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子カフェ  作者: 絶対完結させるマン
彼女のこと

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いじめ

 この日、事件が持ち上がった。

 あるかちゃんのロッカーに、犬のフンが入れられていたのだ。


 あるかちゃんは8歳の女子で『チルカフェ』では半年くらい働いているらしい。

 そのあるかちゃんのロッカーに、犬のフンが剥き出しの状態で入っていた。


 あるかちゃんがそれに気づいて悲鳴を上げたのは、夕方6時半ごろ。私が流夢ちゃんと話していた時から大体30分後になる。


 一体いつから入っていたんだろう? 私が控え室に入った時は、特に何も感じなかったけど……。

 まあ、ロッカーに入っていたんなら、匂いに気づかなかったのも無理ないか。


 「誰! 誰がやったの!」

 閉店後の店内で、あるかちゃんが喚き散らす。


 こんな調子なので、あるかちゃんは今日一日仕事にならなかった。

 メインフロアで何もせずにじっと座っているのが精一杯で、お客さんと話したり触れ合ったりなんかは、とてもできる状態じゃなかった。


 この日、閉店の時間まで働いていた子どもは、みんな店長さんにメインフロアに集められた。私もそうだった。

 何か知っている子、何か心当たりがある子はいないか聞きたいのだという。


 みんな、ざわざわと落ち着かない様子だった。

 ふとこんな会話が聞こえてきて、ギョッとする。


 「まただよ」

 「次はボクがされるかも。嫌だなあ……」


 こんなことが前にもあったの!?

 信じられない。だって犬のフンだよ!?


 こんなことをやる子が、このカフェの子どもたちの中にいるんだ。

 一体どんな子なんだろう……。きっと一番意地悪そうな顔をしている子だろうな。


 集められた子どもたちを見回しても、感じの良い優しそうな子しかいない。

 ヒソヒソ声の中から、こんな会話が聞こえてきた。


 「今回は店長、あるかちゃんの味方をするよ。前にあれをされた子は、売り上げが低かったから無視されたけど」

 「前は『たまたま入っちゃったんじゃないか? もしくは自分で持ってきたのを忘れたんだろう』って嫌がらせなんてあるわけないだろ、って感じだったからね」

 「うわ、今の話し方店長そっくり。こんな時に笑わせんなよ」


 離れたところにいる店長さんを、チラリと見る。

 そんなに酷いことを言う人には見えない。


 「誰がこんなことやったんだ!」

 店長さんが唐突に叫ぶ。


 本当に頭に来ている、というよりも、私たちを怖がらせるために怒っているらしかった。


 「店長さん」

 こんな時に笑わせんなよ、と言っていた男子が手を上げる。


 「たまたま入っちゃったってことはないですか? もしくは自分で持ってきたのを忘れたとか」


 真面目な顔をしていたけど、明らかに面白がっている。その子の隣にいた男子が下を向いてしまった。ニヤけた顔を見られまいとして。


 店長さんは、顔を真っ赤にして怒鳴った。


 「そんなわけあるか! 普通に考えてありえないだろ! ふざけたこと言うんじゃない。馬鹿かお前」


 下を向いていた男子が、変なくしゃみをして、それから2、3回咳きをした。


 「誰も何も知らないのか? 本当に? ……ったく! とんでもないことをするやつがいるもんだな!」


 店長さんは一通り喚き散らした後、あるかちゃんの肩に手を置いて、猫撫で声で言い聞かせた。


 「ロッカーは交換しよう。もう二度とこんなことが起きないように俺も頑張るから。何か起こった時は、すぐに服店長さんに相談するんだぞ。みんなあるかの味方だからな」


 あるかちゃんの納得いってない顔を、みんなが見た。


 「ああ、今回はこうなったんだ」

 「早く帰れそうでよかった」


 すぐ近くから、安心した気配を感じる。

 みんなあまりにも慣れた様子なのが、恐ろしかった。


 「あるかちゃんの()()()()なら、店長の態度もまあこんなもんだよね」


 ませた口調で誰かが囁く。


 その()()()()とは、何なんだ。

 店長さんが、売り上げで子どもを差別しているとでも言うのか?


 売り上げの低い子なら、どんなに酷いいじめをされても無視で、逆に売り上げが高い子には親身になる——そんなことを大人がやってもいいの?


