9話
「山内」
名前を呼ばれたので振り向くと、部屋の扉が勝手に開き、テラスに一人の男が出てきた。
仕事帰りなのだろう。少しくたびれたスーツを着ている。
この部屋に自由に出入りが出来るのは、睦とこの部屋を与えてくれた雇い主だけだ。
「榛名社長」
どかりと葡萄ジュースが側に置かれる。こんなに乱暴に置くと、炭酸が抜けてしまうのに。
「何ですか、これ」
「葡萄ジュース、好きだろう?」
「やっぱり……」
嫌いではないが、榛名の所為で、最近はずっと葡萄ジュースばかり飲んでいる。むしろ、最近少し飽きがきているところだ。
以前、引っ越し祝いに何が欲しいかと聞かれた時、葡萄ジュースと答えてから、ずっと好きだと思われている。葡萄ジュースとでも言わないと、車を買われそうな勢いだったから答えただけなのだが。
隣に並んで座ると、榛名は別の缶を開けた。
「何ですか、それ?」
「うちで作っているアボカドチョコだ」
開発者はここだったか。
「美味しいんですか、それ?」
「うむ」
理解できない。
「今度、持ってきてやろうか?」
「いえ、結構です」
「ふっ、飲まず嫌いか」
そう言って小さく笑うと、榛名は大きくジュースをあおった。
「ここでの生活はどうだ」
「暇ですよ。特にやることもなく」
「書類は送っているはずだが?」
「あぁ、来てますよ。でも、簡単なものばかりですよね」
以前の生活に比べると、回される仕事は楽なものばかりだった。数も減らされている。
これも、榛名の気遣いなのだろう。無理な仕事を頼んだということの。
「普通でも、もう少しかかるんだがな」
そう言うと、榛名は苦笑した。
「数が少ない割に、時間はありますから」
「それで……お前に頼んだのは、娘の監視だけだったはずなんだがな」
ぷしっと睦も缶を開ける。やはり、少し振れていたのか、泡が溢れ出た。
だから、乱暴に置くなと言うのに。この社長は言ったことをすぐに忘れる。
睦は慌てて口を付け、吸い取った。
「……ふ〜。余計なことでしたか?」
「いや……」
こんっと、缶の置かれる音が響いた。
「娘が久々に帰ってきた」
睦の前ではいつもふざけているのに、今日はちゃんと親の顔をしていた。
父親、なのだ。この人も。たった一人の家族のことを大切に想っているのだ。
「それにしても娘さん、人形みたいでしたね」
「ん?」
「あぁ、社長も茶髪の下は金髪でしたっけ」
「妻がハーフだったんだよ」
なる程。奥さんの方に似たんだな、と思ったことはさすがに口にしなかった。
「どうしてあんな事をした?」
「はい?」
ふわりと、榛名から甘い香りがした。
世にいう出来る男からチョコレートの香りがするというのは、少しおかしな感じがする。
「娘のことが好きになったか」
どうやら、監視以外にした行動のことを言っているらしい。
「冗談。寧ろ、嫌いだからですよ。あんな事をしたのは」
ぐいっとジュースをあおる。
榛名は恋心といった意味で言っているのだろうが、睦にそんな感情はなかった。
「ほぉ……返答によっては、首が飛ぶぞ」
言っていることは物騒だが、明らかに榛名は楽しんでいた。しかし、言ったことは本気だろう。
別に首にされても困りはしないが、少々厄介だ。
「親の愛に気付かない、愚かな子だったからですよ」
愚かに、監視されているとも知らず、睦に何でも話した。バカみたいな話を。
「監視までつける程、愛されているのに」
「……そうか、お前には親がいなかったな」
この社長に拾われて秘書を始めたのは、睦がまだ中学に上がったばかりの頃だった。かれこれ五年の付き合いだ。
睦にとっては父のような存在であった彼には、本当の娘がいた。あくまで自分は秘書だ。
「それだけです」




