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子カフェ  作者: 絶対完結させるマン
始まりの事件

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1ヶ月前

 あれ以来私は、ほとんど毎日のようにイエローカフェに通い詰めた。そして、毎回遥を指名した。

 遥に休みの日を聞いて、その日はカフェには行かないようにした。遥以外の子どもたちには、まったく興味がない。


 遥は、週5回で3時間働いていた。

 月曜日から金曜日の、16時から19時まで。学校が終わるとすぐに、カフェに直行するのだという。

 他の子どもたちはどうか知らないが、この仕事をしているのなら、これが当然なのだろうか。放課後に友達と遊ぶ時間がゼロだなんて、私からすれば悲しすぎる。

 これが()()()の常識なのか——。


 遥に土日は何をして過ごしているのか、と訊いたら、

 「勉強とか」

 とだけ返ってきた。


 私が来店するまでは、遥は入り口を入ってすぐのところにあるメインスペースで、大勢の子どもたちに囲まれながら、学校の宿題をしていたのだそうだ。

 メインスペースには、指名された子は別として、現在出勤している子が全員いる。そこで子どもたちは、各自好きなことをして過ごしている。

 遥みたいに椅子に座って、宿題をしている子もいれば、寝っ転がってお絵描きしている子もいる。他にも子ども同士でおままごとをしていたり、折り紙やお人形遊びをしていたりと、年齢関係なくごっちゃになって過ごしている。


 そのような光景を見るために、お金を払う大人たちがたくさんいる。

 ここにいる子どもたちは、そんな大人たちによって金銭を得ているのだ。


 「確かに子どもは可愛いよね。一応私もそのくくりに入るんだけどさ。……4、5歳くらいの子と一緒に遊んでると、わざわざここに来る大人たちの気持ちもわかるな、って思うの。すっごく癒されるもん」


