最終段階
「はるかちゃん。ハグするとストレスがかなり減るらしいよ」
お兄ちゃんがスマホから顔を上げて言う。さっき手に入れた情報なんだろう。
「そうなんだ……あんまりそんな気しないけど」
『抱っこコース』でハグはたくさんしてきたけれど、ストレスが減った感じはしなかった。むしろ増した気がしたけど。
「それは知らない人が相手だからだよ。好きな人とするハグはすごいリラックスするんだよ」
「ああ、好きな人とじゃないと効果ないのか。そりゃそっか」
そこから、じゃあやってみよう、という流れになるのは当たり前だった。
そういえば子カフェにいる時は、結構お兄ちゃんに抱っこしてもらっていた。
子カフェの外で会うようになってからは、一回もしていない。
この部屋で過ごすようになってからは、スキンシップらしいものはまったくしていなかった。
久しぶりの触れ合いのせいか、ちょっと緊張してきた。
お兄ちゃんの上半身に私がすっぽりおさまる。
確かにリラックスする。ずっとこうしていたいくらい心地よかった。
お兄ちゃんは最近疲れていた。日常生活の中でちょっとしたトラブルが続いていて、ストレスが降り積もっている状態だった。
私を抱きしめて、大きく息を吐き出す。
疲れが溜まっていたんだな、
スマホで『癒される方法』とでも検索して、ハグに関する記事を見つけたのかもしれない。
いつも私がもらってばかりだから、たまには私から何か返したかった。
お兄ちゃんがこれで少しでも癒されてくれれば——とお兄ちゃんをギュッと抱きしめ返した。
お兄ちゃんは、私の背中を優しくさする。
頭から首、それから背中をスゥーっと指の先でなぞって、腰のところで止まる。そしてまた、頭から首……と同じ動きを繰り返す。猫を撫でてるみたいだと思った。
ハグされている間に何回か、ん? と思う瞬間があった。
お兄ちゃんの指の先が、私のお尻に触りそうになったことが数回あったのだ。
触れるか触れないかの微妙なラインで、恥ずかしくてカッと顔が赤くなった。実際、何度か完全に触れてしまいそうになった。
お兄ちゃんの指が、背中を流れるようにスルスルっと撫でていくため、今にもお尻まで撫でられるんじゃないか……とハラハラし通しだったけれど、それを自分の口から言うのは恥ずかしくて、黙りを決め込んでいた。
やがてお兄ちゃんは満足して、ゆっくりと体を離した。
「ありがとう、はるかちゃん。このところ疲れてたから人肌が身に沁みたよ」
「よかった」
「なんではるかちゃん、モジモジしてるの?」
「えっ、それは……」
お兄ちゃんの手が、お尻に触っちゃったらどうしようかと思って。
それを口に出すことはできなかった。言葉にしたら恥ずかしさが増すだけだ。
顔を赤くして言い淀む私を見て、お兄ちゃんは勘違いしたらしい。
「はるかちゃんも、もうお姉さんだもんね。ハグなんて照れ臭いよね」
「うん、ちょっと……でも嫌なわけではないから。心配しないで」
お兄ちゃんが勘違いしてくれたことは、ありがたかった。
私、何を考えてるんだろう。自意識過剰すぎる。
そもそも変なところに手が当たったとして、お兄ちゃんは何も考えていないのだ。
そういうことを意識している方が恥ずかしい。私も堂々としていればいいんだ。
この日を境に、お兄ちゃんは会うたびにハグをしてきた。行き帰りの際、挨拶がわりにギュッと抱きしめるのだ。
その他にも、肩に手を置いたり、ほっぺをつついたりといったスキンシップを、よくするようになった。
それ自体は何の問題もなかった。私もお兄ちゃんに触られることは嫌じゃなかったから。
問題はお兄ちゃんの触り方だった。
何と言えばいいのか——表現力のない私は上手く言葉にできないのだけど、ゾクゾクするような触れ方をするのだ。
背中を撫でる時も、指の先っちょでツゥ——となぞるような感じで、腰に近くなってくるにつれて、くすぐるような——何かを優しく刺激するような手つきになる。
私がくすぐったさを紛らわしたくてモゾモゾすると、嬉しそうな吐息をもらす。
「くすぐったいよ、お兄ちゃん。なんか変な感じだよ」
「そうなの? はるかちゃんはくすぐったがり屋さんなんだね」
そんなふうに断言されると、私がおかしい気がしてくる。私が特別くすぐったがりで、この撫で方に違和感を覚えるのは私だけだと。
