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子カフェ  作者: 絶対完結させるマン
私小説

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抱いていた夢

 わたしには、7歳の頃から抱き続けている夢がある。


 映画スターになること。それがわたしの将来の夢であり、人生の目標だった。


 洋服もセールワゴンの中から選び、三日に一回は食卓にもやしが登場する我が家では、子供の夢を十分に支援する余裕がないことは、わかりきっていた。


 その頃は、慰謝料もまだ払い終わってなかったから、家族全員が今よりももっと貧しい暮らしを強いられていた。


 当時わたしは、まだ小学一年生だったけれど、あらゆる望みを叶えるためには金が必要だと理解していた。


 金で買えない幸せはたくさんあるけれど、金がないと買えない幸せだってわんさかあるのだと。


 まずは、我が家の経済状況を悪くしている最大の原因——お母さんがかつての恋人の妻に要求された“慰謝料“というものを払い終わらないと、何もできない。


 そう思ったわたしは、急激に子カフェでの仕事に励み始めた。それまでは出勤こそしていたものの、仕事中はずっと無気力で、ただ時間が過ぎるのを待っていただけだった。


 愛想を良くして、おかしくも楽しくもないのに、笑顔を作った。馬鹿みたいにニコニコと笑った。お客さんは喜んでくれた。指名をもらうようになった。給料はどんどん増えた。

 ちょっと本気で取り組めば、簡単に金は手に入った。


 「どうして急にやる気になったの?」とお母さんに訊かれたので、わたしは将来の夢ができたことを伝えた。

 するとお母さんは、自分の給料だけでは到底完璧な教育は授けられない、と申し訳なさそうに説明した。


 第一線で活躍する女優になるには、相当な努力が必要で、しかも誰よりも頑張ったからといって、大女優になれるとも限らない。

 そんなことをやんわりと説明されたけれど、わたしの決意は固かった。


 わたしが一歩も引かないのを確認するとお母さんは、良い女優になるためには、何よりも勉強が大切なんだと力説した。


 演技の勉強ができ、演技力を磨ける場に行くことが、映画スターになるための第一ステップだと。独学で一流になれるなんて不可能に近い。

 もしも立派な女優になりたいのなら、専門の学校や養成所に行くべきだ、という意見にわたしは深く同意した。


 その日から、わたしは家族のためだけではなく、自身の夢のためにも子カフェで稼ぐようになった。


 お母さんは、毎日遅くまで働いているとはいえ、アルバイトだった。いざという時、仕事よりも子どもを優先したいから、という理由であえて正社員を選ばなかったのだ。


 安定からは程遠い働き方をしているお母さんには、あんまり頼れないな——そう思ったわたしは、自分の金は全部自分で稼ごう、と決意した。


 専門学校や養成所に入るのにも費用がかかる。それらにめでたく入れた後も、レッスンを受けたりすれば、そこでまた金がかかる。


 そして卒業すれば、次に目指す場所は芸能事務所だ。芸能事務所は大体首都に密集している。都会に出ずに有名になるなんて、できっこない。


 いずれ名を上げたいのであれば、上京は必須だった。そこでまた金が必要になる。


 仕送りなどは期待していない。すると、向こうでの生活費はわたしがバイトで稼ぐしかないが、あくせくと働く暇があるなら、その時間を演技の勉強に当てたい。


 今だって、こんな努力じゃ叶えたい夢になんて届かない——と歯噛みしているのだ。週に3回、演技のレッスンを受けに行ったり、空いた時間に自己練習をするだけでは、大したものは身につかない。