 遥は頬を緩ませ、笑った。

 その笑顔は、初めて会った日に見せたものとは違って見えた。あの時とは違う、本心から出た笑い。

 遥もまた、客たちと同じ気持ちを味わっているのだ。自分よりも幼い子から、元気をもらっている。


 ——馬鹿だな、って悲しくなる。

 ため息混じりに吐き出された彼女の言葉が思い出された。


 「ねえ、ここの問題が解けないんだけど……お母さんわかる?」

 「どれどれ……」


 遥が数学のテキストを私の体に寄せて、「ここ」とある問題を指でさす。


 カフェに来るたびに、遥の宿題を見てやるのが、私の習慣になっていた。

 お母さん呼びは継続していた。

 2回目に会った時に、サラリと「また来てくれたんだね、お母さん」と言われて、唖然としていると「どうしたの?」と首を傾げられた。

 そう呼ぶのが当然だと言うような態度に、やはりこの子は私の娘なんだ、と思った。

 こうして宿題を見てやっていると、それこそ遥が小学校低学年の頃から、ずっと面倒を見てきたかのような錯覚に陥る。


 今日も私は、指名客専用の部屋で、遥が宿題を終わらせるのをそばで待っていた。

 現在、部屋の中には、私たち二人しかいない。

 「ああ、なるほどね。この式を当てはめれば良いんだ。ありがとう、お母さん」

 「どういたしまして」


 ほんの少しのヒントを与えてやっただけなのに遥は瞬時に理解し、黙々とシャーペンを走らせていく。

 この子は頭が良いな。短い時間と少ない情報で、最適解を見出す力に長けている。

 親バカも入っているかもしれないけど、賢い子だ、という印象を抱いた。


 「今日もサクッと終わらせたね。すごいよ遥」

 「お母さんが教えてくれたおかげ。ありがとう」


 頭を撫でてやると、ふふん、と嬉しげな笑顔になる。

 その笑顔を見ると、無限に撫でてやりたくなる。


 「私、お母さんにこうされるの好き」

 ああ、もう幸せすぎて死んでしまいそう。


 最初に対面した時、警戒心が強そうな子、というイメージが遥にはあった。なかなか他人に心を許したり、懐いたりはしなさそうだと。

 なのに、私にはこんなに気を許してくれている。そのことが嬉しくてたまらない。


 「あ。一応言っとくけど、お母さんって本当のお母さんのことじゃないからね」


 付け足された言葉に、頭をガツンと殴られたようになる。


 本当のお母さん。この子には、血と肉を分けた本当の母親がいるのだ。

 当たり前のことなのに、ずっと忘れていた。

 この子には、生まれてからずっと過ごしてきた家があるのだ。


 「遥の本当のお母さんはどんな人なの?」


 遥がどのような環境で生まれ育ってきたのかが気になり、探ってみることにする。


 「うーん……。なんて答えたらいいのか難しいけど……」

 「答えられないような人なの?」

 「そこまで酷い人じゃないよ」


 本当に良い母親だったら、そんな台詞は出てこないだろう。


 「お母さんは強気な方?」

 「うん。それは間違いない。遠慮がない性格だね。歯に衣着せぬ物言いで——もうちょっと何とかならないかな、ってずっと思ってる。本人には言えないけどね」


 あはは、と冗談めかして笑う遥。

 その様子には、どこか無理をしているような、努めて明るく振る舞おうとしている感じが否めなかった。


 「お母さんのお母さんは、どんな感じなの?」

 「私のお母さん……」


 顔が険しくなるのがわかった。遥もそれを感じ取ったのか、しくじった、というような表情をする。


 「訊かない方が良かったかな」

 「ううん。大丈夫」


 私も50代に突入した。もうそれなりに割り切れている。


 「私のお母さん、あまり家に帰ってこない人だったんだ。だから私はおばあちゃんの家に預けられることが多かった」

 「忙しい人だったんだね」

 「おばあちゃんもそう言ってた。『お母さんだって、もっと舞香と一緒にいたいって思ってるのよ』って。それを聞いて育ったから、お母さんは仕事が大変なんだとばかり思ってた。私だけじゃなくて、おばあちゃんだってそう信じてたんだ」


 実際は、仕事じゃなくて他所の男と遊んでいたんだけど。


 「しかもその不倫相手には、子どもがいて。奥さんに先立たれたシングルファザーだったんだ。母は相手の子どもとも仲良くしてて、三人で遊園地に行ったりもしていたみたい。母にとって、不倫相手とその子どもの方がよっぽど家族だった。お父さんと私は、お母さんの中ですでに過去の存在になってたんだと思う」


 遥は何も言わずに、真剣に耳を傾けている。

 私は淡々と続ける。


 「ある日、ひょんなことから母の裏切りが父にバレて。そっからトントン拍子で離婚。母は不倫相手の家庭に行って、私と父の二人暮らしになったけど、そのうちおばあちゃんが一緒に住んでくれることになって、私が就職して家を出ていくまでは三人で暮らしてた」

 「お父さんは、奥さんと別れるのは嫌じゃなかったの?」

 「夫婦の会話も減ってたと思うし。愛情もほとんど無くなってたんじゃないかな。だからスムーズに離婚って流れになったんだと。不倫してるんじゃないか、って薄々勘付いていた可能性も高い」


 当時、私はまだ小学生だったけれど、父がショックを受けていたとか打ちひしがれていた、みたいな記憶はない。淡々と離婚手続きを進めていく父は、私の目からは無感動そうに見えた。


 「取り乱したのは、おばあちゃんの方だよ。真面目そうなお嫁さんに見えたのに、あんなとんでもない女だったなんて、って。とんだ恥ず知らずをつかまされた、ってカンカンだった」


 不倫された息子を、かわいそうだ、かわいそうだ、としきりに言っていた。父自身はそこまで傷ついていないのに、おばあちゃんがやたらと涙ぐむから、父がとても不幸な男のように思えた。

