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子カフェ  作者: 絶対完結させるマン
私小説

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17/123

崩壊の時

 この先、お母さんが発する言葉次第で、わたしの人生が決まる——そんな予感がしていた。今この場で、わたしの今後の生き方が決定されるのだ、と。


 お母さんは、泣きそうな顔で膝に置いた自身の握り拳を睨んでいた。


 「まずは、ごめんなさい。お母さんはずっと明奈に嘘をついていました」


 畳に両手をついて、頭を下げるお母さん。


 その動作は、申し訳なさからというよりも、わたしと目線を合わせることが耐えられないからしたんじゃ……なんて邪推をしてしまう。瞬間、わたしはつまらない疑いを抱いた自分が、ほとほと嫌になった。


 今までお母さんのことは、この世で誰よりも信頼していたのに。

 はるかに植え付けられた疑心の種は、あっという間に成長して、わたしの心を埋め尽くした。


 「慰謝料の件は、間違いなくお母さんがでっちあげた話です。お母さんの昔の彼氏——春太の父親である男が実は既婚者で、そうとは知らずに世話になっていた、という事実はあったけど、相手の妻が乗り込んできて、お金を要求してきた、なんてことはまったくなかった」


 土下座をしたまま、話していく。


 「じゃあ子カフェの給料は、慰謝料の支払いに使っていたんじゃないのなら、一体どんな使い方をされていたのか? ……それは春太のために使われていたの」


 「春太のために——?」

 「春太は赤ん坊の頃、普通の子よりも体が弱くて……時には呼吸困難に陥ることすらあった。そんなんだから、治療費や薬代もかさんでいって——私の給料だけでは払っていけなくなった。そして、お金が底をつきて、とうとう借金することになったの」


 初めて聞く話だ。

 しかし、春太が体の弱い乳児だったことは確かで、しょっちゅう咳やくしゃみをし、熱を出していた。弱っている赤ん坊の姿が記憶に残っていた。


 わたしの給料は借金返済に使われていたのか。そしてその借金は、春太の健康を維持するためには必要なものだった。


 「早く言ってくれれば良かったのに。わざわざ嘘つくことなかったんじゃ……」

 「だって、本当のこと言ったら、姉弟の仲に亀裂が入るんじゃないかと思ったから。明奈が春太を嫌いになっちゃったらどうしよう、って。だったら私が過ちを犯した、ってことにした方がよっぽどいいと思ったの。春太が恨まれるより、お母さんが恨まれる方がマシだから……」


