弟殺し
仕事を失って数日間は何もできず、家から一歩も出れなかった。学校にも行けずにボーッとしていた。
その間ずっと、春太は心配そうな顔をして、わたしにウロチョロとまとわりついた。それを追い払う毎日が続いた。
鬱陶しいったらありゃしない。
そもそも、全部お前のせいじゃないか。
わたしの金が、ほぼお前のせいで消えていた、という真相を知ってから、調子が崩れたんだから。
元凶は春太なのだ。こいつのせいで何もかも上手くいかなくなり、店を辞めることになってしまった。収入源が絶たれた。
店を出てから死んだようになっていた脳みそが、活性化していくのを感じる。
こちらをチラチラと見ている春太に「ねえ!」と怒鳴る。
「どっか行ってくんない。さっきからウザいんだけど」
「お姉ちゃ——」
「喋るな。ウザいウザい。うるさい、死ね」
春太の目から、ポロポロと涙が溢れる。これまでに何回か叱られることはあっても、死ね、と言われたことはなかった。
明らかにライン超えをしている暴言を吐かれて、春太は火がついたように泣いた。
うるさくてかなわないので、わたしの方から家を出ていった。
適当に歩いていると、以前夜に家を飛び出した日に辿り着いた公園が見えてきた。
なんだか運命を感じて、またボーボーの草をかき分けて公園内に入っていくと、あの時と同じように、たくさんの猫が集まっていた。
夜だけじゃなく、昼でも溜まり場になっているのか。
猫たちは人慣れした様子だった。乱入してきたわたしを一瞬見ただけで、あとはあくびをしたり毛繕いに励んだりと、伸び伸びと過ごし始めた。
わたしはこの前のように、地べたにどっかりと尻をつけ膝を抱え込む。
以前来た時はそこまで気にならなかったけれど、この公園本当に寂れてるな……。
公園の周りには、荒れ果てた一軒家が3軒あるだけで、あとは鬱蒼とした林が存在するだけだった。その林というのが、それこそ幽霊でも出てきそうな『本当にあった怪談話』に登場しそうな雰囲気なので、ここに猫しか集まらないのも頷けるのだった。
3軒の家は、空き家なんだろう。どの家も草が伸び放題になっているし、そのうちの一軒は窓ガラスが割れている。
あれらの家に誰かが住んでいた頃は、この公園もそれなりに人気があったのかもしれない。
こんなふうに“打ち捨てられたエリア“というのは、いっぱいあるんだろうな。そういう場所に普段近寄らないから実感が湧かないだけで。この場にいると、人口減少の影響を感じる。
都会だったら、バンバンとビルが立って、どこもかしこも騒がしいんだろうけど——都会だって人口は減っているはずだけど、少なくとも“寂れた雰囲気“を感じる機会は、そうないんじゃないか?
いつの時代も東京には人が密集する。その分、東京でないところはますます過疎化が進んでいく。
人が少ない土地に住んでいるだけで、ありとあらゆるチャンスをふいにしている気がする。せっかくの人生なのにもったいない、と思っているわたしがいる。
わたしの夢はまずは都会に出なければ、叶うことはないであろう夢だった。
だから何としても東京に行きたかったのに……。
涙が出てくる。ここ数日、怒り散らしたりすることはあっても、泣いたことはなかった。
泣いたからといって、気分が楽になることはなく、涙は悲しみを増長させるだけだった。
泣くよりも、怒ったり憎んだりする方が、わたしにとって何倍も楽だった。
何もかも、時間が解決してくれるんだろうか。今こんなに辛いのに、この先楽になる未来が訪れるなんて、とても想像できなかった。
「お姉ちゃん!」
思いがけない大声に、ギクリとする。
公園の入り口で、春太が立ち尽くしていた。
「春太——なんでここにいるの」
そう言ってから、わたしの後を着いてきたのだ、と気づく。
まったくわからなかった。後ろに注意を払っている余裕がなかった。
「心配でついてきちゃったんだ……。ねえお姉ちゃん、どうしちゃったの? お母さんと二人で夜に何か話してた日から、なんかおかしいよ……。ずっと怖い顔してるし……」
「別に。春太に言ってもしょうがないし。わかんないでしょ。わたしがどんなに最悪な気分か」
「でも……でも……。ぼく、いつものお姉ちゃんに戻ってきてもらいたいんだ。どうすればいい? 何でもするよ。だからお願い。帰ってきてよ……」
そう言って、その場でヒックヒックとしゃくり上げる。