だとしたら、お兄ちゃんに文句を言うのはお門違いな気がした。
そのうち慣れるだろう。そこまで嫌なことでもないんだし。
私は自分にそう言い聞かせて、お兄ちゃんからのハグを受け入れ続けていた。
そんなある日のこと——。
私はお兄ちゃんの部屋で、大人向けの雑誌を見てしまった。
私がそれを見つけた時、お兄ちゃんはいなかった。
私がいつものように訪ねていくと、出迎えて早々にお兄ちゃんが留守番を頼んできたのだ。
「ちょっとコンビニに買いに行くものがあって。すぐに帰ってくるから、部屋で待っててくれる?」
「わかった」
そんなやり取りのあとすぐに、部屋に入ってその雑誌を見つけたのだ。
それは、表紙を上にしてベッドの上に無造作に置いてあった。
いつもあらゆる物をあるべき場所に収めているお兄ちゃんが珍しい、と思って近寄って覗いてみると、半裸の女の人が目に入ってきて固まった。
お兄ちゃんの——だよね? お兄ちゃんもこういうの読むんだ……。
嫌だな、とは思わなかった。
お兄ちゃんも年頃の男で、こういう物に興味があるのは当然だ。施設でも学校でも、男子のうちの結構な数は下ネタを言ってはしゃいでいた。
「セックスって知ってる?」
そんなことを周りの子たちに聞き回って、ええー知らないの!? とか、へー知ってるんだ。ヤベー、とか楽しんでいる男子が一人、今のクラスにいる。
男の子というのは、エッチな話題が好きで好きでたまらないんだ。
大人になってもそうなのだろう。子どもみたいに目に見えてはしゃいだりはしないだけで。
私は常々そう思っていたから、お兄ちゃんがエロ本を持っている、と知っても、お兄ちゃんも男子なんだな、と感じただけだった。
クラスの中で、男子がエッチな話題で盛り上がると、女子はみんな嫌そうな顔をしたけれど、だからといって興味ゼロというわけではないのだった。
男子のいないところで、例えば女子トイレとかで、女子たちは声をひそめてそういう話をする。
「〇〇って知ってる?」
「うちのお姉ちゃんが昨日家に彼氏連れてきたんだけど、私見ちゃったんだよね」
そんな会話が漏れ聞こえたことがある。
私はその会話に混ざろうと思ったことはないが、会話が耳に入ると耳を澄ますくらいには興味があった。
人に比べてどうなのかはわからないけれど、私にもそれなりに関心があったのだ。
だから、目の前のエロ本が気になって、パラパラと中身をめくって見てしまったのも当然の流れだった。
都合よくお兄ちゃんが買い物に出ていて、いなかったのも相まって、私は雑誌を見たいという誘惑に勝てなかった。
女の人が色んなポーズを取っている写真を何枚も見た。ほとんどのページがそんな感じで、私が見ても面白いものはなかった。
けれど、こんな雑誌を隠れて読んでいる、という状況だけで十分にドキドキして、私は夢中でページをめくっていった。
夢中になりすぎていていた。いつの間にかお兄ちゃんが帰ってきたことにも気づかないほどに。
「はるかちゃん」
その声を聞いた瞬間、心臓が飛び出すかと思った。
慌てて雑誌を閉じたけれど、そうしたところで私がそれをさっきまで読んでいた、ということが隠せるわけではない。
恐る恐るお兄ちゃんを見上げる。
「それ、見ちゃった?」
「う、うん。ごめんなさい……」
「ちゃんと仕舞っておかなかった僕が悪いんだし、気にしないで」
「お兄ちゃんもこういうの持ってるんだね。あ、いや……別にいいんだけど」
「ああ、それはね。友達に押し付けられたやつなんだ。言い訳くさく聞こえるかもだけど本当だからね」
そう言うお兄ちゃんは涼しい顔をしていて、苦し紛れの嘘をついているようには見えなかった。
そもそもお兄ちゃんが嘘をついたことなど、一度もなかった。
別にいいんだけど、と言っておいて何だけど、これがお兄ちゃんの持ち物じゃない、と言われたことにホッとしている自分がいた。
こういうのを持っていてもいいけど、持っていない方がありがたくはあった。
お兄ちゃんはクラスの男子たちとは違う。馬鹿みたいなことで騒いだりしない。
女の人の体に対して、関心も低めであってほしい。
その方が安心できるから。
異性の体への好奇心が高まると、実践に走る人もいる。
相手が嫌がるのなんてお構いなしに。