 姉弟仲睦まじく暮らしてほしい。

 そう願っていたから、お母さんは本当の理由を伏せていたんだ。

 春太がお姉ちゃんに嫌われるくらいなら、いっそのこと自分の“失敗“のせいにしてしまおう、と。


 お母さんに悪意があったわけではなかった。さっきからしきりに頭に浮かんでは消えていた、はるかの意地悪な顔が、意識の外へ飛んでいく。


 焚き付けられたからとはいえ、家族に疑いを抱いた自分が情けなくなる。

 良かった——と安心したのも束の間、新たな不安が胸を覆い尽くす。


 「それで——借金は返し終わったんだよね?」

 「返し終わった。けど……」


 浮かない声色に、不安のボルテージは最高潮に達し、今にも内臓が飛び出しそうになる。


 「でも借金を全部返し終わったのは、つい最近のことなの」

 「最近……それっていつ」

 「半年前」


 頭を目いっぱい振りかぶった金属バットで、ぶん殴られたみたいだった。それくらいの衝撃だった。

 わたしは悪夢の中にいるんだろう。今この瞬間のことが紛れもない現実だなんて逆におかしい。


 「ごめんなさい!」

 畳を突き破らんばかりに、額を擦り付けるお母さんの姿を、惚けた頭で認識する。


 「ごめん……! 本当に……本当にごめんなさい……! 許して明奈……!!」


 それしか言えないお母さんを、ボーッと眺める。現実感がなくなり、夢の中みたいに言葉の意味が上手く呑み込めなくなる。


 このままぼんやり時間が過ぎ去るのを待っていれば、夢は覚めて現実に帰れるだろうか。


 布団の中で目覚めたわたしは、自分が泣いていた事実に驚く。どんな恐ろしい夢を見ていたのか思い出そうとするけれど、結局何も思い出せないまま身支度を終える。

 そして、いつも通りに仕事に行って——。


 襖が開く音によって、妄想は打ち切られた。


 「お母さん? なんでそんなことしてるの?」

 「春太……」


 お母さんが顔を上げる。くしゃくしゃのその顔を見た春太が、ますます慌てる。


 「どうしたの? 何かあったの? なんでお母さん泣いてるの? ねえ、お姉ちゃん」


 春太がわたしの腕を掴み、ねえねえと揺さぶる。

 何でもないよ、と言いたいのに声が出てこなかった。

 春太の指が腕に吸い付く。生温かい感触が気持ち悪かった。


 「え……?」

 黙って手を振り払ったわたしを、信じられないものを見るような目で見つめる、わたしの弟。


 目を逸らして、無言で玄関へと向かう。

 スニーカーを引っかけるように履いて、家を出ていった。


 外に出た瞬間、すぐに走り出す。

 離れたい。離れなきゃ、と切実に思った。

 春太のそばにいたくない。春太にそばにいてほしくない。


 こんなことを思ったのは初めてだった。

 自分が別の人間になったかのようだ。

 外は真っ暗だった。

 朝とはまるで別世界。

 わたしは、今朝とはまったく異なる世界にいた。

 天地がひっくり返るって、こういうことだろうか。


 異世界に放り出された気分だった。あるいは、なかなか覚めない悪夢の中にいるような——。

 また日が昇って新しい一日が始まれば、感覚もリセットされて、元のわたしになれるかな……。


 どれくらい歩いたのか。ふと喉が乾いていることに気づいて、自動販売機を探す。辺りをキョロキョロ見回してから、何も持たずに飛び出してきたんだ、と思い出した。


 ていうか、ここはどこなんだ——。

 暗いのも手伝って、まったく道がわからない。


 帰れないかも、と思ってすぐに、別にいいじゃん、という気持ちになる。


 今日はもういいや。帰れなくても。とにかく一人になりたかった。家にお母さんと春太がいることを考えるとゾッとして、とても耐えられないような気がした。


 ウロウロ歩き回っているうちに、公園らしき場所を見つけた。

 公園といっても遊具も何もなく、草も伸び放題の荒れ地だった。入り口の幅も狭く、いかにも不審者が出没しそうな、うらぶれた雰囲気だった。


 普段であれば、近づかないようなそんな場所に、ズンズンと草をかき分け入っていった。

 汚くて寂しい、打ち捨てられた場所の方が今の気分に合っていた。考えごとも捗りそうだった。


 公園の一番奥まで行き着く。服が汚れるのも気にせずに地べたに座り込むと、無意識にため息が出た。


 呆然と空を仰いでいるうちに、鈍くなっていた感覚がだんだんと戻ってきた。

 ショック状態から抜け出して、自分の気持ちというものが輪郭を帯びてくる。


 半年前。

 借金を返し終わったのは半年前。

 たった半年前! なんて最近!


 じゃあ、わたしがわたしのために働くようになったのは、たった半年前のことだというのか! それまではずっと、家族の——春太のためだけにお金を稼いで……。


 今のお店でナンバーワンになった頃にお母さんは、慰謝料を払い終わった、と宣言してきた。

 バンザイして飛び跳ねんばかりに歓喜したのを、覚えている。あれが嘘だったなんて。


 お金はそれほど貯まっていない。わたしの将来の夢のための資金は、きっとほんの少ししか——。

 あんなに働いたのに。嫌なことがたくさんあった。嫌なことはあっても、良いことは一つもなかった。子カフェもそこで出会ってきた客たちも、みんな大嫌いだ。


 膝をギュッと抱える。ああ——。

 お母さんが、嘘をついた理由がよくわかる。

 春太を嫌いにならないでほしい、とお母さんは思っていた。


 春太が病弱な子どもだったことは、別に春太本人のせいじゃない。

 でも、春太が生まれた時から何の問題もない健康体だったら、こんな思いをしないで済んだのも確かだ。


 悔しさ。喪失感。悲しみ。怒り。

 そして憎しみ。


 わたしがどんな気持ちで長年過ごしていたか! どんな気持ちで働いていたか!


 何よりも大切な夢を叶えるためには、これが最適なんだから……と自分に言い聞かせて、毎日心を蝕んできた。わたしの人生の目的を達するためだと思えば、やりたくないことも頑張れてきた。


 その頑張りが無駄だったなんて! 