 十分な資金が貯まるまでは、できる範囲で努力を続けるしかない。

 わたしはそう受け入れて、とりあえずは子カフェで稼ぐことを一番に優先してきた。


 子カフェで働ける数年間で、一気に金を稼ぐ。


 お母さんに身銭を切らせるわけにはいかなかった。そもそもお母さんの給料は、家族三人で食べていけるだけの額に達していなかった。


 だからわたしの給料は、全部貯金に回せたわけではない。

 給料の半分くらいは家族の生活費に消えていた。


 わたしが自分の夢を打ち明けた時、お母さんはあれこれと進言してくれた。

 幼かったわたしに、女優になるための具体的な道のりを話し、そのルートに行くにはある程度の纏まったお金が必要なのだと説明した。


 「お母さんがもっとちゃんとしてたら、明奈は何の苦労もしないで、行きたい道に行けてたよね。お金のことで悩むこともなかった。駄目な母親でごめんね……」


 お母さんがそう言って涙ぐんだので、わたしは慌てて言った。


 「心配しないで。わたし、こんなことで絶対に諦めたりしない。うちが貧乏だっていうなら、わたしがもっと頑張ればいいから。もっと仕事を頑張って、たくさんお金貯めるから」


 子カフェ、という稼ぎ場があって本当に良かった。

 こんなもの、絶対に子どもたちのためにならないってわかってるけど、子カフェがある時代に生まれて幸いだった——とわたしは心底そう思う。


 お母さんは、わたしの言葉に涙を流し、全力で応援する、と言ってくれた。


 お母さんにできることなら何でもするから——そう言ってくれたので、わたしはお金の管理などはお母さんに一任していた。


 お母さんは家計簿もきちんとつけていて、お金のことに関しては非常にしっかりした人だった。


 わたしは、何と言ってもまだ子どもなので、生活する中で何にどれくらい金を使っているのかなどを正確に把握した上で、貯金に回せる金はどの程度なのか。将来的にどの程度まで貯めていれば、安心できるのか——そういったことをゴチャゴチャ考えるのは苦手だった。


 とにかく金が必要で、金を稼がなければならない。


 何だかんだ言っても、まだまだガキンチョのわたしにわかっていたのはそれくらいで、具体的な細々としたことを考えるのは、何年も生きているお金に詳しい大人に丸投げしておきたかった。


 わたしが数字に弱い子どもだった、というのも理由としてある。算数のテストを受けている時なんて、確実に頭から湯気が出ている。圧倒的な文系女子だった。


 そんなわけでお金のやりくりは、お母さんに頼りっきりになっている。


 毎月、わたしの給料から、家族が最低限豊かに暮らせるだけの生活費を引くと、貯金に回せるのはどうしても少額になってしまうのだ、と謝られたことがある。


 その時のお母さんの表情が、今にも泣き出しそうに歪んでいたので、わたしはそれ以来、できるだけ“目標金額“については、質問しないようにしていた。


 わたしが夢を叶えるためにかかる“資金“が、十分に貯まったら教えてくれるように、お母さんには頼んでいた。お金のことに関してしっかり者のお母さんの頭の中には、明確な目標金額があるはずだと、わたしは言わず語らずのうちに納得していた。


 子カフェでナンバーワンを取れるまで稼いでいる子は、ほとんどキャバ嬢みたいなものだ。そのテクニックや、計算高さ、客への態度などに通ずるところがある。


 もちろんキャバ嬢の仕事内容や成り上がり方なんて、話に聞いたことしかない。あくまでもわたしの中のイメージでしかない。

 しかし、ナンバーワンキャバ嬢は、ずる賢さと逞しさを備えた者でないと務まらないのだということくらいは知っていた。


 しかし、キャバクラのナンバーワンと子カフェのナンバーワンとでは、給料に圧倒的な差がある。子カフェも似たような客商売だからといって、さすがに夜職ほどは稼げないのが現実だった。