 施設の先生を思い出す。一年生の頃の担任の先生も。

 自分のことでいっぱいいっぱいな大人たちは、子どもにあたるものだと私は知っていた。


 店長さんも、そう見えないだけで、とても苦労しているんだろうか。

 でも、辛くあたられる子どもの身になってほしい。自分が大変なら他の人にあたってもいい、が許されるなら、何でもありになっちゃう。


 「じゃあ解散! みんな早く帰って帰って。あんまり帰りが遅くなると、俺が親御さんに文句言われる……」


 頭をガシガシかきながら、店長さんは裏に引っ込んでいった。

 これでいいんだ……。


 あるかちゃんは、悔し涙を流して、歯をギリギリといわせている。

 怖がって誰も近づこうとしなかった。




 そんなことがあった次の日、今度は流夢ちゃんが悲鳴を上げた。


 「なんで私が交換しなきゃいけないの!」


 ロッカーは交換しよう、と店長さんが言っていたけれど、まさか別の子に使わせるつもりでいるとは思いもしなかった。


 空いているロッカーとかないの? 犬のフンが入っていたロッカーなんて、誰も使いたくないに決まってる。


 ちなみに、持ってきた荷物をロッカーに入れずに、適当にそこら辺に置く——というのは禁止されている。

 忘れ物や失せ物の原因になるから、と店長さんからは言われている。


 店長さんから"いけにえ"に選ばれたのは、流夢ちゃんだった。

 あるかとロッカーを交換してあげろ、と言われたのだと。


 「ぜっったい嫌! なんで私があんなロッカー使わなきゃいけないの! 私絶対に使わないから! あるかちゃんが使えばいいじゃん! なんで私がこんな目に遭わされるの!?」

 「私だって嫌だよ! あんな汚いロッカー使えるわけない!」

 「ちゃんと副店長さんに洗ってもらったんでしょ!? もう大丈夫だって! 犬のフンくらいどうってことないでしょ!?」

 「じゃあお前が使えばいいだろ!!」


 二人がキンキン声で言い争う。

 口喧嘩を聞きつけた副店長さんが、泣きそうな顔で控え室に入ってきた。


 副店長さんは、二人の間に入ってなんやかんや言っていたが、やがて流夢ちゃんがロッカーを使うべき、という意見を口にした。


 「いやだあああぁーーーー!!!」

 流夢ちゃんが、ジタバタと手足を振り回す。


 あるかちゃんは、もうどこかに消えていた。副店長さんは、お手上げというように天を仰いだ。

 流夢ちゃんは、いよいよ癇癪を起こして床に転げ回って、いやだいやだ、と暴れる。


 副店長さんの何かが、ブチっと切れた。


 「じゃあ、クビだから!」

 「クビ……?」


 流夢ちゃんの動きがピタリと止まる。

 クビ、という言葉は、流夢ちゃんを大人しくさせる呪文だったみたいだ。


 「だってそれしかないよね! そんなにいやならやめてもらうしかないよ! そんな猿みたいな子は、うちにはいらないから!」


 そう叫ぶと、副店長さんは床に崩れ落ちて顔を覆って泣き出した。


 「もうやだ……!」


 流夢ちゃんはといえば、真っ青になってガタガタ震えている。

 次の瞬間、床に正座してガバッとおでこを床につけた。土下座だ。


 「ごめんなさい! もういやだって言わないし、ロッカーも使うから、クビにしないでください! お願いします!!」


 『でもママが喜んでくれるから』


 流夢ちゃんは、お母さんに怯えている。

 子カフェでたくさん働いてほしいがために、学校にも通わせてくれないお母さんだ。クビになったなんて言ったら、何をされるかわからない。


 私はどうなの?

