閉店まであと三時間
第115回文学界新人賞落選分を加筆修正しました。
北海道旅行について話せって言うの?
それを聞きたくて、一人残ってあたしを指名したの? 転勤する吉井さんの総別会だったのに吉井さんを置いて皆引き上げてしまった。もう草木も眠る丑三つ時だもん。無理無いね。それなのに吉井さん、どうして皆と一緒に帰らなかったの? 今夜初めて会ったキャバ嬢の北海道旅行の話を、そこまでして聞きたかったの?
ふうん。転勤先は中国なの。じゃあそうちょくちょくは帰って来られないね。東京には帰って来られてもその時に北海道まで足を伸ばすのはきついかもね。だからなの? 中国へ行ってしまったら、東京へは帰って来られても、北海道へはおいそれと行けなくなるから、だから北海道の話を聞きたいの?
へえ、北海道はお母さんの故郷なの。小さい頃に訪れたことがあるの? だから懐かしいのね。うふふ。そういう人って好きよ。違うよ。営業トークなんかじゃない。明日から中国へ行っちゃう人に、色恋営業を仕掛けてどうすんの。
そうね。吉井さんとは今晩初めて会った仲だからしがらみが無い。明日には異国へ旅立ってしまう人だから、今後ごひいきにしてくれるかも知れないという期待も無い。……ああ、別にがっかりしているんじゃないのよ。逆なの。キャバ嬢だっていつも指名にガツガツしている訳じゃないのよ。
風営法を無視して営業中のこのお店は閉店時刻が朝の五時。閉店まであと三時間。平日のこんな時間帯は、お客さんも少なくてけだるいでしょ。あたしたちだって飲み疲れてはしゃぎ疲れ。こんな時に駆け引きなんてする気になれない。だからしがらみも期待も無いお客さんの相手をするのは気楽なの。
でも吉井さん、そんなに北海道が好きならどうして小さい頃に訪れたっきりだったの? あら、おじいさんおばあさんは吉井さんが小さい頃に亡くなってしまったんだ。そうするとお母さんも吉井さんを連れて里帰りはしなくなるかもね。……えっ、お母さんも吉井さんが小学生の頃に亡くなったの?
そうか。だから北海道が気になるのね。亡くなったお母さんへの思慕の情がそのまま、お母さんと一緒に幼い頃に訪れた北海道の景色に重なるのね。そう、後悔しているの? その後一度も北海道を訪れなかったことを。
でも仕方無いんじゃない? 突然中国に転勤になるなんて思ってもみなかったでしょ。それに、北海道を気にしながら足を向けなかった吉井さんの気持ちは分かるよ。だって何かマザコンみたいじゃん。……ああ、違うよ。吉井さんをマザコンだって言っているんじゃない。小学生でお母さんを亡くしたらお母さんが懐かしいのは当たり前だもん。
たださあ、だからって、もうおじいさんおばあさんもいないのに実際に行っちゃったりしたらやっぱマザコンみたいじゃん。だから行くのを躊躇するのは分かるよ。何ていうか自分って死者に囚われている駄目人間みたいな気分になるじゃん。本当はそんなこと、全然無いんだけどね。第三者なら行きたきゃ行けばって気楽に思えるけど、当事者は葛藤するよね。
小学生でお母さんを亡くしたりしたら、とんでもなく寂しかっただろうし、色々不便だっただろうね。世間の心無い言葉に傷ついたこともあったでしょう。そういったものがぐちゃぐちゃと心に迫るんだろうね。だからこそかえって北海道に向かえないよね。分かるよ。
お母さんにまつわる様々な経験や感情は、悲しくてそして忌まわしい。それらの感情に囚われていることを認めたくなかったりするよね。「小学生で母を亡くしたけど、自分はそんなの気にせずにやってきた」ってスタンス取りたいよね。強がりたいよね。吉井さんがそうやってきたこと、間違いじゃないと思うよ。
だって悲しみの淵に浸って、生きる訳にいかないじゃん。強がって空元気出してやってかなきゃなんないほど人生って過酷じゃん。……何? 嬉しそうな顔して。キャバ嬢っぽくない? あたしが? ……それって褒め言葉じゃないよね。だってお客さんはキャバ嬢らしさを求めてキャバクラに来る訳でしょう。……え、褒め言葉だったの? ふうん。だとしたらありがと。
あんまり嬉しそうじゃないって? そりゃそうよ。この仕事はあたしのメシの種だもん。それなのにキャバ嬢っぽくないなんて喜ばれたら微妙だよね。吉井さんに限らず、ここに来るお客さんって、どうしてマジトークするとキャバ嬢っぽくないって言うんだろ。……ふうん、キャバ嬢って頭空っぽのイメージがあるんだ。まあね。あたしだってキャバ嬢にそういうイメージ持っているよ。
でもねあたし思うんだけど、皆がそういうイメージ持っているからこそ、キャバ嬢は必要以上に馬鹿っぽく振舞うんじゃないのかな。だってやっぱ期待には応えたいじゃん。でもキャバ嬢だって、マジトークしたり熱く語りを入れたいこともあるんだよ。
ふうん。吉井さんはそういうのが好みなの? だとしたら何で、キャバクラなんか来たの? え、送別会で連れて来られただけ? ……確かにねえ、そういうお客さんはいるんだよ。付き合いで来ただけっていうね。だからこそあたしもついこうやって、おふざけだけじゃない自分を見せちゃうことがあるんだ。そういうのを求めているお客さんもいるんだから、熱くなったっていいじゃんって思っちゃうことがあるの。
んーでもやっぱ吉井さんは楽なお客さんだな。しがらみは無い。期待も無い。マジトークしても引かない。やり易いよ。気分いいからリクエストにお応えして北海道旅行の話したいとこだけど、吉井さん北海道に幻想抱いているじゃん? あたしの話聞いてもしかしてショック受けるんじゃないかとか思うとねえ。……え、いいの? 綺麗ごとじゃない話が聞きたいの?
じゃあ真に受けて見聞きしたこと感じたことをそのまま話すけどOK? ふうん、なるべく細かく聞きたいの? だったら微に入り細に渡ってお話するね。え? 閉店までの三時間持たせろって? そうね。邪魔が入らない限りはね。……ああ深い意味は無いの。もしかして指名が入っちゃったら、その席にも行かなきゃいけないって意味。うん。誰も来ないといいけどね。
吉井さんほどじゃないけど、あたしも北海道には憧れを抱いていたの。不思議だよね。あたしは寒がりだから北国なんて真っ平なのに、昔から北海道が気になって。全国の天気予報をテレビでやっていると、決まって北海道の天気や気温もチェックしていたの。北海道のあの形を凝視していると吸い込まれそうな気分になった。北海道に生まれた人って、どんな気分なのかなあなんてよく考えた。
あたしの生まれが長野だってことも関係するのかな。長野も雪国だけど、でも雪国としては中途半端でしょう。あたしが生まれ育った南信はスキーもできなかったし。あらびっくりした? 長野県だって全ての場所でスキーができる訳じゃないんだよ。あたしが住んでいた所は、雪は降ったんだけど量がイマイチでスキーができなかったの。人口雪のスキー場はあったけどね。
でも寒い地方だったんだよ。あたし小学一年生の時、学校行く途中であまりの寒さに泣いたことがあるもん。泣いたってしょうがないんだけど、手足が切れそうなくらい痛くて耐えられなくてつい涙をこぼしちゃったの。でも他の子たちは誰も泣いてない訳。自分一人が泣いちゃったことが、恥ずかしかったなあ。
だから皆に「どうしたの」って聞かれて、「転んだの」って嘘ついたよ。皆と同じ条件の中、自分一人が泣いてしまったことに、プライドが許さなかったんだろうね。え、可愛い? うふふ。ありがと。うん。自分でもね、振り返ってみれば幼かった自分の強がりを可愛らしく感じるけどあの頃は屈辱だった。自分一人が弱い人間みたいでね。
そんなことがあったからこそ、あたしは北海道に惹かれるのかも知れない。北海道ってれっきとした雪国でしょう? 降雪量も寒さも長野県の南信とは比較にならないよね。あたしはたかが長野県の南信で泣いてしまうほど、寒さに参っていたけれど、だからこそ尋常じゃない寒さや雪の量と戦っている地方の人へ、畏怖の念に駆られていたっていうか。
北海道を舞台にした小説にときめくものが多いのも、理由の一つかも知れない。あたしは中でも三浦綾子がお気に入りなの。北海道のきーんとした空気を感じる。その空気が小説を、ますますドラマティックにしているような気がするの。でもこんな言い方は不謹慎かな。三浦綾子は人間の罪を見詰めた作家だから、そういう作家が書くものをドラマティックだなんて喜ぶのは不謹慎かな。
でもね、あたしにとっては、どんなに真面目な小説もどんなに小難しい小説も、悲惨な小説でさえ娯楽作品なんだ。だって人生って過酷だもん。現実逃避したくなるほど過酷だもん。そのあたしの意識を誘って、現実逃避させてくれる作品はあたしにとっては娯楽なんだ。
もちろん小説を読んで生き方とか意識が変わることもあるけど、それはまた別の話。文字を辿っている時間はあたしにとって娯楽なの。だから娯楽作品である小説を、ドラマティックに盛り上げてくれる舞台に、あたしはそそられるの。
でも今回、札幌の時計台に行って知ったんだけど、時計台が描写されている小説だけでも沢山あるのね。やっぱり北海道ってドラマティックなんだなと思った。北海道って作家の創作欲を掻き立てるんじゃないかな。
あら、なーに吉井さん驚いた顔して。ふうん。キャバ嬢が本を読むなんて意外なの? そう言われるのは心外だな。だって数は少ないけど、お店の女の子の中にもあたし以外にも本読む子はいるんだよ。それにあたしはむしろ、水商売の人間にこそ本は必要な気がするの。
だってね、例えばあたしは二十一時出勤の五時あがりなんだけど、基本的にその間、休憩は無いんだよ。ひとたび店に出たら八時間もの間しゃべりっぱなし。こんな店に来るお客さんは会話面で受身な人が多いから、どうかすれば八時間もの間、話題を提供し続けなきゃいけない日もあるの。そうすると店が終わった後、自分が空っぽになった気分になるんだ。
