1話
☆★ ★☆
プシュッと炭酸の抜ける音とともに、薄青色の泡が吹き出た。
「うあっ……と」
あの人はまた、缶を振ったな。
慌てて泡に口をつけ、すする。
少し間抜けな格好だが、どうせ誰も見てやしない。
引っ越してきてからひと月、誰かがこのテラスに出てくるところを見たことはないのだ。
「ふふっ」
その時――不意に柔らかな笑い声がすぐ隣からした。
四月から一人暮らしを始めたここは、仕切もなく、隣の住民とはテラスが繋がっている。
きっと隣の住民だろう。自分以外にも、人が住んでいたのか。
缶に口を付けたまま横を見ると、そこには――
「今晩は」
「……あ、あぁ、コンバンワ」
思わず声を失うほど綺麗な少女がいた。
薄い、白に近い黄色の髪をしていて、腰ほどの長さのそれをそのまま風に遊ばせている。月光に照らされ、碧い瞳は硝子玉の様に輝いていた。
「えっと……」
さすがに、この格好は恥ずかしすぎる。
そっと、口に付けている缶を下ろそうと試みたが、それは少女の言葉に阻まれた。
「あ! ねぇ、それ何飲んでるの?」
「は?」
少女は細く白い足を手すりの隙間から外に投げだし、ブラブラ揺らしながら興味津々に、手に持っている缶を見てきた。
短いワンピースの裾が風にあおられ――慌てて目を逸らした。
「ぶ、ど、う……」
話しているときにも随分日本語が上手いと思っていたが、どうやら彼女は文字まで読めるようだった。
ハーフなのだろうか。
「葡萄ジュース!?」
「……何?」
よくあるジュースだ。別に珍しくもなんともない。
何か文句があるのかと、自然と少し喧嘩腰になる。
「あ、違うよ。別に文句があるわけじゃないから!」
慌てたように、少女は顔の前で手を振った。
「ただ、珍しいなって」
心底珍しそうに、少女は缶を見つめてきた。
よくある葡萄を見たことがないだなんて信じられない。彼女の親は、一体どんな育て方をしたのだ。オレンジジュースの次に、よくみるジュースだろう。いや、二番手にはリンゴが挙がるかもしれないが。
関係ないことをついつい考えてしまう。
「それ、美味しい?」
「普通だけど」
「あたし、見たことはあるんだけど、飲んだことなくて」
「あぁ」
なるほど。それなら納得だ。見たことはあっても飲んだことはない。自分にもそういうことはある。例えば、養父が葡萄ジュース(これ)を持ってきた時に、一緒に持ってきていたアボガドチョコのジュース。あんなもの、誰かが好んで飲むとは思えない。勿論、そのまま持って帰ってもらった。
プシッと、隣で空気の抜ける音がした。
「……ぷはぁっ。やっぱり、これ美味しい」
「何飲んでんの?」
「これ? アボガドチョコ!」
いた。製造会社に貢献している者がここに一人。
「……好きなの?」
「嫌いなものを買う人がいる? 天の邪鬼じゃあるまいし。それとも何ですか? 貴方はあたしが天の邪鬼だとでも?」
「あぁ……いや」
ずいっと顔を近づけてくる。
面倒くさい絡み方だ。酔っているのか、この少女は。
「貴方も好きなものを買うでしょ?」
「まぁね」
それほどまでに好きなのか……アボガドチョコ。
「いる?」
差し出される缶から慌てて身を引き首を振る。
そんな冒険心は、全く湧いてこないし、今、出会ったばかりの他人の飲みかけを貰う気にもなれない。
「遠慮する」
「そう……。ねぇ、それちょっと頂戴」
「はぁ? 嫌だよ」
初めて会ったばかりのヤツに自分の飲みかけをやれるほど、できた人間ではない。というより、何だかこう、恥ずかしいというか……とにかく、そういう人間ではないのだ!!
さっと、伸ばしてきた少女の手から缶をよける。
「むむぅ……」
「いや、唸られても」
「けち」
「いや」
「けち」
「いや、だから」
「けち」
「……」
よく、今会ったばかりの相手にこんな事が言えるものだ。
全く、この女はどういう神経をしているのだろうか。
「あ、あの星!」
「は?」
思わず少女の指す先を見てしまった。
「隙あり!」
「あぁ!?」
少女は飛びつくように缶を取り上げ、そのまま口をつけて飲んでしまった。
白い喉が小さく上下する。
「美味しい!! ……けど、アボガドチョコ程じゃないわね」
アボガドチョコ。いったい、どれだけのものなんだ。
「あ、今欲しいとか思ったでしょ?」
「いや、全く」
「む、美味しいのにぃ」
知らない者同士、仲良くテラスに並んでジュースを飲む。なかなか奇妙な時間だった。
「あんた、隣の住民?」
「ん〜……うん」
何故か少し考える風に少女は頷いた。
警戒、されたのだろうか。
「名前は?」
「耶夜」
日本名なのに、その名は少女に合っていた。
「貴方は?」
「山内睦」
「睦……睦……」
確認するように、耶夜はぶつぶつと呟いた。
「何?」
「……ふふっ」
何だか嬉しそうに笑うと、それ以上何か言うこともせず、耶夜はまた、星空を見上げながらジュースを飲み始めた。