 わたしの数年間は何だったの? 春太が生んだ負債をカバーするためだけの時間だった?

 ふざけんな! わたしの人生を何だと思ってるんだ!


 お母さんの判断は正しかった。こんな事実を知ってそれでもなお、何も変わらずに“立派なお姉ちゃん“を続けるなんて、不可能だった。


 わたしが毎日どんなに辛い思いをしていたかつゆほども知らないで、ニコニコ笑っていた春太が憎たらしかった。

 わたしの苦しみなんて全然知らずに、毎日アホみたいに世話されていた春太が……。


 正直、どうしてわたしだけが、と思うことは何度もあった。


 春太の面倒を見たり、一緒に遊んでやったりするのは、わたし自身のためでもある——と今までそう思っていたけれど、本当は違っていたのかもしれない。

 本当は、ずっと疎ましく感じていたのかもしれない。幼い弟のことを——。


 この子さえいなければ、もっと楽だったのに。この子の世話をしている時間がなければ、もっと自分のやりたいことができるのに……わたしの足を引っ張りやがって。

 邪魔だ。


 そういう気持ちが確かにあったのだ。理性で押さえつけていただけで、わたしはずっと春太を邪魔だと——。

 これがわたしの本音?


 きっとそうだ。だってほら。こんなに胸がムカムカしている。春太の能天気な顔が、耳障りな笑い声が、思い浮かんでくるたびに、顔がカッカと熱くなる。


 春太が憎い。許せない。ずっと、ずっと嫌いだった。

 嫌い、と声に出すと、胸がスウッと楽になった。嫌い嫌い嫌い、と何度も口に出して、よし、と頷く。

 認めてしまえば、少し体が軽くなった。


 これがわたしの本心なんだ。

 わたしは、とっくの昔に——ううん、最初から“良いお姉ちゃん“なんかじゃなかった。弟を本当に愛していたことなんて、一瞬たりともなかったんだ。


 その時、ガサガサッと茂みから聞こえてきたので、心臓が止まるかと思った。

 息を止めて、音がした方をじいっと見ていると、にゃおーん、という鳴き声とともに、動物のシルエットが出てきた。


 「なあんだ、猫か」

 溜まっていた息を吐き出す。


 猫は、明らかにわたしを警戒している様子だった。こんな時間にこんな場所で人に出くわすなんて信じられない、とでも言いたげだ。闇の中で注意深そうな両目だけが光っていた。


