人生を変える出会い
木口は帰宅して早々、隣の部屋から男女が言い争う声がするのに勘づいて、何事も起きなければよいが……と心配していた。
木口の住まいは、二階建てのアパートの一階だ。
そこで父と二人で暮らしている。
まだ父が仕事から帰ってくるには3時間ほどある。
隣の部屋の住民について、木口はまったく知らなかった。一人者であることが、何となく察せられるだけだった。
男女の声が、壁越しにポツポツと聞こえる。相当大きな声で喧嘩しているみたいだ。
部屋の主は、男と女どっちなのか。
「だから無理なの!」
女のヒステリックな声が、ひときわ大きく響いた。
着替えに取り掛かろうとしていた木口も、思わずピタリと動きを止めてしまった。
「やだ! やめて!」
木口はもう玄関を飛び出していた。
隣の部屋のドアをドンドンと叩いて、
「すみませーん!」
と呼びかけると、向こうで沈黙がおりてきたのがわかった。
「大丈夫ですかー?」
と続けて訊くと、
「大丈夫です! すみません!」
と男の声がして、本当にそうなのだろうか、と木口はなかなかドアから離れられないでいた。
と、ドアが急に開く。
出てきたのは男の顔だった。カバンを胸に抱いている。木口を見ると気まずそうな顔をして、
「あ、どうも」
と言ってその場から逃げるように去っていった。
ということは、この部屋に住んでいるのは女の方だったのだ。
一体何があったのだろう。
木口は内心気になってしょうがなかったけれど、そう思ってすぐに自身に芽生えた野次馬根性を恥じた。
でも、やはり女性が無事かどうかだけ気になる。
木口はもう一度ドアをノックし「大丈夫ですか?」と部屋の主に呼びかけた。
ガチャ、という音を立ててドアが開く。
女の顔を見た木口は目を見張った。
女の年齢は見たところ20歳前後で、そして大層な美人だった。
髪や肌、顔のパーツの一つ一つが輝きを放っているようだ。素敵にバランスの取れた美しさをしていた。
今をときめく人気アイドルと言われても、まあそうでしょうね、と納得できてしまえるほどの美女だった。
ただ残念なところと言えば、その美しい容姿に負けず劣らず、陰気な雰囲気が凄い。
キノコでも生えてきそうな、ジメジメとした空気感に木口は緊張を催した。
だが、こんな深刻な雰囲気を出しているのも、さっきのことがあったからだ。普段はもっと明るいのだろう。
木口はそう思って、さっきの大声はどうしたのか。あの男に怪我でも負わされていないか、というような問いを、その辛気臭い美女に投げた。
「あ……大丈夫です……気にかけてくれてありがとう……」
蚊の鳴くような声だった。
あの男は恋人なのだろうか。木口が家にいる時にああいう声がしたことはない。最近できた恋人か。
木口は、余計なお世話だとわかっていても言わずにはいられなかった。
「何があったのかわかりませんけど、危険な目にあったなら、もうあの男は家にあげない方がいいですよ。エスカレートする前に……」
話している途中で女の目に涙が滲んできて、木口はギョッとした。
隣人を泣かせてしまった。
こういう時どうすればいいのか知らない木口は、オロオロするばかりだった。
女が目元をこすりこすり、片方の指で部屋の中を示す。
「え?」
「中に……ここじゃ何だから中にどうぞ……」
そう言われるままに、女の部屋に入り込んでしまった木口だが、お隣さんというだけの顔を合わせたこともない自分を、家にあげるなんて……と女の行動に違和感を感じた。
部屋の中は綺麗に片付いていた。
激しい暴行などはなかったのだな、と木口はそれだけは安心できた。
出された座布団の上に座る。二人くらいでしか使えない小さなテーブルを挟んで、女と向かい合う。
真ん中にテーブル。女が座っている側にシングルベッド。壁には時計とカレンダーがかかっている。
どこにでもある一人暮らしの女性の部屋だった。
木口は胸がドキドキして、何か背徳感のようなものさえ感じ始めていた。
「あのー……大丈夫、ですか?」
木口がそう尋ねたわけは、女があまりにも物憂げな表情をしていたからだ。
嵐は去ったというのに、女の顔に安堵はなく、深い悲しみが貼り付いている。
木口の質問で、限界が来たように女は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
「なんで……なんで私ばっかりこんな目に……」
「ちょっ、ちょっと落ち着いてください。あっ、これハンカチ」
制服のポケットから、ハンカチを取り出して、泣く女に差し出す。
女は自分の家のティッシュを一枚抜くように木口の手からハンカチを取って、それを顔に押し付けた。
ようやく落ち着いてきた頃に、
「ごめんなさい……ハンカチありがとう……洗って返すね……」
とまた油断すれば涙が出てきそうな顔で言われた。
「あの……何があったか聞かせてもらっていいですか? いや、話したくないなら全然いいんですけど」
女は、その言葉を最初から予見していた、というように、ふっと鼻の先で小さく笑ってみせた。
「さっき出てった人、私の彼氏だったの。もう会わないし、会いたくないけど……大好きだったのに。この人なら私を受け入れて愛してくれる、って思ったのに。裏切られちゃった。大好きだったけど、もう無理」
「浮気されたんですか?」
「ううん」
違うのか。カップルの間で裏切りといえば、それだという根強いイメージがあったのだが……。
「私、告白された時『性的なこと一切しないなら付き合ってもいい』って言ったの。向こうもそれでいい、って言ってくれた。なのに最近、彼が怪しくなってきて……さりげなくを装って体に触れてきたり、冗談めかして太ももを揉んできたりしてたの」
突如繰り出される性的な問題に、木口は混乱した。
異性の口から語られるそういう話に、多少の決まり悪さも覚える年頃だ。
それに、深刻でデリケートな話題なだけに、どう反応するのが正解なのか、自分の反応次第で相手を深く傷つけることになりはしないか、と緊張が高まってくる。
下手なことを言ってはいけない——木口はそう覚悟して、耳を傾けた。
「それで今日『そろそろ次のステージに進もう』って言われたの。嫌って言ったら、逃げてばっかじゃ何も変わらないよ、って叱られて……そこから喧嘩みたいになって……私が無理だって言い続けてたら、彼が……試しにディープキスだけやってみよう、って顔を近づけてきて……」
——やだ! やめて!