そうするとね、情報ってものに渇望する。空いた穴を埋めなきゃって気になるの。だからあたしは勤務後に家に帰ってから本をむさぼり読むことが多いな。ほら本って、自分のペースで読めるでしょう。テレビやネットじゃ間に合わないのよ。限られた時間で知識を吸収しようと思ったら、本が一番効率がいい。
旅行っていうものも、あたしにとっては読書と同じ位置になるのかも知れないな。読書は脳内旅行だけど、たまには実際に心身を旅行させてみたくなるのよね。それで北海道旅行に行った訳だけど、実は六年前にも北海道には行ったことがあったの。会社の社員旅行でね。うん。あたし六年前にはOLしていたの。え、今の年齢? 二十七だよ。うん。童顔だから大抵もっと若く見られる。じゃなかったらいい歳してこんな仕事してないよ。
社員旅行では網走とか知床に連れて行かれたの。あたしは不服でねー。れっきとした雪国への畏怖なんて言いながらミーハー心も持っていたから、どうせ北海道に行くなら、札幌とか小樽とか函館とかに行きたかったの。でもそういう所には以前行ったらしくてね。だからまあしょうがないかあなんて思いながら向かったの。網走やら知床やらなんて、個人では行くことないだろうから、いいかあって思い直してね。
でも行ったら楽しかったよ。網走とか網走刑務所のイメージで、おどろおどろしい感じを想像していたんだけど、花が咲き乱れていてガイドさんの言う通り花の網走だった。デートスポットにいいんじゃないかな。知床も景色がよかったよ。どこまでもどこまでも自然が広がっていて日本じゃないみたいだった。
ただそんなにいい季節ではなかったの。秋だもん。やっぱ北海道行くなら冬か夏か花の季節でしょう。でも社員旅行だからね。シーズンオフになっちゃうよね。
六年前のその経験があったから、あたしは次こそは札幌やら小樽やらに行きたくてね。最近は、北海道旅行の際に札幌をスルーしちゃう人が多いのは知っていたけど、どうしても札幌は行きたかった。だって北海道第一の都市だもん。まずはそこを抑えなきゃ始まらない気がして。
実は今回は一人旅だったの。一度一人旅をしてみたかったっていうのが理由の半分。もう一つは一緒に行ってくれる人がいなかったっていうのが半分。……カレシ? その時はいたよ。実は北海道から帰って来たのは今日なの。あ、日付変わったから正確には昨日だ。
北海道に行く前にはカレシはいたんだけどもう別れちゃった。早いでしょ。
カレシはいたんだけど、カレはちょうど社員旅行だったの。でも今回旅行を申し込む当初、あたしはてっきりカレは普通に出勤だと思っていてね。まあ会社に出勤でも社員旅行でも、どっちみち北海道旅行に付き合ってもらえる訳じゃないからいいんだけど、申し込んだ後で実は社員旅行だって、しかも行き先が北海道だって知ったの。
そうでしょ。すごい偶然でしょ。カレも驚いただろうって? ううん。カレには北海道に行くって言わなかったの。理由はすごくくだらないの。
北海道って広いから、同時期に旅行に行ったからって、ばったり会っちゃったりはしないって分かっていたんだけど、ただもしかしたらって期待があったの。内緒にしていた方が、偶然出くわした時にびっくりさせられるなあなんて。
時々ね、その時のこと思い出して後悔するの。その時そんなことを思いつかなければ、カレとあんな最悪な別れ方をしないですんだかも知れなかったなって思っちゃうの。……何があったのかって? それは、……おいおい話すよ。
あたしはゴールデンウィークに、休みが取れなかったのね。うちの店って年中無休なのよ。それでゴールデンウィークは激混みだから休めないの。連休明けにやっと休みがもらえることになっていたんだけど、カレは普通のサラリーマンだし、あたしの友達って普通のOLが多いから、そんな時期に休めないの。だから、以前から一人旅に憧れていたしと思って申し込んだの。
でも今回も、あんまりいい季節じゃないよね。本格的な雪国だからって北海道に憧れておきながら季節は春。しかも花の季節にはまだ早いんだよね。北海道では桜が散ったくらいの頃。花のじゅうたんが現れるまでのエアーポケットみたいな時期。早い話がシーズンオフで安かったんだよね。でも安い時期じゃなきゃ北海道なんて行けないもん。安い時期でいいから行きたかったの。
行きの飛行機の中で早速北海道に出会えたよ。エアドゥーだったんだけど、オニオンスープが無料で配られていて、それが美味しかったの。断言するけどエアドゥーで北海道行くなら、お茶だジュースだを飲んでいる場合じゃないね。オニオンスープ飲まなきゃエアドゥーにした意味が無い。
新千歳空港で降りて札幌に向かったら、ちょうどお昼時だったから、まずスープカレー屋に入ったの。そこも美味しかったなあ。スープカレー屋は東京でも入ったことあったんだけど比較にならない。その東京の店が格別に不味かったって言うのもあるんだけど、本場のスープカレーは、何であんなに美味なんだろう。
食べ終えた後、お腹いっぱいなのにお代わりが欲しかったくらい。具はもう食べられないからせめてスープだけでも飲みたいって思った。スープカレーだけじゃなく、ラッシ一つ取っても美味しかったよ。ほらカレー屋によくあるヨーグルトドリンク。あたしあんなに美味しいラッシ飲んだの初めて。
でもいいことばっかじゃなかったよ。札幌駅の駅ビルに入っている占い師さんに、占いしてもらったの。ネットで評判がよかったから、旅先で占ってもらうのもおつだなと思って行ってみたんだけど。……ううん。悪いこと言われた訳じゃないの。逆なの。カレシとの相性を占ってもらったら、運命の人だって言われた。
ただやたらと健康食品をほのめかす人でね。それを食べるとフェロモンが出て、カレの心をますますわしづかみにできるんだって。運命の人を逃しちゃいけないって、遠回しにその食品を勧めてくるの。それを聞いていたら気持ちがしぼんじゃった。だってそうでしょう。その人占いだけじゃ食べていけないから健康食品売ってしのいでいるんだよ。そんな人に運命の人だなんて言われても、信じられないでしょう。
だから占い師が健康食品の話をする度に聞き流していたんだけど、そしたら見料を、六千円取られたの。
そっかあ。吉井さんは男の人だから占いの相場とか知らないかあ。そりゃあね。有名な占い師なら高くても仕方無いかも知れないけど、たかが駅ビルの占い師だよ。それがせいぜい二十分しか見てくれなくて六千円はぼったくりだよ。三千円でも高いと思う。しかもあの後結局別れちゃったしね。外れた占いのために六千円も取られたのかと思うと、忌々しい。
交渉しなかったのかって? できないよ。最初に値段を確認しなかったこっちの落ち度だもん。でもすごーくへこんだ。あたしはあの時とにかく健康食品を売りつけられないようにしなきゃって、そのことにばっか夢中になっていたから、つい法外な値段をふっかけられても払っちゃった訳だよ。自分のそういうぶきっちょなとこに落ち込んだ。
それとね、ああこの占い師は札幌を愛してないんだなって思って嫌な気分になった。観光で札幌に来たってことは言ってあったから。
なまじ観光だなんて言っちゃったから、観光客なら後腐れが無いなんて思われて、ふっかけられたのかも知れないけど、そんなことして、札幌のイメージが悪くなるって思わないのかなって悲しくなった。自分の住む街を愛せない人って悲しいね。
あとはね、自分ってつくづく性善説の人間なんだなって思ったの。もし性悪説の人間だったら、占ってもらう前に料金を確認したはずなんだよね。しなかったのは性善説だからだよ。あたしは性善説の考え方が嫌いだから、自分の中の性善説な部分を見つけて自己嫌悪。だって性善説じゃ人間は努力しなくなる気がしない? 性悪説だからこそ努力していい人間になろうとするんじゃない?
やだ。何で笑うの? え、またしてもキャバ嬢っぽくない?
……そうかもね。マジトークや読書ぐらいなら、キャバ嬢だってたまにはするだろうけど、努力してまでいい人間になるべきなんて持論を展開するのは、キャバ嬢っぽくないかもね。そうだね。綺麗ごと言う気は無いよ。あたしはそんなに売り上げがあるキャバ嬢じゃないけど、カレシと付き合っていた時に、お客さんにカレシがいるなんて言ったことは一度も無かったよ。うん。いつでもいないって言っていた。その方が受けがいいから。
そんなことしておきながら、一方では努力してまでいい人間になろうとしたりして、矛盾だよね。分かっているよ。だから実はいつでも辞めたいと思っているよ。でもあたしだってオマンマを食わなきゃいけないんだ。
どうしてOLを辞めたのかって? 理由を言うと驚くよ。聞きたい? ……セクハラに疲れたから。
……ほら驚いた。分かるよ。セクハラで会社を辞めた女がどうして飲み屋で働くことにしたのかって思うんでしょう? でもね、お堅い職場で上司に胸を触られたり無理やりキスされたりするくらいなら、キャバ嬢になってお客さんに触られた方がマシなんだよ。
だって上司とは毎日顔を合わせるけど、お客さんは毎日店に来る訳じゃないし、そもそもうちはお触りは禁止だからね。お触り禁止ってことは反撃ができるってこと。あたしは触ってくる客はポーチで頭をぶん殴っているよ。それで客が怒ったって、店長がかばってくれるもん。でもセクハラ上司につれなくして怒らせたら誰もかばってくれないんだよ。かばってくれないどころか、お局にヤキモチやかれたりするんだよ。
いい目にあって、嫉妬されるんならともかく、キモいオヤジにセクハラされてやかれたんじゃ馬鹿馬鹿しくなるよ。お堅い職場で、安い給料受け取りながらセクハラされていたから、あたしはぶち切れて水商売を始めちゃったのかも知れないと思うんだ。どうせならセクハラが似合う職場に身を置きたいって、思ったのかも知れないんだ。
やだ、何でそんな悲しそうな顔するの? え、あたしが占い師にぼったくられたから?
あたしがどうして水商売やっているか分かったっていうの? どうして? え? 旅行とぼったくり対策? やあだ。あたしは旅費と、あとはぼったくられるために水商売をしているっていうの?
