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子カフェ  作者: 絶対完結させるマン
交わる人生

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一線を越えさせない

 彼方とはるか。二人の共同生活から4日が経過した。


 彼方は父に事情を話して許可を得た。

 父は最初難色を示していたが、彼方が一歩も引く気がないことを悟ると、了承してくれた。


 彼方のやりたいことを最大限考慮してくれ、骨を折ってくれる父なのだ。


 さて。はるかの『彼方をさっさと諦めさせてやる』という企みはうまくいっていなかった。


 夜中に叩き起こしても彼方は、

 「どうかしましたか」

 と目をこすりこすり起き上がって、はるかが落ち着くまでそばにいてくれる。


 はるかは深夜になるとたまらなく寂しくなって、恋人に電話をかけたりすることがほとんど日課のようであったが、今は恋愛禁止令が出されているので、絶不調モードに入った彼女をケアする役目は彼方一人に任せられた。


 泣いているはるかを、彼方は気遣わしげに見遣って、ホットミルクを入れてやる。

 はるかの隣に自分も座って、彼女の気分が落ち着くのをひたすらに待つ。


 彼女の脈絡のない、前後の流れなどもぐちゃぐちゃな、聞くのにストレスがかかるような話に、黙って耳を傾ける。

 その間は相槌を挟むだけで、いいとも悪いとも言わずに、自分からは何も話さないのだった。


 何も話などできずに、ただ黙って怯えた目を虚空に向けている日もあった。

 そういう時も、彼方はただ黙ってそばにいた。


 はるかはそんな状態に陥った時は、隣に座る彼方の服の裾をキュッと指で掴んでいた。見えない何かに飲み込まれそうになるのを恐れるかのように……。


 はるかは30分もあれば落ち着いた。彼女が立ち上がるのが、終了の合図だった。

 それを確認した彼方は、はるかの飲み残しを飲み干し、マグカップを洗ってから、また寝床に戻るのであった。


 この点が、はるかにはお気に召さなかった。

 はるかに付き合った後、彼方は何事もなかったかのように、ぐうぐうと眠っているのだ。


 今までのはるかの恋人たちは、夜中彼女に泣きながら起こされると、目に見えて動揺して、何をしたらいいか、どうすれば泣き止んでくれるのか——とオーバーリアクションを示してくれた。

 そうして、はるかが泣き止んでからも、一晩中付きっきりで慰めてくれたのだ。


 はるかは、そうされることが当然だと思っていた。


 恋人なんだもの、それくらいするのが当たり前。

 恋人っていうのは、この世で一番大切な存在なんだから。大変な状態の恋人をケアするのは当然でしょ?


 はるかはそう信じていた。

 だから『心が挫けそうになったら俺を頼ってください』と言ってきた彼方の、彼女からすればあっさりとした反応に、物足りなさを感じていた。


 だからこの日、例の通りお開きになる直前にはるかは、

 「彼方くんは、本当に私の味方なの?」

 とやや責めるように尋ねた。


 「もちろん味方ですよ。何があっても」

 「嘘だ」

 「どうしてそう思ったんですか?」

 「だって……だって、私がベッドに入ったのを見届けたら、あとは気持ちよく眠っちゃうじゃん。もっと……もっとさあ……オロオロしてくれてもいいんじゃない?」


 彼方は、ああそういうことか、と合点がいったように頷いた。


 「大丈夫ですよ。はるかさんのことどうでもいいって思ってるわけではないです」

 「そうなの……?」

 「はい。あなたのことが心配でたまらない」

 「だったら、夜も眠れないくらいになってくれてもよくない? 朝までグッスリじゃん」


 そんなこと言われてもなあ……というふうに、彼方は苦笑いする。


 「ちゃんと寝ないと、授業中しんどいじゃないですか」

 「……彼方くんって、すごくポジティブ人間なんだね。気がかりなことがあると一晩中眠れなくない? そういう気持ちわかんない?」

 「わかりますし、そうなったこともありますけど……答えの出ないことに悩んで徹夜したって、しょうがないじゃないですか。特にこれははるかさん自身の問題ですから。自分の場合とは違って他人はコントロールできないでしょう?」


