当日
穏やかな昼下がり。遥の家の前で、私は立ち尽くしていた。
一カ月前、「二人をどうにかしてくれる?」という問いに即座に頷いてみせた私は、どうすればいいのか、具体的に何をすればいいのか考えてみた。
遥は私が頷くのを見ると、ハッと我に帰ったように「ううん、今の話忘れて」と言った。「全部冗談だから」と無理やり取り繕った。
しかし、遥の語ったことが全て本心から出た言葉だということは、痛ましいほどわかっていた。
だから私は、遥のためにその場は納得したふりをしつつも、彼女の悲願を叶えるにはどうすべきかをずっと考えていた。
殺人は計画的に行わなければならない。遥のためにも、私は捕まるわけにはいかないのだ。
まず殺害対象について、よく調査することが大切だと考えた私は、退勤する遥を尾行して、両親と三人で暮らす自宅を突き止めた。
連日連夜、自宅の周辺を監視しているうちに、色々なことがわかってきた。
父母ともに、出かける時間はバラバラだった。会社に勤めているのではなく、自由業なことが窺える。フレックスタイム制の可能性もあるが、この国でその制度を導入している企業は、ほんの一握りだ。
遥の育ての親は、ほとんど毎日決まって二人で出かける。そして、6時間から10時間ほど経ってまた二人揃って帰宅する。同じところで働いているんだろう。夫婦で会社を経営している説が濃厚か。
遥は夜遅く、誰もいない家に帰ることも多かった。夜と言っても、23時までには帰宅するのだが、深夜に差し掛かっている時間帯に、人のいない家に帰るのは心細いだろう。
両親が、一晩中帰ってこない日も度々あった。
私はそういう時に、遥は何を食べているのだろうか、何をして過ごしているのだろうか、といったことを、ぐるぐると考えていた。
遥がいる時間帯に、両親が家に入るのを見ると、あいつらは遥とどんな話をするんだろうか、何か酷いことをされていないか、と心労が絶えなかった。今にも駆け出してインターホンを押したくなるのを、必死に耐え続けた。
遥の自宅は、イエローカフェから徒歩30分弱の距離にある。となると仕事が終わって、19時半には帰宅できるはずなのに、遥は真っ直ぐ帰ることはしなかった。
カフェを出た後、遥はブラブラと街を彷徨っていたり、適当に入った公園のベンチで長いこと座り込んでいたりした。一体何を考えているのか、星が瞬く空を一心に見つめ、時折ため息をついたり、目を閉じて感慨に耽ったりしているようだった。
普通の10歳の少女がすることではない——遥を“普通“の子でなくしたのはあいつらだ。遥を引き取った男と女のせいだ。
ふつふつと湧き上がる怒りは、日増しに降り積もっていった。
殺意が着実に育っていたのだ。
遥に劣悪な家庭環境を教えてもらってから、1ヶ月。
まだ早い。まだ実行に移すべき時ではない。事は慎重に運ばなければならない。
もっとよく調べて、これだ! という完璧な作戦を思いつくまでは、何もしない方がいい。
耐えるのだ、遥のために。私たちの明るい未来のために——。
この日も、私は自分にそう言い聞かせていた。
しかし、遥の自宅周辺を散策していた時、ハプニングは起こった。
「あのー、これ落としましたよ」
そう言われて振り返り、心臓が跳ねた。
わずかに愛想笑いを浮かべながら、ハンカチを差し出していたのは、遠くから散々見慣れている女の顔だったから。
「ありがとう、ございます……」
何とか平静を装い、落とし物を受け取る。
ハンカチを落としたのは、本当にただの偶然だった。
私は、何か神様が手助けしてくれたような——停滞状態を見かねてチャンスを与えてくれたような気がした。
気づけば口が動いていた。
「あのっ!」
「はい?」
「遥ちゃんのお母さん……ですよね?」
「まさかお客さんだったとは。遥がいつもお世話になっているみたいで」
「いえ……私こそ遥——いや遥ちゃんにはいつも元気をもらっています」
私がイエローカフェの常連だと話すと、彼女はにわかに人当たりが良くなった。
いつも遥を指名していることも話すと、ますます愛想笑いを深め、ぜひぜひ! と家に誘ってきた。
「美味しいお菓子があるので、良ければ食べていってください! すぐそこが家なんですよっ」
ほら、と指し示した先には、見知った家があった。