 「おいで」


 ちょいちょいっと指先を動かして、呼び寄せる。

 そのまま数秒間待っていると、チリチリした感触が手にやってきた。

 柔らかく生温かい動物の感触に、懐かしい気持ちになる。


 手触りから野良猫だろうな、と判断する。酷い毛並みだ。

 猫を撫でるのはいつぶりだろう。

 子カフェで働き始めた頃は、こんなふうによく近所の野良猫と遊んでいたな。


 赤ちゃんにかかりっきりのお母さん。

 わたしがどれだけ嫌だと言っても、子カフェに行きなさい、と冷酷に言い放った。

 赤ちゃんがいるから駄目なんだ。


 赤ちゃんがいるからお金が必要になるし、赤ちゃんがいるから、お母さんはわたしを見てくれない。

 弟なんていなければ、二人で余裕のある生活を送れるはずなんだ。


 そんなことを思いながら、自分よりも弱く可愛らしい猫を撫でて、安心していた。

 あの時間は、確かにわたしの心を癒してくれた。しかし、次第に猫を見かけても避けるようになってしまった。


 わたしがやっていることは、子カフェにやってくる大人たちと同じだと気づいてから、気軽に触る気になれなくなったのだ。


 ふと、しほさんのことを思い出す。

 あの人も今のわたしと同じだった。


 自分よりもか弱く、毒気がなくて愛想が良い、自分のことを素直に慕ってくれる生き物——それを愛でることによって、安心したかったのだ。


 春太に対しても、そうだったのかもしれない。

 無償の愛を抱いている、と思い込んでいたけど、わたしも子カフェに来る大人たちと、同じ穴のムジナだったのかも。


 わたしが客たちにそうされてきたように、わたしも春太を見下すことで、安心していたのだろうか。


 春太はわたしが守らなくちゃ——という思いは、こいつはわたしがいないと駄目なんだもんな、と馬鹿にしていたからこそ、生まれたのかもしれない。


 姉弟愛。母性。そんな聞こえの良い言葉で、本当の感情を誤魔化していたんじゃないか。

 散々わたしを惨めな気持ちにさせてきた、客たちと同じように——。


 「にゃおーん」

 「ニャー」

 「ニャア」


 いくつもの鳴き声に、現実に引き戻される。

 どこから入ってきたのか、四方八方から猫がぞろぞろと現れた。暗くてよくわからないけれど、10匹近くいそうだ。

 この公園は溜まり場だったのか。


 猫たちに怯えている気配は感じない。随分と人慣れしている様子だった。家猫が多いのかもしれない。

 わたしはその場に固まったまま、ニャーニャーという鳴き声を一晩中聞いていた。


 鼻がむずむずして何度かくしゃみをしたが、それでも猫たちは何のリアクションも示さず、わたしなどいないかのごとく、自由気ままに過ごしていた。



 重い足取りで帰宅する。どの道、ここ以外に行ける場所などない。わたしが大人に命を握られる子どもである以上、どこにもいけないのだった。


 朝の6時だった。春太はまだ寝ているようで、玄関を開けるとお母さんと目が合った。


 お母さんは、目を逸らしたり、逆にチラチラとこっちを見たり、忙しなく視線を動かしていた。

 そして、自信がなさそうなか細い声で言った。


 「おかえりなさい……」

 「……ただいま」


 居間に入ると、わたしの格好を間近で見たお母さんが、ギョッとした。


 「ちょっとどうしたの? 随分汚れているじゃない。どこにいたの?」


 スカートには、草や土が付着しまくっていて、洗濯しても完全に落としきれそうにないほど汚れていた。足や腕も黒く薄汚れている。

 その上、全身に毛が付いていた。大量の猫の抜け毛が、シャツやスカート、靴下にも付いているのだった。


 家に入る前に、払い落としてくるのを忘れていた。

 でもなんか、どうでもいい。何もかもが面倒くさかった。


 その場で服を脱ぎ、下着だけになる。

 「ちょっ……」と困惑した声がしたが、無視する。

 台所のゴミ箱に服を捨てる。


 自身のタンスからパジャマを取り出し、風呂場に向かう。


 シャワーを浴びたかったわけではない。ただ、お母さんと二人きりの空間、というのに耐えられなかっただけだ。


 髪と体をやけに丁寧に洗って、拭き上げにもいつもの3倍の時間を費やした。


 脱衣所を出ると、真っ先に寝室へと向かった。さっきまでとは別人のように、目にも止まらぬ早さで布団を敷き頭からひっ被る。一言も口を挟ませなかった。


 狭いアパートなので、自分の部屋、などという概念はない。この家には、風呂トイレ台所の他には、寝起きする部屋と食事などをする居間があるのみだ。


 だから、わたしはいつも春太と布団を並べて眠っていた。

 今この瞬間もそうだ。すぐ隣で春太が規則的な寝息を立てている。


 その寝息を耳に入れたくなくて、耳の穴に指を突っ込んで目を閉じた。


 眠れば、少しは気分もマシになるだろうか。休めばやる気も湧いて、また仕事を頑張る気になるかもしれない。

 そうだといいな——と数時間後の自分に希望を託して、必死に眠りの世界に行こうとする。




