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校門で当番の先生が「閉ーめーるーぞー」と叫び、校舎からは予鈴の聞こえる八時二十五分ジャストに到着。
さすがに、全力疾走は……つらい!
登校しただけで、疲労の極限。体育のマラソンの授業の方が、いくらか自分のペースで走れる分、まだ楽だよ。びっしょりと汗までかいちゃった。制汗スプレー、あとで友達に借りよっと。
下駄箱に寄りかかって、呼吸を整える。
五分後には教室で朝礼が始まるから、こんなところでのんびりとはしていられない。かといって、息のあがったまま新しいクラスへ入りたくないんだもん。
深呼吸しよう。吸って……吐いて……吸って……。
その間にも、新しいクラスメイトや他のクラスの友達が通り過ぎるたび、「おはよーっ」って声をかけてる。
どんな時でも愛想がいいのは、今期も生徒会選挙に立候補するから、ではなく、ただの性分だよ。とほほ。
だいぶ汗もひいてきて、よし、出陣――じゃないや出発。何段かの段差をあがり、一階の教室に続く廊下に出たところで、
「おはよう、将軍」
と、そこで待っていた人物に声をかけられた。
詰襟のホックを外し、不敵な笑みを浮かべたさくらちゃんだった。
キレイなさらさらの黒髪に、長ーい睫毛、その下にはうらやましいくらいの大きな目が、じろりとわたしに向いている。さらには陶器製のお人形さんみたいに白い肌、とパーツごとはまるではかない美少女のようなのに、全体的には警戒心の強い「黒い野良猫」っていうイメージ。常に全身から「近寄るな、構ってくれるな」という強いオーラを発してて、長年の付き合いがあるわたしでもたまに声をかけづらい。
さくらちゃんこと、佐倉裕二郎。
同じく二年生。同じく、C組。
もう十四年来の付き合いになる。つまり、赤ちゃんの頃からの幼なじみだ。
「将軍って、……やめてよね。そのあだ名を作ったの、さくらちゃんでしょう」
「感謝をされこそすれ、文句を言われる筋合いはないな。生徒会長に立候補するんだろ? インパクトのあるニックネームは戦略として有効だよ。ぼくら中学生は、どいつも変わり映えのしない立候補者のマニフェストより、イメージで選ぶからね。生徒会が幕府で生徒会長は将軍、うん、我ながらいいネーミングセンスだ」
イヤなら使うなってみんなを説得してまわれば、なんてしれっとしている。
「できるわけないじゃない! 『ねえねえ、わたしのこと、将軍って呼ばないでくれる?』って、どんな顔してお願いすればいいのよ」
「『将軍って呼んだら切腹』ってお触れを出せばいいだろ」
「そんなことしたら、ますます面白がられるだけじゃん!」
校門で当番の先生にまで、「おー、江川将軍。珍しくギリギリセーフだったな」って言われちゃったし。職員室にまで広がってるなんて、もう収拾不可能だよ。
実はほんのり好きだったのに、英語の佐津川先生……。
先生にまで、将軍だなんて呼ばれちゃって。
全然、女の子っぽくない。全然、か弱そうじゃない。
「守ってあげたい」どころか、「救ってください」とお願いされそう。
さくらちゃんめ……。
わたしより数段可愛い顔をしてるのに、中身はかなり小憎たらしいんだから。
なにせさくらちゃんてば、毒舌で、意地悪で、厭世家。
人を褒めることなんか、滅多にない。
ゆえにわたしも、ことあるごとにバカにされてる。
生徒会のことを相談したら、「応援するよ」や「頑張れ」の一言もなく「将軍」なんてあだ名をつけられちゃうし。
どうして先生にまで広めるかな、もう。無駄なことに人脈を活用するなっつうの。親友ならもう少しくらい、やさしくしてくれてもいいのにね。
わたしはさくらちゃんに、にじり寄った。
見上げる恰好になってしまうのが、くやしい。
この幼なじみはまた成長して、わたしとの身長差はついにこぶし三つ分にまで広がってる。
一体、毎日どれだけ牛乳を飲んでるんだろう。保育園のおやつで出た牛乳は、ほとんど残してたくせに。
「それにさっきわたしを交差点で追い抜いた時……さくらちゃん、わたしにべーってしたでしょ!」
「うん。僕にムカついたら、もっと速く走れるかなっていうささやかな親切心で。でもいくら将軍といえども、体力だけは僕にかなわないね。よかった、きみ、ほんとに女なんだ」
涼しい顔で、この上なく失礼な発言をしてくれる。
許すまじ、佐倉裕二郎。いくら唯一の幼なじみとはいえ。
憎きさくらちゃんは小馬鹿にするような微笑を浮かべて、
「にしても、息あがりすぎなんじゃない。僕が体育をさぼることを咎めるより、まずは自分を鍛え直したら?」
「さくらちゃんは……全力疾走しといて、なんでそんなに平気なのよっ」
「いつものことだからさ」
堂々と答えた。
それ、いばれる理由じゃないでしょ。
さくらちゃんは典型的な夜行性で、低血圧。だから朝のマラソンは日常茶飯事、得意ってわけ。
対してわたしは朝型だから、小学校の頃はわたしがさくらちゃんを叩き起こして、ラジオ体操に引っ張っていったりした。
こうやって憎まれ口を叩き合いながら、ずーっと一緒にいるのに、少しも影響されることなく、さくらちゃんとわたしはお互いの性格が見事に正反対のまま。
わたしは外で、たくさんの友達とわいわい遊ぶのが好き。さくらちゃんは室内で、一人静かに読書が趣味。
わたしは文化祭や体育祭、合唱コンクールで声を嗄らして張り切っちゃう。さくらちゃんはそういう学校行事になると、都合よく「風邪」をひく。うーん、集団行動が苦手なのかな? 仲の良い友達はたくさんいるみたいなんだけど。
江川はアクセル、佐倉はブレーキって、仲の良い先輩たちにはよく言われる。
でもね、我関せずといった雰囲気で本を読んでいたり、ふて寝しているわりに、時々、冷静で的確な発言をしてみんなをびっくりさせることがある。
ひとの意見をちゃんと聞いてるし、考えてもいるんだよね。
さくらちゃんはクールだけど、悪ぶってるわけじゃない。
一歩引いてる自分のポジションに、満足してる。そんな感じ。
実はいいところもある――はずのさくらちゃんは、わたしの袖を引いた。
「ほら、行くぞ。朝礼が始まる」
「うん。……あ、さくらちゃん、あのね」
「なに?」
「実は、レイに変なメールが届いてて……」
「レイ先生に?」
さくらちゃんは、立ち止まった。
わたしたちがいる廊下に、八時三十分の本鈴が響き渡る。
「暗号っぽいメール、なんだけど」