そんなこと無いって言いたいけどでもそうなのかな。六千円を提示された時、あたしごねようとか夢にも思わなかった。高いな、嘘でしょって思ったけど、まあいっか、その分働けばって頭のどっかで思った。
水商売をやっているような女は、稼がねばならない理由を持っているものなのかもね。お店の女の子の中には、ホストにはまっている子もいるよ。あたしには信じらんないけどね。男に酒を注いで男のタバコに火を点ける仕事で得たカネで、男に酒を注いでもらってタバコに火を点けてもらうなんて馬鹿らしいよ。
でもホスト通いの子から見れば、見料を言い値で払っちゃうあたしの方が、信じらんないかもね。
そういう自分の傾向は好ましくないよ。嫌だなと思う。札幌駅の外に出た時に強く思った。それはね、高校生があしなが育英会の募金を呼びかけていたのに出くわしたから。
連休明けだったのに、どうして高校生が募金をしていたのかって? ああその日は日曜日だったの。日曜日だから高校生も時間があったんでしょ。……いや分かっているよ。日曜日だからって、高校生が暇な訳じゃないってことは。本当は遊びに行ったりあるいは勉強をしたりしたかっただろうね。自分の意思か頼まれたのかは知らないけど、ボランティアなんだなってことは分かったよ。
あたしもね、あしなが育英会ではないけど奨学金は受けたんだ。高校を出て東京の短大に進んだんだけどね、その時二年間奨学金を受けたの。親が貧乏だったからね。……うん、今でも返済しているよ。そうだよ。返済のために水商売している部分もあるよ。あたしOL時代にセクハラが原因でうつ病になったから、会社辞めたけど、医者に一年休養しろって言われたのに聞かずに水商売始めたのは、奨学金の返済があったからだよ。
奨学金の返済を滞納する人が増えたって、よくニュースで報じられているって? 知っているよ。あたしは延滞したこと無いから分かんないけど、奨学金ってきっと督促が緩いんだろうね。だから踏み倒すことも可能なんだろうね。でもあたしは支払う。だって感謝しているから。
短大の二年間があたし人生で一番楽しかったの。あたしはたかが短大卒なんだけど、でもつくづく思うよ。人間にとって好きなことに打ち込める以上の幸福って、無いかも知れないなって。毎日好きなことが勉強できてあたし幸せだったの。
どうしてそんなに勉強好きなのに四年制大学に行かなかったのかって? うふふ。吉井さん、お金に苦労したこと無いでしょう。実家が金持ちじゃなかったとしても教育にはお金かけてもらったでしょう。そういう人はそういう質問をするんだよねえ。あたし親が貧乏だから、奨学金受けていたって言ったでしょ? うつ病もやったって言ったでしょ?
奨学金を受けなきゃ、生活できなかった人間は、バイトに追われる日々を送ったんだって想像つかない? バイトに追われながらかつかつの生活費で送る学生生活を、四年も送る気力が無かったのよ。あたしって元からうつ気質なんだもん。
でもね、ぎりぎりの生活だけど楽しかった。短い学生生活だけど充実してたの。あたしはあたしに、二年間好きな勉強をさせてくれた制度に感謝しているんだ。だから例え水商売に身を落としても返済したいの。そうすれば誰かがまたその制度を活用できるでしょ。
そんなあたしだからね、高校生が募金活動をしているのを見かけた時、ああ募金しなきゃと思ったの。普段のあたしだったらしたと思う。かねてからの憧れだった札幌に来られた喜びで機嫌よく募金したと思うの。
でもその時のあたしは、足早にそこを通り過ぎた。占い師にぼったくられた直後だったからよ。この上銭を差し出すなんて冗談じゃないと思った。だけど休日を返上して募金活動している高校生を無視したことで、気分が滅入ってね。占い師にぼったくられるくらいなら募金した方がマシだったとか、ぐちゃぐちゃ思った。
そんなことぐちゃぐちゃ思うくらいなら、引き返して、十円でいいから募金すればいいのに、それはどうしてもできなくてね。その時つくづく思った。人はぼったくりというものに遭ってはいけないね。適正価格で支払わないと、人は変に財布の紐が固くなって出せばいいシーンでも出せなくなるね。
あたしを優しいって? まさか。あたしはたまたま奨学金というものを受けた過去があるから、奨学金を募集する募金の趣旨に賛同しているだけよ。自分が喜びを経験したものに賛同したからって何も優しくなんかないよ。自分と無関係なものに同情できて、初めて優しい人でしょ。
その考えが優しいって? やめてよ。あたしは優しい人間なんかじゃない。募金だって自分が納得した趣旨のものしか支払わないし、納得した割にはせいぜい、十円か百円程度しか投じない。百円でいい人になったかのような錯覚を買っているだけよ。占い師にぼったくられたせいでその錯覚を買えなかったから、腹を立てただけよ。
本当にいい人だったら、ぼったくられた直後でも募金しただろうし、本当の偽善者でもやっぱり募金したと思う。あたしは自分の中途半端加減にイラついただけなのよ。心の中では占い師を攻撃していたけれど、本当は自分がふがいなかったの。
あたしを繊細だって言うの? やめて。やめて。ああ言わなきゃよかった。どうして募金のくだりを話してしまったんだろう。本当にね、どうして吉井さんに語ってしまったのか分からない。占い師にぼられた話くらいなら誰にだって話せるけど、その後募金を無視した話なんて誰にもする気無かった。
だって募金をする前提の話なんて、いい子ぶっているって思われるのがオチでしょ。キャバ嬢だもん。そんなの求められてないのは分かっているんだ。頭悪そうにして露悪的にしなきゃいけないって分かっている。
でもさ、仕事とはいえあたしたちもこうして飲んでいるでしょう。そうすると頭の奥で、ぷつっと何かが切れる瞬間があるの。期待に応えようとか考えずに、思ったまま感じたままを語ってしまいたくなる時があるの。
吉井さんのせいよ。吉井さんがなるべく細かく北海道のことを話せなんて言うから。吉井さんが明日には中国へ行っちゃうなんて言うから。もう会わない人だと思えばこそ、安心して本音を語ってしまうじゃない。
……どうして嬉しそうにしているの? へえ、本音が聞けて嬉しいの。変わっているのね。吉井さんて。本音が聞きたいっていう男は多いけど、本当に本音を聞いたら白けちゃうケースが多いのに。
人生を感じるって? まあ確かにね。北海道で出会った募金の話をきっかけに、実家が貧乏だった中であたしが何とか進学した話とか、うつ病の過去とか明かしてしまったし、人生って感じだよね。でもどうして人生を感じることが嬉しいの? 吉井さん自身が北海道に人生を握られているから?
まあね。行きたいと思いつつこだわって行けなかった北海道だもんね。吉井さんの半生に深く関わっていたって言えるよね。え? 自分が行きたくて行けなかった北海道だからこそ、あたしが北海道で辛い目に遭ったことが嬉しいの?
……ひどいな。……もう、機嫌取ったって駄目だよ。今更機嫌取るくらいならどうしてそんなこと言ったの? ……ていうかあたしのこと優しいだの繊細だの言ったのも、全部機嫌取りだったんじゃないの?
なんてね。別に怒ってないよ。本音を言ってもらえて嬉しいって言う人が本音を語るのは当然だと思うし。それに吉井さんの気持ちも分かるよ。吉井さんは北海道を気にかけていたのにずっと行けなくて、そして明日から中国へ旅立ってしまうから、今後もおいそれとは北海道に行けない身。だとしたら北海道が単純に楽しかったなんて話、聞きたくないよね。もっと深い話を聞きたいよね。
でもあたしには、単純であっけらかんとしたところもあるんだよ。募金活動をしている高校生の前を、ぐちゃぐちゃと思い悩みながら通り過ぎたら、後はもうすっかり心は時計台に飛んでいた。だってせっかく観光に来たんだもん。自分のふがいなさなんて考えたところでどうなるもんじゃないし、多分次の機会に募金に出会えば、その時は募金できるだろうと思って。だからもういいやって切り替えちゃったの。
時計台は、「行ってがっかりしたスポットナンバーワン」って、何かで読んだことがあったから、どれだけ酷い場所なのかと戦々恐々として行ったんだけど悪くなかったよ。ていうか時計台にがっかりする人って、一体何を期待して行くんだろうって疑問に思った。確かに娯楽性は低い場所だったけど、時計台ってそもそも札幌市のシンボルでしょ? 市のシンボルが、面白おかしい場所であるはず無いじゃないの。
娯楽性は低いけど、可愛くてレトロな建物だったよ。こんな愛らしい建物がシンボルだなんて、札幌市民は羨ましいなって思った。札幌は時計台の他にも赤れんが庁舎が雰囲気のある建物として有名だけど、何ていうか街全体が綺麗なの。碁盤の目みたいに区切られているからすっきりしているし、ビル街もすっきりしているの。東京みたいにごちゃごちゃしてない感じ。
東京だと、超高層ビルがにょきにょき建っていて空が見えないくらいだけど、札幌は、高いビルもあるけどちゃんと空が見えるの。あたしは東京の雑然とした感じも嫌いじゃないんだけど、札幌の街を見ていたら住みたいなって思った。北国ってどうして清潔な感じがするんだろう。あたしは長野県の出だから雪かき作業の大変さとか知っているのに、それでも住みたいなって思った。
時計台の中もちゃんと見学したよ。時計台って過去に様々な色に塗られていたんだね。過去の写真が展示されているのを見ていたら胸がきゅーんとした。どうしてだろうね。もう過ぎ去ってしまった景色だから? 取り戻せない姿ってどうして切なくなるんだろう。切なくなるのにどうして人は、取り返しのつかないことをしてしまうんだろう。
赤れんが庁舎も中を見学したの。時計台もそうだけど、展示物の内容が社会科見学に来ているみたいだった。でもあたしそういうの嫌いじゃないんだ。
北方領土に関する展示物で埋め尽くされている部屋が、一つあってね。もしかして北海道の人たちにとっては、北方領土の問題っていうのは、本州の人間よりも身近なのかなと思った。あたしは長野県という、日本のほぼ真ん中に位置する県に生まれて、やっぱり日本のほぼ真ん中ら辺の東京に十八で出て来て、ずっと暮らしていて、端っこの人たちの感覚を、分かっていないんだろうなあという気がした。
心のどこかにその感覚があるから、端っこの人たちのことが、気になるのかなあとも思うけど、でも違う気がするの。だってあたしの心にあるのは同情じゃなく憧れだから。北方領土のすぐ側に位置して、その問題を意識している北海道が、何ていうかすごくかっこいい存在に思えたの。
そして夜は札幌の友達と行き会ったの。……え、友達に会ったんじゃ正確には一人旅とは言えないって? まあそう言わないでよ。友達に会うって目的が無きゃあたしも一人ではるばる北海道まで行けないよ。
その子も結婚で札幌に来たばっかりだったから、まだ詳しくなくてね。観光客みたいにキリンビール園に行ってジンギスカンを食べた。美味しかったよ。その子が言うにはジンギスカンを食べるなら食べ放題にしない方がいいらしいね。食べ放題だと、冷凍のラムを出されちゃうそうだけど、あたしたちは生のラムを出してもらったの。
ラムを食べるのはすごく久し振りだったから、癖があるか心配だったんだけど、平気だった……っていうか、むしろ好みの味だった。どうしてラム肉がもっと広まらないのか不思議なくらい。
実はあたしの実家がよくマトンを出す家でね。長野県ってそうなのかって? さあ。よその家でも食卓にマトンが出ていたのか分かんないな。もしかしたらうち教会だから、マトンがよく出たのかも。聖書にはよくマトンが出てくるから。
何? びっくりした顔して。あたしの実家が教会ってことがそんなに意外? あああたしがキャバ嬢だから? ふふ。教会の娘なのにキャバ嬢になるなんてパンクでしょ。
ああでも納得だって? キリスト教教育を受けていたから、募金を気にかけたり北方領土問題とかの真面目な事柄に関心を持つんだろうって? そうかもね。三浦綾子がお気に入りなのも、彼女がキリスト教作家だからだもん。
あたし自身は二十歳の時に、信仰は捨てたんだよ。捨ててなきゃキャバ嬢なんてやれないよ。聖書には品行方正であれ的な記述もあるしね。でも捨てた信仰、捨てた精神であっても、関わってきた教えからはなかなか抜けられないね。
キリスト教は悪い教えではないと思うし、抜けなくたっていいのかも知れないけど、堅苦しい教えを胸に秘めながら、こんないい加減な仕事をしていると、矛盾というか振り幅の大きさにくたくたになるよ。でも赤ん坊の頃から身近に接していた宗教の影響って、どれだけもがいても完全には消えないね。
あ、吉井さんまた嬉しそうな顔している。人生を感じるって? 吉井さん、人生好きねえ。
あたし? あたしだってそりゃあ人生は好きだよ。キャバ嬢を始めて二年。接客してれば人生を感じることはしばしば。人生が嫌いだったら、いくらカネのためとはいえこんな仕事続かないよ。
だからラムを食べた時に、マトンをしょっちゅう食べていた過去とか、マトンを食べさせられていた背景とかに思いを馳せて、しみじみしちゃったよ。またそのマトンが不味かったんだよね。マトンだから不味かったのか、昔のことだから冷凍技術が劣っていて不味かったのかは分かんないんだけど。
食べて飲んでいい気分になった時、店内を見渡しながら友達が言ったの。
「仲がいい夫婦が多いんだね」
って。
言われてみると確かに年配の夫婦が多かったの。あたしもホントだあってまたしみじみしちゃった。いや友達もあたしも両親が離婚しているからさ。
あ、吉井さんまたびっくりした顔している。あたしと友達の両方の両親が離婚していることに驚いたの? え、そうじゃなくてあたしの両親の離婚に驚いた?
