは私の思考を自在に紡ぎ出し、時にはあらぬ方向へと連れ去っていった。


それはある種の麻薬のように私の脳内に記憶され、時には神秘的とさえ言える恍惚を私にもたらした。


私は自分の変化に少しずつ気付き始めていた。


それと同時に、その変化を認めることで、自分の中の決定的な何かを失ってしまうような不安を感じていた。


彼に会う事と、彼に会わない事はどちらも私の焦燥を静かに駆り立てた。



それはいつも通り、なんてことない会話から始まった。


「同じものを見ているのに、人によって感じ方が違うのは、それぞれの脳みそが違うからだって話あるでしょ?」


聡介はこっちを向いて黙って聞いていた。


「それって、フィルターの問題って訳じゃないよね。目の構造が違うからって事じゃなくて、問題は脳みそが情報をどういうふうに処理するかって事なんだ」


聡介は目で先を促す。


「でもさ、それってちょっとおかしいと思わない?『同じものを見ていても、違うように映るから、評価が違う』って理論はさ、同時に、『違うものを見ていても、同じ評価をしていたら、同じものが映っている』って事にならない?」


「面白いロジックですね」


「それはつまり、人間の脳みそには、普遍的な『美しい物』とか、『美しい音』とかの形が最初から内臓されてるって事?」


「ある意味では正しい様な気もします」


「なんか納得できないよ。最初から全部決められてますって感じがしてさ」


「経験による価値観の変化を否定する事はできないですけど、根源的な欲求とかは最初から決められていると言えなくはないですよね」


「ああ、確かにそれは一理あるなぁ」


それから、私は経験、根源的欲求、という言葉を二、三回反芻してから言ってみた。


「ねえ、聡介、セックスしてみない?」



聡介は何も言わなかった。


止まったままだ。


車に驚いて硬直して轢かれてしまう猫がいるらしい。


これは押し倒すチャンスという事なのかな、と思い始めた頃、ようやく聡介は口を開いた。


「…やめてくださいよ」


声が震えている気がした。


「え、やっぱ嫌だった?」


私はなんとなくガッカリしたが、無理強いする訳にもいかない。


「違います、先輩は何でそうなんですか!」


そこでようやく私は彼が怒っている事に気がついた。


自分の愚鈍さに嫌気がさす。


私は狼狽していた。


「どうしたの?私、そんなに不快な事言った?」


「快、不快の問題じゃないです。先輩はもっと自分が言っている事の意味を自覚するべきです」



確かに、それは単純な好奇心でしかなかったかもしれない。


私は聡介の「根源的な欲求」を覗いてみたかったのだ。


多少不謹慎だった事も認める。


でもそれが悪だとは思わなかった。


「ごめんなさい、わかってほしいんだけど、誰でもいいからって意味じゃなかったんだよ」


「…わかってます。すいません、僕も言い過ぎました。半分は八つ当たりみたいなものです」



聡介の苛立ちが何か別の事を意味している事はわかっていた。


それが時折見せる彼の表情の理由と根元の部分で繋がっている事も。



それから、私は深い沈黙の谷を下りていった。


足を滑らせれば無事ではいられないかもしれない。


足元に広がっているのは、紛れも無く聡介が抱え続けた闇だ。


私は、生まれて初めての恐怖を味わっていた。


引き返す事のできない恐怖だ。


しかし、問いかけないないわけにはいかなかった。


彼は間違いなく、今、私に助けを求めているのだから。


「ねえ、聡介、何が君をそこまで頑なにさせているの?」


返事はない。


沈黙。


沈黙。


沈黙。


そして―。




11


それは消え入りそうな声だった。


「僕は、虐待を受けて育ってきました」


私は全神経を集中させて、一言も取りこぼさないように努める。


ゆっくりと、彼は続ける。


「父親に関しては、ほとんど殴られた記憶しかありません。母親との喧嘩もしょっちゅうで、ひどい物でした。僕にできることといえば、なるべく目立たないように部屋の隅っこに座っている事だけでした。目が合っただけで殴られた事もありました」