 ナンバーワンキャバ嬢並の給料だったら、あっという間に必要な金額が貯まっただろうに……。


 それでも、正直、目標金額までは秒読みだと思っていた。

 こんなに頑張っているのだ。届かないはずがない、と。

 何千万という大金ではない。数百万あれば十分だということは、疎いわたしでもさすがにわかる。


 教育費は、かけようと思えば無限にかけられるだろうが、ひとまず都会の学校や養成所でやっていけるだけの額があれば、それで不満はなかった。


 まだ足りていない、と言外に示されたことは、相当なショックだった。

 何とかしなきゃ、というもどかしさは、ライバルへの敵意を掻き立てた。


 はるかの存在を、許してはおけない。もうこの店では働けない——そう思うくらい、これ以上ないほど追い詰めなければならない。一刻も早く。


 必要な金額に届いていないのだとしても、その不足分はそう多くはないだろう。だって、わたしはずっと頑張ってきたんだから。水商売ほどではないにしても、決して少なくはない給料。それを毎月持って帰ってきていた。


 きっと大丈夫だ。けして油断せずに、あともう一踏ん張りすれば、到達できるはず——。

 はるかを辞めさせられれば、このモヤモヤも晴れるはずだ。




 はるかはすでに控え室にいた。

 部屋の中央にある長椅子に座って、真っ黒な瞳で虚空を見ている様子が、半開きのドアの隙間から垣間見えた。


 音を立ててドアを全開にすると、入り口のわたしに見て、そこから視線が動かなくなった。

 自分がどんな顔をしているのか予想はつく。


 食い入るようにわたしを見つめるはるかに、ツカツカと歩み寄る。

 座ったままの彼女の正面に立ち塞がり、上から痛ぶるような声を浴びせる。


 「あんた、養子らしいじゃん」


 はるかは、一瞬ギクリと身をこわばらせたが、すぐに無感動そうな声で言った。


 「だったらなに」

 「実の親からはゴミみたいに捨てられて、施設に入れられてたらしいじゃん」

 「そうだよ。だからなに?」

 「今の親に拾われた時は嬉しかっただろうね。道具として見られてるとは知らずに幸せだったんだろうね」


 そこまで言われても、はるかは眉ひとつ動かさなかった。

 逆にすました顔で淡々と言い返してきた。


 「うん。あの時は幸せだったよ。でも私は品物としてしか愛されていないの。そんなのとっくにわかってるよ」


 自分が金を稼ぐ道具として扱われていることなんて、とっくの昔に気づいていた。改めて他人に言われるまでもない。そんな言葉で私を傷つけられるとでも思ったの?


 はるかは、わたしをじっと見上げ続けている。わたしの見通しの甘さを、嘲笑っているかのような余裕たっぷりの表情からは、そんな心の声が聞こえてきそうだった。


 ここまでは、予想通り。

 わたしは、今度こそはるかの弱いところに切り込んでいく。


 「だから新しい“お母さん“を求めてるんだ?」

 「!」


 今度は、薄くだけど反応が返ってくる。


 「お客さんに迫ったんだって? 私を家族にして。引き取って、って。みっともなく縋り付いて、せっかくの常連さん逃しちゃって。何やってんの? バカなの?」


 はるかは、ここで俯いたり泣いたりはしなかった。それをしたら負けだと思っているのか。

 しかし、ダメージはくらったらしく、眼差しから明らかに力強さが消えていた。


 はるかは何も言わない。言い返さない。地蔵のように微動だにしなかった。

 わたしは畳み掛ける。


 「あんた何歳になるわけ? 4、5歳の幼児じゃないよね。この世界に来てから、何年も経つでしょ。なのに全然わかってないんだね。いい? ここに来る大人は、あんたのことなんてどうでもいいの。明日あんたが死んでも、お客さんは大して悲しまないだろうね。どんなに長くても三日三晩泣いて終わりじゃない? ひとしきり悲しんで気が済んだ後は、はるかなんて女の子のことは綺麗さっぱり忘れてるよ。代わりなんて探せばいくらでもいるからね。だって、客が求めているのは、"自分を癒してくれる可愛い子ども"、"子どもらしい子ども"、でしかないんだから。あんたの個人的な気持ちなんて、向こうは一ミリだって興味ないわけ。それなのにさあ……家族にしてほしい、なんてマジのマジで頼むとか、ホラー以外の何ものでもないよね。客側は気まぐれで店に来て、そこで過ごす短時間しかあんたのこと考えてないのに。野良猫にエサやるくらいの感覚で接してたのに、急にその野良猫が纏わりついて離れなくなったら困るよねー」