外から見ることは毎日していたが、家の敷地内に入ることは初めてだ。
通されたリビングは、殺風景だった。さすがに何も物がない、なんてことはないが、透明のテーブルと白いソファーと、隅の方にこれまた白いチェストが置いてある以外は、家具が見当たらない。カーペットもカーテンも茶色とグレーで、彩りに欠けた空間だった。
隅にある白いチェストは、新品のように綺麗だ。頻繁に使われている気配がなかった。
綺麗に片付けられている、といえば聞こえはいいが、子どもがいる家のわりには、生活感がなさすぎる気がした。
遥は、家にいる時間は、自室で大半を過ごしているのだろうか。引き取ってくれた二人に気兼ねして、リビングに自分のものを置かないようにしているのかもしれない……などと思った。
女は、遥がカフェではどんな感じなのか、ちゃんとお客さんを満足させられているか、といった質問をしてきた。
「あの子、愛想がないでしょう。子どもらしくないところがあるっていうか……人気が落ちてきたのは、年齢のせいだけじゃないと思うんです」
「……遥ちゃんは子どもですよ。まだ小さくて可愛い子どもです」
その子どもに、あなたたちは次は何をさせようとしているのか。
私の怒りに気づかずに、女は呑気に笑う。
「そうですか? なら良かったです」
「人気がそんなに気になりますか? 子カフェでの人気が……」
「ああ、いや。私と夫は別にどうでもいいんですけど。はるかが気に病みそうだな、って思って。あの子自身が、子カフェで働きたいと言い出したので」
嘘つくな。
「イエローカフェの前に働いていた子カフェを、急に辞めたいと言い出した時は驚きましたけど、今のお店では上手くやれているみたいで良かったです。あなたみたいな指名客もいますしね」
「前のカフェを辞めた理由について、遥ちゃんは何か言ってましたか?」
「同僚の女の子と喧嘩しちゃったんだって言ってました。それで居づらくなったんだって」
両親は、指名客とギクシャクしたことが原因だとは知らなかった。
「舞香さん」
馴れ馴れしげに、下の名前で呼ぶ女。
「今後とも、はるかをよろしくお願いしますね」
媚びるような下卑た笑みが、女衒そのものだった。
あ、殺そう。
一刻も早く殺さなくては、という使命感が湧き上がった。
使命感に突き動かされるまま、横っ面を張り飛ばす。
キャアッ! と床に倒れ込む女。
「何すんのよ!」
下から私を睨みつける。何も言わずにユラリと近づく私に恐怖を覚えたらしく、歯の根をガチガチ言わせながら床を這う。
「ケータイ、ケータイ……」
という呟きに、そうはさせるかと再度床に押し倒す。
叫ぼうとしたので、頭を鷲掴みにして床に口を押し付ける。背中にどしんと乗っかると、グエッとまるでぶくぶくと肥えたヒキガエルを潰したような声が漏れた。
頭を掴んでいた手を離し、代わりに足で押さえつける。空いた手でポケットからハンカチを取り出し、クルクルとおしぼりみたいに巻き、女の口に突っ込んだ。猿ぐつわの代用だ。
これで叫ばれることはない。
女を仰向けにさせ、その首に両手をかける。
手のひらに感じる固い感触。白目を剥いて、口の端から泡を垂れ流す苦悶の表情は、世にも恐ろしいものだというのに、私は冷静にそれを眺めていた。首にかける力を緩めることなく。
つい先ほどまでは、煮えたぎった殺意が体中を熱くしていた。でもこうして首を絞めている今、私の心身は奇妙なほど冷えていた。激情も臨界点に達すると、氷のような感情に変じるらしい。
女はやがて死んだ。
まだ温もりを残している体からどき、立ち上がる。
ここからどうしようか。
殺した後のことを何も考えていなかった。ほとんど衝動に駆られてやったのだから、当然だった。
そのうち父親も帰ってくる。この状況を見られるのは良くない。当たり前だが、父親も殺すつもりだ。しかし、相手が男である以上、簡単に正面突破できる自信はない。今回のように上手くいく気はしなかった。
私は頭を抱えてしまった。
仕事に行く時は、夫婦揃ってのことが多い。となると、今日は旦那は仕事に行っているわけではないのか? 買い物にでも出かけてるのか。
まずい。仕事に行っているわけではないのなら、今にも帰ってくるかもしれない。