 目を覚ました時には、夕飯の時間になっていた。

 何もしないで寝ていただけ。どこにも行っていないのに、わたしは夕食をさっさと食べ終えると、また風呂に入った。

 そしてすぐに布団を敷き、潜り込む。


 食卓で春太が何度か話しかけようとしていた。わたしはそのたびに、「食事中でしょ」と嗜めた。そんなことを注意したのは初めてだった。言われた春太もビックリしていた。


 わたしだけでなく、お母さんの様子もおかしいことに、春太は怯えていた。早く元の状態に戻ってほしい、という思いをひしひしと感じた。


 誰のせいで、こうなっていると思っているのだろうか。


 わたしは、春太が口に食べ物を運ぶたびに、それを咀嚼するたびに苛立ちを募らせた。当たり前の動作や立てる物音の全てが、わたしの神経を逆撫でした。


 もはや、存在そのものが許せない、という領域にまで達していた。


 そもそも——そもそもだ。春太が病弱だったのが悪いんじゃないか。最初っから元気でいてくれれば、余計な苦労せずに済んだんじゃないか。

 というか、どうせなら生まれてこなければ——。


 ふっと湧いてきた感情にゾッとする。

 駄目だ、こんなこと考えちゃ。

 そこまで思ってしまっては駄目だ。もう戻れなくなる。


 まったく眠れないまま夜が明けた。

 今日は出勤の日だ。家にいなくて済む理由があるのはいい。何年も働いてきて、初めて仕事に行きたいと思えた。


 逃げるように、子カフェへと向かう。

 春太の顔を見れなかった。見れば見るほど、憎悪が増していきそうで——湧き立つ感情をいずれ抑えられなくなりそうな予感に、戦々恐々としている。


 ほんの少し前まで、愛していると思っていたのに。

 春太に抱く感情は、怒りから憎しみへ。そして憎しみから殺意にまで、進化しようとしていた。




 指名客専用のスペースで、いつものように接客する。


 どんなに大掛かりな心境の変化が起きていようと、いざ仕事となると、愛想の良い笑顔と平素より高めの声をお出しできるんだから、感心してしまう。


 これがプロというやつなのか、と残念な気持ちになる。

 こんなことのプロになんてなりたくなかった。


 馬鹿っぽい振る舞いを身につけて、上から目線で馬鹿にしてくる奴らに媚を売る。

 人を人とも思わない奴らなんて大嫌いだ。そんな奴らのご機嫌を取るのを、何百日も繰り返してきた。


 その日、わたしを指名した客は一人だけだった。

 しほさんも来なくなってしまったし、今月の給料はガクンと下がるだろう。


 何とかしなければ——どうして?

 どうして何とかしなければいけないのだろう。


 わたしにはやりたいことが、叶えたい夢があった。そのためにお金が必要だと考えた。


 そうだ、お金。とにかくお金が必要なんだ。

 お金——それがないとどうにもできないの?

 本当に?


 わからない。わかりたくもない。

 わたしはずっとお金のために働いてきた。絶対にそれが必要なんだと信じて。


 これだ! と決めた目標に向かって一直線に走り続けるというのは、とても気が楽だった。

 がむしゃらに頑張っていれば、何も考えないですむ。


 何かに集中して取り組む、ということを、とてもとても難しいことのように思う人が多いが、わたしはこれ以上に易しいことはないと思う。

 一つのものにだけ意識を向けていればいいことが、どれだけ救いになるか。


 信じた道を進むのは簡単だ。途中で疑いを抱くことさえなければ、これ以上なく安らかな道程になるだろう。

 それは幸せな人生と呼べるのではないか。


 何が何でもお金が必要だと思うことで、わたしは頑張れてきた。

 子カフェでの仕事がどれだけ苦痛でも、頑張ればお金になるからと思えば耐えられた。

 ここで稼いだお金が、今後ずっとわたしの人生を助けてくれるものになるから、という信仰がこれまでのわたしを支えてくれていた。


 わたしの夢のために使えるお金は、思っていたよりもずっと少なかった。でもゼロではない。

 生活費を抜いた分の半年間の給料が、貯金されているはずだ。

 それは微々たるものかもしれないけど——お金はいくらあっても困るものではない。必ずやわたしの力になってくれる。


 引退の時が来るギリギリまで、仕事を辞めるわけにはいかない。

 結局、今まで通り続けるしかないのだ。


 そうわかっていても、やはりショックは大きかった。この数年間の頑張りが全てパアだったと知って、すぐに立ち直ることなんてできない。

 固定客が一人減ったのだから、もっと焦らなくてはいけないのに、やる気が全然湧いてこない。


 引退の時が、刻一刻と近づいてきているのに。


 悲しみに気を取られている暇なんてない。頭ではわかっているのに……。


 もういいや、なんて投げやりな気分になりそうになる。まだ絶望しなくてもいい。確かに予定違いはあったけれど、これでわたしの人生の全部が駄目になったわけではない。まだいくらでも立て直せるはずだ。