 父は、私が20代の頃に死んだ。ガンだった。


 「私にとって、おばあちゃんがお母さん代わりだった」

 「おばあちゃんっ子だったんだ」

 「そう。だから、おばあちゃんから言われた言葉は、結構私の人生や考え方に影響してるんだ」

 「それ、わかる」

 「え?」

 「親に言われたことって、子どもの人格やその後の人生に影響するよね。私も——」


 遥はそこまで言い切って、急に言葉を切った。


 「ううん、何でもない」

 「聞かせて」

 「…………」

 「お願い、遥」

 「私が子カフェで働いているのも、お母さんとお父さんに言われたからだし」


 やっぱりそうなのだ。

 遥は無理やり働かされている。両親に搾取されているのだ。


 「両親に子カフェに行け、って命令されたの?」

 「命令なんかじゃ……強く勧められただけで……」


 普段はキッパリとした口調の遥が、歯切れを悪くする。

 十中八九強要されたんだ。酷い両親をそれでも庇いたいという遥の優しさに、涙が出そうになる。


 「週五で出勤してるのも、両親の勧め?」

 「うん」

 「遥は嫌じゃないの? この生活。友達と遊ぶ時間もろくにないでしょう」

 「でも社会勉強になるからって、二人が言うから……」


 それに、と目を伏せる。


 「友達なんていないから……」

 「…………」

 「友達よりも大切なものがあるから、何も気にしなくていい、ってお母さんは言うんだよね。今しかできないことに集中するべきだって」


 12歳以上になれば、子カフェで働くことはできなくなる。

 稼げるうちに稼げるだけ稼げ。そして私たちに楽をさせろ。

 遥の両親は、内心ではそう思っているのだろう。


 悲しそうな遥の顔を見やる。

 頭のいい子だ。両親の考えに気づいていないわけがない。自分が利用されていることなんか、とっくにわかっているはずだ。

 でも、それを認めることができない。なぜか?


 この世で唯一の親。その親に愛されていない、と認めることは、かなりの痛みを伴うものだからだ。

 なら、代わりに愛してくれる親代わりの人間がいれば?

 私が遥の本当の親になれば——。


 「でもさ、最近はここでの時間も悪くないんだよね」

 「え?」

 「お母さんよりもお母さんみたいな人が会いに来てくれるから」


 お母さんみたいな人。

 私との時間が遥の癒しになっているのか。


 「私、家にいるお母さんよりも、ここに来てくれるお母さんの方が好きかも」


 私が渇望していた言葉を遥は言ってくれた。


 「私も……私も遥のこと、本当の娘みたいに思ってる」


 私がそう言うと、遥は一瞬、パッと顔を明るくしたけれど、すぐに思い直したように悲しげに目を伏せた。


 「どうしたの?」

 「それね、よく言われるんだよね。私だけじゃなくて、子カフェで働いている子どもたちは、言われがち。定期的にやってきて指名してくれる客がいる子にとっては、耳に馴染んだ台詞なんだよね」


 前の店で働いていた時、私もお客さんからよくそう言われたよ、と乾いた笑いをもらす遥。


 「本当の娘、息子みたいに思ってる。〇〇みたいに可愛い子なら、子供を持つ選択もありかもしれない……そんなことを言うだけ言いはするけど、実際は欠片もそういうつもりはないの。多分、何も考えずに言ってるんだろうね。もしくは、そう言えば子どもが喜んでくれるとでも思ってるか」


 遥はそこで一旦言葉を切り、さっきまでとは違い、聞き取りずらいほど小さな声で、しかしはっきりと言った。


 「その言葉が、一部の子どもにとってどれだけ大きなものかなんて、知らないんだろうね」


 子ども側が、客に実際の親以上の愛着を抱くことがあるとは、私自身も想像していなかった。


 「私もその言葉にぬか喜びさせられたクチでさ。ある日言ってみたの」


 じゃあ、私を本当の家族にしてくれる? あなたのところに引き取ってくれる? と。


 「ドン引きしてた、お客さん」

 遥が瞬きの回数を増やす。


 「ちょっとした褒め言葉のつもりで言った言葉を、まさかそこまで真剣に受け止められるとは、思いもしなかったんだろうね。それ以来、そのお客さんからは指名されなくなった」


 語尾が極端に跳ね上がったり、かと思えばほとんど囁くように頼りなくなったりと、遥の口調は不安定なものになっていく。

 そしてまた、瞬きの回数を増やした。


 「他の一緒に働いている子たちにも、その話が伝わって……店長からも怒られた。何身の程知らずなことしてるんだ、立場を弁えろ、って。年長組の子たちからは——10歳から12歳までの子をそう言ったんだけど——あからさまにバカにされた。何でそういうこと言っちゃうかなー、もう10歳にもなるのに頭悪いなー、って感じで。それで気まずくなって、前の店に居れなくなったの」