ああそうか。うち教会だって言ったもんね。キリスト教は離婚が禁じられているから牧師夫妻が離婚しちゃおかしいよね。でもしたんだよ。離婚前に両親は牧師辞めていたし。信仰を捨てたのかって? うーん。何て説明すればいいのかな。
実は両親は、以前は普通のキリスト教の牧師をやっていたんだけど、途中から心変わりして、怪しげなキリスト教系の別の宗教に入っちゃったの。だから信仰を捨てたと言ってもいいんだけど、本人たちは、捨てた訳じゃない、正しい道に入ったんだって思っているんだと思う。でも客観的に見れば怪しげな道に入っちゃったんだけどね。離婚はその後だよ。正規のキリスト教じゃないから離婚は罪にならなかったみたいよ。
二人して合意して怪しげな道に入ったのに、その後離婚しちゃうなんて、よく分かんないよね。離婚理由? 教えてくれないから分かんない。いやホントよ。教えてくれないの。子供には知る権利があるなんて、思いもしない人たちだから。あたしも追及しなかったしね。二人が離婚するのはいいことだと思ったし。だってめちゃくちゃ仲悪かったんだもん。
よく親の離婚でぐれる人の話聞くけど、そういう人って幸せ者だよね。親が離婚しないでいてくれたらよかったのにっていう幻想を、抱く余力のある内に、親が別々の道を歩んでくれたんだもん。でも尋常ならないほど仲の悪い両親を持っちゃうと、頼むから離婚してくれって思うよ。毎週必ず諍いが起きて家中の物が破壊されるのを、物心ついた頃からエンドレスに見せられてみなよ。お願いだから別れてくれって思うって。
だから東京に出て来たのかって? そうだよ。あたしはとにかく家を出たかったの。実家から出られればどこでもよかった。それがたまたま東京だったっていうだけの話なの。
そんな親を持っていたからさ、何ていうか年配の夫婦っていうものは、仲が悪いものだって思いがあたしの中にあってね。友達もそうなんだと思う。だからキリンビール園で食事している夫婦の群れを二人してぼけっと眺めた。場所柄、観光客が多いしあの夫婦の群れはおそらく旅行者だよね。年配になっても一緒に旅行に出かける夫婦は、こんなにもいるのかって感銘受けちゃった。
もし離婚してなきゃ、うちの親も、こうして旅行に来ることがあっただろうかって考えた。そして絶対に無いなと思った。父親は旅行好きなんだけど母親を誘うってことは絶対に無いと思う。とにかく人がしてあげたことで喜ぶってことが無い女でね。しれーっとした顔で忙しそうに家事をこなしているだけの、つまんない女なの。それでいて家事がいい加減なのよ。
これで家事が完璧だったら、小説とかに出てきそうな女だよね。でも家事は穴だらけなの。それなのに人生を楽しむってことに全く興味が無いだけじゃなく、楽しんでいる人間を馬鹿にするような女。父親が別れたくなるのも無理無いよ。
え? あたしはお父さん子だったのかって? 違うよ。あたしは母親よりも父親がもっと嫌い。夫婦喧嘩の際に家中の物を破壊したのはほとんど父親だもん。そんな暴力的な男は大っ嫌いさ。ただ父親をそれだけ荒れ狂わせたのは、母親にも原因があったなあと思った。そんだけよ。
その後てくてく歩いて友達の家に行ったの。そうだよ。泊めてもらうため。友達は結婚で札幌に来た子で新婚さんなんだけど、その夜はダンナさんが出張でいなかったの。
友達の家で天気予報見た時は、感動しちゃった。だって毎日全国の天気予報の際に見るしかできなかった北海道の、ローカルな天気予報を見ることができたんだよ。ねえ知ってる? 北海道は花粉症無いって言われているけどその代わり白樺の花粉症があるの。だから白樺花粉情報が流れるんだよ。豆知識でしょ。
あたしが感動している横で、友達はまだ、さっきキリンビール園で見た年配夫婦の群れにこだわっていてね。
「そうだよねえ。四組に一組は離婚する時代だって言っても、四組の内三組は結婚生活続けているんだもんねえ。だったら仲いい夫婦だっているよねえ」
とか言っていて。
どうしてそんなに気になるのかと思ったら、北海道は離婚率が高いから怖いんだって。北海道は女余りだから離婚するのは困るって言うの。次の相手探しにくいから。
あ、北海道が女余りなのはね。就職先が無いからだって。それで北海道の男の人は職を求めて海を渡っちゃうから少ないらしいの。それ聞いた時はへえー、あんなに高層ビルが建っているのにねえと思ったけど、でも考えてみれば都道府県別の就職率だって、東京がいつでもナンバーワンじゃないしね。
でね、女余りだって言うからあたし、それじゃない? と思って友達に言ったの。男が少ない中から、無理やり相手選んで結婚する訳だから、妥協で結婚決めているケースが多いんじゃないのかなって。だから耐え切れなくなって離婚しちゃうんじゃないかなって。
そしたら友達はホッとしていたの。友達はダンナさんと東京で知り合ったから、該当しないでしょ。安心と思ったみたい。
でも友達には言わなかったけど、あたしもう一つ思ったよ。北海道の離婚率の高さってススキノがあるせいなんじゃないのかって。北海道の人って合理的だから、結婚式とかお葬式とか質素でしょ。そこまで質素にやってんのに、ダンナにススキノにはまられたら頭くるよね。離婚してやるとか思いそう。
それか奥さんがススキノで働いちゃうケースもありそうだよね。就職難だから、ダンナさんが職を失って、奥さんが家計を助けるためにススキノで働き始めるんだけど、やっぱ夜の仕事だから、夫婦間に色々悪影響が出てそれで離婚に至っちゃうの。
夜の仕事の悪影響を自覚しているのかって? そりゃしているよ。ダンナさんやカレシがヤキモチやくのは無理無いと思う。あたしだってカレシがホストだったらやく。ていうかホストとなんか付き合わない。有り得ない。
そんな考え方なのに、自分は水商売やりながら堅気の男と付き合っているんだもん。そりゃ気分にひずみは生じるよ。カレシにはこの仕事辞めて欲しいって言われていたしね。だから本気で昼間の仕事探そうかなあとは思っていたんだよ。北海道行くまでは。
何があったのかって? 順を追ってその内話すよ。
友達とのトークが、結婚離婚っていうテーマになったもんだから、あたしはふとカレシが恋しくなってね。ケイタイを見てみたら、十分くらい前にカレシからメールが来ていたの。
<宴会で飲まされた。もう限界。これから寝る>
って。
それ読んだ時は、それってアルハラなんじゃないのなんて、あたし本気で義憤に駆られたの。今にして思えば馬鹿みたいなんだけどね。
で、カレは寝るって言ってるからあたしも
<大丈夫なの? ゆっくり寝てね>
とだけ返信してさっさと寝たの。次の日も朝から動く予定だったし。
次の日は、友達の車で旭山動物園に行ったの。札幌から高速使えば三時間くらいで行けるんだよ。
道中も素敵でね。あたしどうも北海道の建物が好きみたい。北海道の民家ってナチュラルカントリーが似合いそうな家が多いんだよね。外見は、いわゆるカントリーを目指していますっていうお宅と違って、もっと素っ気無い感じなんだけど、その素っ気無いテイストに、ナチュラルカントリーがはまりそうっていうか。あとね、ただの倉庫とかサイロとかにもノスタルジーを感じた。どうしてかなあ。本州と何が違うんだろう。
印象的だったのはね、ほらたまに民家の壁に、聖書の言葉が書いてあったりするじゃない? あれが北海道の場合は大きいの。それで気がついたんだけど、あたし北海道旅行の間に一度もお寺を見かけなかったんだよね。神社なら一つ見つけたけどお寺はゼロ。日本のお寺の数はコンビニより多いらしいのに驚きじゃない? それで教会は二つ見かけて、聖書の言葉は十こくらい見た。
北海道ってもしかしたら、キリスト教と関わりが深いのかも知れないね。あのクラーク博士もクリスチャンだっていうし。そういえば有名な「ボーイズ ビー アンビシャス」。あれクラーク博士言ってないんだってね。いや言ったは言ったんだけど、あの後付け足した言葉があったのに、馬が走り出した瞬間に言ったから、最後の言葉を少年たちが聞き逃したらしいよ。
「ビー アンビシャス」は「大志を抱け」って訳されているけど、本来は「貪欲であれ」とか「欲深であれ」みたいな、あんまりいい言葉じゃないんだって。クラーク博士はクリスチャンだったから、本当は「キリストにあって貪欲であれ」って言いたかったんだって。キリストにあってなら、貪欲であってもいいってクラーク博士は考えていたんだって。
だから「ビー アンビシャス」の後に、「イン フォー クライスト」って言ったのに、それが伝わらなかったんだって。後になってクラーク博士は
「日本人は、わたしが『ビー アンビシャス』と言ったと喜んでいるけど、わたしはそんなことを言いたかったんじゃない」
ってこぼしていたんだって。
ここまで有名な言葉が実は違っていたって、考えさせられるよね。
そういえばあたしが高校生の時、学校の文化祭のキャッチコピーを、多数決で決めることになったの。候補の中に「ビー アンビシャス」もあってね。クラーク裏話を知っていたあたしは、迂闊に「ビー アンビシャス」が選ばれたら恥だと思って、投票用紙に「ビー アンビシャス」にするべきじゃない理由を書いて投票したけど、「ビー アンビシャス」が可決されちゃった。世の中そんなものだよね。
ところで肝心の旭山動物園は……、うーん……、あんまりたいしたこと無かったよ。
実はあたしは、そんなに行きたくもなくてね。友達がまだ行ったことないから是非行きたいって言っていたから、付き合っただけなんだけど……、あたしは上野動物園の方が好きかな。
もしあたしが旭川市の市民だったら、旭山動物園を好きになったと思うの。誇りに思ったと思う。地元にあんなに工夫された動物園があれば誇らしいよ。ただ東京からわざわざ行くほどのモンじゃないね。動物園の規模も小さ過ぎるし。
以前は、客の数がまばらだったっていうのも納得した。三時間もあれば見て回れる規模の上に工夫も無いんじゃ客は来ないよ。それをあの規模のまま、工夫をしたからマシになったってレベル。最初から大勢の客が来ること見越してないのに、話題になったせいで人が溢れていて邪魔臭かった。
