何でもする
でもその次も、そのまた次も、私は気まずい思いをし続けた。
お兄ちゃんのスキンシップが激しくなった。キスの一件があってから、やけにベッタリした距離感になっている。
自分の膝に私を乗せるくらいは、子カフェで会っていた時からやっていた。私は背中越しにお兄ちゃんの心臓の音を聞いて、幸せな気持ちになっていた。
この頃は、膝に乗るといっても体勢が以前とは違っていた。
最近のお兄ちゃんは、自分と向かい合うように私を座らせる。これでは膝に乗っている間何もできない。子カフェでは、絵を描いたり本を読んでもらったりしてもらっていたのに。
向かい合っていると他のことが何もできないし、何より恥ずかしい。
または、片足だけ叩いて『ここに乗って』と示してくることもあった。
絶対に両足を使った方が疲れないのに。変な注文だと思った。
座ってみるとやっぱり安定しない。しかも、お兄ちゃんがふざけて足を動かすから、しょっちゅう振り落とされそうになる。
落とされまいとバランスを取るうちに、お兄ちゃんの硬い膝が、私の股にグッと食い込むことが何度かあった。その度に私は体を固くするけど、お兄ちゃんは楽しそうに笑うだけだった。
その他にも、私がトイレに行こうと立ち上がった時に、太ももをピシャリと叩いたことがあった。
え何なの、と座っているお兄ちゃんを見下ろすと、からかうようなニヤニヤ笑いを浮かべていた。
私が真顔で「どうしたの?」と尋ねると、お兄ちゃんは一瞬でスンッとした顔になって「ハエが止まってたから」と手についたはずのハエを取り去ろうともせず、私のお礼の言葉を待っているだけだった。
他にも「はるかちゃん、太ったんじゃない?」とお腹の肉をつまんできたり「マッサージしてあげる」とか言って、何分も足を揉んだりすることがあった。
考えると、あれもこれも出てくる。
キスはあの日から一度もしていないけど、あれ以来やけに触ってくることが多くなった。
お兄ちゃんからの数々のスキンシップに、嫌だと感じることはなかった。
ちょっと違和感を感じるだけで、不快になったことはない。
変なの、と思うけど、わざわざそれを伝えるのもなんだか気が引けて、受け流し続けていた。
私はもう、人に触られることに慣れきっていた。子カフェで働くうちに、大人から犬猫のようにベタベタと可愛がられても、いつの間にかなんとも思わなくなっていた。
私だって可愛い動物なんかを見ると、撫で回したくなる。
大人にとっては、私が"可愛い動物"なのだ。犬猫を撫で回すのと一緒なのだ。
お兄ちゃんも同じだ。私のことを小動物のように思っている。子カフェに通っていたんだから、そもそも子どもという生き物が好きなのだろう。もちろんお兄ちゃんは、私個人のこともちゃんと見た上で特別扱いしてくれているけど……。
お兄ちゃんの若干行き過ぎているスキンシップを、私はそう解釈して納得していた。
飼い主がペットにするうざったい愛情表現のようなものだと。
二度目のキスをされたのは、凄まじい雷雨の日だった。
その日私は、台風が近づいているというにも関わらず、いつも通りお兄ちゃんの部屋に行った。
帰りのことについては、何も気にしなくて良かった。
ドアを開けたお兄ちゃんは、私を見てギョッとした。
「はるかちゃん、今日は家にいた方がいいよ。大雨が夕方から夜遅くにかけて、降り続けるって話だよ。天気予報見てないの?」
「見たよ。でも大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。家にいなきゃダメだよ。帰りはどうするの? 真夜中まで置いておくわけにはいかないし——」
「帰らなくてもいいの。今日は」
「え? あ、雨……」
家の前で話しているうちに、雨がポツポツと降り出して、あっという間にザーッと降ってきた。
お兄ちゃんが慌てて私を家に入れる。
「帰らなくてもいいってどういうことなの?」
「今日は二人とも帰って来ないから」
「え? でもこんな天気の日に家に帰って来ないなんて——」
「さっき電話があったの。明日の昼に帰るからって。今日は長めのお留守番してて、って」
電話が切れてすぐに走り出した。
お兄ちゃんの顔が見たかった。
遠くの方でゴロゴロと鳴っているのを聞いて、早くあの部屋に行かなきゃ、と飛んできたのだ。
ヒックヒックとしゃくり上げる。壊れた蛇口のように涙が湧き出てきて、止まる気配がない。
お兄ちゃんは私をじっと見つめると、何も言わずに抱きしめてくれた。
うーとか、あーみたいな泣き声というより鳴き声のような声で、私は悲しみを発散させた。
悲しい時に抱きしめてくれる人。
そんな人は私の身の回りにはいなかった。
お兄ちゃんを除いて。
私が辛い時に責めたり突き放したりせずに、抱きしめてくれた。