 私も流夢ちゃんと同じじゃないの? あくまでも勧められて来たと思っていたけど、本当は私も——。


 そこまで考えて、慌てて首を振った。

 違う。私は違う。子カフェに行くって決めたのは私だ。

 私は無理やり働かされてなんかいない。


 結局、流夢ちゃんは犬のフンが入っていたロッカーを使うことにした。


 「なんで私が……よりによって……こんなことになるってわかってたら……」


 ブツブツ言いながら、手提げ鞄を押し込む流夢ちゃん。


 静かになったことを感じ取ったあるかちゃんが、控え室に戻ってくる。

 気まずそうな気配を微塵も感じさせずに、元々は流夢ちゃんの場所だったロッカーにツカツカと向かう。


 私はハラハラと二人を見守っていた。

 よりにもよって、流夢ちゃんとあるかちゃんのロッカーは隣同士だった。

 今、二人は肩が触れ合いそうな距離にいる。


 流夢ちゃんは、一時停止したかのように瞬き一つしない。

 あるかちゃんは、さっさとランドセルを入れると、くるりと身を翻した。


 そして、肩越しにチラッと流夢ちゃんを見て——不思議そうな表情を浮かべた。


 「ねえ」

 あるかちゃんが呼びかける。


 「なんでそんな変な置き方してんの?」

 流夢ちゃんの肩がビクリと動いた。


 その変な置き方というのが気になって、そろりそろりと流夢ちゃんの背後に回る。


 手提げ鞄は、ロッカーの奥の奥にピンと立てるようにして置いてあった。

 犬のフンがあったのだから、できるだけ鞄をロッカーにくっつけないようにしたいのはわかる。


 「手前でもいいじゃん。奥の方だったら取り出しにくいし、普通手前にしない?」


 あるかちゃんが、疑問に思っていたことを代わりに言ってくれる。


 「い、いいじゃん。どんな置き方しても。関係ないでしょ」


 流夢ちゃんは目を泳がせて、ロッカーの中を隠すように座り直す。

 どう見てもあやしい。


 「フンは手前の方にあったんだけど。あんたもしかして——それを知って奥に置いてるの?」

 「は……知らない。知らないよ、そんなの」


 知らない、と言い切ったのは流夢ちゃんにとって失敗だった。

 「そうなの。掃除をしたっていう副店長さんに聞いたんだ」

 とでも言っておけば、逃げ切れただろうに。


 流夢ちゃんの答えは、私たちにあやしい、と思わせただけだった。

 あるかちゃんが、トゲトゲした口調で追及する。


 「知ってるからそんな置き方してんでしょ。嘘つかないで」

 「う、嘘じゃない! 嘘じゃないもん! ホントだもん!」


 ますますオロオロとする流夢ちゃんと、怒りのオーラを強くするあるかちゃん。


 「あんたが入れたの?」

 「え……」

 「あんたが入れたんだ! 私のロッカーに犬のフン入れたのあんたでしょ!」


 流夢ちゃんの顔色が、紙のように真っ白になる。

 それは正解と言っているようなものだった。


 「何してくれんの! 汚い! よくそんなことできるね!」


 よくそんなことできるね、という言葉には、よく犬のフンなんて持って来れるね、とよくそんな酷い嫌がらせできるね、という二つの意味がこもっていた。


 「あ、そういえばあんたの家、犬飼ってたよね! 前に自慢げに写真見せてくれたっけ。そいつのうんこ持ってきたんでしょ!」


 目を三角にして、流夢ちゃんの肩をドンッと押す。

 流夢ちゃんはあっさりとよろめいて、床にペタンと尻餅をついた。

 きっと今の流夢ちゃんの頭の中は真っ白になっている。声も出せずに目線もどこか遠くを向いている。


 「ホントによくこんなこと思いつくよ! 大人しそうな顔して、やり手のいじめっ子みたいな嫌がらせ思いつくんだね!」


 あるかちゃんは、そこまで叫んで何かひらめいたみたいで、パンッと手を叩いた。


 「もしかしてママのアイデア?」

 「あ……あ……」

 「やっぱり! そうなんでしょ。大好きなママに言われてやったんでしょ!」

 「ちがう……ちがう……」

 「違わない! 先月の給料私の方が上だったから、ママにやれって言われたんだ! 私をいじめてカフェから追い出せ、って!」


 親が子どもに、いじめをやりなさい、と命令することがあるなんて……。


 「そんなことあるの?」

 口をついて出てしまっていた。二人が同時にこっちを見る。


 「流夢ちゃん。お母さんに言われてやったの?」

 「そうだよ!」


 流夢ちゃんじゃなくて、あるかちゃんが答える。


 「こいつのママ、小学校低学年の子の中では、自分の娘が一番給料が高い、っていうのが自慢だったんだ! うちの子は他の子よりも人気があるんだ、稼げるんだ、って! 『同い年の子には絶対に負けないで』ってプレッシャーかけられてんの。なのに先月は私に給料負けちゃったから——きっとカンカンに怒られただろうね」