幼児がダンゴムシを指で乱暴に突き続けて、結果的に殺してしまうように。
世界には、残酷なことを平気でできる人がいる。
私ももう少しで殺されてしまうところだった。
……嫌なことを思い出してしまった。
大丈夫だ。ここは世界一リラックスできる場所。
お兄ちゃんは信頼できる人だから。ここでは嫌なことは起こらない。
「子どもの目につくところにこんなもの置いちゃってごめんね。うっかりしてたよ。ショックだったよね。すごくビックリしたよね」
「別にこのくらい大したことない。この雑誌に書いてあるのと同じくらい——ううん、これよりもっとすごい話してる子、たくさんいるから」
「えっ、ホントに? 最近の子は進んでるなあ。僕が子どもの頃なんて、ゲームの話しかしてなかったよ」
正直盛っていた。お兄ちゃんが私を『何も知らないピュアなお子様』扱いするから、見栄を張って大きなことを言ってしまった。
確かにクラスの女子がお姉ちゃんが彼氏と"そういうこと"になった、という話を盗み聞きした時は、とんでもないことを聞いてしまったな、とドキドキしたけれど、それ以外に『すごい話』など知らなかった。
基本的にクラスの子たちが話すのは、想像の中のことだけで、あれは知ってるかこれは知ってるか、みたいなことをコソコソと楽しげに話していた。
一年生の頃は、あまり見られなかった景色だった。たった一年で意識が変わった子が結構いた。
須美ちゃんがあと2年早く生まれていたら——きっとクラスメイトたちと同じ話題で盛り上げれていたんだろうな。
そうしたら、あんなに自分を責めないで済んだのかもしれない。
……また辛い思い出について考えてしまった。
「じゃあはるかちゃんも、結構知識があるんだ?」
「さあ……どうなんだろ」
「漫画とかドラマとかでさ、カップルが裸で寝てるシーンとか見たことない? それの意味ってわかるのかな」
「見たことある……でも意味ってどういうこと?」
何を質問されているのかよくわからなかった。
初めてドラマでそういうシーンを見た時は、なんで服着てないんだろう? と不思議に思ったから、施設で中学生の女の子に聞いてみた。比較的話しかけやすい落ち着いた子だった。
「寝る時に服を着ない人も世の中にはいるんだよ」
そう言われて、へえそうなんだ、と納得して、それからはそういうシーンを見ても、何とも思わなくなっていた。
でも小学校に上がった頃、一人で寝る時ならともかく、誰かと一緒に寝る時に裸は恥ずかしくないか!? と考えるようになった。それともそういう人同士なら、別に何とも思わないのだろうか——と。
小学2年生の今は、彼らが裸族なわけではないとわかっていた。
そもそも裸でベッドに入っているのは、カップルだけだった。
なんでそんなことをするのかはわからないけど、恋人同士にとってはそれがゴールで、その儀式をすると心の距離がグッと縮まるのだということは、なんとなく理解していた。
手を繋ぐ、抱きしめる、キスをする——その先にそれがあるのだと。
それが何なのかはわからないけど。多分、クラスメイトたちが興奮気味に話す"セックス"と何か関係があるんじゃないか。それだけがわかる。
須美ちゃんと一緒に読んだ漫画。あれに描かれていた数々の刺激的なシーンも、きっとセックスに関係するものなんだろう。
私が持っている知識は、肝心な部分はボンヤリしていて何もわからない。具体的に何がどうこうして——みたいなことは全然知らなかった。ただなんとなく、恥ずかしいこととしか理解していない。
「お兄ちゃんは、その意味っていうのわかるの?」
緊張しながらも聞いてみる。
ずっと知りたかったけど、誰かに聞けなかったことが、やっとわかるのかもしれない……そんな期待を抱きながら。
「わかるよ。カップルがあんなふうにするのには色々な理由があってね……」
お兄ちゃんは、ゆっくり説明してくれた。
「裸でくっつき合うとさ……相手の体温とか肌触りとかがよくわかるじゃん? 好きな相手を体全体でもっと感じたい、もっとくっつきたい——だから好きな人同士、ああいうことをするんだよ」
「なるほど……」
「はるかちゃんもさ、僕とハグするとリラックスできて気持ちいいでしょ? ね、そうだよね?」
「う、うん……」
