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水音を読む測量士は、旅の監査人と町の未来をつなぐ  作者: 銀細工ナギ


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15/20

疑われた監査人

 公開審査の日取りが決まった翌朝、谷町の役所前に一枚の告示が貼り出された。


 監査人エアンの資格を、審査終了まで停止する。


 理由は、外部の者が町の水路を無断で調査し、住民を扇動して混乱を招いたため――。


 告示の下には、交易組合の代表であるヴァルドの署名と、役所の水利担当官の印が押されていた。


 人々は紙の前に集まり、声を潜めて話していた。昨日までエアンに記録を預けていた者まで、目を合わせようとしない。彼の資格が失われれば、監査人として集めた帳簿や契約書は正式な証拠として扱われない可能性がある。公開審査そのものを中止させる口実にもなり得た。


 エアンは告示を読み終えると、静かに紙から離れた。


「私は、今日から監査人として発言できません」


 彼は広場に集まった人々へ言った。


「ただし、私がこれまで写し取った記録を、誰に渡すかは決められます。原本の所在、写しを作った日時、立ち会った人の名も、すべて残してあります」


「そんな記録、資格を止められた人間の作ったものだと言われたら?」


 誰かが不安そうに尋ねた。


「その通りです。だから、私の記録だけで勝とうとは思いません」


 エアンはリゼットを見た。


 彼女は彼の視線を受け止め、胸の中に冷たい水が落ちるのを感じた。彼に頼れば、これまでの証拠を整理し、審査へ運ぶ道は残る。けれど、彼が疑われたままなら、彼の名に結びついたすべてが疑われる。


「私が提出します」


 リゼットは言った。


「記録も、実測図も、仮設水路が壊された状況も。エアンの監査資料としてではなく、私が調査責任者として集めた証拠として」


 ざわめきが広場を走った。


「あなた一人で、組合と役所を相手にするのか」


「一人ではありません」


 リゼットは水時計の台を見た。若い書記がそこに立ち、昨日からの水量を記した板を抱えている。石工は泥のついた手で新しい杭を支え、農家たちは夜の見回りの記録を持っていた。


「ただ、名義は私にします。私の耳で聞き、私の手で測り、私の判断で記録したことだからです」


 エアンは何も言わなかった。


 その沈黙を、彼が傷ついたのだとリゼットは思った。これまで彼は、彼女の前に立って道を開いてくれた。今度は、その役目を奪ってしまったように感じた。


 だが、彼はやがて小さくうなずいた。


「それが、あなたの決めたことなら」


「怒っていないの?」


「なぜ怒る必要があるのです」


「あなたの力を借りるのではなく、あなたの資格を外して進もうとしている」


「資格がなくても、私には手があります。帳簿を読んだ目も、契約を覚えた頭も残っています。あなたが自分の名で立つなら、私はあなたの隣で、できることをします」


 その言葉を聞き、リゼットはようやく息を吐いた。


 二人は役所の記録室へ向かった。告示によれば、エアンは調査資料に触れることも禁じられている。しかし、これまでの記録を住民へ引き渡す手続きまで禁じる条文はなかった。エアンは自分の資格停止通知を読み返し、該当する条文の余白に印をつけた。


「ここです。資格停止は監査行為を止めるもの。既に取得した資料の保全までは妨げられない」


 リゼットは彼の指先を見た。


「あなたは、こういう抜け道をいつも見つけるのね」


「抜け道ではありません。書かれていることを、書かれている通りに読むだけです」


 彼はそう言ってから、ふいに目を伏せた。


「……そう言えれば、よかったのですが」


 記録室の窓から、曇った光が差していた。外では水時計の針が一定の速さで進んでいる。リゼットは彼の横顔に、初めて見る疲れを感じた。


「何かあるの?」


 しばらくして、エアンは古い革袋から一枚の折れた書類を取り出した。紙の端は焦げ、中央には見覚えのない町の名が記されている。


「三年前、北の平原にあるミレア町で、私は水利契約の不正を監査しました。小さな農村が、商人の契約によって水源から締め出されていた」


「その不正を見つけたのね」


「見つけました。しかし、私は契約の無効を急ぐあまり、現地の測量記録を十分に確認しなかった。商人側が用意した地図を、古い原本と照合しないまま採用したのです」


 エアンの声は低かった。


「結果、農村が使っていた分水路を閉じる命令が出されました。契約は無効になりましたが、閉じた水路は崩れ、春の作物が全滅した。私の報告は正しかった。けれど、正しいだけでは、人の暮らしを守れなかった」


 リゼットは焦げた紙を見つめた。彼が普段、契約の条文を何度も読み返していた理由が、ようやくわかった。


「それで、ここへ来たの?」


「ええ。谷町では、書類だけで判断しないと決めていました。あなたの測定を頼りにしたのも、私の過去の失敗を繰り返したくなかったからです」


「私に頼ったのは、責任を押しつけるためではなかった」


「もちろんです。ただ……あなたに判断を預けるのが怖かった。もしあなたが間違えたら、私はまた同じ失敗をする。そう考えていた」


 リゼットはしばらく黙った。彼の告白には、言い逃れも飾りもなかった。自分が疑われたときでさえ隠していた傷を、いま彼は差し出している。


「私も、あなたに頼りすぎるのが怖かった」


 彼女は言った。


「あなたが契約を読み、道を作ってくれるから、私は自分の名で責任を負わなくてもいいと思いかけていた。でも、それでは私が記録を改ざんされたときと同じです。誰かの名前の陰に、自分を隠すことになる」


 エアンは彼女を見た。


「では、私たちは二人とも、隠れる場所を失ったわけですね」


「ええ。そのほうが、たぶん強い」


 リゼットは折れた書類を彼へ返した。


「あなたの失敗を証拠にするつもりはありません。でも、その失敗を知ったから、私はあなたがなぜ慎重なのか理解できました」


「許してくれるのですか」


「許すかどうかを決めるのは、ミレア町の人たちです。けれど、あなたが失敗を隠さず話したことは、私が信じる理由になります」


 エアンの表情がわずかにほどけた。


 午後、リゼットは住民会議を開き、証拠の提出者を自分とすることを正式に決めた。水量記録は書記と農家が連名で署名し、地下渠の図は石工たちが確認する。エアンは資料の整理役にとどまり、発言するときは資格停止中の個人として名乗ることになった。


 組合の使いが現れ、彼を町から追い出せと要求した。リゼットは提出書類の束を抱え、真正面から答えた。


「エアンは監査人としてではなく、立会人としてここにいます。彼を追い出すなら、彼が保管していた記録の引き渡しも、あなた方の前で行います。拒む理由はないはずです」


 使いは返事をせず、告示を剥がして去っていった。


 夕暮れ、仮設水路の水音が広場に届いた。エアンは水時計の針を見ながら、手帳を閉じた。


「本当に、私の隣に立つのですか」


「もう立っています」


 リゼットは答えた。


「なら、公開審査で私が疑われても?」


「そのときは、私が測った水の音を示します」


「私がまた間違えても?」


「そのときは、一緒に間違いを見つけて、直します」


 彼は笑った。疲れの残る、けれど誠実な笑みだった。


 広場の水時計が、次の時刻を告げた。止められた針は、もう誰にも隠されていない。二人は並んで記録板へ向かい、新しい水量を書き込んだ。


 資格を失った監査人と、疑いを受けながら自分の名を差し出した測量士。その二人の前で、水は細くても確かな音を立てて流れていた。

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