工夫に感動しなかったのかって? うーん、行動展示とかいうやつがあったけど、そもそも動物たちが、あんまり行動してなかったんだもん。
ペンギンが空を飛んでいるみたいに見える水中トンネルも通ったけど、ペンギンは一切そこを泳いでなかったしね。運よくペンギンが泳いでいる時に通れれば、いい眺めなんだろうなあと思いながらトンネルを通るのは虚しいよ。行列に並んでまで、設備だけ見せられてもねえ。
でも考えてみれば、普通の動物園に行っても、動物ってよくだるそうにだらだらしているよね。だとしたら旭山動物園の動物が生き生きしてなくても当たり前なんだよね。
やっぱ活動する動物が見たかったら夜だよね。あたし短大の卒業旅行、シンガポールだったんだけど、その時見たナイトサファリはよかったよ。世界一美しい動物園って呼ばれている所なんだけど、本当に綺麗だった。動物たちも自然のまま生活しているかのようだったしね。孔雀なんて動物園の中を自由に飛び回っていたし。
あたしがイマイチ、旭山動物園に感銘を受けなかったのは、シンガポールの動物園の経験があったからかもね。昼間の動物を見せるにはあれが精一杯の工夫なのかも。
ただ園内の展示物から、動物園側が、様々な動物の立場になってものを考えているんだなあっていう温かさは伝わってきたよ。そういう心みたいなものに触れられたのは、よかったと思う。
でもあたしが一番感動したのは、園内で売っていた、とうもろこしのソフトクリームなの。コーンの底までソフトクリームがびっしり入っていたから。別にガイドブックで紹介されていた訳でもないソフトクリームを、何の気無しに買ってみたらそんなだったから、ああ北海道はいいなあって思った。つくづく食に関しては裏切らないなあって。
帰りは美瑛の丘に足を伸ばしたの。まだ花は植えられてなかったんだけど、どんな感じなのか見ておきたくて。行ってみたらそりゃあ見晴らしがよくてね。
「あーここに花が咲いていたら、どんなに綺麗だろう」
ってつぶやいたら友達が
「でも心の目で見たら、咲いている」
って言ったの。うふふ。おかしな子でしょ。あたしその子のそういうとこが好きなの。
あたしも真似して、心の目で見たら咲いていたよ。色とりどりのじゅうたんが広がっていてうっとりした。考えてみればペンギンの水中トンネルを見に行った時も、ペンギンが泳いでいる様を、心の目で見ればよかったのかなあ。
その後はニングルテラスに寄ったの。森の中に、クラフトグッズを扱うログハウスがいっぱいある所。情緒を感じるでしょ。でもね、売っている物はピンからキリまでで……。作家さんが作った物を直接売っていたんだけど、儲け出るのかなあって、心配になるレベルの店も結構あったよ。
でももちろん素敵な店も幾つかあったよ。あたしペーパークラフトの店で、壁にかける飾りを買ったの。にんにくを模した飾りでね。にんにくって魔よけになるっていうから買っちゃった。全然北海道と関係無いんだけどね。
でもその飾り買った意味あったのかなあ。魔よけの飾りって、買っただけじゃ効果無いのかなあ。飾らないで持っていただけじゃ威力を発揮しないと思う? ……ああごめん。変なこと言っちゃった。忘れて。
ニングルテラスで本当にあたしの心に残ったのは、雪の結晶を象ったアクセサリーを、売っていた店なの。雪の結晶なんて雪国っぽいよね。お手頃価格で手が出そうな物は安っぽくてこれなら買いたいなって思える物は数万円したから、見ていただけなんだけど、ああこの数万円のアクセサリーを、買える立場になりたいなあと思った。
今でも買えるんじゃないかって? 買えないよ。ブランド物の装飾品にだったら数万円出せるけど、無名の作家が作ったアクセサリーには出せない。金持ちじゃないってそういうことだよ。
帰りは道が悪かったなあ。友達が言うには、ちょうど北海道の道がでこぼこする時期だったらしいの。アスファルトの中にしみた雪が溶け出す関係で、道がでこぼこするんだって。雪といえば動物園の行き帰りに根雪が残っているのをあちこちで見たなあ。北海道って本当に雪国なんだね。
札幌まで戻ってあたしは一旦ホテルにチェックインしたの。友達は次の日から仕事で、あたしはまた、一人旅に戻る予定だったから。でも夕飯くらいは一緒に食べようねって話になっていて、夜はススキノで食べることにしたの。あたし実はススキノが楽しみでね。観光地の歓楽街としては日本では一番有名じゃない? ススキノを歩きながら、ああ自分は今ススキノを歩いているんだなあって、しみじみしてみたかったの。
でもいざ行ったらしみじみしている余裕は無かったな。客引きがすごくって。海鮮居酒屋にでも入ればいいと思っていたんだけど、看板見ながら友達と相談していると、方々から声がかかるの。居酒屋だけじゃなくて、カラオケボックスとかホストクラブの誘いもあったな。中には商売人じゃなさそうな普通のおじさんまでいたよ。あたかもただの愛想のいいおじさんが、観光客に美味しい居酒屋を教えてあげるよ的な雰囲気なの。
ぼったくられるのが怖いから、勧められると途端に行きたくなくなっちゃってね。仕方無いから、よさそうな店を見つけると、物陰に隠れてケイタイで口コミを検索して行く店決めた。
海鮮居酒屋ではなかったんだけど、海鮮物のメニューが豊富そうな居酒屋が、口コミも悪くなくてね。その店で夕飯食べた。あたしその店で初めてほっけのお刺身食べたの。あたしそれまで、ほっけを生で食べられるなんて知らなかった。めちゃくちゃ美味しかったよ。あと北海道名物なのかどうか分かんないけど筍のお刺身も食べたの。それも舌がとろけるくらい美味しかった。
あとはね焼酎のハスカップ割も飲んだよ。ハスカップって北海道の果物なの。赤くて甘酸っぱくて美味しいの。友達は車だからあたし一人で飲んじゃった。悪いなあと思いつつ楽しかった。
あたしね、その居酒屋で過ごした時間を恋しく思うんだ。あの時に帰れたらって思うの。そして違う道を選んで帰ればよかったなあって。何があったのかって? 焦らしてごめんね。今から話すよ。
ホテルはススキノの近くだったから、友達と別れてからススキノを一人で歩いたの。そしたら人混みの中にカレシの姿を見つけたんだ。えっと思って目で追ったら、信じられない場面が目に飛び込んできたの。カレね女と一緒にいたんだ。後で名前分かったんだけど渡辺梨絵っていう女。
会社の人じゃないってすぐ分かった。だって親密そうだったから。酔った勢いで会社の人といちゃいちゃしちゃったとかそういう感じじゃないの。もう少し冷静に、仲良く手つないで歩いているの。あたし頭を何かでがつんとぶん殴られたような気分だった。目の前の風景が信じられなくてでも目が離せなくて、ふらふらしながら、二人の後をついて歩いた。二人はそのまま静かな通りに抜けてそしてホテルに入って行ったの。
二人の姿が消えてから、あたし慌ててケイタイ取り出したの。そしたら三十分くらい前にカレからメールが入っていたの。そこには
<ススキノに飲み行こうって先輩に誘われたけど頭痛くて無理だー。もう寝る>
ってあった。
ああ浮気だって思った。昨日のメールといい今日のメールといい、あたしから電話がかかってこないように、嘘を書いて寄越しているんだって。
あたし破れかぶれになっちゃってね。またススキノに取って返しちゃった。一人でホテルに戻るのが嫌だったの。カレが渡辺梨絵と楽しんでいる瞬間に、一人ホテルの部屋で悶々とすることに耐えられなかったの。
早速ホストに客引きされて、あたし途中までついて行っちゃったの。普段はホストクラブなんて、行く女の気が知れないなんて言っているくせに、その時はほいほいついて行っちゃった。それなのにホストとエレベーターに二人っきりになったら急に怖くなってね。
キャバ嬢だってバレているんじゃないか、キャバ嬢だったらふっかけられるって、踏んでいるんじゃないか、法外な料金ふっかけられるんじゃないか、払えないなんて言ったら無理やり消費者金融のカード作らされるんじゃないかって想像で、頭がぐるぐるしちゃって、とにかくこの場を逃げ出さなきゃって思って、エレベーター開いたら飛び出して階段駆け下りて逃げちゃった。
あたし何やってんのかなあと思ったら、「ラーメン横丁」って書かれている通りに出てね。そういえばガイドブックに載っていたなあと思い出して。ガイドブックに載っていた通りなら安心だろうと思って、食べてくことにしたの。
入口近くの店が一番盛っていて、店の外まで行列ができていたんだけど、並ぶ気分じゃなくてね。通りの前を流したら奥の店にそこそこ客がいたの。それも服装からして地元民が多そうだったから当たりだなと思って、その店に入った。どうして地元民だと思ったのかって? 薄汚い格好したおじさんとか、あとは妙にけばけばしい服装のお姉さんがいたの。水商売のお姉さんが出勤前に腹ごしらえしているんだなあと思ったの。
札幌といえば味噌バターコーンラーメンかなと思ったんだけど、実はそんなに、お腹空いてなくてね。だから普通の味噌ラーメンを注文してしばらくぼんやりした。店中に油が染みていそうな薄汚い店で、テーブルの上にはキャバクラのチラシが置いてあって、うらぶれた雰囲気だったよ。でもそのうらぶれた感じが心地よかった。カレの浮気を目撃した身としては。
黙って座っていると、さっき見た光景が思い出されて頭がくらくらした。あたしはもう駄目かも知れないと思った。だってどうしてよりによって、旅行先でカレシの浮気が判明する訳? 失恋した人が失恋旅行に出かけるケースを聞いたことあるけど、旅先で失恋しちゃった場合はどうしたらいい訳? あたし何のために、時間とお金かけてはるばる北海道まで来た訳? って自分の不幸を恨んだ。
でも不思議だね。ラーメン出された途端、あ、いい匂い。これは期待できるってのん気なこと考えた。そしてスープをすすってみたらホントに美味しくてね。
正直言ってあれくらいの味のラーメン屋なら東京にもあるよ。あるんだけど、何だかすごく爽やかな味がしたの。あたしあんまりお腹空いてなかったのに、おつゆまで飲み干しちゃった。
