第39話:補陀落渡海
■星曆一九〇七年(光分四〇年)・七月:月輪皇國/石橸子爵領/太平寮302号室/時刻は昼
朝方はただの曇り空だったのだが、昼になると鈍色の空から雨がザアザアと降り始めた。
昼食兼買い物から帰ってきた俺は、慌ててベランダに干してあった洗濯物を取り込んだ。
梅雨もなかなかしぶといな。”曇りの土曜日”だからと日傘を持たずにウキウキで外出した奴らは今ごろズブ濡れだろう。
部屋干しに変更した洗濯物に囲まれながら、俺は日課のトレーニングを始めた。
まずは左手一本で逆立ちし、腕立て伏せを始める。……30、31、32、33、34、35……。
すると、ドアからコンコンとドアノッカーを叩く音がした。
マットも敷いていたし、なるべく物音を立てないよう気を付けてトレーニングしてたのだが……、もしかして煩かったか?
俺は腕立て伏せを中断して脱いでいた上着を着ると、玄関に向かいドアを開けた。
「あー、すみません。うるさかったですか?」
面倒な上級生に絡まれたらイヤだな――、などと思っていたのだが、すぐに自分の杞憂が見当違いだと分かった。
目の前には、桃色の髪をズブ濡れにした美しい少女が立っていた。学園の制服はグッショリと濡れており、床に雨水が滴っている。
「あなたは天国を信じますか?」
少女は開口一番にそう言った。
■星曆一九〇七年(光分四〇年)の七月:月輪皇國/石橸子爵領/太平寮302号室/時刻は昼
俺はこの少女に”借り”があったので、無下にはできなかった。
部屋に上げてシャワーを浴びさせ、彼女から借りていた男物の服を用意した。グショ濡れの制服で歩き回られたらたまったもんじゃないからな。
少女が着ていた制服はよく絞ってから畳んでタオルに包み、先ほどまで彼女から借りた服を入れていた茶巾袋に入れた。
彼女がシャワーを浴びている間に電気コンロでお湯を沸かし、そのまま煎茶を淹れる。煎茶は70~80℃くらいのお湯で淹れると美味くなるらしいが、バカ舌なので違いがよくわからない。
風呂から上がった少女を座布団に座らせ、煎茶を勧めた。しかし、お茶請けがないことに気づいたため、キッチンの棚から透水軒の乾パンを取り出して皿に盛る。
部屋に戻ると、少女は卓袱台の上に用意されていた温かい煎茶をゆっくり啜っていた。皿を卓袱台の上に置く。
タイミングを見計らい、俺は口を開いた。
「まずは……、ありがとう。助かった」
「フフ、どういたしまして」
「なんで海中にいたんだ?」
「たまたま、でございます。……本当ですよ? 補陀落敎の隠し教会に行く途中だったのです」
数週間前、雨江灣における『和泥合水作戦』のことを思い出す。
おそらく警兵が吸血鬼獵銃から放った獵銃彈が、具足の左肩部防盾に命中。俺は吹き飛ばされて港の岸壁から転がり落ちた。
脳震盪で気絶していた俺は、そのまま海中に沈んでいった。……普通に考えれば、そこで溺れ死んでいただろう。
しかし、俺はベッドの上で目を覚ました。そこは海沿いの洞窟に隠された宗教施設――皇國のカルト教団、補陀落敎の隠し教会だった。
目を覚ますと、この少女がベッドの横で本を読んでいた。
他にも信者と思われる連中がいたが、海水に浸かりながらのお祈りに夢中でこちらに興味はないようだった。差し出された人血を恐る恐る飲むと身体は十全に回復した。
獵銃彈は左肩部防盾を貫通することなく弾かれており、外傷はリベットの破砕による左肩の軽傷だけだった。もしかしたら俺が鎧っていた《針口》の装甲板は、本当に”味噌の浸み込んだアタリ”だったのかもしれない。
補陀落敎は世捨て人の集団と目されている。
皇國政府に届け出て活動しているわけでもないので警兵隊から弾圧を受けていた。
俺を皇國政府に突き出すつもりなら、わざわざ警兵隊から見つからないように建てた隠し教会に連れていく必要もない。
そんなわけで”一応”彼女を信用することにした。