 あるかちゃんの話を、私は海の向こうの物語みたいに感じていた。


 抱っこコースや一緒に遊ぶコースは、できるだけ均等な回数になるように調整されている。給料に不公平な差が出ないように。


 給料に差が出るとしたら『指名コース』を頼まれた数だけ。

 どれくらいお客さんから『君がいい』と求められたか。

 それが給料の多い少ないを分ける。


 そして、一番給料が多かった人は『ナンバーワン』として月の終わりに表彰される。

 あとは、お店のホームページやインスタで『当店で一番人気』という見出しと一緒に、デカデカと写真がアップされる。


 それで気になったお客さんが、さらにナンバーワンの子を指名して——という流れだ。

 一部の子たちは、何かに取り憑かれたようにナンバーワンを目指している。


 今のところ、明奈という子がナンバーワンだ。先月もそのまた先月も、その子が一番だった。


 流夢ちゃんは『ナンバーワンは難しいけど、せめて同い年くらいの子の中では、一番人気でいるように』とお母さんに言われているらしい。


 我が子に金を稼がせて、学校に行かせないだけでも信じられないのに、我が子にいじめをするように強制する親がいるなんて、作り話だと思いたい。


 流夢ちゃんに「犬のフンをロッカーに入れなさい」と命令した時のお母さんの顔は、どんなふうだったんだろう。


 「給料負けそうになったからって、子どもにこんなことさせるなんて! あんたの親、頭イカれてんじゃないの!? 病院行けよ!」

 「やめて! ママはイカれてないもん!」


 お母さんの悪口を言われた途端、流夢ちゃんの顔が怒りに染まる。

 でも、私もあるかちゃんと同じ意見だった。

 流夢ちゃんのお母さんは、頭がおかしいとしか思えない。


 自分の子どもに、手を汚させて堂々としている親なんて——。


 『子カフェにいる子どもの親は大体クソ』


 ネットで見た記事に書いてあった言葉を思い出す。


 そんなことない、そんなのレッテル貼りだとハッキリ言えない現実が、やっぱりあるんじゃないか?

 流夢ちゃんのお母さんみたいな人は、たくさんいるんじゃないか——。


 かわいそうだ。


 いくら酷いことをされても、自分の願いを何一つ叶えてもらえなくても、それでもママが大好きな流夢ちゃんが。

 ママが悪いのに、ママを庇おうとする流夢ちゃんが、いじらしくてたまらない。


 その後、流夢ちゃんとあるかちゃんは、取っ組み合いの大喧嘩になりかけたけれど、私が副店長さんを呼んできたおかげで、大したことにならずにすんだ。


 「流夢ちゃん……大丈夫?」

 おずおずと顔色を窺う。


 「大丈夫。はるかちゃんのおかげで痛い思いしないですんだよ。ありがとう」

 「いや、それもあるけど。そういうことじゃなくて……」


 お母さんのこと大丈夫? 誰かに相談してみたら?


 だっていじめっ子にさせられたんだよ。

 いじめは絶対に良くないことだって、学校で散々言われてきた。その割には、学校内でのいじめはたくさんあるけど……。


 私だったら、流夢ちゃんみたいなことはとてもじゃないけどできない。

 罪悪感でいっぱいになるはずだから。きっと何日かは引きずって、生きててごめんなさい、とふとした瞬間に土下座したくなるだろうな。


 流夢ちゃんがその地獄の苦しみを味わうことを思うと、気の毒になった。


 「つらいでしょ? お母さんに言われたから泣く泣くやったんだよね」

 「はるかちゃん……」

 「こんなことするの、嫌で嫌でたまらなかったんでしょ?」

 「うんっ……! ほんっっとうに嫌だった!」


 気持ちを吐き出してくれたことにホッとする。


 吐き出すだけ吐き出して、楽になってくれたらいい。

 悪いことをした後っていうのは、すごくしんどくなるから。


 だからせめて「あんな酷い嫌がらせ、私はやりたくなかったの」と私にぶつけてくれれば——。


 「本当に嫌だった! 犬のフンを鞄に入れて持ってくるの!」

 「…………え?」

 「最悪だよ! いつもは散歩の時にその辺にさせて、そのまま帰るんだけど……一昨日ママに『今日はルルのうんち、袋に入れて持って帰ってきなさい』って言われて。汚いじゃんそんなの! うんちなんて、スコップでつつくのすら嫌なのに……」