 はるかは、膝に置いた手をギュッと握り締めた。


 「客にとって、わたしたちは愛玩動物でしかないんだよ。犬猫と一緒。それも、道端で出会う程度の愛着しか持たれていないんだ。あの人たちにとってわたしたちなんて人間じゃない。ペットショップの動物や、猫カフェの猫と同じレベルで見られてるの。自我なんて求められてない。感情は見せちゃ駄目。相手はわたしたちの人間性を邪魔だと思ってるんだから。なのにあんたは——」

 「あなたには関係ないでしょ」


 やかましい、黙ってと言うようにはるかは首を横に振った。


 「なんでそんなに必死なの」


 はるかが問う。なんで、と言いながらも、答えを何となく知っていそうな口調だった。確認作業としての質問だった。

 カッと頭に血が昇る。


 「迷惑なの! あんたみたいなのがいると! 店の人たちにも客たちにもいい迷惑だから。サービスを提供する側として、立場をわきまえなきゃ。もうすぐ10歳になるっていうのに、夢見がちな考え持つのはやめな」


 はるかを精神的にボコボコにするのが目的だったのに、いつの間にか甘ったれた後輩に釘を刺しているみたいになってしまった。なんでこんなことになったんだろう。

 指導したくて話しかけたんじゃないのに、と舌打ちする。


 「子カフェに来る大人たちの中に、あんたの親になって無償の愛を注いでくれる人なんて、いないんだから。絶対にね」


 はるかはギョッと目を見開き、まじまじとわたしを見つめた。信じられないようなものを見る目だった。


 わたしのセリフに、凄まじい衝撃を受けたみたいで、その反応の大きさはちょっと大袈裟すぎるくらいだと、わたしは思った。


 はるかの頬を一筋の涙がつたう。


 たった一筋、頬を流れたのみだけれど、間違いなくはるかは泣いた。

 一瞬間前まで、少なくとも表向きは平然としていた。暴言なんか、耳には届いていても、心にはひとつも届いていないかのような、取り澄ました顔をしていたのに——。


 わたしは何だか怖くなって、

 「と、とにかく客に対して、そういうこと言うのは、金輪際やめてよね。もう小学4年生なんだからさ。店のルールくらい守ってよ。その歳にもなって、なんもわかってないんだから。ホント馬鹿みたい」


 早口にそう言って、控え室を出ようとした。

 しかし、はるかが言った。


 「人のこと言えないくせに……」

 「は?」

 「なにもわかってないのはどっちなの?」

 「何言ってんのか、わかんないんだけど」

 「あなたも、親に言われてこんなとこにいるんでしょ?」


 カッと頬に熱が集まる。


 「あんたのとこと、一緒にしないで! わたしのお母さんは、ちゃんと自分の子供を愛しているから!」


 わたしは退室を取り止め、売られた喧嘩を買う。

 我が家の事情を何も知らないくせに、勝手にわたしを同類だと決めつけてきたこいつに、腹の虫が収まらなかった。

 何も知らないくせに、家族を貶された。


 「わたしは、ある目標のために()()()この仕事をやってるの! 親に言われて嫌々、ってわけじゃない。わたしが辞めたいって言えば、いつでも辞められる——いや、生活のために完全には辞められないけど……でも出勤する頻度を減らすことは可能なの。わたしが『やりたくない』って言えば、聞き入れてもらえる。あんたの両親とは、違うんだよ」

 「その()()って、東京に行って映画スターになる、っていう?」

 「なんだ、知ってたの」


 わたしは自分の夢について、特に周囲に隠してはいなかった。初見のお客さんに将来の夢とかあるの? と聞かれることは多かったし、いつだったか店員の一人にも、世間話の一環として尋ねられた。