 だから、再び立ち上がって頑張ればいい。このまま子カフェで愛玩動物になって、気持ち悪い大人たちから金を得ればいいのだ。


 そう言い聞かせても、やっぱり思ってしまう。


 長年の給料が、ほとんど無駄になっちゃったのかあ……。

 何年もやってきて、たった半年分しか貯まらなかったのかあ……。

 わたしの子ども時代は何だったのかな。やりたくもないことをやってきた意味は……。


 そんなことをグルグルと考えてしまう。考えたってどうしようもないのに。

 起こってしまったことはどうにもならない。過去は変えられない。変えられるのは未来だけ。

 過去はしょうがない。この先の未来を良いものにできるように、今を頑張らなければ。


 わかっている。わかっている、けれど……。

 受けたダメージは、なかなか抜けない。


 春太……。

 春太のせいで、わたしはこんなことになっている。

 春太のせい。全部春太のせいだ。手のかかる弟さえいなければ、わたしは自分の思うように生きられたはずだ。


 春太がわたしの人生を駄目にしているんだ。


 胸の内で、メラメラと何かが燃え上がる。憎しみや殺意だけではない何か。生きる気力、みたいなものが——。

 少し息をするのが楽になった。




 わたしの客は、1時間ほどで帰っていった。

 今日の勤務時間は残り2時間。久しぶりにメインフロアに出る。

 幼い子たちでごった返すメインフロアには、活気が満ち溢れていた。


 端っこの方にちょこんと座り、周囲の様子をぼんやり眺める。

 客たちの目に留まるように、前にしゃしゃり出ることはしない。そこまでの心臓の強さはないし、身の程をわきまえければ。


 わたしみたいに、歳のいった(というのはちょっと変かもしれないけれど)児童は、幼い子たちの邪魔になってはいけない。大多数の客たちは、より()()()()()()幼児たちを目的に、子カフェを訪れるんだから。


 メインフロアは、二つのエリアに分けられている。椅子とテーブルが並ぶカフェのような空間が、お客様のスペース。カフェに所属する子どもがいる空間が、キッズスペース。

 カフェスペースとキッズスペースの間には、仕切りも何もない。そんなものがあったら、より一層“動物園の動物“感が増すので、なくてよかったと思う。


 子カフェでは、指名客を除き、客は最低でも何か一つは飲み物を注文しなければならない。裏で店員がペットボトルから注いだ飲み物を渡された客は、空いた席に座る。

 そして、キッズスペースで各自好きなことをしている子どもたちを、ニッコニッコと笑いながら眺めて過ごすのだ。

 これが一番安いコースを選んだ客の楽しみ方。


 もう一段階上のコースだと、キッズスペースに立ち入り、店員がその時適当に選んだ子どもと遊ばせてもらえる。

 さらに一段階上のコースだと、子どもを抱っこさせてもらえたり、膝に乗らせてもらえたりと、可愛い子どもたちとの()()()()が可能になる。


 今も何人かの子が、客たちに撫で回されたり、頬擦りされたりしている。

 動物園の“触れ合いコーナー“を彷彿とさせるその光景に、朝お腹に押し込んだ食パンがせりあげてくる。


 ここから、わたしを見初める客が現れない限りは、今日はずっと暇な時間を過ごすことになりそうだ。

 十中八九現れないだろうな。このまま隅っこの方で息を潜める状態が続きそうだ。


 何か面白いことでも起こったのか、一人の子がキャハハ、と幼い声で大笑いすると、それに釣られて客が、可愛い可愛い、と反応する。


 あ、今笑った!

 ちょ、歩き方マジで可愛いんだけど。

 ねー。ホント癒される。


 およそ人間に向ける感情ではないものが、この空間に充満している。


 いつの間にか、膝を抱え込むようにして座っていた。そのまま頭を突っ伏してしまいたくなるけれど、そんなことしてしまえば、注目を集めてしまう。あの子どうしたんだろう。何だか元気ないね、と。

 ここにいる大人たちの誰にも、認識されたくない。誰一人わたしを見ないで、存在を認知しないでいてほしい。


 久しぶりすぎて忘れていた。メインフロアがこんなに怖い場所だということを。

 こんな場所にずっといて、よく発狂しないものだ。見渡す限り、どの年少者たちも楽しそうに笑っている。


 こういう場で、楽しそうにしていられない子——内気で陰気な子どもは、まず面接の段階で落とされる。だから子カフェにいる子どもというのは、能天気で楽観的でいつも楽しそうな雰囲気を纏っているのが、デフォルトだった。

