最愛の母
「お母さんっ! お母さん待って! 行かないで! 離せよっ! 何なんだ、お前ら!」
背を向けて去っていくお母さん。その隣には力の強そうな男の人。お母さんが少しでも何かしたら、すぐに押さえ込みそうな雰囲気だ。
暴れる俺を後ろから抱きしめているのは、若い女の人だった。
「ダメっ! そっちにいっちゃ……」と言っている。
「ふざけんな! お母さんを連れていくな! お母さんを返せ! 返せよ!! 俺からお母さんを奪うな!!」
全身の力を振り絞っても、お母さんの方へ走ることはできなかった。
お母さんは車に乗せられて、どこかへ連れて行かれてしまった。
「いやだああぁ! お母さんっ! お母さん、お母さん……」
喉が痛くなって声が出なくなるまで叫ぶ。
許さない……! こいつらを絶対に許さない!
俺とお母さんを引き離したこの大人たちを、一生許さない……!
***
「またあの夢……」
出勤前にこんな夢を見てしまうなんて、最悪としか言えない。
昨日、あの子と話したせいだ。
俺の母は死んだ。1ヶ月前に知らせを聞いて、その瞬間五感が死んだ。
自分が床に足をつけて立っている、という感覚すら忘れ去っていた。
一昨日に遺産が振り込まれた。
そして昨日、借りを返しに春奈さんのアパートに行った。
春奈さんは俺の婚約者だった人で、お金の面だけでなく色々とお世話になった。結婚することにいささかの迷いもなかった。
でも彼女が嘘をついていたと知って、一緒になることはできないと思った。
春奈さんには子どもがいた。子どもの存在を隠して、俺と結婚しようとしていたのだ。
俺は大の子ども嫌いだから、この隠し事は特に許せなかった。
付き合っていた時、春奈さんはほとんど俺の部屋に入り浸っていた。まだ幼い子どもをほったらかしにして、男の家に泊まり込んでいたのだ。
そういう女たちを日常的に見ていたのにも関わらず、見抜けなかった俺は馬鹿だ。
俺はつくづく春奈さんに愛想を尽かした。
「あの子、あれからどうしたんだろう」
春奈さんの娘と、借りていた金を渡すついでに、少しの間立ち話をした。
『どうして子どもが嫌いなんですか』
そう質問されて、つい答えてしまった。さっさと立ち去ればいいのにそうしなかったのは、ずっと思っていたことを、もう二度と会わない子どもにぶちまけたくなったからだ。
子ども好きを自称する人間を、俺は嫌っていた。
俺がこんな暮らしをしているのも『弱い子どもを守らなくちゃ!』という自分勝手な正義感を振りかざした自称子ども好きの大人たちのせいだ。
俺はこの後に控えている仕事のことを考えて、憂鬱な気分になった。
俺はクズのホストだ。
店に来る女の顔は万札にしか見えない。というのは冗談で、客の顔は一人一人完璧に把握している。
そうでないと、金を搾り取ることなんてできない。
ホストを始めた理由はやけくそだった。別にやりたくてこの仕事を始めたわけじゃない。
勧誘があまりにもしつこくて、そんなに言うならやってやるよ、と捨てばちな気分になったのだ。行き当たりばったり。ただの偶然だった。
でも、何やかんや一年も続いている。どの仕事も3ヶ月ぐらいで辞めてしまう俺からすれば、だいぶすごいことだ。
まあ、この仕事嫌いだけど。
あくまでも他よりも長く続けられてるってだけで、一生食うに困らない金が手に入れば、すぐにでも辞めてやる。
ウザい客もたくさんいるし、そんな客にこそ媚びを売っとかないと稼げないのだから、うんざりしてしまう。
しかし、客にはうんざりさせられることも多いが、そんな客から大金を出させるのは快感でもあった。
俺のために身を削る女を見ていると、ゾクゾクする。
限界まで追い詰めても、少しも良心が咎めなかった。
俺に貢ぐために体を売る女がいても、何とも思わない。それどころか楽しいと思えるほどだった。
俺のために恥も外聞もなくそこまでやってのけるんだ。何の見返りも得られないのに。手のひらで踊らされているだけなのに。
他人の人生の支配者になったみたいで、アドレナリンがドバドバ出た。
幸い店の関係者たちも、もれなくクソ野郎だった。俺が客の人生を壊すほどに搾り取っても、店長は褒めてくれる。他のキャストもそこそこ悪どいことをしているようで、俺をどうこう言える立場になかった。
他の店に行ったことはないから知らないが、ここは顔のいいクズばっかだ。俺はこの店と波長が合うんだろう。
ここのナンバーワンになってもいいかもしれない、という気分になっていた。実際、そこまで夢物語でもない。
客が俺のせいで内臓を売る、ということになっても俺はまったく気にしない。クズばかりのこの店でも、ここまでの奴はいなかった。
だけど店長は、そんな俺を大いに応援してくれる。
「客がお前に貢いで破産しても、向こうは何も文句言えないんだ。向こうが勝手にやっただけなんだから、こっちの責任じゃない。せいぜいタブーに触れない範囲で、どんどんやってけ!」
そう言って鼓舞してくれる。
そう、あくまでも法に触れない程度で好き勝手やる。抜け道なんていくらでもある。
ルールの範囲内でなら、何をやってもいいはずだ。
俺は別に「金をよこせ」「体を売ってでも貢げ」と強要しているわけじゃない。
〇〇は若いんだから、いくらでも稼げるよ——このセリフ自体には何の違法性もない。
客が勝手に「大金を手に入れるためには体を売るしかない」という考えに走っただけ。
全ては許されている。
法律に引っ掛からなければ全てがオッケーだ。あとはいくつかの店のルールを守るだけ。
予期せぬ遺産が入ったおかげで、あともう少し追い込みをかけて働けば、仕事しなくても生きていけそうだ。
早いとこ楽な生活を送るためにも、いっそう気合い入れてやらなくちゃな。
そんなことを考えながら、俺は今日も店に入った。