 「そうだったんだ……」


 ホームページに載せられていた遥の言葉を思い出す。


 「この店の風通しはどう? 何か辛い思いしてない?」

 「店自体に対する不満はない。ただ私、最年長だから……一番人気がないんだよね。前のとこは年長の子も結構いたから、そこまで感じなかったんだけど、ここは働いている子の年齢層が低めだから、自分が不人気だってことをダイレクトに感じて……それがちょっとこたえるくらいかな」


 歳を重ねるほど、子カフェでの需要がなくなる。

 それは自然の摂理だった。ここに来る大人たちは、“子どもらしさ“を求めているのだから。

 遥のように落ち着いた、ある程度成熟した子には、興味を示さないだろう。


 「ちょっと前までは、大勢の大人に求められるのがしんどくてたまらなかったのに。いざ人気がなくなったら、それはそれで虚しくなるんだから、わがままだね」

 「遥は、いつからこんなことをやってるの?」

 「8歳から。結構遅めだよ。赤ちゃんの頃から働いてる子もいるからね」

 「赤カフェ……」

 「そうそれ。そういう子たちと比べれば、ずいぶん遅い方だよ」

 「遅いなんて……」


 そもそも、本来そのような店なんかで働くべきではないだろうに。

 子どもを働かせるなんて、あってはならないことなのだ。

 子どもに生活費を稼がせるなんて——。


 でも、遥が生まれてからすぐに仕事をさせられていなかったということには、希望が持てる気がした。

 少なくとも、稼がせるために作られた子ではなかったのではないかと。


 「この仕事をしているのは、両親の強い勧めって言ってたよね。7歳までは何とも言われなかったの?」

 「ああ、言ってなかったね。私、両親とは血が繋がってないんだ。養子なの」


 あまりの衝撃に目を見張る。

 遥は「私は元々施設育ちでね……」と続ける。


 「実の親との記憶は何もない。あなたは捨て子なんだって、施設の職員さんは言ってた。あんまりちゃんとした施設じゃなかったんだよね。建物は立派だったけど……中は治安が悪かった。度を越したいじめとか日常だったし、お仕置きでご飯に虫を入れられて、食べさせられてた子とかいた」


 遥は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 ショックがどんどん積み重なっていく。

 仮にも児童を預かる施設の内情が、そんなに悲惨な事があるのか。そんな場所の存在が許されるものなのか。

 私の開いた口が塞がらない有様を見て、遥が笑う。


 「信じられないよね。でも本当なの。だから、引き取ってくれる人が現れた、って聞いた時は本当に嬉しかった。これでもう何もかも大丈夫になる、やっと幸せになれる……って」


 期待を裏切られた、という悲しみが、その口調からハッキリと滲んでいた。

 遥には最早、取り繕おうという余裕がなかった。

 「施設には二人揃って迎えに来てくれたんだけど、その様子があまり嬉しそうじゃなくて……不思議に思ったのを今でもハッキリ覚えてる。子どもが欲しいから、私を迎え入れたんじゃないの? って謎だった」


 母親が遥の手を引いて、その半歩後ろから父親がついてきていた。そうして三人で家へと向かったのだというが——。


 「そこからも、特に歓迎の言葉を言うでもなく、家の中の説明と、二言三言注意しただけで、さっさと自分たちの部屋に引っ込んでいっちゃうんだもん。私は与えられた自分の部屋で、一つだけポツンと置いてあったテディベアを撫でつけて、想像と現実のギャップに、ただ呆然としてた」


 翌日以降、遥は何とか自分の親となった二人と、会話を試みようとした。だが、幼い子なりに懸命に話題を振ったり、可愛らしいちょっかいをかけて注意を惹きつけようとしても、両親は適当にあしらい続けるのであった。


 「食事も服も、健康的な生活を送る上での面倒はちゃんと見てもらってた。ただ二人の態度が親というよりは、まるでベビーシッターか何かみたいな……仕事だから仕方なく世話を焼いている、って感じだったんだよね。ううん、まだベビーシッターの方が私に興味を示して、愛情を注いでくれたと思う」


 そんな日々が、大体3ヶ月くらい続いた頃であっただろうか。

 両親は、珍しく遥を連れて、三人で外にご飯を食べに行った。


 「完全個室のお座敷の部屋だった。家にある部屋は全部フローリングだったし、施設にも和室はなかったから、すごくテンションが上がってた。もちろん、ずっとそっけなかった二人が、やけにニコニコして『はるか、ご馳走を食べに行こう』と言ってくれたのが、大きかったんだけど」