いろいろと聞きたいこともあった。しかし、翌日には学園に通わなければならないため、その日はすぐに陸路で帰還したのだった。
――だから、ここで聞かせてもらう。
「あんたを部屋に上げたのは質問があるからだ。悪いが付き合ってもらうぞ。……まず最初に、どうやって俺の住所を知った?」
「学生名簿の顔写真から調べさせていただいたのですよ、鷹野ジン様」
「なぜ俺が平坂吸血鬼學園の学生だと思った?」
「それはとっても簡単な理由です。……学園でお顔を拝見したことがあったのです。私は第二学年のミサキと申します。あなた様は私を見たことがございませんか?」
「そっ、そうでしたか。すみません、ミサキ先輩……」
「フフッ、そんなに畏まらなくてもいいですよ。私のほうが年下ですし、気安く話していただきたいです」
さすがに自分の察しの悪さを恥じた。学園の制服を着ていたのだから、高確率で相手は学生だろうに。
唇の色を見たところ真っ青だった。蒼血に近い靑血ってところか。雨に濡れてシャワーを浴びたばかりだし、口紅の色ではないだろうから、かなり高位の吸血鬼と思われる。
学生名簿なんて学園の運営にコネのある貴族しか見れないはずだ。”顔写真付きの学生名簿を見ることができるほどの地位”ってことか……。
やはり油断はできない。
すくなくとも、この少女は海中で俺の具足を脱がせているわけだから、俺と協和國との繋がりを知っている。最悪の場合は口止めが必要だ……。
「そしたら……、俺を助けた理由はなんなんだ? 人血をタダでくれた理由も、乾いた服を貸してくれた理由も、秘密の地下通路で安全に帰らせてくれた理由も分からない」
「それは、あなた様に私の”同志”となっていただきたいからです。……つまり補陀落敎へ入信してほしいのです」
「いや、それは無理」
そっけなく返答し、俺は透水軒の乾パンをボリボリかじった。
「なぜですか?」
「だって……、補陀落敎って集団自殺カルトだろ? 普通に嫌だよ」
補陀落敎の信者はかなりの数が失踪していることで有名だった。
噂では”集団入水している”と言われている。
「それは誤解です。”補陀落敎の名を騙る輩”が集団自殺をしているだけです。……先日、補陀落敎の信者が摘発されたという報道がございましたが、我々とは無関係でした。我々こそが正当な補陀落敎です」
「でもアンタらは秘密主義だからな。誤解だったとしても、何やってんのか詳しくは知らないし……」
「我々が秘密主義なのは仕方がないことなのです。……なぜなら、救済の対象が”魚類系變化身の吸血鬼のみ”なのですから」
「なぜ魚類系變化身だけが救済の対象なんだ?」
「それは我々が『厭離穢土、欣求浄土』を救済の”方法”としているからです。潜水能力がなくてはなりませんから、魚類系以外の變化身の方々が我々に救いを求めにいらしたとしても、お救いできないのです」
「へえ、なるほどね……」
”俗世を離れるために出家する”と考えれば”集団自殺”よりかは随分マシに思えた。
……それでもカルトに違いないが。
「じゃあ、出家仲間を探してるってことか? 悪いが出家には興味がなくてね。一人で出家すればいいじゃないか」
「出家といいますと語弊があります。我々の目的は生理的欲求の否定ではございません。むしろ肉食妻帯を奨励します。――我々の目的はただ一つ。”天国に行くこと”です」
「天国ぅ……?」
そう聞き返すと、ミサキは青色の瞳でこちらの眼をジッと見つめ返した。
「回りくどくて申し訳ございません。……私も凡夫でして、実は率直に理由を言うのが恥ずかしかったのです」
ミサキの虹彩は海原のように広大で、仄暗い紺碧だった。その紺碧の中で俺の意識が座礁する。……沈んでいく。呼吸ができない。空気の中で溺れそうだ。
「私があなた様を助けた理由。――それはあなた様に私の番となっていただき、共に天国で暮らすためでございます」
その瞳は深海みたいに底無しだった。