「何もないよ。春太は何の役にも立たないの。こっちこそ頼むから、もう話しかけないで。放っておいて……さっさと家に帰ってよ……鍵だって、どうせかけてきてないんでしょ。あんた鍵持ってないもんね」
拒絶された春太はより激しく泣く。ワーッと喚き散らす感じではないが、ボタボタと落ちる涙と嗚咽が止まない。
わたしにまた怒鳴られるのを恐れるように、春太は入り口から一歩も動かず、公園内に入らないようにしていた。
その場で鼻水をズビズビいわせながら、小さな両手で大粒の雫を拭い続けている。
「春太」
呼びかけると春太は動きを止めて、一途な眼差しでわたしを見返した。
「こっちにおいで」
「え——」
「入ってきて。公園に。いいから」
「う、うん」
人慣れしていない小動物のように、恐る恐る近づいてくる春太。
「ここに座って。わたしの隣に」
ポンポンと隣の地面を叩くと、春太は大人しく腰を下ろした。
「どうしたの?」
「仲直りしたくて。さっき春太が泣いてるの見たら、わたしなんて酷いこと言っちゃったんだろう、って後悔したんだ。ごめんね。最近のお姉ちゃん、ダメダメだったよね。たった一人の弟にあんなに酷いこと——」
「気にしないでよ! お姉ちゃんも大変だったんだと思うし、ぼくは全然平気だから。それよりも仲直りしてくれるの? また一緒に遊んでくれる?」
「うん。これでもう元通りのお姉ちゃんだよ。今までごめんね」
「良かったあ……」
安堵の涙がじんわりと浮かび、締まりのない顔になる。怖い夢から覚めたような春太に、ニッコリと愛想の良い笑みを向ける。
「仲直りしたんだから、さっそく遊ぼうか春太。実はこの公園ね、猫がいっぱいいるんだよ」
「えっ、猫が? いっぱいって何匹も?」
あれほどいた猫たちは、春太の大声で散っていた。忍者のようにいつの間にか消えていたのだ。
「そう。1匹や2匹じゃないよ。さっきまでそこら辺をウロウロしてたんだから。すごく人に慣れてて、撫でても逃げないの」
「すごい! でも今は1匹もいないけど……」
「春太が大声出すから、ビックリしちゃったんだね」
「そうなんだ……残念だね……」
「でもしばらくしたら、また来ると思うよ。……ねえ、猫と遊びたくない?」
「遊びたい!」
春太の即答によし、とガッツポーズする。
「じゃあお姉ちゃん、家に帰ってお菓子とか遊ぶのに使えそうな道具とか持ってくるから。春太はここで待ってて」
「わかった。早く来てね!」
「うん。あ、そうだ。ちょっとくらい遅くなっても、ここから動いちゃダメだからね。迷子になっちゃうから。そうなったら探すのすごく大変だからね。お姉ちゃんと約束して」
「うん! 約束する!」
「ありがとう。春太はえらいね。……じゃあ、絶対に絶対にこの公園から出ないでね。約束だよ。もし破ったら、もう一緒に遊んであげないからね」
わたしがそう言うと、春太は何度も何度も力強く頷いた。
「わ、わかった! 絶対に守るから。絶対に! 絶対に絶対に何があっても、公園から出ないで待つからね!」
首がもげそうなほど、激しく頷く姿を見て、わたしは公園から出ていった。
家に入り、鍵をかける。
布団を敷いて、横になり目を閉じる。
ここのところ、寝てばっかりいるな。実際に眠れるかどうかは別にして、横になって寝ようとすることばかりしている。
やる気が出ないのだ。家事も適当になった。夕食がふりかけご飯だけ、なんて日が続いていた。何を食べても美味しく感じないのだから、それでも良かった。
春太は一回だけ「おかず、何もないの?」とおずおずと訊いてきたけれど、次の瞬間尋ねたことを後悔したように、
「いや、ふりかけご飯も大好きだから、嬉しいんだけどさ」
と箸を動かした。
春太を置いてきた。
外の様子をチラリと見る。
春太一人では帰ってこれまい。一眠りするのはいいが、暗くなる前には迎えに行かなければ。
ほんの意地悪のつもりだった。春太からしばらく遠ざかりたかったし。時間が経てば、少しは気分もマシになってくるだろうと思った。
春太にちょっと困ってほしかった。怖がらせたかった。
ささやかな仕返しだ。春太からすれば、理不尽極まりないことだけど。
わたしの復讐心は、まったくのお門違いだった。春太に罪はないのだ。
わたしは、何も悪くない幼い弟に一生許されないことをした。
辺りが夕焼けに染まり、そろそろ迎えに行くか——と家を出て、件の公園に向かった。
あの公園に行くのは、すでに三度目だ。今回はさすがにスムーズに辿り着いた。
「春太ー」
まず入り口のところで、呼んでみる。