 その時の不快さと、袋に入ったフンを鞄に入れて持ち歩かなければならなかった辛さを語る流夢ちゃんを見て、私はポカンとしていた。


 「えっと……そういうんじゃなくて。あるかちゃんに申し訳ないな……とか、そういうこといっぱい考えてしんどかったんじゃないの?」

 「……?」


 流夢ちゃんは、言われていることがわからない、というように首をかしげる。


 「だってその……流夢ちゃんがあるかちゃんにしたことは、いじめとか嫌がらせのうちに入るよね? しかも結構酷めの」

 「そうだね」

 「それがわかってて、なんで——だって……いじめは最低な行いなんだ、って学校でさんざん言われてきたじゃ——」


 そこまで口にして、あっ、と気がつく。

 流夢ちゃんは、学校に行っていない。それどころか、幼稚園すらまともに行っていない。

 ママが辞めさせちゃったから。


 流夢ちゃんを"教育"しているのは親だけ。

 ママの教えを呑み込むことしかできない状況が、ずっと続いてきたんだ。


 家の中だけの狭い世界。そこで流夢ちゃんは、閉じ込められるようにして育ってきたんだ。

 背筋が凍る。


 いじめは絶対にやっちゃいけないよ、と教えてくれる人が、流夢ちゃんの人生にはいなかったんだ。うんと小さくて狭い世界で暮らす流夢ちゃんは、そんなことすら知らない。


 流夢ちゃんの一生は、なんでもママの思うがままだ。

 何を教えるも教えないも、ママの気持ちひとつで全てが決まる。


 間違った教育で、流夢ちゃんをめちゃくちゃな人間にすることも簡単だ。

 例えば『いじめはそんなに悪いことじゃない』とか『悪いことをしてもバレなきゃいいんだ』みたいなことを吹き込めば、悪人はできてしまう。


 私は施設という色んな人たちがいる場所で育ってきた。学校にも行っていた。

 大勢の人の中では、私は息苦しさを覚えるだけで、何もいいことなんてない、と思っていたけれど、それはそれで恵まれていたのかもしれない。


 今、流夢ちゃんとの圧倒的な差を前にして、そんなふうに思った。

 良くも悪くも色んな人たちが生活する只中にいた私と、家と子カフェ以外の場所を知らない流夢ちゃんとでは、住んできた世界が違う。


 「流夢ちゃん……お母さんとはさ——」

 「おい、はるか!」


 見れば入り口で、店長さんが怖い顔をしていた。


 「時間過ぎてるぞ! 早く店に出ないとダメじゃないか! 何のんびり無駄話してんだ!」

 「ごっ、ごめんなさい! すぐ行きます!」


 店長さんは「クソっ、どいつもこいつも……」とぼやきながら去っていった。

 店長さんってあんな感じの人だっけ?


 あんまり怒鳴ったりしなさそうな、どちらかと言えば優しそうな人——面接の時はそう思っていたんだけど。


 裏表のある人はすごく苦手だ。機嫌が悪い時は一気に怖い人に変身するタイプの大人は学校にもいるけど、私はああいうタイプの人の前に来ると、しどろもどろになってしまう。


 今のところは機嫌良さそうだけど、急に悪くなるかもしれない。私が放った何気ない一言が火種になって、一気に燃え上がってしまうかも。

 ぐるぐるとそんなふうに考えて、真剣勝負の真っ最中のように緊張してしまう。


 常に怒りっぽい人の方がまだ気が楽だった。ジェットコースターみたいな人は、たとえ優しくされてもビクビクと落ち着かない。


 結局、流夢ちゃんに何も言えないまま、その日は終わってしまった。


 「お母さんと離れた方がいいんじゃないかな」


 そう言ってみるつもりだった。

 流夢ちゃんのお母さんは、話を聞くだけでもヤバい人だってわかる。


 本人が行きたい、と強く言っているのに、子どもを学校に行かせない。

 子どもに『一番』であることを強制させる。

 嫌がらせを止めるどころか、やれと指示する。


 このままじゃ流夢ちゃんは、ヤバいお母さんの言うことを素直に聞いたばっかりに、ヤバい大人にさせられてしまう。

 まだ間に合うはず。流夢ちゃんをお母さんから助けなきゃ。




 そう決めたのに、あれから流夢ちゃんに近づくのは難しくなってしまった。

 今度は流夢ちゃんがいじめられる側になったから。


 流夢ちゃんがロッカー事件の犯人だってことは瞬く間に広まって、翌日には子どもたち全員が知っていた。


 子どもは、うんちとかおしっことか、そういうワードが本当に大好きだ。特に男子は。

 そういう言葉で誰かをからかうのも。


 『犬のうんこ持ってきたやつ』として、流夢ちゃんは特に男子たちから、やいのやいのと囃し立てられた。


 きったねー、あ、うんこ女がきた。うわ、なんかこの部屋臭くね? あいつがいるからじゃん。また犬のフン持ってきてんじゃね? てかいつも持ち歩いてんじゃねーの。マジでイカれてんなー。