実はラーメン屋に入るまでは、このまま二人が泊まっていたホテルの前で、張り込もうかとまで考えていたの。だって二人がいつホテルから出て来るか分かんないから、夜を徹して張り込むしかないって思い詰めていたの。でもラーメン食べたら、そんな考えが消え失せてね。寝ずの張り込みなんて常軌を逸しているなって気になって。それで早起きして待ち伏せるって案に切り替えたの。
でもその案も実行できなくてね。何だかんだで悶々として寝付けなかったから、寝過ごしちゃって。
だから次の日は仕方なく小樽に行ったの。小樽は元々行きたかった場所だから、仕方なくっていうのは変なんだけどね。ただ二人がどうしているのか気になるのに、のん気に観光する気分にもならなくてね。そうかといってせっかく北海道まで来たのに、観光しないのももったいないし、そういう時ってホント悩むよね。
小樽はちょっと思っていたのと違ったな。小樽運河とか石造りの倉庫街とか、確かにロマンティックなんだけど、そこを取り巻く小樽の街が思ったより都会でびっくりした。あたしもっとひなびた港町を想像していたの。ひなびた港町なら、男に裏切られた女がさまようのに向いているかなあなんて思っていたんだけど、行ったらどっこい栄えているの。平日なのに観光客も随分いたしね。
あとは人力車の客引きが多くて、びっくりしたなあ。観光地で人力車を見かけることってよくあるけど、あんなにしつこく客引きされたのは初めて。もしかしてススキノに限らず客引きって札幌近辺の文化なのかなあ。だとしたらちょっと住むの考えちゃうね。
実は最初に人力車の客引きをしてきた男の子が、イケメンでね。カレのことでむしゃくしゃしていたし最初は乗っちゃおうかなあと思ったの。人力車って憧れていたけど、一度も乗ったこと無かったからこの機会に乗っちゃおうかなあって。でも営業トークをしゃべり散らすその子の口元を眺めていたら、歯の根元が汚れていてね。それ見たら乗ってみようかって気持ちが失せちゃった。
カレシはイケメンなのかって? そうだね。目を見張るほどのイケメンじゃないけどまあまあなんじゃないの。あたしは面食いなのかって? 面食いだよ。だから吉井さんがタイプ。……あら、そういうサービストークはいらない?……そうね。まあ真剣な話あたしは割合面食いかも知れない。それも相手に清潔感が無いと駄目。どんなにかっこいい人でも爪が伸びていたりするだけで嫌いになっちゃう。
こういう傾向って、カレシをつくるのにはあんまり向かないんだよね。ほどほどにかっこよくて清潔感がある男の人っていそうでいない。たまにいたとしても、そういう人があたしを好きになるとは限らないしね。だってやっぱ、キャバクラ勤めの女なんて敬遠する人は多いよ。
人力車の客引きを振り切ったあたしは、まず小樽運河をぶらぶらしたの。眺めがいいから写生をしている人があちこちにいた。風情があるでしょ。でもいかんせん観光客が多すぎてね。運河沿いの石畳はレトロな情緒が楽しめるはずだったのに芋洗い状態なの。
だからあたしはさっさと見切りをつけて、お昼を食べることにしたの。回転寿司に入ったのよ。海鮮続きだって? だって……、カレが海鮮好きだから……。
別に同じ日付で北海道旅行するからって、現地で会えるって、期待していた訳じゃないの。でももしかしたらって思うじゃない。カレは海鮮好きだから、自由時間にもしかしたら、海鮮ものを食べに来るかも知れないって、そしたらばったり遭遇できるかも知れないって。そう思って事前に調べてあったの。
だからその店に入ったら、ホントにまたカレを見かけちゃったの。社員旅行じゃなく渡辺梨絵との個人旅行だったからだよ。社員旅行だったら人数が多いから、お昼に回転寿司なんて有り得ないでしょ。
通された席のはす向かいにカレと渡辺梨絵が座っていてね。その時初めて、渡辺梨絵を正面から見たの。ショックだったなあ。あたしと同じキャバ嬢系であたしより美人なんだもん。しかもあたしと同じ釣り目タイプでさ。タイプが同じな上に向こうの方が美人じゃ勝ち目無いじゃん。
その時ね、思ったの。もしかして浮気相手はあたしの方じゃないのかって。
あたしはカレと、旅行に行ったことなかったけど、渡辺梨絵は連れて来てもらっているしね。負けたなと思った。カレとはまだ付き合って二ヶ月だから旅行に連れ出してもらえてなくても当たり前かも知れないけど、付き合って二ヶ月なんて、一番楽しい時期でしょう。その時期に渡辺梨絵と旅行しているんだもん。駄目だよね。脈無いよ。
そう思ったらあたしどうしてもカレを問い詰めたくなったの。違うよ、そんなことない、お前が好きだよって言われたかったからだと思う。
カレがトイレに立ったから、あたしもついて行って男子トイレの前で待ち伏せした。カレは清々しい顔して出て来てさ、あたしの姿を見た途端、びくびくって体中を痙攣させていた。人って本当にびっくりするとあんなに激しく震えるものなんだね。馬鹿みたいなんだけどあたしカレがびっくり仰天してくれたから少し満足したの。あたしという存在は、カレに驚きを与えられるんだなと思ったら、満たされた。
カレに
「何で、こんなとこにいんの」
って聞かれたから
「そっちこそ、何やってんの」
って聞いたら、最初カレは
「会社の人と抜け出して、メシ食いに来たんだよ」
って嘘ついたの。あくまで社員旅行の最中だって言いたかったみたい。
だからあたし、低い声で
「あのさあ、二人でホテルに泊まっていること知っているよ」
って言って昨日目撃したホテルの名前を出したの。そしたらカレ
「ごめん。今夜必ず時間作るから今は見逃して」
って顔の前で両手を合わせたの。
その時あたしは拒否するべきだったのかな。でも今夜必ず時間を作ってもらえるなら、今は我慢するしかないような気分になっちゃって、「分かった」って返事しちゃったの。
カレが渡辺梨絵の元に戻ったからあたしもまた自分の席に戻ったの。だけどさすがに、食欲は全然無かった。顔を上げればカレが渡辺梨絵と隣り合わせて、いちゃいちゃと寿司食べているんだもん。でも店に入っておいて何も食べずに出る訳にいかないから、適当に目の前に流れて来たお皿を取ったらウニだったの。口に入れてみたんだけど、何の味もしなかった。
何か不思議な感覚だったよ。味覚だけが消えちゃったみたいな感覚。ウニはすぐ口の中で溶けちゃってね。ああ普段食べているウニより上等なんだなっていうのは分かったの。分かったんだけど味が全然しないの。
それであたし漠然と、和痛分娩っていう出産方法を思い出したの。無痛分娩じゃなくて和痛分娩。従姉妹がその方法で産んだのよ。使う麻酔の量が少ないから痛みを緩和できるのに下半身の感覚はあるんだって。だから赤ちゃんが出てくる感覚が分かるんだって。
ウニの味は分かんないのに、ウニがとろける感覚は分かるなんて、和痛分娩みたいって思ったの。でも陣痛は消えてくれた方が楽だろうけど味覚が消えちゃうのは怖かったよ。あたしどうしちゃったんだろうと思った。その場にいるのが怖かった。それで慌てて店を出たの。恥ずかしかったけどウニ一皿分だけ会計済ませてね。
寿司屋を出たものの、どうしたらいいか分かんなくて、目についたガラス細工店に入ってはうろうろして、というのを繰り返した。小樽はガラスの街だからガラス細工を扱う店で溢れているの。行く前はそういう店を見て歩くのを楽しみにしていたんだけど、最初は何を見ても入り込めなくてね。
そうこうしていたら路上で小樽ビールを売っているのに出くわしたの。生ビールだよ。あたし普段は、昼からお酒は飲まないんだけど、カレのことでやけっぱちになっていたから、飲んじゃえと思って買っちゃった。そしたら美味しくてね。何だ、味覚戻ったじゃんってホッとした。そしたら気持ちが緩んだのかな。
その後で入った店で、キャンドルホルダーっていう製品を見つけたの。両手で覆えるくらいのサイズの、丸みを帯びたガラス製品でね。中心部の空洞にキャンドルが入っていて、そこに火を点けると周囲のガラスに描かれた絵がゆらゆら揺れるの。幻想的でしょ。絵の周囲を曇りガラスが覆っているから、何ともムーディーな感じなの。
「火が揺れるから、絵が揺れるんですよ」
って店員さんに説明受けてあたし思わず買っちゃったの。確か二千円しなかったしね。色んな絵柄があったんだけど、雪の結晶をモチーフにした絵柄が気に入って、それを買った。ニングルテラスで雪の結晶を象ったアクセサリーを買えなかった代わりにね。
その時は自分でも不思議だった。花瓶を買いたいなとは思っていたけど、それ以外の物を買う気なんて無かったのに、どうしてそんな物買う気になったのかなって。わざわざ火を点けなきゃいけないような物、いつものあたしなら億劫がるのにって。
そう花瓶。北一硝子アウトレットっていう店で三千円くらいのやつを見つけたの。安いのに大きな花瓶だったんだよ。……ていうか、ホントは花瓶じゃなくてピッチャーだったんだけど花瓶利用もできるなと思って買ったの。赤っぽいガラスでできていて、すごく綺麗だったの。
ピッチャーを買って帰ろうとした時、カレと渡辺梨絵がちょうど店に入って来たの。カレはぎくっとしていたけど、あたしだってぎょっとしたよ。それで何も知らない渡辺梨絵とすれ違った。すれ違う時よそうと思うのに、渡辺梨絵のこと目のはしっこで観察しちゃったの。そしたら渡辺梨絵の鎖骨のくぼみでネックレスが揺れているのが見えた。ペンダントヘッドにぶら下がっていたのは、雪の結晶だったの。
ニングルテラスのあの店で買ったんだってあたし確信した。間違いない。欲しくて欲しくて憧れて穴の空くほど見詰めたんだもん。打ちひしがれた気分になった。渡辺梨絵が買ったのか、それともカレがプレゼントしたのかは分かんないけど、彼女はあの高いアクセサリーを入手した人間。あたしは入手できなかった人間なの。入手できなくて安いガラス細工ばかりを買う人間なの。
渡辺梨絵も北一硝子アウトレットに来ていたんだから、あたしと同じ人間だって? 吉井さん優しいのね。でも違うの。北一硝子には支店が沢山あるの。だから他の支店を見た人が北一のアウトレットもついでに見に来たとしても、不思議は無いの。北一のアウトレット店に足を踏み入れただけじゃ、敗北にならないのよ。