父親を殺すのは別日にしようか。いや、家族を殺されたとなれば、向こうだって警戒する。
しかし、何といっても犯罪者になるわけにはいかないのだから、ここは逃げるべきか……と思って、退散しようとしたのだが……。
立ち去ろうとした時、女の死体が目に入ったのだ。
そうしたら、自然と足がキッチンの方に向いていた。包丁を見つけ出し、それを持ってリビングに戻る。
夢中で女を傷つける。
同じ動作を繰り返すたび、女の体が上下にユサユサと揺れた。
めちゃくちゃに傷つけて、使い物にならなくしてやりたかった。すでに死んでいるとわかっていても、そうしたくてたまらなかった。
あんたみたいな人間は母親になっちゃいけないんだ。
だから、私が子どもを産めなくしてあげる。
これ以上、不幸な子どもを増やさないために。
没頭していると時間を忘れる。
「ただいまー」という声と共に、男がリビングに入ってきて、私はようやく我に帰った。
「な、何だお前は!?」
鞄を床に落とし、男自身も尻もちをついた。
チャンスだ、と感じて、すぐに体が動いた。
深く腹に血まみれの包丁を突き立てる。体全体の力を使って、男の腹に刃物をめり込ませる。
確実に内臓まで届いた手応えがあった。
男は叫び声をあげる間もなく、動かなくなった。
カーペットにもカーテンにも、血が飛び散っていた。一番酷いのはソファーだった。カーペットとカーテンは、暗い色調だからそこまで目立たないが、ソファーは目が覚めるように真っ白だったので、付着している鮮血が目立った。
ドス黒い赤に染まったソファーをじっと見ていると、人を殺したのだ、という実感が湧いてきた。
しかし、私が感じていたのは後悔ではない。
達成感と高揚感に満ちていた。
うっとりと感動を味わっていると、また誰かが家の中に入ってきた。
遥しかいない。
遥はリビングの入り口で、呆然とした表情を浮かべ、立ち尽くしていた。
私は、ハッとする。
子どもが見るには、あまりに凄惨な光景だ。
慌てて遥に駆け寄り、手で目を覆おうとしたが、自分の手が血まみれなことに気づく。
「遥! 見ちゃダメ!」
「これ……あなたがやったの?」
「うん。私が二人を殺したの」
しばらくの間、沈黙だけが流れる。
あまりの静けさに、ああ、もう夜になってたんだ、と今さらながら気づく。
夜もとっぷりと暮れて、深夜に近い時間帯になっていた。
私は転がった二つの死体を指して言う。
「どうしようか、これ」
「…………」
遥は何も言わない。
「ごめんね、遥。こんなつもりじゃなかったの。本当はもっと綿密な計画を立てて、やるつもりでいたんだ。でも今日、偶然この女に声をかけられちゃって……落とし物を拾ってもらったんだ。私、つい『遥ちゃんのお母さんですか?』って訊いちゃった。カフェの常連で、毎回遥を指名することを話したの。そしたら、急に愛想が良くなって。是非家に来てください、って言うから……」
「じゃあ…………」
はるかが、ゆっくりと考えを整理するかのように言う。
「じゃあ、二人には今日初めて会ったんだね?」
「うん。声をかけられたのは、本当に偶然だった」
「なら大丈夫かも……」
そう言って遥は、顎に手を当てて考え込んでしまった。
「二人はこのままにしておこう」
「え……放っておくってこと? でも隠さないと殺されたことがバレちゃうんじゃ……」
「お母さんこうなった以上、しょうがないよ。どうせ隠したっていずれバレちゃうと思う。だったら、下手に隠蔽工作するよりも正直に通報して、その上で何も知らないって言い張る方がまだ安全だと思うよ。今日初めて話したくらいなら、お母さんと二人の間には傍目には何の面識も因縁もないし。大丈夫。堂々としてればバレないよ」
遥は私の横をすり抜けて、死者となった父親に歩み寄る。
そして、その腹に突き刺さった包丁を引き抜く。
「指紋は全部拭き取るよ。包丁以外に何か触ったりした?」
「触ってない……と思う。指で触れたりしたものはないと……ああ、ソファーに手をついたりとかはしたかも」
「じゃあ、ソファーも拭いとこう」
台所から持ってきたタオルで、テキパキと私が触れた場所を拭き取っていく遥。
そのあまりの落ち着きぶりに、私は呆気に取られて口も挟めなかった。