 ——などなど、流夢ちゃんを見ただけで、男子たちは面白半分に言うようになった。


 「なんかこの部屋臭くない?」と控え室で言うのは女子も同じで、今度は私がされたらどうしよー、と大声で言う子もいた。


 こんな空気で流夢ちゃんに話しかけたら、私まで何か言われることは分かりきっていた。


 あいつもうんこ女の仲間なの?

 うわ、あいつ流夢に話しかけたよ。流夢菌がうつったー。


 こんな感じにからかわれるのは想像できた。

 実際に『流夢菌』という言葉は、男子たちの間で毎日飛び交っていた。

 何とか菌、というワードも、男子は本当に好きだ。


 〇〇に触っちゃったー、ヤベー〇〇菌がうつったー、とか本当に好きだ。それを言いたいがために、わざわざ嫌いな奴に触りにいく。


 流夢ちゃんは、男子たちからはそういうふうにいじめられていた。

 女子たちからは、こっそりと持ち物に落書きされていたり、物を隠されたりしていた。


 落書きは、うんこのイラストかそれに関連した悪口だった。

 物は、いつもわかりやすい場所に隠されていて、少し探せば必ず見つけ出せる絶妙な場所にあった。


 流夢ちゃんの筆記用具や時には手提げ鞄が、丸ごとゴミ箱に入れてあった。流夢ちゃんは、黙ってゴミ箱をあさってそれらを取り出す。その姿がまたからかいのタネになる。


 荷物がゴミ箱に入れられていた、と訴えても、何かの拍子に間違って入っちゃったんだろう、と言われるのかな。


 見つけ出せないならともかく、なんだかんだちゃんと手元に戻ってくるんだったら、店長も真剣になってくれないのだった。

 落書きの件も、流夢ちゃんがやったことに関する悪口だったら、お母さんに見せることもできない。


 流夢ちゃんが黙って耐えるしかないギリギリのラインを狙っていじめるのだった。

 明らかに流夢ちゃんのことを言っているのだとわかる言い方で、本人に聞こえる声の大きさで、言いたい放題言う子も多かった。


 流夢ちゃんが何か言ってきたとしても、

 「急に何? 別にあんたのこと話してるわけじゃないんだけど」

 とシラを切れるこのいじめ方は、女子たちの間で大人気だった。


 あるかちゃんは、この状況に大満足だった。


 あるかちゃんは、女子たちから「かわいそう!」と口々に慰められた。

 かわいそう、の後は、マジで許せないよね、とか、ホントに酷いよね、という流夢ちゃんを責める言葉が続く。


 あるかちゃんがかわいそうだ、という慰めは、流夢ちゃんを責めるためだけに使われるもので、言ってみれば跳び箱の踏み台のようなものだった。


 流夢ちゃんを存分に責め立てる流れに持ち込むための、お飾りの言葉。

 そこに込められているのは、あるかちゃんへの思いやりじゃなくて、流夢ちゃんへの嫌悪だった。


 流夢ちゃんは、仕事中でもあまり笑わなくなった。笑えなくなった。

 明るく元気に愛想良く、がモットーのチルカフェで流夢ちゃんは浮いていった。


 一緒に働いている子どもたちからだけじゃなく、お客さんからも避けられるようになった。

 お客さんのあまりの冷たさに、私は暗い気持ちになった。


 ちょっと前までわざわざ流夢ちゃんを指名するほど熱心だったお客さんが、今は流夢ちゃんを見ても軽く挨拶するだけ。

 流夢ちゃんの元気がなくなって「どうしたの? 何かあった?」と訊く人は誰もいない。


 そこは普通心配するもんじゃない? と思ったけど、一緒に働いている子どもたちは、何も不思議には思っていないみたいだった。


 中には、流夢ちゃんがいつ辞めるかで賭けをしている子もいた。


 結局流夢ちゃんは、1か月後に店を辞めた。

 流夢ちゃんがチルカフェを辞めるまでの流れは、口には出せないほどに酷かった。

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