 大人にウケの悪い、いわゆる“子どもらしくない子ども“は、子カフェを訪れる客たちにとって、同じ“子ども"ではないのだった。


 自分たちが()()()と感じない児童は、存在しないものと思っている。


 わたしたちは、人間だ。

 一人一人違った性格を持っていて、明るい人もいれば暗い人もいる。人見知りで警戒心の強い子も、人懐っこく何でも素直に受け取ってしまう子もいる。

 一人一人に個性があって、それぞれが独立した人間なのだ。


 なのにこいつらは、この大人たちは、わたしたちを()としてしか見ていない。子どもを()と認識したことなんてなくて、そんな自分たちの醜悪さ、そこにどんな問題が潜んでいるかなど、まったくもって把握していない。


 わたしは猫が好きだ。

 猫なら何でも好き。不細工な顔でも人懐っこくなくても、猫というだけで可愛い、と反射的に思ってしまう。

 懐かなくても可愛いけれど、懐いてくれたなら最高だ。可愛い鳴き声ですり寄ったり、手を舐めたりなどして甘えてくれる猫と、毛を逆立てて拒絶してくる猫の、どちらがより可愛いかと問われれば、当然前者と答える。


 わたし自身も、自分に擦り寄ってくるか弱くて可愛い生物が大好きなのだ。

 人間の中には()()()()から、そういった存在が必要な者たちがいる。

 わたしにとっては、それが猫だった。一部の大人たちにとっては、それが子どもになる。


 わたしが猫という動物を、“種族“として好きなように、客たちも子どもという存在を、種族として愛しているのだ。


 彼ら彼女らは、わたしたちのことを、人生を全力で楽しんでいて、何の悩みもないと決めつけている。ここにいる大人たちは、子ども、というと無邪気だとかあどけないだとか、そんな言葉を連想するんだろう。

 天真爛漫で素直で裏表のない存在。大人はそんな観念を立てて、それから実際のわたしたちを、現実を捉えているのだった。


 だから、イメージから外れた子——()()を目にすると、大いに戸惑う。

 その末に、自分の思い込みの外にいる子のことを、変わった子だとか、子どもらしくない子、みたいに評する。

 子どもらしい、なんて大人が勝手に作り出した幻想じゃないか。


 子どもについて、観念的にしか把握できない大人は山ほどいる。

 今よりも昔——例えば50年くらい前だったら、そんな大人の数はずっと少なかったのかもしれない。その頃は、街にも子どもが大量にいて、身近な存在として社会に溶け込んでいた。


 現在は、街を歩いていても、子どもを見かけることなんて滅多にない。小学校の通学路や、その他家族連れが行きそうな場所などに赴けば、さすがに出会えるけれど——そういった場所にまったく近寄らずに暮らしている人にとって、子どもとの遭遇はレアだ。


 大人たちの勝手なイメージが加速したのは、きっと深刻な少子化が原因なんだろう。子どもの数が極限にまで減り、その存在がかつてのような身近なものではなくなって、もっと遠いボンヤリとした輪郭しか描けない存在になった。

 そういった背景が、大人たちが元々抱いていた、"子どもとは無邪気であどけなくて、大人を癒してくれる存在"という理想像に拍車をかけていった。


 子どもを、大人(じぶん)たちとは何もかもが異なった存在として、神聖視する傾向が強まった結果生まれたのが、子カフェだった。


 ここにいると、絶えず恐怖に襲われる。大人への不信感と社会に対する不安が、ふっと湧き上がってくる。

 大人の全員が子カフェに来ているわけではない。こんな店を利用しているのは、一部の馬鹿な人間たちだけで、まともな感性を持った大人が社会には大勢いるんだと、そう思いたいのに……。


 わたしたちを人間扱いしてくれる大人も、きっといる。社会はここに来るような人たちばっかりで溢れているわけじゃない。

 そう信じたい。でも……。


 子カフェの需要は、年々高まってきている。長年働いていて肌で感じる。月日を経るごとに繁盛してきていると。

 最初の頃にあったこの施設に対する抵抗感が、どんどんなくなってきている。世間が受け入れてきている。

 それはとても恐ろしいことだった。


 この施設が倫理的に認められて、いずれ子カフェを求める人間ばかりになったら——そんな未来が訪れてしまったら、と戦慄する。


 そんな未来が到来すれば、子どもは完全に大人の奴隷になる。大人の所有物、愛玩動物になり、自身の生命を大人にガッチリ握られることになる。ただでさえ、子どもの命は子どものものではなく、大人が握っている状態なのに。


