第25話:蒼血
■星曆一九〇七年(光分四〇年)・五月:月輪皇國/平坂吸血鬼學園/裏山/時刻は昼
すでに後方では鬼オオカミがサユリに迫っている。
今から血劍を再生成しても間に合わない。
そこで俺はサユリに襲い掛かる巨大な顎の前に身体を割り込ませた。
……つい先ほどまでサユリを殺そうとしていたことなど、すっかり忘れていた。
大口を開けて迫りくる鬼オオカミに向けて右腕で殴り掛かり、折れた血劍をその左目を突き入れる。
眼球がグチャっと潰れる感触が右腕から伝わる。
そのまま脳ミソを穿り殺してやろうとしたが、鬼オオカミはすぐに飛び退いて距離をとった。
標的を俺に変更したと見え、鬼オオカミは怒号を交えて吠え猛りながら咬みついてくる。
追撃のために右目を狙って左手で正拳突きを放つ。――しかし巨大な顎に咥えこまれてしまい、いとも簡単に咬み砕かれた。
肉が噛み潰され、骨が砕かれ、血が噴き出る。左腕に燃えるような感覚が一瞬で広がる。
俺は痛みに耐えるため奥歯を割れるほど噛みしめた。
――だがこれでいい。俺の目的はサユリが体勢を立て直すまでの一瞬を稼ぐことだったからだ。
サユリは俺の意図をすぐに理解した。
体勢を立て直すと、最後の力を振り絞って全体重を乗せた青い血劍を前方に突き出す。
俺の左手に噛み付いた鬼オオカミは後脚で立ち上がっていたため、ガラ空きとなっていた腹部に血劍がドスッと突き入れられる。
分厚い毛皮を貫通した血劍がオールでも漕ぐかのようにグリグリとかき混ぜられる。モツ鍋のごとく臓腑をグチャグチャに捏ね繰り回されたら、いかな鬼獸とはいえ生きてはいられまい。
鬼オオカミの残った左目は白目と黒目が交互に入れ替わっていた。
もう助からないと悟ったのか、鬼オオカミは俺を道連れにしようと強靭な前脚の爪で滅茶苦茶に引っ掻いてくる。
制服がズタズタに引き裂かれ、顔の皮がズルリと剥がれ落ち、腸が掻き出された。
それでも、筋肉の強度を底上げした右腕全体を盾とすることで何とか心臓だけは守りきる。
さすがに右腕の限界が近い――。
しかし、鬼オオカミのほうが先に根を上げた。
スロットマシンのリールのようにクルクル回転していた左目が最終的に白目の状態で停止すると、鬼オオカミの顎がパカッと開いて俺の左腕を解放した。
鬼オオカミは口から青い泡をブクブクと吹き出しながら、糸の切れた人形のごとくその場に倒れ伏す。
すると、さっきまでの喧騒がウソだったかのような静寂が昼下がりの森に訪れた。
――どうやら、我慢比べは俺の勝ちみたいだな。
しかし、自分の身体を盾としてサユリを守ってしまった代償は大きかった。体を見下ろすと、心臓周辺以外には藍色の景色が視界いっぱいに広がっている。
もはや立っていられない――。俺は膝から崩れ落ちた。
するとサユリが俺の体を抱きとめ、膝枕の上にうまく寝かせてくれた。
柔らかな女体から薔薇のごとく馨しい香りがふんわりと漂い、鼻腔を擽る。
そのまま脳髄へと浸み込んでいき、全身の激しい痛みが和らいだ。
やばいな、血が止まらない。意識が遠くなっていく――。
自分の莫迦さ加減にあきれるしかない。幼いころに仲が良かっただけの妹を助けるために二百憶匁を棒に振るなんて……。
俺が腹からこぼした大腸を、サユリが詰めなおしてくれていた。
白魚のような細い指が藍色の血にまみれていく。
痛覚と思考力が失われていた俺は『汚してしまって申し訳ないな……』などと頓珍漢なことを考えていた。
視野が黒く窄んでいく。
その中心ではサユリが顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
鼓膜が「お兄さま!」と泣き叫ぶ声をなんとか拾う。
あー、やっぱバレてたのか。
――もう、疲れたよ。ここで終わろう。
視界がアイリスアウトしかけたその瞬間――、まるで逆再生のように視界がアイリスインしていく。
なんで……と思ったが、体に感覚が戻るとその理由はすぐに分かった。
サユリが自分の手首を切って青い鮮血を俺の喉に流し込んでいたのだ。
奇跡的に無事だった小腸が、サユリの血液を消化して俺の体を再生していた。
「お兄さま……! 起きてください! お兄さま!」
「……すみません、マジで何の話ですか?」
「っ……」
「何を勘違いされてるのかは知りませんが困りますよ……。俺だって伯爵家の本家に生まれたかったけどねぇ……」
「……申し訳ございません」
俺は残った力を振り絞り、全力ですっとぼける。
軍学校で受けたスパイとしての演技訓練が役に立った。
「もう大丈夫です。『死ぬこと以外はかすり傷』っていうでしょ? 伯爵家のお嬢さまが下賤の輩に血なんて飲ませちゃいけませんよ……」
これまた大嘘で、本当は頭痛も吐き気も倦怠感も体中の痛みも滅ッ茶苦茶キツかったが、なんとか我慢した。
「それより助けを呼んできてくれませんか。女中さんもヤバいでしょ……」
そういってから目を閉じようとしたが――、横の茂みからガサガサと音がしたため視界をそちらに向ける。
すると茂みから鬼オオカミの群れが現れた。その数、約十頭。
「そんな……」
「マジかよ……」
もう体力は残っていない。それは俺もサユリも同じだった。だというのに、鬼オオカミは元気いっぱいに唸り声をあげている。
サユリは動かない。柔らかで温かい膝枕はピクリとも動かなかった。
顔の上から、消え入りそうなほど幽かな声がする。
「ジンさま、お願いがございます」
「……なんでしょう」
「『愛してる』と、言ってくださいまし。……最後くらい、『愛してる』と言われたいのです」
「…………サユリ、愛してるよ。ずっと……」
暖かい雫が俺の頬に落ちてきた。
鬼オオカミが一斉に飛び掛かってくる。
どう考えても対処しきれない。ここまでか……。
俺は安らかな終わりを迎えるべく目を閉じた。
妹の膝枕で死ねるなんて、これ以上ない幸せじゃないか。
二百憶匁払っても叶わないシチュエーションだ――。
しかし、期待した通りの終わり方が来ることはなかった。
数秒待ってから目を開けると、鬼オオカミが空中に縫い付けられていた。
それも目の前の一頭だけではない。飛び掛かってきた鬼オオカミ十頭すべてが空中に縫い付けられている。
真横から伸びてきた長大な血劍によって、鬼オオカミたちの頭はまるで魚の目刺のごとく串刺しにされていた。
刺突剣状の血劍の色は真っ蒼だった。こんなに青い血は今まで見たことがない。
まさか、これが始祖吸血鬼の血筋に連なるという蒼血なのか……?
鬼オオカミたちの死体をドサドサと落としながら縮んでいく血劍の生成元を目で追うと、その先には真っ赤な背広に身を包んだ長身の美丈夫が佇んでいた。
「間に合ってよかった。大丈夫かい?」
美青年は寒気がするほど爽やかな笑顔を浮かべながら近づいてくる。
学園長――鵈澤ソウイチロウ、その人であった。