渡辺梨絵が実際にアウトレット品を買うのかどうか、見定めることはできなかった。分かるでしょ? カレとは目が合ったんだもん。いつまでもうろうろできないでしょ。うろうろしていたら惨めだし。ううん。うろうろしてなくても惨めだった。あたしアウトレット店からでっかい包み持って出てったんだもん。安いからって欲張って、沢山買い物したみたいじゃん。
ていうか買ってもいいけど、そんなに大きな包みなら宅配で送れって感じでしょ。それなのにあたしは送料をケチって、花瓶予定のピッチャーを手で持っていたの。
手にずっしり重いピッチャーを抱えてホテルに着いた時は、夕方の六時だった。カレが今夜時間を作るって言ったから念のため早目に帰ったの。シャワーを浴びて、化粧を直しても七時にもなっていなかったから時間を持て余した。夕飯は用意しなかったよ。カレはもしかして、あたしと夕飯を一緒に食べてくれるつもりなのかなあって、期待していたから。でもカレから連絡が来た時は十時を回っていた。
待っている間何をしていたのかって? 次の日東京に帰る予定だったから、荷造りをして、あとはキャンドルホルダーのキャンドルに火を点けて、雪の結晶の絵柄がゆらゆら揺れるのをじっと見ていた。すごくはかない気分だったよ。雪の結晶自体はかないものなのにそれが炎の揺らめきで揺れるんだもん。でもそれを眺めていたら、自分がそれを欲しかった気持ちが切々と分かった。
待っている間、あたし十回くらいカレと別れようって決意したの。十回も決意したってことはやっぱり十回くらい、嫌だ、別れたくないって思ったからなの。どうしてこんなに気持ちが揺れるのか、最初は分からなかった。でもキャンドルホルダーの揺らめく絵柄を眺めていたら分かったの。中心部にあるのが炎だから揺れるんだよね。カレへの恋情っていう燃える思いがあたしの中心にあるから、あたしの気持ちは揺れたの。
運命の人だって言われたのになあって、占いを思い出して悔しかった。あんなこと言われてなければ、ここまで滅入らなかったのにって気がした。
その後かかってきた電話でカレに、会って話したいって言われた。
「彼女はどうしたの」
って聞いたら、カレ
「ブルー盛って眠らせた」
ってケイタイの向こうで低く笑った。
ブルーっていうのはねハルシオンっていう睡眠薬のこと。カレ不眠症だから、病院で処方してもらっているの。青い粒だからカレその薬のこと「ブルー」って呼ぶの。
あたしとの時間作るために渡辺梨絵に薬盛ったのかって、あたし呆れた。今まで知らなかったけどこの人って酷い人なんだなと思った。だけど……、ああ人間って汚いね。酷い行為をされたのが自分じゃなかったから、こんな人とは別れようってその時は思えなかった。むしろ自分との時間を作るために、渡辺梨絵に薬盛ってくれたのかって、喜ぶ自分までいたよ。
それでも口だけでも、「そんなことしちゃ駄目だよ」って言えたら立派なのに、あたしは全然別のことを言ったの。
「ブルーを持って、今すぐ来て」
って。昨夜ちっとも寝付けなかったからよ。薬事法違反になるのは知っていたけど、とにかくあたしは眠りたかったの。
カレは「分かった」って言って電話を切ると、あたしの部屋を訪ねて来た。そして部屋に入った途端、「はい」って笑顔であたしにブルーを二錠渡してきた。
二錠も寄越してきたのは、罪悪感の表れなのかな。カレだって寝付くために必要な薬なのにね。おかしな話なんだけど、あたしそれもらった時カレがあたしを救ってくれたような気分になったの。眠れないあたしを助けるために、カレがはるばる訪ねて来てくれたような気分になった。
あたしね、つくづく思う。別れ話をする時は、今夜なんていうアバウトな待ち合わせをしちゃ駄目なんだって。想いが強い方の人間は、今夜の待ち合わせが実行されるまでに焦れるから、ようやく会えた時に嬉しさのあまり別れの決意が吹き飛んじゃう。あたしその時カレにすがりついて泣いちゃったの。
「何度も何度も別れようって思ったけど、やっぱり別れられない」
って言いながら。
カレにしてみれば、そんな都合のいい女はいないよね。本当はあれこれ苦しい言い訳を考えていたはずだったのに、あたしがそんな体たらくじゃ、下手なこと言ってあたしの機嫌取らなくていいんだもん。ただあたしをあやせばいいんだもん。
カレは
「別れるなんて言うなよ」
って言いながらあたしの髪を撫でた。
「オレはあいつといる間も、ずっとお前のことが忘れられなかったんだから」
って。
馬鹿みたいだけどあたし嬉しくてドキドキしたの。あんな美人と一緒にいても、あたしのこと忘れないでいてくれたのかって。それで「本当に?」って聞いたら
「これが証拠」
ってリボンのかかった小さな包みを渡されたの。
渡辺梨絵の目を盗んで、あたしのために買ったっていうそのお土産を、あたしは開けてみた。中からは何と雪の結晶を象ったネックレスが出てきたの。あたし唖然としちゃった。嬉しかったからじゃない。逆なの。カレがあたしに用意したのは数千円の安いネックレスだったの。プレゼントだから値札は外されていたけどあたしには分かった。ニングルテラスのあの店で売られていた安い方のネックレスを、カレはあたしに寄越したの。
あたし怒りで目がくらみそうになった。だってそうでしょう。渡辺梨絵は高い方のネックレスをもらったのに、あたしは安い方のネックレスを渡されたんだから。カレにとってあたしは間違いなく二番目以下ってことだよね。
それにもう努力の余地は無いんだってことを、突きつけられた気がしたの。今後努力すれば、カレはもしかしたらあたしを一番にしてくれるかも知れないけど、でも今この時期にあたしが安い方のネックレスを渡された事実は、変わらないじゃない。なまじプレゼントをもらっちゃったから、この時期の決定が形となって残っちゃったってことよ。その形を突きつけられてしまったら、とても努力しようなんて思えなかった。
そしてあたしは想像したの。もしあたしが北海道旅行に来ていなければ、あたしは嬉々として、このネックレスを受け取ったんだろうって。だってカレからの初めてのプレゼントだったのよ。あたしきっと心躍らせてカレに会う度に身に着けたんだろうと思う。そしてカレは、あたしの首元に下がったネックレスを見る度に自分の心を確認したのよ。北海道で渡辺梨絵を一番に認定して、あたしを二番に認定したことを確認したのよ。
その時ね、あったかい衝動になぶられた心地がしたの。怒りってあんまりにも強すぎると、それが怒りだってことにも気付けないものなのね。あたしとにかくやらなくちゃと思ったの。何をやらなくちゃいけないのかはすぐには分からなかった。感情は衝動を認知しているのに、何をしたらいいのか分からなかった。
それでとりあえず、「ありがとう」ってネックレスを受け取ったの。そう、「ありがとう」って言ったんだよ。これは安い方のネックレスでしょうなんて、カレを問い詰める気力が湧かなかったの。それでとりあえずお礼を言った時、あたしは自分の願望をキャッチしたの。
だからね、あたしカレを誘ってベッドに入ったの。咄嗟に頭に浮かんだ願望を実行するためにはどうしても寝なきゃいけなかったからよ。カレは戸惑わなかったのかって? そうね。カレが誠実な人だったら戸惑ったのかもね。でもカレは渡辺梨絵のことがばれた後もあたしとよろしくやろうとしていたような男だから、渡りに舟とばかりに応じたよ。
つくづく思うけど、人はある程度善良じゃなきゃ駄目だね。カレが少しでも善良だったら、そんな簡単に寝たりしないで話し合いに持っていっただろうしね。そうすればあたしも衝動を実行したりしなかったのに。
カレと寝ている間は酷く惨めだったよ。自分で誘っておきながら、あたしを抱くカレに怒り心頭だった。貫かれる度に怒りが密度を伴うのを感じて気が狂いそうだった。でもカレは気が付かなかったみたい。むしろあたしの興奮を都合よく解釈していた節があった。その勘違いにあたしはますます苛立って、どうしても願望を実行したくなった。
事が終わって、カレがシャワーを浴びている間に、あたしはさっきカレに渡されたブルーを二錠砕いたの。セックスに持ち込めばカレがシャワーを浴びるのは分かっていた。だってカレは渡辺梨絵の元へ帰る予定だったんだもん。匂いでばれたら困るから、絶対浴びるんだろうって思っていた。
あたしはビールを開けて、砕いたブルーを中に入れた。浴室から出て来たカレに渡したわ。悪いことだとは思わなかった。自分が誰かにしたことって回り回って自分に返ってくるものよ。
カレは喉が渇いていたらしく飲み干したわ。そしてすぐ、「やべえ」ってベッドに腰を下ろした。
「何か急に、すげえ眠気が襲ってきた」
ってカレは困り果てていた。渡辺梨絵が目を覚ます前に、知らん顔して帰るつもりだったから、突如自分を襲った眠気にうろたえたんでしょう。当然のようにカレが帰るつもりだったことにあたしはますます苛立って、是が非でも願望を全うしたくなった。カレを眠らせることだけが目的じゃなかったの。
それであたしは
「一時間だけ眠ったら? 一時間経ったら起こしてあげる。」
って持ちかけたの。カレは返事もしないでベッドに横たわって寝入った。布団もかけずにね。
アルコールと睡眠剤を一気にやったもんだから、ものすごいいびきだった。それを聞きながらカレの寝姿を見ていたら、あたしムカムカしてきてね。何て醜悪な生き物なんだろうと思った。こんな醜悪な生き物にあたしは馬鹿にされたのかって。本命に高いネックレスを贈り、二番手にはそれによく似た安価なネックレスを贈るなんて、醜悪で残酷な行為だよね。そんな目にどうして遭わされなきゃいけないんだって腸が煮えくりかえった。
渡辺梨絵が首に下げていたネックレスは、渡辺梨絵が買ったものかも知れないって言うの? そうね。あたしもその可能性は考えたよ。でも考えにくいよ。渡辺梨絵が高いネックレスを買った後で、渡辺梨絵にばれないように、それによく似た安いネックレスを買うなんて。大体一緒に旅行しているのに、誰かへのプレゼントをばれないように買うなんて難しいじゃない。やっぱりネックレスは二つ共カレが買ったんだよ。