 だから、一人でぐるぐると考え続けるのには、どうしても限界があります——と彼方は言った。


 「なんか冷たく聞こえる……」

 「そうですか?」

 「うん。なんていうか……諦めのようなものを感じるっていうか……他人はコントロールできないから気にしてもしょうがない……みたいな」


 はるかには彼方の態度が、自分のことを理解することを放棄しているように思えるのだった。


 他人は変えられない。これはあなた自身の問題なんだから、俺ができることには限界がある。


 彼方のそういうスタンスは、なんだか突き放されているようだと、はるかは不満を覚えるのだった。


 「何でも諦めないってことが素晴らしいわけではないんですよ」


 彼方が言う。


 「例えば、ブラック企業で働いている人がいたとします。上司からは毎日怒鳴られ、就業時間は一日12時間。残業代は出ない。でも、そんな環境で諦めずに頑張って、報われると思いますか?」


 目を覆いたくなるような劣悪な環境でも、希望を捨てずに一生懸命やっていれば、いつかは評価されて状況は変わるのか?


 「言われた通り真面目にやっていれば上司が『ずっと黙って耐えている君を見て目が覚めたよ。今までごめんね』と謝ってくれると思いますか? 快適な環境がもたらされると思いますか?」

 「いや、そんなことあり得ないでしょ……本気でそう思って働いてる人がいたら、夢見すぎだってドン引きするよ」


 彼方の話がわかりやすい一例に過ぎない、ということに思い当たったはるかは、途端に苦虫を噛み潰したような顔になる。


 「それに、一つのことを諦めて道を逸れたからって、それで何もかもが終わるわけじゃないんです。すぐにまた別の道が現れます。諦めは新たな始まりへの第一歩でもあるんですよ」

 「そうなのかな……」


 はるかは、疑心暗鬼の様子だ。


 「俺は、何の文句も言わずに健気に耐えていれば相手が心を打たれて改心してくれる、っていう夢想を手放したんです。こっちがどれだけ願っても、涙を流しても、そのおかげで報われることはないんだって悟りました。そう、悟りです」


 彼方の顔が、適切な表現を見つけた喜びで輝く。


 「諦めって言うから、マイナスに思えるのかもしれません。そうじゃなくて悟りだというふうに捉えれば、受け入れられるんじゃないでしょうか」


 諦め、というと、多くの人たちはマイナスな印象を抱く。

 諦めないことこそが最善だ、と言えないケースは多々あるのに。


 諦めなければ報われないことも確かにある。

 手放さなければ救われないものや考えが、この世にはたくさんあるのだ。


 本来、諦めというものに良いも悪いもポジティブもネガティブもない。

 ただの一つの選択にすぎないのだ。多くの人たちが、勝手に良くないイメージを抱いているだけ。


 「現実に打ちひしがれて希望を失った……というふうに思うよりも、古い価値観を捨てて新しい自分にアップグレードした……そういうふうに思えばいいんじゃないでしょうか。はるかさんは変わりたいんですよね? それなら今までの考えを手放さなくては」


 はるかは、気難しそうな顔をしている。

 そんなことが本当にできるのか。自分の中にそんな革命が起こるとは、とても思い描けないようだった。


 彼方の言葉は、彼女にとってはあまりにも前向きだった。

 そんなふうに思うなんて私には無理、と言いたかった。


 でも、それを口に出したところで、彼方ははるかが"変われる人"だと信じているのだ。

 きっと大丈夫です、と言われるに決まっている。


 「はるかさん」

 彼方が、はるかをじっと見据える。


 「あの日、自分を変えたい、と願ったあなたの思いが本物だと俺は信じています。今だってあなたは、俺の言葉の意味を考えてくれている……これは誰にでもできることじゃありません。俺の言葉を遮らずに、追い出すこともしないで頼ってくれているのは、本当に嬉しいことです」