 店へは、遥を挟むようにして三人で手を繋いで行ったという。道中、両親の機嫌はずっと最高だった(少なくとも当時の遥にはそう見えた)。

 今日を境に、家族らしい家族になれるかもしれない——遥はそんな期待に胸を高鳴らせた。

 そうして店に入り、食事を終えた時のことだ。


 「はるかにお願いしたいことがあるの、って切り出してきたのは、お母さんだった。お願いっていうのは、これからあるお店に通ってほしい、というものだった。何も難しいことはない、はるかはただそのお店で、好きなことをして過ごしていていいんだ、とお父さんが歯を見せて笑いかけた」


 私は、二人の男女の気持ち悪い笑みを想像して、胸がムカムカしてきた。


 「はるかにしかできないことなの。私たちのお願い、聞いてくれるよね? って顔を覗き込まれて、間髪入れずにうん、って頷いた。そうしなければ、さっきまでの楽しい空気が壊れて、永遠に訪れなくなりそうな予感がしていたから」


 うん、そのお店に行くよ。

 遥がそう言うと、二人は喜びの声をあげて遥に抱きつき、頭を撫でたり頬擦りしたりした。

 その反応を見て、遥は「良かった。間違ってなかった」と安心した。

 こんなに嬉しそうな両親を見るのは初めてだったので、自分がその“お店“に通うことは、よっぽど良いことなのだという気がした。


 「二人がそんなに喜んでくれるなら、どこにでも行く、って意気込んだ。その日は家に帰ってからも、二人はずっと優しかった。それが嬉しくて嬉しくて……」


 しかし、翌日になると、両親はまた元のそっけない態度に戻っていた。

 困惑しながらも、遥は両親に言われた通り、子カフェに行った。


 じゃあ頑張ってね、はるか。

 母親はそう言って、店員に遥を引き渡した。

 それから2時間経ち、母親が迎えに来た。


 「どうだった? って訊かれて私、『たくさんの人が私をじっと見てきて怖かった』って答えたの。できればもう行きたくない、って続けようとしたんだけど……お母さんの雰囲気が怖くなったことに気づいた」


 子どもは大人たちが思っている以上に、人々が醸し出す空気の変化に敏感だ。


 「だから『でもまた行きたいな』って思ってもないこと言ったの。そしたら、お母さんは予想通り喜んでくれた」


 ——はるかなら、そう言ってくれると思った。そのうち慣れるから、大丈夫。お母さんもお父さんも、はるかのこと応援してるからね。


 ニコニコと遥の手を握りながら母親は言った。その後、スーパーに寄ってお菓子を一つ買ってくれたのだという。

 遥の機嫌を取るためだったのか、はたまた自分の中の罪悪感を和らげるためだったのか——。


 いや、罪悪感を抱けるような人間は、そもそも望んで引き取った子どもを子カフェで働かせたりしないだろう。

 はるかを引き取ったのは、子どもに金を稼がせるためだったのだ。


 やっぱり『子カフェ』や『赤カフェ』などという施設の誕生は、子どもを不幸にするものでしかなかった。

 こんな場所ができてしまったから、遥みたいに苦しむ子が存在するんだ。


 「私が子カフェでお金を稼げば稼ぐほど、お母さんとお父さんは喜んでくれた。学校のテストで百点を取っても賞状をもらってきても、まったく喜ばない二人が……私が何をしても無関心の二人が、私の給料がちょっと増えると、満面の笑みを浮かべるの。今月は頑張ったね、この調子でよろしくね、はるかならできるよ——ってふうに元気付けてくれて……私が運んできてくれるお金が、二人にとって何よりの関心ごとだった。むしろそれ以外は、私に対して何の感慨も興味もない、って素振りで……」


 遥は賢い子だ。わりと早い段階から、両親に愛されていない、と察していたのではないか。

 しかし、わかっていても受け入れられないことがある。


 「あ、私搾取されてるんだ、ってわかった。さすがにね。でもそれを認めるのはすごく勇気がいることだった。自分が親から一ミリも愛されていない、金のなる木としか思われていない、って認めるなんて、死んだ方がマシな気分だった」