カレには妹がいるから、おそらく妹の分だって言って、渡辺梨絵の目の前で二つ買ったんだと思う。そうすれば渡辺梨絵に対して優しい兄アピールができる上に、でも君の方が大事だよアピールもできるじゃない。そういうことまで想像がついたから、あたしは願望を実行する気になったの。
実行する前に、あたしはテーブルの上に置いてあったキャンドルホルダーを、ちらっと見たの。雪の結晶の絵柄が大きく揺らいでそしてしーんと静止するのが見えた。ああ火が消えたんだって分かった。火を消すには、最後に大きく揺らめかなきゃいけないんだなって。それを見たら誰かにやれって言われた気がした。だからあたしはピッチャーを手にしてカレの頭目掛けて叩きつけたの。
ガシャンと大きな音がしてあたし反動で床に尻餅をついた。随分大きな音だったから、誰かが聞きつけて駆けつけて来るんじゃないかって、不安になった。あたしは急に怖くなって、部屋の照明を落とすと掛け布団にくるまって床に倒れ込んだの。あんな大きな音をたてたことを、ホテルの人に咎められるような気がして心配だったの。寝ている振りをすれば誤魔化せそうな気がしたのよ。
でも誰も来なかった。一番奥手の部屋だったから音を立てても気付かれなかったみたい。
暗闇の中で息を殺していたらいつの間にかあたしは眠っていた。不思議なものね。渡辺梨絵の存在を知った晩は、なかなか寝付けなかったっていうのに、それより大変な事態になった後で睡魔に襲われるなんて。でも平気だった訳じゃないのよ。あたしは唐突に目覚めたの。目覚める前に大変なことをしてしまったって感情が先に起こって、その感情にたたき起こされたの。
でもね、がばっと跳ね起きたら、カーテンの隙間から差し込む朝日が、ベッドの上に散らばったガラスのかけらに反射してぞっとするほど綺麗だったの。そしてね、頭から血を流して倒れているカレは、相変わらず醜悪な生き物に見えた。あたし汚い物に触る心地でカレの手を取ったわ。カレの手はマネキンみたいに冷たかった。ああ死んだんだなって悟った。
こんなにも醜悪な生き物なら、息の根を止めても仕方無いって思えた。この醜悪な生き物を綺麗なガラスのかけらで彩って、少しでもマシにしてやったんだわみたいな、達成感すら芽生えた。そうしたら自分がとても空腹だって気付いたの。考えてみれば前の日のお昼はウニ一皿だったのに、夕飯も取らなかったしね。
あたしは身支度を整えると、一階のレストランに朝食を取りに降りて行った。よくあるタイプのビュッフェ式の朝食よ。トレイにはみ出しそうなほど食べ物を載せて、五往復くらいしたかな。それくらいお腹が減っていたの。その時の食事、実に美味しくてね。北海道では色んな物を食べたけどあんなに美味しかったのは初めて。でも不思議ね。何が美味しかったのかは思い出せないの。
朝食を食べ終えて部屋に戻ったら、カレのケイタイが鳴っていた。床に転がっていたケイタイを拾い上げて液晶を見たら、渡辺梨絵っていう名前が表示されていた。その時にあの女だって分かったの。こんな朝っぱらからかけてくるなんて彼女しか考えられない。目覚めたらカレの姿が無かったから、びっくりしてかけてきたんでしょ。
液晶に浮かぶ渡辺梨絵の名前を見ていたら、あたしは自分が、殺人に至ってしまった理由の一つが分かった気がしたの。カレに対して腹が立っただけなら、素手で殴りつけるだけでもよかったのに、カレの存在を消すまでに至ったのは、渡辺梨絵にも苦しみを与えたかったからだって気付いた。旅先で目覚めたら連れの男がいないなんて恐怖でしょう? その恐怖を味わわせたかったんだなって理解した。
ケイタイが鳴り止まないもんだから、あたしは電源を切って黙々と荷造りをした。荷造りしながらふと考えた。殺人した場合って普通どうしたらいいんだろうって。ホテルでの殺人ならフロントに連絡して
「部屋で、人を殺しちゃったんです」
って言うべきなのかなって。
そしてその場合の清算はどうしたらいいのかななんて考えた。殺人を告げた後に
「じゃあ警察に連絡しますから、動かないで下さいね。あっ、その前に清算をお願いします」
なんて言われたらしまらないなあとも思った。
だとしたら直接フロントに出向いて、チェックアウトした後で
「それでですね、実は部屋で人を殺してしまいまして……」
って打ち明けた方がスマートかなとも思ったんだけど、そんなことしたら、注目の的だよね。こんな仕事しているから目立ちたがり屋なんじゃないかって誤解されるんだけど、あたし実は目立つのが苦手なの。
そんなこと考えていたら言うのが億劫になってしまって、結局何も言わずに、チェックアウト済ませてホテルを出て来ちゃった。……逃げることは考えなかったのかって? 考えないよ。そんな気力あたしには無いもん。ただ警察に出頭するのも気が乗らなかった。いずれ捕まることは分かっていたんだけど、その前に、シャバでの日常生活っていうものを味わっておきたかったの。だってこれで当分味わえないでしょう?
そう思ったらちょっと往生際の悪い心も生まれてね。予約していた飛行機じゃなくて、別の飛行機取る気になったの。飛行機はもちろん偽名で取ったよ。それに乗って東京に帰って来たの。
飛行機の中では、自分が仕出かしたことについてつい考えちゃったよ。教会に生まれて、捨てたとはいえ信仰を持っていたこともある女が、痴情のもつれで男を殺すなんてことが起きるんだなあってしみじみしちゃった。せっかくシャバを味わおうと、出頭を取りやめて偽名使ってまで飛行機取り直したのに、何やっているんだろうね。
そんな反省これから留置所でたっぷりできるのに、せっかくシャバにいても、心が留置所に行っているんじゃ意味無いよね。それだったら、留置所でシャバのこと考えていた方がマシだよ。でもそう思うなら東京戻ってからでも出頭すればよかったのに、やっぱり気が乗らなくて店に出勤してしまった。だって警察は、ほっといてもいずれ行くことになるけど、この店で働けるのはこれで最後だろうなあと思ったから。
ホントは明日から出勤の予定だったのに、今夜顔出したから皆がびっくりしていたよ。まああたしが北海道で何をしてきたか知ったら、こんな驚きじゃすまないんだろうけど。
あれどうしたの? 吉井さん、深刻な顔して。さっきまでみたいに言ってくれないの? 「人生を感じる」ってしみじみしてくれないの?
今からでも出頭しろって? 警察に付き合ってくれるって言うの? 優しいのね。どうしてそこまで言ってくれるの? あたしは吉井さんの思い出の地である北海道で、罪を犯したんだよ。そんなあたしにどうして優しくしてくれるの?
分からない? 分からないけどそうしたいんだって? そうよね。人間ってそんなものよね。あたしだって自分がどうしてカレを殺したのかすぐには分からなかったもの。強い衝動を伴った怒りに襲われたのは確かだけど、だからってどうして、殺すまで至ってしまったのか分からなかったの。願望と実行の間にある大きな淵を、どうして飛び越えてしまったのか分からなかったの。
最初は、自分が性善説の人間だからなのかなと思った。だからあたしは衝動をこらえるっていう努力ができなかったのかなって。それとも父親の遺伝かなとも思った。暴力衝動をこらえられなかった男の血が、あたしにも流れているってことかなって。
考え始めると、卑怯な自分も顔を出してしまってね。カレを運命の人だって断定した占い師にもやり場の無い怒りが溢れたの。全然運命の人じゃないじゃん、嘘つきって思う一方で、確かにカレはあたしの運命を変えたなあって。だとしたら全ては運命のなせる業ってことにして、運命のせいにして逃げ出したくもなった。
そうだね。やっぱり後悔しているよ。だって今までやってきたことが中途半端に終わっちゃったもの。奨学金の返済をしているって言ったでしょ。ここで捕まったら完済できなくなるのかなと思うと虚しい。何のためにあたし、水商売に身を落としてまで返済していたんだろうってね。綺麗ごとじゃなくて本心からそう思うよ。完済していればそれはあたしにとって誇りになるはずだったのに。
あたしね、思うの。カレへの恋情とかカレの裏切りは、きっかけに過ぎなかったんじゃないかって。あたしはただ単に振り幅の大きい自分に疲れたんじゃないかって。吉井さんに散々キャバ嬢っぽくないって言われたけど、あたしこの仕事二年もやっているんだよ。指名のためにお客さんと寝たことは無いけど、色恋営業は仕掛けたよ。随分色んな嘘もついた。
そうしたら疲れたの。自分の振り幅が大きくなり過ぎて疲れたの。
吉井さん、あたしのことを優しくて繊細だと言ってくれてありがとう。でもね、あたしはそんな自分とさよならしたくなったんだ。堅苦しい教えと共に、そんな自分を捨てたくなった。だってあたしは優しくて繊細なだけの人間じゃないから。どうせ悪い部分があるんなら、悪い世界に行っちゃったままになりたくなったの。自分を悪人と定義したくなったの。
でもいざ、れっきとした犯罪者になってしまったら苦しいの。大きな振り幅に揺られていた頃が懐かしい。だってねこの悪人という居場所は狭過ぎるの。広々とした場所であっちの端からこっちの端まで揺れていたあたしには、今の居場所が狭苦しいの。
……そうね。あたしはそろそろ留置所に入るべきなのかも知れない。事を起こしてから捕まるまでのエアーポケットみたいな時間を、ちょっと楽しむつもりでいたけど、あたし全然楽しめていないものね。体は自由でも心が拘束されているんなら、いっそ心身共に拘束されちゃった方がいいかも知れない。そうね。そろそろ出頭するのはやぶさかじゃないよ。
でももう手遅れみたい。さっき店に入って来た二人組、店長の所に行って手帳みたいな物を見せていることに気付かない? あれ多分、警察手帳だと思うの。
もし自分が何か犯罪を行うとしたら殺人が一番可能性があるかなあと思って書きました。殺人って大きな犯罪であると同時に罪に大小は無いなあと思ったり。
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