「二人の体には触らなかったの? 触ったのは包丁だけ?」
「ううん。女の方は首を絞めて殺したから……」
「なら、指紋がバッチリくっきり残ってるね。念入りに拭かなきゃ」
「い、いいよ! 私がやるから。遥はそんなことしなくても——」
「駄目だよ。もし触っちゃったりしたら、全部水の泡。私がやらなくちゃ」
私の指紋だったら別に怪しまれないでしょ、とこともなげに言う遥。
私よりも、よっぽど落ち着き払っていた。
しかし、母親の下半身を見た時は、さすがにウッとうめいて、動けなくなった。
私は、自分がしたことが間違っているとは思わない。でも遥に見られたいわけではなかった。
遥は、私に幻滅しただろうか。こんな残酷なことをする人とは、とても一緒には暮らせない、と思うかもしれない。
「お母さん——」
遥が独り言のように呟く。
その言葉が、無惨な状態となった女へ向けてなのか、はたまた私に向かって放たれたのか。わからなかった。
遥は気を取り直して、首元の指紋を丹念に拭き取っていく。下半身はできるだけ視界に入れないようにしていた。
遥の尽力をもってしても、残念ながら首の手形は残ってしまった。
しかし、個人を特定されることはないと思う。せいぜい手の大きさから、犯人は女性だと予想されるくらいだろう。
「お母さん、手見せて」
私は言われた通り、手を見せた。
遥は爪先まで一本一本丁寧に眺めたのち、解放してくれた。
「うん。爪が欠けたりもしてないし、間に皮膚とかが入り込んだりもしてないね。さっき首を拭いた時も引っ掻き傷とかは見当たらなかったし……これでやれることは全部やったかな」
本当に大丈夫なのだろうか、という不安はまだ残っていた。警察が総力を上げて捜査すれば、捕まらないわけがない。警察に対する根拠のない絶対的な信頼が私にはあった。
私の手を確認すると、遥は奥の部屋に引っ込んでガサゴソやり出した。
戻ってきたその手には、古雑誌をまとめるのにちょうどいい感じの縄と、手袋、ガムテープ、女物のバッグがあった。
「ちょっとだけ出てくる。すぐ戻るから待ってて」
そう言って遥は、バッグだけを持ち、用心深く辺りを見回しながら庭に出ていった。
言った通り、遥はすぐに帰ってきた。その手からはバッグは消えていて、代わりに土がついていた。
水道水で汚れた手を時間をかけて洗ってから、遥は再びリビングに戻ってくる。
「お母さん。最後に私を縛って。もちろん手袋をつけてね」
「え……何でそんなこと……」
「強盗に入られたように見せるためだよ。強盗は両親を殺し、私を拘束して逃亡。この筋書きでいく」
警察は、存在しない強盗を捜索することになるわけだ。遥はさっき、金目のものを庭に埋めていたのか。バッグの中には、財布やアクセサリーなども入れていたのかもしれない。
強盗の仕業に見せかけるために。
「さあ、早く」
遥は、いつのまにか私に手袋をはめさせていた。
「この手袋はつけたまま帰ってね。家に帰ってから、捨てるなり何なりすればいい」
「わかった」
遥の言う通りにするしかない。
両手を背中でひとまとめにして縛る。足も縛り終えた時、遥が言った。
「家を出たら、110番して。少し歩いた先に、公衆電話があるから、必ずそこでかけて。匿名で通報するの。散歩中に悲鳴が聞こえたんですけど——って言って、大体の住所を知らせて。それだけ伝えたら、すぐに切って」
「わかった。遥の言う通りにする」
「目立つから、家から出たら手袋は外してね。あと、できるだけ人に見られないようにして帰って」
「うん」
かくして私は、遥の口にガムテープを貼ったのち、家を出た。
家から50メートルくらい離れた場所に、公衆電話はあった。遥の尾行中に見つけて、今どき珍しい、と驚いたことを覚えている。
古めかしい受話器を持ち上げ、110を押す。
「事件ですか? 事故ですか?」
「事件……でしょうか。散歩していたら、悲鳴が聞こえてきて——」
声が震えないようにするのに必死だった。
通話を切って、胸に手を当てる。これまでにないほど、激しく波打っていた。
早くこの場を離れなければ。
私は、なるべく街灯のない方向へと駆けていった。
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