 こんな店、存在しちゃいけないんだ。

 これ以上、子どもを大人の所有物にしてはいけない。愛玩動物として扱われてきた子どもが、それ以外に価値を見出されてこなかった者たちが、成長して“大人“になった時、どんなふうになるのか——完全に思い描くことはできないけれど、歪な人間に育つことくらいは予想できる。


 子カフェなんてもの、さっさと消されると思っていた。世間の人たちが許してはおかないだろうと。

 でも、わたしの期待は大きく外れていた。

 世間の人たちは——社会で生きる大人たちは、幼い頃のわたしが思っていたよりもずっと、何も見えていなかった。


 どんなに醜悪な現実も自分にさえ不都合がなければ、都合の良い方向に解釈し、見ないふりをして、何も気にせず生きていける人間たちばかりだった。

 多くの大人たちにとって、わたしたちが何を考えて何に苦しんでいるかなんて、どうだっていいのだ。自分の思い通りに動いてくれることを期待するばかりで、理解する気なんて微塵もない。


 だから子カフェなんてものが、今も存在していて繁盛しているんだ。消え失せるどころか、どんどん増殖しているんだ。

 誰も何もしないから。こんなのおかしいよ、と怒る大人がいないから。


 このまま“まともな大人“が消えていって、批判する人が一人もいなくなってしまったら。その時は一体誰が子どもたちを助けてくれるんだろうか。


 きっと誰も助けてくれない——子どもたちがひたすらに搾取される時代が、目の前にまで来ているのかもしれない。


 駄目だ、そんな時代。絶対に駄目。許してはいけない。

 何としても止めなければ。誰かが何とかしなくてはいけない。

 誰かが——。


 「可愛いー!」

 ひときわ甲高い声が客から上がり、意識が浮上する。

 その声は一人から発せられたものだった。キッズスペースの一角で、6歳の幼児が二十代後半くらいの女性客の足に抱きついて、しきりに首を横に振っている。


 いやいや、行っちゃやだ。まだ一緒にいたい——幼児のそういった言葉から、客に帰ってほしくなくて、駄々をこねているのだとわかる。

 あんなことされたら、つい大きな声で「可愛いー!」と言ってしまうのも共感できる。

 でも……。


 あの幼児は前に話していた。

 ママに教えられたことをやってみたら、お客さんがよく来てくれるようになったの、と控え室で自慢げに。みんなもやってみなよ、と歳の近い子たちに伝授していた。お給料たくさんもらえて、ママとパパに褒めてもらえるよ、と。

 そのテクニックを自分一人だけの秘密にしないところが、まだまだ純粋だな、と感じたのを覚えている。


 ぶりっ子した甲斐があって、まとわりつかれていた女性客は「しょうがないなー」と時間の延長を決めた。嬉しくてたまらない、というように顔面をだらしなく緩ませて。

 足元に抱きついていた6歳の子が一瞬だけ、ほくそ笑んだのをわたしは見逃さなかった。


 「わーい! やったあ」とバンザイして、喜びをアピールする直前、ニヤリ、と口の端で笑ったのだ。目論見通りにいったことに満足した顔。邪気を含んだ笑顔だった。

 子カフェの子どもたちの成長過程を目の当たりにして、喉元に苦いものが溜まる。


 客観的に見たわたしは、ああいう感じなのか。

 気持ち悪いな、本当に。

 あんなことをさせる環境なんて、消えてなくなればいい。


 そこかしこで声が聞こえる。みんな一様に気色悪い猫撫で声をしていた。

 いくつもの猫撫で声が合わさり、合唱みたいに耳に響く。客たちは同じ言葉を奏でていた。可愛いと。フロア全体にひっきりなしに可愛い、という条件反射的な感想が充満して、鳴り止むことがない。


 可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い。

 うるさい。やめて。気持ち悪い気持ち悪い。この空間の何もかもが気持ち悪い……。


 突然、目の前が真っ暗になった。

 ゴツン、と頭に衝撃が来る。ついで、どよめきが耳に入る。誰かが駆け寄って、わたしの体を揺さぶる。大丈夫!? と問いかけられたことを、朧げながら理解する。

 返事をしたいのに、瞼が指で押さえつけられている。抵抗してこじ開けようとするが、歯が立たない。


 「だ、だ、だい……だい、じょう、ぶ! だ、じ……ぶ……だ……ら……」


 呂律が回らない。自分の身に何が起こったのか、まったくわからなかった。

 戸惑っているうちに、周囲の気配が薄まっていき——最終的に何も感じられなくなった。

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