小さな上司と漆黒の空間
平凡な会社の休憩スペースに居たつもりが、一転して突然の闇、からの落下重力…ううん、程なくそれは上下もおぼつかない感覚になり、次には浮遊感に変わり、胃と頭がグラッと…「って、なっ、なんなの?コレっ!」ってなった。地球の上で極々フツーに生活してたら、絶対出くわさないほどの超スペクタクルな体験なんだと思うんですけどっ!?ちょっ!…あれ?あれ〜っ?!
「大丈夫!落ち着いて!」
パーン!とアタシの手の平と別の人の手の平が当たった音がして、アタシよりさらに小さい可愛らしい手がアタシの手首を掴み、身をグイッと引っ張り込んでくれた。
目の前には至近距離で微笑む…チーフ。ひとしきりパニックになったアタシを安心させるような、ゆっくりと落ち着いた口調がアタシの心を優しく撫でた。
「脚をバタつかせないで。もう落ちるような感覚もないでしょ?ひとまず浮いているって思えばいいわ。真っ暗なところだもんね。基準がないと自分がどんな風か分からないよね。私を見て。そして自分の立ち位置を想像してみて」
なるほど、自分以外を見れば自分が今どう言う状況になってるかがすぐ分かった。まだ鼓動は早いけど、なんとか冷静になる糸口が見えた。でも不思議なことに…周りには光なんて一切無くて、自分の掌さえ見えなかったのに、チーフの姿だけはよく見える。浮き上がってるでもなく、不自然さも全く無く、なぜかチーフの存在だけが視覚的に分かるんだ。ホント、光も何もないのに…。
「ここは宇宙の空間、ううん、深海の底と言ってもいいし、遥か高い雲より上の世界でもいい」
静寂の音が支配するこの場に、アタシとチーフだけが佇んでいる。
ようやく言葉を返せる理性を取り戻したアタシは、チーフへの質問を整理することだけに脳のリソースを消費していた。でも、その解に達するより前に、チーフの方が先に言葉を紡ぎ始めた。
「私に特別すごいことなんてないわ。なんでもかんでも、知ってるコトばかりじゃないし、慣れてるコトじゃないコトの方が多いもの。失敗も怖くないわけじゃない。誰だって失敗は嫌だもの。しないでいい失敗だったら、しない方がイイしね。
…でも、やってみたいコトがあるのなら、やりたい事を見い出す事ができたら、それは、やった方が…行動した方が断然いいって、いつの間にか思うようになったの」
この虚空でアタシが不安にならないように、隣で右手を繋いでいてくれているチーフは、上も下も右も左も、前も後ろかもわからない世界だけど、少し前の上方を見ているように見えた。
目が慣れたアタシは、漆黒一色の世界と思っていたこの空間に、星空のような点を認識できるようになっていた。最初、道標に利用するには特徴の少ない、単なるランダムな点に見えたそれは、時間を追うごとに個性を現し、星で言うところの等級の差が見え始めた。ここってやっぱり宇宙なのかな…。
「最初にね、突っ走ってしまった時、そしてソレが走り終わった時、分かったコトがあったの。それはね『失敗しても…私はなくならない』ってコト」
チーフの握力が少し上がった。
「間違ってしまった時、失敗してしまった時、自分の全てが終わると思っていたの。泡になって消えてしまうと思っていたの。誰に教えてもらったことでもないのだけど、小さい頃からなんとなくそう思ってたの。私とは違う人が失敗や間違いをして叱られたりする姿を見た時は、ああこの人は消えてしまうのか…とか勝手に思っていたわ…」
「この頃からかな、さっき言った魔法使いの夢を見るようになったのは。良いことはもちろん、いっぱい失敗して、悔しい目にもあって、でも朝には目が覚めるの。そこで気づいたわ。私…消えてない…無くなってない、って」
チーフがこちらを向いて、至近距離でお互い見つめ合う状態になった。普段こんなシチュになったのなら、照れて顔が真っ赤になるトコなんだろうけど、話に聞き入っていたアタシはソレもなく、ただただチーフの可愛らしい笑顔を見つめていた。
「だからね、仕事で難しいこと、大きな壁に当たっちゃった時は、『私はあんな深海の底や宇宙の果てで、あんな苦しいこと、めちゃくちゃ難しいことができた私なんだ!…だから、ソレに比べたら地上でのこのコトは全然大したコトない!そう!きっと大丈夫!』って、自分に言い聞かせるようになったの。…いつもそんな感じよ。任された仕事の大きさに震える時もあったわ。でも次の瞬間には、この条件ならコレができる、アレができる、だったらアレをやってみたい!あ、コレもやってみたい!って、色々なコトが浮かんじゃうの。そうなるともう、止まることを忘れちゃうのね。一番ダメなのは、難しいことを目の前にした時、ソコで立ち止まり続けちゃうことだと思うの。とどのつまり…アレなのよ、えっと…失敗しても間違っても…」
「私〈アタシ〉は無くなったりしない!」
チーフとアタシ、ハモってしまった。少しの間のあと、思わず苦笑いのチーフ。私はと言えば、何とも言えない恥ずかしさともバツの悪い顔とも言えない微妙な表情をしたんだと思う。
ところで二人並んでいる今のこの状態。アタシとしては立って並んでいるという認識だったのだけど、方向感の掴めないこの空間、今はコレ、横たわっているんじゃないの?という感覚にいつの間にか変わっていた。パニックと緊張を通り越して、遂にはリラックスに至ってしまったのか。ていうか、慣れってコワい…。
「あなたのその、コワイって思う心は普通よ。コワイと思える事が無くなったら、ソッチの方が怖い。つくづく思うわ、その怖いと思う心を抱きながら、一生ずっと日々を過ごしていくのが人間なんだなって…」
握っていてくれているチーフの手が、再度握力を増した。
「あなたは何かを思い止まったり、周りを気にしている…のかな?んー、無闇に無責任に背中を押すことは言わないけど、止まることで失うものもあるっていうのは、気にした方がいいかもしれないわね」
何もしなければ何も失わない。ソレはそうだ。でも実際は、失なわないことも、失うこともある、って言うのが実際かもしれない。ソレに総じて言えば、結局失う事の方が多いって気もする。
もう一度、自分の周りを見渡してみた。さっきより輝きを増した星があったり、逆に勢いを無くした星もあった。点の星だけでなく、何がどうなればそうなるのかわからない、雲のような見た目になったモノもあれば、移動しながら尾を引くモノ…と言うバリエーションの多さに気づく。静寂と言う名の音もトーンが変わった気がした。
「アタシは…ココにいて、このままで…大丈夫なんでしょうか」
フリーだった左手を胸元に置き、刹那とも悠久とも言えるこの時間の只中に、ずっとずっと考えをめぐらせ、めぐらせ巡らせて、やっと捻り出した言葉はコレだった。
「大丈夫よ、だって…ね?」
チーフはアタシの左手も掴んで一緒に握り、アタシを見つめて上目遣いながら、ね?と首を小さく頷く。ソレはさっきのアレをもう一回、ってねだられているような愛嬌だった。だからアタシはもう一度ソレを声に出した。
「失敗しても間違っても、私〈アタシ〉は無くなったりしない」
ハモった声をトリガーに周りの星が一斉に流星のように流れ、意識がグラデーションのようにまた漆黒になっていった。方向感がさらに消えたけど、コレからどうなるんだろうというよりは、「そうか、それで良いんだ」と言う漠然とした想いが、どこかに収束していく感じだった。不安ではなかった。不快でもなかった。どちらかといえば心地よい消失を感じていた。