 ある日、遥は母親に訊いてみたのだという。

 『私がカフェで稼いだお金って、一体どうしてるの?』

 と。


 「その質問をされた瞬間、お母さんは明らかに目を泳がせて動揺してた。それで、ちょっと間を置いてから答えたの」


 『あのお金はね、遥の将来のために貯金してるの。子どもを育てるのはね、とにかくお金がかかるのよ』


 そう答えた母親は、目を限界まで細めて機嫌が悪くなったことを、あからさまに遥に示してみせた。


 「はるかが将来困らないために、私たちも色々考えてるの。だからはるかは何にも疑わないで。……お母さんは、そう言って釘を刺した」


 もう二度とそういうことを口にするな。このまま黙って、私たちの思い通りにだけ動け。

 そういった脅しを、女は無言のうちに行ったのだ……。


 それでも遥は、

 「私の将来のためにって、大学の費用とかを貯めてるってこと?」

 と掘り下げたらしい。


 「まあ、そんな感じよ、ってそこからは曖昧に誤魔化した。しまいには、あなたは子どもだから、難しいこと言ってもわかんないでしょ、とか、そもそもあなたがここにいるのは、私たちのおかげなんだから、そんなくだらないこと気にしてる暇あったら、もっと感謝しなさいよ……って怒られた」

 「酷い!」

 「でも実際、施設にいた時よりはうんとマシな生活を送らせてもらってたの。あそこでは、ずっと他の子どもたちや、いつ怒鳴り出すかわからない先生に怯えながら過ごしてたから……あそこから連れ出してくれた二人には、いくら感謝しても足りなかった」

 「でも……でもさ……」

 「最低限の生活は保証されてるから。シャワーも毎日浴びれるし、服だって買い与えられてる」


 だから、お母さんが言うほど酷い家庭でもないのかもよ、と引き攣った笑顔で言う遥。

 私は、初めて遥を見た時のことを思い出した。


 遥は、時代遅れの赤いランドセルを背負っていた。よくよく思い出してみると、あのランドセルは細かい傷がいくつかついていたし、全体的に色褪せていた。

 あれは、遥のために購入したものではなく、親のお下がりなのではないか。


 遥自身を綺麗にするのは、カフェに来る客に好印象を与えるため。そうしないと自分たちが困るから、身だしなみをきちんとさせているだけで、本当のところは遥には極力お金をかけたくない、と思っている。

 その例の一つが、古びたランドセルなのだ。


 目の前の遥を見つめる。

 十分な潤いに満ちた肌。艶のある髪。さっぱりとした上等の服。

 どこからどう見ても、両親に目をかけられている育ちの良い子どもにしか思えない風貌。そんな見た目とは裏腹に、望みをなくしたような、半分諦めかけているような憂いを帯びた瞳が、見る者にとってアンバランスな印象を抱かせる。


 一体どれだけの不幸を背負って、ここに存在しているのだろう——観察力のある人間にそう思わせるような何かが遥にはあった。

 深い悲しみが、彼女を大人びた印象にさせていた。


 何も言わずに、ミルクのように真っ白な頬をそっと撫でる。

 遥は驚いた様子もなく、黙って受け入れていた。


 予想していた通り、すべすべで柔らかく、いつまでも撫でていたい触り心地だった。

 よく手入れしているのだろうか。遥にそれを訊くと、

 「毎日化粧水つけてるから……お母さんに言われて」

 と返ってきた。

 化粧水の名前を聞いて、驚愕した。私が使っている化粧水の三倍の値段のものだったからだ。


 なるほど遥は、確かに両親から大切にされているようだ。

 品物として愛されている。


 遥を“娘“として大切にできるのは、私しかいない。


 「遥はこのままでいいの?」

 「このままじゃいけないってことはわかってる。というか……私自身、もう耐えられそうにないし」

 「両親から離れられない理由が、引き取って育ててくれた恩から来てるのなら、そんなもの気にする必要はない。二人が打算から遥を引き取ったのは、もうわかってるんでしょ?」