幼い聡介の顔にめがけて振り下ろされる拳。


それを想像して私は胸が締め付けられた。


「母親は、そのときから夜の仕事をしていました。父親はなんの仕事をしてたのかよくわかりません。そもそもほとんど家にいませんでした。でも、ある日、その父親が子猫を拾ってきたんです。母親に対するご機嫌取りだったんですよね、多分。結局、すぐに二人とも飽きてしまって、僕が世話をすることになったんです」


「いくつの時?」


「五歳くらいですかね、そのころの事あんまり覚えてないですけど。とにかく、それからはその猫を守る事が僕の全てでした。最初に父親がつけた名前は、なんか焼酎の名前にでもありそうな変な名前でしたけど、僕はミミって呼んでました。耳の大きな猫だったんです。弟ができたみたいで、すごくうれしかった」


数少ない聡介の「所有物」の事を思う。


「そのうちに両親の離婚が決まって、小学校に入学する前に引っ越して、今の家に来ました。ミミも一緒にです。父親がいない事で、一応、表面上は平和になりました」


一言、一言、確認するかのように、慎重にしゃべっているのがわかる。


「それで、小学校に入って、最初の授業があった日、帰ったらもうミミはいませんでした」


彼の目からは表面張力の限界を超えた涙がこぼれ落ちる。


呼吸が荒い。


こらえきれなくなったのか、言葉にも嗚咽が混ざる。


「母親に聞いても、知らない、見ていない、と言うだけで、家の中にも外にもどこにもいませんでした。僕は、何日も探して、探して、探し続けて、でも、見つからなくて。それで、また母親に問い正したんです。しつこく聞かれてあきらめたのか、母親はこう答えました」


そこで聡介は一度言葉を区切り、それから短く息を吸い込んでから言った。


「あの猫はもう死んだ。保健所に連れて行ったから」


聡介はほとんど過呼吸になっていた。私は急いで彼を抱きしめて背中をさする。


「それで、もう、怖くなってしまったんです。全部。何かを手にする事が、同時に失う恐怖を、作ってしまうような気がして。だから、誰にも、何も求めなかったんです。僕はまた、部屋の隅で座ってる事にしたんです」