あれは強引にキスされそうになった時に出た声だったのか。
「私、どうしても無理なの……性的なことが。ディープキスだって無理……最初に言ったのに、なんで大丈夫だから、って強引にしようとするの? 何年かかっても絶対にできないって言ったじゃん……もうやだ……。男の人なんて、どうせセックス目的で付き合うんだ。みんなヤリモクなんだ。ヤらせてくれない女とは、恋人になれないってことなんだ」
話が危ない方向に舵を切っていく。
「それは違うと思いますよ。セックスができないからって、彼女を嫌いになったりとかしませんよ。そりゃ、そういう男もいないとは言い切れませんけど、みんながみんなそうってわけじゃ——」
「じゃあ、シンプルに私がウザいから別れよう、って言われたってこと!?」
さっきまでメソメソ泣いていただけの女が、激しい怒りを露わにする。
彼女の恋人は去り際に「俺たち別れよう」と彼女に言ったのであった。
むろん彼女の方もそのつもりでいたのだか、言われた瞬間は深く傷ついた。
そして、ああやっぱり……という思いを強めていった。
やっぱり私は誰にも愛されないんだ。
ありのままの私を愛してくれる人はどこにもいない。私は一生一人なんだ……。
彼女が恋人と別れたのは、これが初めてではない。
この人なら、と希望を抱いて付き合ってみて、その都度円満とはいえない別れ方をして終わる。
そして、その度に彼女は上記のような無限のネガティブ思考に陥るのだった。
贅沢言っているつもりはない。誰でもいいから一人、ありのままの私を愛して私に何も要求してこない人がほしい。
これほど強く願い続けても、叶えてもらえない自分が哀れでならず、彼女は世界を呪った。
そして、ますます自分への憐れみの感情を強くしていった。
「やっぱりそうなんだ……私なんて、誰も愛してくれないんだ……今度こそ、って思ったけど、結局ダメだった……もうホントに……死んじゃいたい……」
「だっ、ダメですよ! 死んじゃダメです!」
木口の発言は、逆に女の怒りに火を注いだ。
「適当言わないでよ。私のことなんて何も知らないくせに……! お父さんと仲睦まじく暮らしてるあなたなんかに、私の孤独も悲しさも惨めな気持ちもわかるわけない」
木口は、女について全く知らなかったけれど、女の方は木口のことを何度か目にしたことがあるのだった。
といっても、木口と父が一緒に帰ってくる姿を一度チラ見しただけだが。
しかし、その時の印象が彼女の中に色濃く残っていた。
「あんなに和やかな雰囲気出して……あたたかい親から愛情たっぷりもらってきて、なんの苦労もしてない分際で、私に偉そうなこと言わないで」
この言葉に、木口も流石にカチンときた。
「そこまで言うってことは、あなたの人生は相当波瀾万丈だったんでしょうね」
煽るような口調に、女が意表を突かれたような顔になる。
木口の反撃をつゆほども予想していなかったようだ。
「あなたの人生について聞かせてくださいよ」
木口の挑発的な口ぶりに、しかし彼女は乗ってきた。
彼女自身、自分の不幸な境涯について誰かに話したくてたまらなかったのだ。
彼女はいつもそうだった。
これまで付き合ってきた相手にも、交際してある程度の期間が過ぎて、だんだんと心を許してくると、自分がこれまでどんなに辛い思いをしてきたか、こんこんと話して聞かせるのだった。
木口の場合は、まあこれ以上深く関わることもないのだし……と思って、洗いざらい打ち明けてしまった。




