5話
☆★ ★☆
高いビルは、そのアンテナのてっぺんに、今日も星を一つ乗っけていた。微かに瞬いている。
「今晩は、睦。今日も虫食い穴は、健在だね」
「……コンバンワ」
こうして顔を合わせるのは、実に一週間振りだ。
「あれれぇ? その顔は、あたしに久し振りに会ったって顔だね。んん……でも、残念。あたしは毎日来てたのです。会えなかったのは、睦が毎日ベランダ(ここ)に出なかった所為さ」
ビシッと耶夜の指に指される。
「……」
「……もしかして、毎日ここに?」
何が、毎日来てただ。本当に、無意味な嘘を吐く。
勿論、睦は毎日こうしてベランダで葡萄ジュース片手に立っていた。
別に、何かを期待していたり、誰かを待っていたわけではない。
「こうして、空を見上げてたの?」
「……」
缶を開ける。炭酸の抜ける小気味よい音がした。
「独りで?私を待っ――」
「待ってはいない。別に」
見事に被った。
くそっ、これではそうだと言っているようなものだ。
「んふふっ」
ふてたように転がると、頭上で缶を開ける音がした。
「今日もアボガドチョコ(アレ)?」
「そう」
空を見ると、この間より少し細くなった月があった。少し青白く、周りも照らすように輝いていた。
「あのビル、邪魔」
「どれ?」
不意に、不機嫌そうに耶夜が腕を伸ばした。横になっていると、手すりにもたれ掛かって遠くを指す耶夜の指の先は、全く見えない。ワンピースから伸びる、白く細い足が見えるだけだ。
「邪魔よね」
「……あぁ」
「見てないでしょ」
「……」
「……どこ見てるの」
すっと耶夜が離れる。
別に脚を見ていたわけではないのだが。
「はぁ……分かったよ」
隣に立って見ると、耶夜の指差すそれは、この間建ったあのビルだった。
「そうか? 別に空見えるし」
「いやいやいやいや! 絶対駄目!!」
くるりとそのまま振り向くので、長い耶夜の髪が顔を打った。
「いてっ」
自分の"間合い"ぐらい、知っておいてほしい。
痛む頬をぐりぐりと押す。
「あのビルの向こうにも、空は広がってるんだよ。隠されるなんて、勿体無い。あたしは認めません!」
わざと頬を膨らましたその仕草も、耶夜がすると様になる。耶夜のように綺麗な顔ならば、例え何を言っても、何をしても、顔をしかめられることはないだろう。いや、既に何度か、睦は顔をしかめたことがあるが。
「ちょっと、睦、聞いてる?」
「あぁ、はいはい」
「あたしは、あんな鉄と土の固まりが、光を隠してしまうのが許せないの」
認めるも認めないもないだろう。
「建ってしまったもんに、文句を言っても何もならないと思うけど」
そう言うと、耶夜はむむむっと顔をしかめ、自棄酒ならぬ自棄アボカドチョコをした。
大きく煽り、手すりに缶を打ち付ける。
「だからあたしは、空を飛べればいいと思うの」
「……は?」
何故、そういうことになるのだ。唐突すぎる。
話が飛躍しすぎて、睦は一瞬フリーズしてしまった。
「こんな羽の翼があれば、どこまでも飛んでいけるでしょ?」
小さな鈴の音が、耶夜の手から漏れる。
「あ、その羽」
「そう。睦が拾ってくれたやつね」
耶夜が取り出したのは、以前、睦が拾ったあのキーホルダーだった。
「どこまでも、どこまでも、あたしは飛んで行きたい」
夜空に大きく腕を広げるその姿は、渡鳥を思い起こさせた。
空に向かって瞳を閉じる耶夜。
気がつけば、いつかと同じように、またその手を掴んでいた。
「飛んで、どこに行くんだ?」
「どこに……」
ぴたりと動きが止まる。
白い体が不安げに揺れる――
「私は……どこに行けるんだろ」
夜風が長い髪を撫でていく。
「あたしは、どこに行くんだろうね」
次の瞬間、耶夜はまた笑っていた。
「誰も、止めてくれやしない」
「何を?」
「ふふっ。睦だけだ」
ふわりと笑んだその顔は、どこか寂しげだった。
「この間の答えは見つかったかな?」
「は?」
ぱっと、手の中から耶夜の手がすり抜けていった。
「私が何に手を伸ばしていたのか」
「……さぁな」
「あ、次までに答えを見つけれてない場合、アボガドチョコを飲んでもらうからね」
「はぁ!?」
またしても、突然すぎる話の展開だ。
「罰ゲームだよ」
「罰ゲームって、やっぱり不味いんじゃないか、そのジュース!」
「何を言ってるんだい君は。相手の嫌がることじゃないと、罰ゲームにならないではないか」
確かにそうだ。相手が喜べば、それは罰ゲームにはならない。その点、睦は本気で、あのジュースを試したくないと思っている。
「まったく君は、まだまだだねぇ」
ぽんっと耶夜の手が睦の頭に置かれる。
それにしても、癇に障る話し方だ。
「じゃぁね」
「あ、おい!!」
ひらりと手を振ると、またしても耶夜は、手すりを乗り越え、闇夜に姿を消したのだった。