「でもハグだけじゃ、そんなにすごく気持ち良くはなれない。好きな人ができると、もっと気持ち良くなりたいって気持ちが高まって、それ以上の触れ合いを求めるんだ。手を繋ぐ、抱き合うくらいなら、わりと誰とでもできるよね?」
「うん。女子なら友達とハグとか、普通にしてる。学校に行くとしょっちゅうそういうの見る」
「でも友達同士でキスしてる子はいないでしょ?」
「いない。そういうのは恋人としかしないものだから……」
「だよね。すっごく好きな人としか、キスしたいとかは思わないよね。——でもね、はるかちゃん。キスってめちゃくちゃ気持ち良いんだよ」
お兄ちゃんは最後のセリフを、とても大事なことを教えるように囁いた。
「僕が教えてあげるよ」
「え……」
次の瞬間、信じられないことが起こった。
お兄ちゃんの顔が近づいてきたかと思うと、フニッとした感触がやってきた。
「は!?」と叫びたいけど、声が出せない。
ちょっと唇を動かすと、今度はヌルッとした何かが口の中に入ってきた。
なになに何なの!? とパニックになる。とっさに目をギュッと閉じて、恐怖をどこかへ逃がそうとする。
ヌメヌメとしたものが、蛇みたいに口の中を動き回る。私の中に入ってきたそれは、ねちっこい動きで歯をなぞっていった。
そこでようやく、これはお兄ちゃんの舌なんだ、と気づいた。
舌——なんで舌を口の中に入れるの!? 意味わかんない。なんか変な感じするし。口の中を舌でなぞられるとか恥ずかしいし。
あまりにも驚きすぎたので、体が岩のように固まってしまった。頭では今の状況がハッキリわかっているんだけど、どうしても体が反応しない。
その時、あまりのくすぐったさと気持ち悪さに、全身の毛穴がブワッと開いた。
「やだっ……!」
覚醒したように体が動き出す。
私は何も考えずに、お兄ちゃんを両手で突き飛ばしていた。
「いったた……」
「あ……ごめ……」
お兄ちゃんは、硬い床に尻餅をついていた。
「いたたたた……」
「ごめんなさい! そんな強く押す気はなかったの。本当にごめんなさい!」
予想以上にお兄ちゃんが痛がったので、どこか打ってしまったのかと青ざめる。
「ああ、大したことないから。しばらくすれば痛みも引くと思うから大丈夫だよ」
そう言いつつも、お兄ちゃんは顔をしかめている。
どうしよう私のせいで——お兄ちゃんを突き飛ばすなんて、私はなんてことを……。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「泣かないで。僕が驚かせちゃったのが悪いんだし。急にアレをやられたら、ビックリするのも当然だよね。ごめんね」
「そんなこと……」
お兄ちゃんが申し訳なさそうに謝る姿が私は嫌いだった。お兄ちゃんが私に「ごめんね」と謝ると胸がズキンと痛む。
だから、そんな姿はできる限り見たくないと常日頃から思っていた。
「謝らないで。私は平気だから。大丈夫だから……そんなにしゅんとしないで」
「本当に? 僕に遠慮して平気って言ってるんじゃないよね?」
「本当だよ、本当に本当だから……」
さっき私を襲った感触を思い出す。あのなんとも言えない気色悪い感触。
ヌルヌルの生き物が口の中に入ってきて動き回るような感じ……。
鳥肌がまた立つ。
「平気なら良かった。突き飛ばしたのはただビックリしただけなんだね? それとも僕のことが嫌だった? 気持ち悪かった?」
「ううん、そんなことない。本当に大丈夫だから。お兄ちゃんのことを嫌だなんて思うわけない」
何があってもお兄ちゃんを嫌いになるわけがないけど、さっきされたアレは気持ち悪かったし嫌だった。
でもそれを正直に言うわけにはいかない。
もし「気持ち悪い。嫌だった」と言ってしまったら……。
「ねえ、お兄ちゃん。私から離れていかないでね」
「どうしたの、改まって」
「ううん。とにかく私はお兄ちゃんと一緒にいたいの。今さらお兄ちゃんのいない生活になんて戻れない……だから『もう家に来ないで』とか言わないでね。そんなこと言われたら、私死んじゃうから」
「言わないよそんなこと。はるかちゃんが僕を嫌がらない限り」
その言葉を聞いて安心した。
今日はちょっと変な流れになっちゃったけど、次会う時にはまたいつも通りになっているはずだ。
そう思っていた。