壊れてしまう寸前の所で、幼い聡介は危ういバランスを取り続けていたのだ。


世界を拒絶して。


自分の存在すら否定して。


そうすることでしか自分を守る事ができなかったのだ。


想像を絶する孤独だっただろう。


彼が今、ここに存在しているのは最早、一つの奇跡だった。


私たちは抱き合って泣いた。


もし涙が何かを慰めるのなら、私たちはそのまま何年でも泣き続けただろう。




しばらくして、少し落ち着いてから、聡介はまたしゃべりだした。


「先輩の事も、最初は無視しようと思ったんです」


「それはひどいな」


「すいません。でも、何故か、もしかしたら、この人なら子猫たちを助けてくれるかもしれないって、あの時は思えて」


「君の直感もなかなか侮れないね。あの時、私は誰かが助けを求めてるっ!って思ってあの公園に入ったんだよ」


「先輩と話したりしてると、すごく楽しくて、でも、やっぱり葛藤があったんです。時々理由もなく憂鬱な気分になったり」


「なるほどね、それでも私の魅力には抗えなかったというわけだ」


「まあ、はい。あ、でも、あのココアは少し困りました」


「え、なんで?」


「僕、猫舌なんですよ」


そこでようやく私たちは少し笑うことができた。


それからまた、思い出したかのように黙って泣いて、そのまま二人でベッドで眠った。


仲のいい猫の兄弟みたいな、暖かく甘い眠りだった。






夢と現の狭間で、私は囁く。


「好きだよ。聡介。愛してるんだ。すごく」


彼は眠っていただろうか。





夕方近くになって目が覚めると、聡介は先に起きていて、「おはようございます」と言って微笑みかけてきた。


「すごい目ぇしてるよ」と言うと「先輩もです」と返ってくる。


私たちは笑った。


「聡介」


「はい」


「あなたのお母さんがしたことは、決して許される事じゃないと思うよ。取り返しのつかない事をして、こんなにもあなたを苦しめたんだもの」


「はい」


「でもね、いつか、あなたが自分の悲しみとか、憎しみとかに向き合って、それも全て含めてあなた自身なんだと認める事ができたら」


「はい」


「そして、この世界とも、すごく残酷な世界だけど、それでもちゃんと向き合える時が来たら」


「はい」


「いつか、お母さんを許してあげて」


「…はい」


「聡介」


「はい」


「おなかすいたね」


「はい」


そして、私たちはキッチンに行って、なんだかよくわからない料理を作って食べた。


弟みたいにうまくはできなかったけど、忘れることのできない、そして再現のできない味がした。



 





エピローグ




玄関を開けると、藤本女史、もとい真菜ちゃんが出迎えてくれる。彼女は程なくして「藤本」ではなくなる。


「おかえりなさーい」


笑顔で駆け寄ってきた彼女はごく自然な流れで私にハグをする。


英国への留学経験が彼女のスキンシップをいささか大胆なものへと変化させたらしかった。


リビングに入ると弟がコーヒーを飲んでいる。


小さな声で「おかえり」と言ってくれた。


私は荷物を適当に放り投げ、自分の分のコーヒーをカップに注いだ。


「まだ計算は途中のようだね、弟君」


コーヒーに口をつける弟の手が止まる。


「いや、計算はもう終わったよ」


「ほほう、詳しく聞こうじゃないか」


「『恋愛』は『結婚』で割り切れる(・・・・・)。以上」


「なかなか意味深で面白い答えだけど、今度は君は、それを証明し続けなければいけないという事を忘れないように」


「もう御託はたくさんだよ」


相変わらずな弟を見て、思わず笑いがこぼれる。


私の声を聞いてか、足元に一匹の猫が擦り寄ってくる。


「メンデル、ただいまー。会いたかったぞ、このやろう」


わたしはその猫を抱きかかえ、若干乱暴なくらい撫で回す。


私の家にいた三匹の子猫たちは、あの後すぐに二匹が父親の取引先の人間に引き取られていった。


同じ頃に、飼っていた猫に死なれ、気落ちしていた所に毛並みのそっくりな茶トラを二匹見つけたというわけだ。


最後に残った白黒が「メンデル」と名付けられ、我が家に住み着いた。


実はその頃には両親も弟もすっかり愛着が芽生えてしまっていたらしかった。




「何かを手に入れるという事は、同時にそれを失う恐怖を内包している」


つまり、聡介はそう言ったのだ。


それはある意味では正しいことなのかもしれない。


私たちは生きている限り、新しい物を手にしないわけにはいかないし、私たちには、二本の腕と、十本の指しかないのだから。


それは虚しい事なのだろうか。


私たちは、あの時、確かに恋をしていて、そして、多くの恋がそうであるように、(それはある春の寒い日だったけれど)ゆっくりと、そっと、姿を消していった。


私たちの恋は無意味な物だっただろうか。


その年、最初に降った雪のように、消え去って、忘れ去られるだけのものなのだろうか。


私は、そうは思いたくなかった。


私は、少なくとも一人の人間を、暗闇の底の孤独から救う事ができたのだと信じたい。


それが無意味な事だというのなら、この世の全ては空虚で無意味なものだ。


宇宙の端で跡形も無く消え去る運命なのだから。


私たちは出会った。


私たちは恋に落ちた。


それが、事実であるという事が何よりも重要なのだ。


そして、既に起こったという事は、いつか必ず起こりうる事の証明に他ならない。


私たちは何度でも出会う。


宇宙が無限である限り、繰り返し、繰り返し、私たちはまた恋に落ちるだろう。


それがあの時に私ができた、たった一つの証明なのだ。







2013年のクリスマスイブに20年の生涯を閉じた我が家の猫に捧げます。彼女は私の生活に寄り添い、多くの物をもたらしてくれました。天上と地上の全ての猫たちが幸福になれることを願います。

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