それだけで十分だった。この人に絶対に嫌われたくない、と思うのは。
どれだけ辛い目に遭っても見捨てられたくない、と思うのは。
***
なんでこんなことになってるんだろう。
口の端からよだれを垂らしながら、私は頭の中でこうなるまでの流れをおさらいしていた。
色々なことを話した気がする。今までの人生で辛かったことを3歳頃にまで遡って、喚き散らしていった。時系列も飛び飛びで、聞いている側からすればわけがわからなかったと思う。とにかく心のままに不満をぶちまけていった。
色々話したけど、結局何が言いたかったのかといえば「寂しい、痛い、愛されたい」ということだった。
そして「絶対私を見捨てないで。何でもするから愛し続けて」と土下座せんばかりの勢いで、頼み続けていたのだった。
もう嫌われるのは嫌だ。
そんなふうな内容のことを伝えると、お兄ちゃんは「わかった」と頷いてくれた。
そして、
「じゃあ僕のお願い聞いてくれる?」
と言ってきた。
私は一も二もなく「何でも聞く!」と答えた。
そうしたら、この前みたいに口の中に舌が入ってきて——。
この前よりもずっと長かった。気持ち悪さを必死で我慢して、どれくらいの時間が経ったのか忘れた。
唇がくっつく直前に「大人しくしているんだよ」と言いつけられていた。だから我慢しなくちゃいけない。
ようやく解放された時には、私の顎はよだれでベタベタになっていた。
「ねえ、何のためにこんなことするの……?」
「僕ははるかちゃんに"本当の遊び"を教えてあげたいんだ」
「ほんとうの、遊び……?」
「そうだよ。それに比べれば、今まで僕たちがやってきた遊びは全然大したものじゃない。どんなことよりも楽しくて面白い遊びが存在するんだよ。はるかちゃんは大切な友達だから、特別に教えてあげるんだよ、わかった?」
「特別……うん。ありがとう……」
私は幸せだ。
大好きなお兄ちゃんに特別扱いされて、他の子には知らないとっておきの遊びを、これから教えてもらえるんだ。
それから私は、体中を触られた。
服の中に手を突っ込まれて、色んなところを弄られて、身体が岩みたいに固くなった。
これってひょっとして……と数日前に見たニュースを思い出して、慌ててその考えを頭から振り払った。
『女子児童にわいせつなことをしたとして、小学校教諭の男が逮捕されました』
あんなニュース関係ない。お兄ちゃんは逮捕されるような人間じゃないもん。
私は嫌だなんて思ってない。だからお兄ちゃんは悪いことなんて何もしていないんだ。私がいいと言っている以上、何も問題ないはずなんだ。
お兄ちゃんは良い人。私に楽しいことを教えたいだけ。親切でやっているだけ。
私はみじめじゃない。お兄ちゃんの親切心を嬉しく思っている。
ゴツゴツとした手が体中を這いずり回る感触を少しでも忘れたくて、外の音だけに集中することにした。
ドドド、という雨音の中に、幼い子どもの泣き声が混ざっている。苦しみと恐怖が滲んでいるその声を聞いていると、私も幼児のように心のままに思いっきり泣き喚きたくなってきた。
でも、憐れみを誘うその声はすぐに止んでしまった。大丈夫! 大丈夫だからね……と優しく言い聞かせる声がしてきて、私はより一層泣きたくなった。
外もダメだ。私は何に集中すればいいんだろう。
何を考えていれば時間が早く過ぎるんだろう。
どこにも行けない気がした。どこにも逃げられない。何もかも無駄だ、とやけになった。
夜の11時頃になって雨は止んだ。その間の記憶というものが、私にはおぼろげだった。
ただとてつもなく疲れていて、一刻も早く一人になりたかった。
こんな時間に帰ろうとする私を、お兄ちゃんは止めようとしなかった。
送っていくよ、と言われたけど、私は大丈夫だから、と逃げるように出ていった。
家に帰ると誰もいなくて、心底ホッとした。
今日ばかりは一人で良かった。一人が嫌であそこに行ったのに、今は誰にもそばにいてほしくなかった。
自分の部屋に駆け込んで、布団を頭から被る。
今日あったことは、誰にも言ってはいけない——。
誰かに話せる気もしなかった。誰かに一から説明しろ、と言われても、絶対に一言目でリタイアしてしまう。
高熱にでもかかったかのように、布団の中でガタガタと震える。虫一匹入る隙間もないほどに体を分厚い布団で包んでいるはずなのに、寒くてしょうがない。
ポロ、と涙が出てきた。一つ溢れると次々出てくる。
泣いてるってことは辛いってことだ。泣きたくなるようなことがあったってことになる。
ちがう、絶対にちがうもん。そんなわけない。
私は平気だ。何もなかった。大したことは何も——。
嫌なことなんて何もなかった。私は何もされていない。
私はみじめじゃない。絶対に。
「みじめじゃない……みじめじゃない……」
私は何時間もブツブツ呟いていた。