 「……うん」

 「それがわかってて、それでもまだ二人と一緒にいたいって思う?」

 「ううん。これ以上一緒にいても、苦しみが続くだけだって知ってる。私はもうあの二人とは暮らしていけない」

 「じゃあ、私のところに来ない?」


 遥が目を見開く。


 「うちの子にならない? 本当の娘になってほしいんだ。絶対に後悔はさせないから」


 遥の手を両手で包み込むように握り、至近距離で目線を合わせる。

 遥は、私の瞳から逃げるように、視線を彷徨わせた。


 「……そう言ってくれてすごく嬉しい。そこまで私を思ってくれて、本当にありがとう」

 「私、本気で言ってるんだよ? 一時の衝動に流されて言ったわけじゃない。今までの大人たちと私は違うから」


 本当に本当だよ、と念を押すと遥は、

 「本気なの? 本当に私を“お母さん“の子にしてくれる?」

 と今にも泣き出しそうな顔で尋ねてきた。


 「本気だよ。遥さえ良ければ、私の娘になって」

 「お母さん……」


 私の胸に頭をもたせかける遥。泣き顔を隣の部屋の監視員に見られないように、こっそりと感激に浸っている。


 「私も。私もお母さんといたい。あなたの家の子になりたい……」

 「じゃあ——!」

 「でも無理なの」


 その言葉で、希望に満ちていた表情が固まる。


 「あの二人が許してくれるわけがない……」

 「でも、この仕事は12歳までしか続けられないでしょう。子カフェで働かせられなくなったら、あっさり手放してくれるんじゃ……」

 「12歳になったら、二人は私に別の仕事をさせるつもりでいるの」


 深夜に二人が話し合ってるのを聞いたんだ。

 遥が私の胸に、ぐりぐりと頭を擦り付ける。その時の記憶を抹消しようとするかのように。


 「お父さんの知り合いに、写真を見て私を気に入ってくれた人がいるんだって。……お父さん『はるかは幼いけど、マニアは大金を出すからな』って笑ってた」


 私は、何も言えなかった。

 遥に顔を見られなくて良かった。きっと今の私は、とんでもない形相をしているだろうから。


 子どもとしての需要がなくなったら、今度は女として遥を売り出すつもりなのだ、遥の両親は。

 子カフェで働けなくなったからといって、解放してくれるような甘い奴らではなかった。

 搾れるだけ搾り取るつもりだ。遥が抜け殻のようになる極限まで。


 信じられない。信じたくない。人間のすることじゃない。まさに鬼だ。鬼の所業だ——。

 そんな奴らに、遥はずっと搾取されて生きてきたのか。


 「遥! ごめん。ごめんね……今まで気づいてあげられなくてごめん……もっと早く私があなたを見つけあげられていれば……もっと早くあなたを救えていれば……」


 遥は、ずっと地獄で戦っていた。一人ぼっちで。

 本当にごめんなさい。

 でも……まだ間に合う。

 今ならまだ助けられる。純粋さを失う前に、遥を地獄から引き上げることができる。


 「遥。大丈夫だから。大丈夫だからね……。私に任せて。私が絶対、遥を助けてあげるからね」

 「無理だよ……絶対に無理……」

 「今まで、周りの大人たちに相談とかしなかったの?」


 それこそ児童相談所に今の話をすれば、あいつらは一発でアウトな気がするのだが……。


 「他の人に口外なんてできるわけない。自分が……その……売られそうになってる、なんて。そんなこと言ったら、私は一生事情を知ってる大人たちから、いかがわしい目で見られる。そんなの耐えられない。それに……孤児になったら、またあの施設に逆戻り。前にいた施設は嫌だ、って言えば、違う場所にしてもらえるかもしれないけど……でもどうせ、どこも似たような感じに決まってる」


 絶望することに慣れすぎたのだろう。

 もはや抗う力も尽きたのか、遥は降参したように言った。


 「“お母さん“だから、話せたの。お母さんなら、私の全部を受け入れてくれる気がして……」

 「うん。うん。私は、何があっても遥の味方だからね。遥のためなら何だってできるんだから」

 「本当に? 私のためなら何だってできる?」

 「うん。何を犠牲にしてもいい。それで遥が幸せになれるのなら」

 「じゃあ——じゃあ、二人をどうにかしてくれる?」


 私の胸に顔を押し付けたまま、遥が言う。

 私は、間をおかずに答える。


 「もちろん。必ず私が何とかしてあげる」


 瞬間、遥が安心したのが、ハッキリと伝わってきた。

 あなたのためなら、何だってできる——。

 私は母親なんだから。


 何だってやってやる。

 それが殺人だとしても。

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