巣穴
お兄ちゃんの部屋は綺麗に片付けられていて、物がきちんと整理整頓されていた。
他人の家に入ったことなんてないから、ワクワクする。友達にお呼ばれでもされない限り、小学生が他人の家にお邪魔する機会はそうそうない。
そして私に友達はいない。
「面白みのない部屋でしょ?」
「そんなことない。へえ、こんな部屋に住んでたんだ……」
このアパートは間取りが混合らしく、一人暮らしの住人も家族で暮らしている住人もいるのだという。
「まだ幼稚園生くらいの小さい子どももいるんだ。だからたまにうるさい時もあるけど……まあ、元気なのは良いことだよね」
ボロアパートと言うだけあって、外の音が結構聞こえてくる。
台風の時とか怖いだろうな。ここに一人きりで暮らしているお兄ちゃんが、なんだか可哀想に思えてきた。
「一人暮らしはどんな感じ? 寂しいとか思わないの?」
そう訊くと、お兄ちゃんは眉を下げてヘラリと笑った。少し無理しているような笑顔だった。
「賑やかな家で育ってきたから、正直落差がすごいね……。一人で暮らすっていうのが、こんなにしんどいものだとは思わなかったよ」
お兄ちゃんはきっと温かい家庭で育ってきたんだろう。たくさん両親に愛されてきたんだろうな、と思わせるような雰囲気が——満たされた人間独特の空気がある。
愛されて育ってきたから、愛される人間になったんだろう。
私は一人に慣れている方だと思うけど、寂しさを知らない人が急にボロアパートに一人で暮らす、となったら結構しんどいものなのかもしれない。
「特に夜とかはね……周りもシーンとしてきて、今僕は世界に一人っぼっちなんじゃないか。僕以外の人類は滅びてしまったんじゃないかと……そんな馬鹿げたことを考えちゃうこともあるよ」
お兄ちゃんは「これ一人暮らしあるあるね」と言って、また例の無理しているような笑顔を見せた。
「私も」
口が自然と動き出していた。
「私もおんなじこと考えたことある。自分が世界に一人ぼっちのような気分になること……夜になるとよくそうなるよ」
お兄ちゃんも私と同じ気持ちを抱えていたんだ。
夜に家で一人きり過ごす時間——クラスメイトたちは親に「宿題やりなさい」とか「お風呂入っちゃいなさい」とか言われているんだろうな、と想像して羨ましくなっていた。
お父さんとお母さんも家にいて、私にそんな小言を言ってくれたらいいのに……何度そう思ったか知れない。
「そうだよね。はるかちゃんも家に一人きりってことが多いんだもんね。お互い寂しい思いするね」
「ねえお兄ちゃん。夜も遊びに来ちゃダメ? 家に帰っても誰もいないし、つまんない。私、どうせならお兄ちゃんと一緒にいたいよ」
「はるかちゃん……それはダメだよ。お父さんとお母さんが帰ってきた時、はるかちゃんがいなかったら大騒ぎするよ」
「そうかな……そんな気しないけど」
「さすがに夜に8歳の娘が家にいなかったら、心配するよ。だからここに来るのは昼間だけにしよう? 夜じゃなかったら大丈夫だからさ」
「……うん。わかった」
お兄ちゃんの寂しさを私が埋めてあげられる。私の寂しさをお兄ちゃんが埋める。Win-Winだと思ったんだけどな。
それからは、お兄ちゃんの部屋で遊ぶのが日常になった。
お兄ちゃんの夕飯作りを手伝ったり、私の宿題を見てもらったり……二人で和やかな時間を過ごした。
特に何をするわけでもなくても、お兄ちゃんといるだけでとても楽しかった。
ずっとこの部屋にいられたらいいのになあ……。
帰り道を歩くたびに、そんなことを思った。
お父さんとお母さんに構ってもらえない寂しさを、お兄ちゃんが吹き飛ばしてくれていた。
おかげで、お父さんとお母さんに軽くあしらわれても、前ほど傷付かなくなっていた。
私はお兄ちゃんを親代わりにしていた。
二人に冷たくされても、私にはお兄ちゃんがいる。
そう思えば、挫けずにすんだ。
自分だけを見てくれる人がほしい。私を特別扱いしてくれる人にそばにいてほしい。
私の一番の願い。私の愛されたいという思いを満たしてくれる人は、お兄ちゃんしかいなかった。
子カフェに来るお客さんの愛が、偽物の安っぽい愛だと気づいた今となっては、どれだけ働いても何も満たされない。
お兄ちゃんがいなくなったら。もしお兄ちゃんと会えなくなったら——。
時々そんなふうに考えては、暗闇に突き落とされるような気分になった。
私にはお兄ちゃんしかいない——。
ごくごく自然に、私はそう思うようになっていた。
「はるかちゃんがここに来てるってことは、絶対に絶対に誰にも言っちゃダメだからね。僕たち二人のためだからね」
お兄ちゃんは、日に一度はそう言い聞かせた。
「わかってるよ。誰にも言わない。大人たちだけじゃなくて同級生にも言わない。何があっても話さないから」
「このことを知ったら、必ず僕たちのことを良くない目で見てくる人がいるからね。そして、なんやかんや言って僕たちを永遠に引き離そうとしてくるから。僕たちの気持ちなんてお構いなしにね」
どれほど私が泣こうが騒ごうが、お兄ちゃんは良い人なんだと主張しようが、分からず屋の大人たちは私からお兄ちゃんを奪い取ろうとする。
そうなったら最後、私たちは永遠に会えなくなる。
お兄ちゃんは、そんな最悪の未来を臨場感たっぷりに話してくれた。何度も何度も。脳に刷り込ませるように。
私が「絶対に誰にも言わない」と固く約束するのを確かめると、お兄ちゃんは頭を撫でてくれた。
お兄ちゃんに頭を撫でられることが、私は大好きだ。
これをされると、大体の嫌なことはどうでもよくなってしまうのだった。