 そう言って彼方は、本当に嬉しそうに笑った。


 はるかの良心がズキンと痛む。

 はるかが彼方を追い出さないのは、彼が降参するのを見たいがため——少なくとも本人は追い出さない理由はそれだけだ、と信じているからだ。


 眩しい言葉ばかりを容赦なく浴びせてくる、この救世主気取りの青臭いガキをうんざりさせてやりたい——そんなドス黒い願望がはるかの中を渦巻いていた。


 そのドス黒い願望が抑えられなくなって、つい口に出てしまう。


 「じゃあ明日は学校行かないで、一日中私のそばにいて」

 「それは無理です」

 「なんで」

 「明日文化祭なので。しかも俺、実行委員なんです。何も役割がないならともかく、実行委員が欠席はまずいですよ」

 「そんなのどうとでもなるでしょ。ねえお願い。私を一人で闘わせないって言ってたじゃん」

 「それとこれとは話が別です。俺はもちろんはるかさんを支えますが、自分の身をすり減らすつもりもありません」

 「そっか。わかったよ」


 はるかが肩を落とす。


 「彼方くんの決意はその程度なんだね。私のことなんて、片手間仕事程度に思ってるんだ」


 はるかは「もういい」と家を出て行ってしまう。

 彼方は追いかけはしなかった。

 ちなみにはるかは、5分ほど家の周りをうろつきながら、チラチラと自宅のドアに視線をやっていた。


 そのさらに10分ほど経ってから、彼女は泣き腫らした目で帰ってきた。

 バタバタとやけに足音を響かせて、部屋中のほこりを舞い上がらせるほどの勢いでベッドにダイブし、いつしか眠ってしまった。


 彼方は自分が何を求められているのかよくわかっていたけれど、あえてそうすることはなかった。


 ここで彼女が望む行動を取ってしまえば、何も変わらないから。


 はるかは、彼方に対して憤っていた。


 なんて薄情な人だろう。

 もっと私の一挙手一投足に動揺すべきだ。

 これが辛い思いを味わい尽くしてきた人間に対する態度か。今も苦しみ悶えている人間に対してなんという塩対応だろう、と。


 文化祭なんかどうでもいいじゃないか。それよりも、そばにいてほしいというこっちの願いを優先するべきじゃないか。それくらいの願い、叶えてあげてもいいじゃないか。


 苦しんでいる私のために、多少の我慢はしてくれてもいいじゃないか。


 ……とはるかは恨みがましく感じていた。


 はるかは確かにその身に余るほど辛い思いをしてきた、可哀想な人間だ。

 しかし、可哀想な人間の言うことを何でも聞いてあげる必要はない。


 「それは無理だから」

 と断ってもいい。


 それをしないで、ズルズルと相手の要望をすべて聞いていては、絶対に身が持たない。

 そのうち限界が来て、"相手との関係自体解消する"という選択をすることになるのだ。


 もうこの人とはやっていけない。

 もうこの人の願いは聞いてあげられないから。


 はるかの歴代彼氏たちは、そう思って最終的にはるかから離れていったが、別にはるかの要望のすべてを聞いてあげる必要はなかった。


 「それはいいけど、これはダメ」

 という線引きをして、そこを踏み越えさせないようにしていれば、"もう君とは顔を合わせるのも無理"とはならなかったはずだ。


 はるかの過去の話を聞いた男たちは皆同情して、

 「そんな辛いことがあったなら、多少のわがままはしょうがない」

 と思い、つい自分の中の一線を、はるかに踏み越えさせてしまっていた。


 はるかはそれに満足して、彼氏にますますどっぷりはまり込んでいき愛着を強めていくのだが、彼氏の方はといえば、その時にはもうはるかのことが、すっかり重荷になっているのだった。


 それで別れを切り出されたはるかは、荒れに荒れる。

 あなたも私を捨てるのか、受け入れないのか、と責め立てて、男は自分を責める言葉から逃げるように退散していく。


 彼と別れた直後のはるかは、

 「ああやっぱり私は誰からも愛されないんだ……」

 と、自分が可哀想な人間だという認識を強めていく。


 彼方は、はるかと長く関わっていきたかった。はるかが救われるまで、何年でも何十年でも見守っていたかった。


 大丈夫だ。はるかは自分自身を変えていける人間だ。

 彼方は、何故だかそう確信していた。

 ひょっとすると、はるかの内側から溢れ出る強さが彼方には見えていたのかもしれない。


 まずは自分が潰れないようにしよう、と彼方は最初に決めた。

 自分の中の境界線は死守しようと。


 そうでなければ、いつかはるかのことを恨むようになってしまうから。

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