 だから、はるかがそれを知っていたとしても、不思議ではない。


 「そう。()()()()()()勉強をするために、金が入り用なの。それに都会に住むってなると、何かと金がかかるからね」

 「何百万貯めるつもりでいるの?」

 「具体的な金額は、お母さんが決めてくれてる」

 「お母さんが、ね……ふっ」

 「なに? 急に笑顔になって。キモいんだけど」

 「おめでたいね、()()()()()


 真顔から一転して、楽しそうに口角を上げるはるか。


 「自分の夢に直結することなのに、何にも知らないんだ? 何にどれくらいの金額が必要なのか。何にもわからないまま、今まで働いてきたんだ?」

 「無駄なことに頭使いたくなかったの。細々としたことは大の苦手だし。お母さんは、金のことにはわたしよりずっと詳しかったから頼んでた。やりたくないことには、できるだけ時間を使いたくなかった」

 「そんな面倒臭いことしてるくらいだったら、ちょっとでも演技の勉強をしたかった——そう思ってたんだね」

 「そう。お母さんは、わたしの夢に大賛成して、一番の応援者でいてくれてるし。安心して任せられた」

 「家族の絆ってやつか」

 「あんたには縁のないものだね」


 だんだん落ち着いてきたわたしは、今度こそその場を離れようとした。

 しかし、またもやはるかに止められる。


 「“目標金額“について、お母さんと詳しく話したことが、一度でもあった?」

 「ない。一回訊いたこともあったけど、辛そうな顔してたから。思ってたよりも貯まってないな——とわたしをガッカリさせたくなかったんだね。わたしの家、貧乏だから。稼いだ金の全部を貯金に回せるわけじゃないの」

 「なるほどね」

 「……何考えてるのか知らないけど。わたしの家は、長い間ある人に金を払い続けなきゃいけない事情があった。だから、働き始めてからしばらくは、その支払いに給料を注ぎ込んでた。引退が目の前に迫ってきた今になっても、仕事を続けてるのは、余計なことに金を取られて、なかなか資金が貯まらなかったからなの」


 心身共に弱っていたところを男につけ込まれたせいで、お母さんは計らずも人の夫を略奪する形になってしまった。メンタルがまともじゃない時に、相手の妻に攻め込まれるようにして、法外な慰謝料を支払う約束をしてしまった。

 お母さんを恨む気にはなれない。


 「あの時はもう本当に死んじゃおうかと思った」とボロ泣きする姿を見てきたから。苦労したエピソードを話すたびに、お母さんは溢れ出る涙を抑えきれずに、身体を震わせるのだ。

 どうして、恨むことができるだろう。


 「ある人にお金を、ね。それ、お母さんから聞いたの?」

 「そうだよ。本当に大変だったんだから。わたしを子カフェで働かせることにも、かなり悩んだみたい。わたしのところは、他の子カフェの子どもたちとは違う、()()()()()()()だから——」

 「それ、本当なのかな?」

 「え?」

 「お母さんが言ってるその人に、明奈ちゃんは実際に会ったことはあるの?」

 「それは——」


 ない。話に聞いていただけで、実際にその女性に会ったことはない。少なくともわたしは。わたしが幼児だった頃、まだ二人で暮らしている頃に、それらしき人間が訪ねてきたこともない。


 そういえば——。

 春太がお腹にいた頃、わたしはすでに幼稚園児の年齢に達していた。赤ん坊とは違って、ある程度物心がついていた。

 なのに、当時の記憶を遡ってみても、お母さんが女の人に詰め寄られていた場面は見当たらない。


 お母さんの寝物語によると、男に与えられたアパートの一室に男の妻が乗り込んできて、罵詈雑言を浴びせ、慰謝料を払えと脅してきた——とのことだったけれど……そんなショッキングな事件を微塵も覚えていない、なんて有り得るだろうか。


 あの頃、わたしは一人で出歩いたりはできなかった。どこへ行くにもお母さんと一緒だった。だから当然、その場に居合わせていたはず。幼い子どもがそんな場面に出くわせば、かなりの恐怖が心に刻まれるだろう。

 なのに——なんでわたしは何も覚えていないの。


 「そんな人、本当はいなかったんじゃないの?」

 「なっ……ば、バカ言わないで。お母さんがわたしに嘘ついてたっていうの? なんのために——」

 「そんなの、言われなくてもわかるでしょ」


 長年、語り聞かせられてきたあの話が作り話だったというのか。お母さんがわたしを騙していた?