特別な精神状態にない時には、草が伸び放題になった場所に、わざわざ踏み込んでみる気にはなれない。
わたしの心も、やっと落ち着いてきたところだった。それは春太にいい仕返しができたから、機嫌が良くなったおかげかもしれない。
しかしわたしの心は、落ち着いてきた矢先に新たなショックに見舞われた。
返事がないので、公園へと足を踏み入れる。
「ちょっとー、いないのー?」と不満そうな声で呼びかけながら。
確かに人の気配を感じない……。動かないで待っている、という約束を守らず、どこかに行ってしまったのか。
無理もない。ほんの5分か10分待てば、お姉ちゃんは来るだろう……と思っていたのに、1時間2時間経っても、来ないんだから。
幼い子どものことだ。怖くなって約束なんか忘れて、飛び出していくのが自然だ。
その可能性を考えていなかったわけではない。でも、物を紛失したわけではない。人間なんてその日のうちに簡単に見つかるはずだ、とわたしは思っていた。ましてや、幼児だから遠いところに行けるはずもない。
迷子になったとしても、すぐに誰かに保護されて、会えるだろう——そこまで考えを巡らせていた時に、子どもの足が見えたのだから、度肝を抜かれた。
草むらの陰からニョッキリと生えたその足は、間違いなく春太のだった。短い足が2本、平行に並んでいる。
どうやらうつ伏せの状態で、寝転んでいるらしかった。
生い茂った草のせいで、今のわたしの姿勢では、下半身より上は見えなかった。
しゃがみ込むと、全身が見えてくる。春太はやはり、うつ伏せになって眠っているのだった。土で汚れた後頭部とTシャツが見える。
泣き疲れて、眠ってしまったんだな。
ちょっと虐めすぎたかもしれない。
「おーい。起きてー」とむき出しになった春太の足を、手のひらでピシリとはたいた。
その瞬間、違和感に気づいた。
春太の足が、異様に冷たかったのだ。血が通っているとは思えないほど冷め切っていて、人体ではなく無機質な機械のようだった。
「春太!」
脱力した肩に手をかけて、揺さぶってみる。やっぱりだ。まるで体温を感じない……。
勇気を出して、体を裏っ返した。その顔を目にした瞬間、ギャッと叫び声が飛び出した。
春太の口元は、濁った液体によって汚れていた。すえた匂いで、それが胃液だとわかった。
そこで、胃液とは違う別の悪臭も漂っていることに気づく。
数秒後、その悪臭が大便だと察した。公園に入ってすぐには気づかなかった。春太はここのところ、ろくなものを食べていなかったから、臭いもそんなにしなかったのだろう。
「うっ……」
口を押さえて、へたりこむ。
どうして——どうしてこんなことになっているのだろう。なぜ春太は嘔吐したのだろう。下痢したのだろう。
わたしが離れてから、一体何があったのか。何があったら、ここまで春太の体に異変が訪れるのか——。
春太は目を閉じていた。眉間に皺が寄るほど、キツく瞼に力が入っていた。その形相を見ていると、苦痛がどれほどのものだったのか想像できる。
「そうだ……起こさないと……早く早く……」
口ではそう言いながらも、頭の片隅ではわかっていた。
春太は気絶しているのではない。
すでに死亡しているのだと。
それから、春太がいかにして病院に運び込まれたのかについてはよく覚えていない。とにかくいつの間にか救急車が来ていて、わたしは春太と一緒に乗った。
すぐにお母さんも病院に来て、放心したわたしに矢継ぎ早に質問を浴びせた。そのほとんどに、まともに受け答えできなかったと思う。
医師によって死亡が告げられた時、わたしは気を失った。
春太は死んだ、と確信に近い思いを抱いていたが、実は無事なんじゃないか……という希望をどこかで持っていた。
一縷の望みが断たれた時、目の前から光が消えた。
目が覚めてから、改めてお母さんに説明を求められた。
猫にやる餌や道具を持ってくるから、と言って、春太を待ちぼうけにさせたことを話すのは、とても苦しかった。
「でも日が暮れる前に、ちゃんと迎えに行くつもりだったんだ。ほんの数時間放置するだけだって……。でも迎えに行ったら、春太が倒れてて……。わたし、何が何だかわからなくて……。こんな大変なことになるだなんて、思わなかったの。死んじゃうかも、なんて全然思わなかった」
お母さんは厳しい顔をして、黙ってわたしの話を聞いていた。
永遠に続くかと思えた沈黙の後、お母さんは春太がなぜ死んだのかを、話してくれた。