 なんのために? ——子カフェで働かせ続けるためだ。

 歯がガチガチ鳴る。


 「でっ、でも! たまたま外出してて、その場にいなかった可能性もゼロではないし! 記憶にないからってそんな——だって……ううん、あるわけない。全部嘘だったなんて、そんなわけ……」


 はるかに聞かれているなんてことは、頭から抜けていた。


 駄目だ。確かめないと。こんな状態で仕事なんてできない。

 お母さんに直接聞くんだ。慰謝料はいくらだったのかとか、ふっかけてきた女の現住所など具体的なことを。

 本当にその女は存在したのか。


 わたしは、誰にも何も言わずに店を飛び出し、自宅へ舞い戻っていった。




 家に戻ると、お母さんは春太と遊んでやっていた。


 「どうしたの、明奈。何か忘れ物?」

 「お母さん——」


 視界がじんわりと滲んでいく。顔を見た瞬間、堪えていたものが溢れてきた。

 目元を袖口でグイグイ拭い、お母さんの瞳をひたむきに見つめる。


 「嘘じゃないよね?」


 なんの脈絡もなく、発せられた問い。

 一体何について言っているのか、普通ならわからないであろう、あまりにも突飛すぎる質問。


 お母さんの両目が、ギョッと見開かれた。そしてすぐに、怯えの色が浮かぶ。

 それを見て、目の前が真っ暗になる。

 その一瞬で、もうわかってしまった。


 お母さんには、心当たりがあったのだ。わたしにその嘘がバレはしないか、常に気にしていたんだ。

 いつかわたしの口から、疑いの言葉が出るんじゃないか——そう気を揉んでいたんだ。長い間。


 首をひねるでも、戸惑いの声を上げるでもなく、ああついに勘ぐられてしまったのか——とショックを受けた。そして、よりにもよってその胸の内を表に出してしまった。

 お母さんが弁解しようとする前に叫ぶ。


 「なんで!?」


 たった三文字しか、出てこなかった。頭の中では様々な言葉が渦巻いて、飛び出していきたくてたまらないというように、脳内を切迫しているのに。


 「ちっ、違うの! 決して明奈を騙してたとかじゃなくて——事情があったの! お願い、落ち着いて!」


 その場で足を踏み出したり、引っ込めたりを繰り返しているお母さんの方が、よっぽど落ち着きがない。


 「ち、違うの。ホントに……ホントに違うのよ……違うの……」

 「何が違うの!? 一体どんな事情だったら、こんなことが許されるわけ!?」


 ズカズカとお母さんの元へ歩み寄る。

 「ねえ教えてよ!」

 「うわぁーん!」


 春太がワッと泣き出した。険悪な母と姉の様子に、並々ならぬ恐怖を覚えたみたいだった。


 春太を不安がらせてはいけない。わたしはほとんど反射的に、春太を抱きしめて、「ごめんね、大丈夫だよ」と背中をさすり続けた。


 春太がようやく安心してくれた頃、わたしは店に欠勤の連絡を入れた。


 お母さんは、春太を気にかけるフリをして、わたしを見ないようにしていた。

 わたしは、お母さんを凝視していたけれど、声をかけることはしなかった。


 春太は、いつもよりも早めに寝付いた。火がついたように泣いていたから疲れたんだろう。

 春太が寝入ったのを確かめて、部屋の襖を閉める。


 そして現在、居間でお母さんと正座で向かい合っている。

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