爆発
***
「店長! 大変です! 大変なんです!」
ノックもせずに、俺が作業しているところに宮内が飛び込んでくる。
彼女の血の気を失った顔色に、俺は嫌な予感がした。
「大事件ですよ! 歩がユカの目をコンパスで衝いたんです!」
案の定、最悪な展開が告げられた。
あまりにショッキングな内容だったが、俺は思ったよりも驚きを感じなかった。自分がこの報告を受けて驚かなかった、ということに驚いていた。
当然、その日は閉店となった。
ユカは救急車に乗せられ、俺はそれを見送った。同乗者は、知らせを受けてすっ飛んできたユカの保護者と、事件の現場に居合わせていた宮内。
歩の両親は、揃って東北の実家に顔を見せに行っているようで、到着はまだまだとなりそうだった。
俺は、静まり返った店内で歩と向かい合う。
「何でこんなことしたんだ」
「…………」
テーブルを挟んで向かい合っている歩からは何の返答もない。
「何か嫌なこと言われたのか?」
「…………」
「だとしても、あんなことしちゃ駄目だろう。目っていうのはな、すっごく大事なんだぞ。ユカの目が見えなくなってしまうかもしれない……とは考えなかったのか?」
「……それくらいわかるし」
「え?」
「わかっててやったんだもん」
「歩!」
「ユカちゃんが悪いんだよ? 歩の大切なもの取ったから……だから歩も、ユカちゃんの大切な目を奪ってやろうと思ったの」
背筋を悪寒が駆け巡った。
歩は、自分は当たり前のことをしただけだ、というような態度で俺の前にいた。
ユカが運ばれる際、歩は窓からその様子を見ていた。
ユカが片目を手で抑えて「いたい、いたいよ、いたいよお」と苦悶の叫びを上げているのを見た歩は、ニヤリと満足そうな笑みを浮かべていた。
俺は、ニタニタと気味の悪い笑みから目を逸らして、それからしばらくの間、窓際を見ないように努めていた。
「ユカちゃんが歩の“お母さん“を取ったから……そっちの方がずっと酷いでしょ? ユカちゃんの方が悪いでしょ?」
知ってしまったのか。
ちょっと前まで自分ばかりを指名していた客が、ユカに流れたことを。
「お母さんは、たった一人なの。それをユカちゃんは横取りした……目なんて二つあるじゃん。一つがなくなったからって、もう片方がある。一つしかないものを取ったユカちゃんの方が、私よりよっぽど酷いよ」
「歩——あの人はお母さんじゃない。お客さんだ。お前には本当のお母さんがいるじゃないか」
呆気に取られながらも、間違いだけは訂正する。
「本当のお母さんなんて……」
堂々とした歩の様子が崩れる。
しかし、それは一瞬のことで、歩は俯いた顔をすぐに上げた。
「だって、本当のお母さんだと思ってくれていいからね、って言ってくれたもん」
「それは——」
さして考えもせずに言った言葉だ。言った本人ももう忘れているかもしれない。いや、誰にでも言っているのかも……とにかくそこに深い意味や真剣な思いなどは込められていない。
しかし、それを説明する勇気はさすがに湧いてこなかった。
代わりに尋ねる。
「どうしてお客さんがユカの方にいったことを、知ったんだ?」
今まで厳重に隠してきた。子どもたちにも、歩の問題には触れるな、と言いつけておいたのに。やっぱり悪気なく言及してしまった子がいたのか? そう思っていたら、
「ユカちゃんに教えられたの」
と意外な言葉が返ってきた。
沈み込んで仕事もままならない歩を見かねたユカは、勤務中に歩に耳打ちした。
『歩ちゃん、お仕事辞めなよ。どうせ歩ちゃんが待ってる人は、もう歩ちゃんなんて忘れてるんだから』
それを聞いた歩は、すかさず否定した。
違うもん、きっとまた来てくれるもん、今は忙しいから来れないだけで——そう反論する歩にユカは、歩曰く意地悪に笑ってみせた。
そして、トドメを刺した。
『忙しくなんかないよ。私には会いに来るんだから。歩ちゃんには会いたくないってだけだよ』
「ユカちゃんは、笑いながら離れていった。ユカちゃんのご機嫌な声を聞いてると、すっごいムカムカしてきて——笑い声を止めたかった。だからコンパスでぶっ刺したの」
「なんてことをしてくれたんだ……」
「ユカちゃん、もう目見えなくなっちゃうかな? そしたら、お仕事続けられなくなる? ユカちゃん、ここを辞めてくれる?」
聞きながら、ゾッとした。
ユカを傷つけた理由は色々あるだろうが——“お母さん“を取られた恨みとか、馬鹿にされてカッとなったとか——一番の理由は、これだった?
ユカを辞めさせれば、“お母さん“はまた自分を見てくれる。
そういう思惑があって、今回のことを起こしたのだとしたら——それは、単純に感情に駆られたからではない。計算して行ったことになる。その計算がお粗末だったとしても。
子どもというものが、恐ろしいと思った。親に愛されるためなら何でもする純粋さと、幼い故にまだ曖昧な善悪の境界線。
子どもは未熟な存在だ。
まるで、今初めてその事実を知ったかのような衝撃に打たれる。
そんな未熟な存在に、このような仕事をさせれば——。
そこまで考えて、いやいや、と首を振る。
今回のことは、たまたまだ。皆が皆、歩のようなわけではない。
そうだ。普通、どんなにムカついたからといって、相手の目をコンパスでつくなんてことしない。
ましてや幼い子どもだ。怖くてそんなこと出来っこないはずだ。
歩はサイコパスなのだ。人を傷つけても何とも思わない——むしろ喜んでさえいる。
今回の話は、歩が悪魔のような気質の少女だったというだけで、根幹的な問題などないのだ。
本当にそれだけの話なんだ。これは歩一人の問題だ。
俺は必死に自分に言い聞かせた。
頭をよぎった疑問を、振り払おうと努力する。
子カフェで働いて育った子どもたちが、どのような成長を遂げるのか。
そして、その子たちが社会に出た時、どのような影響があるのか。
何かしらの災いが起こりそうな予感がしていた。
痛みにまみれた凄惨な未来が、そう遠くないうちに描き出されるような気がしてならなかったが、俺はその予感を馬鹿馬鹿しい、と一蹴した。
大丈夫、何も起こりっこない。
俺のやってきたことに、選んだ道に間違いなんてない。
ここにいるのは全員健全な子どもたちだ。しかし、何にでも言えることだが、100パーセントなど不可能だ。
歩のような例外が出現することも、あり得ないことではなかった。
俺はそう結論づけて、そこからは事件の処理について、ひたすらに思いを馳せた。
その後、歩は店を辞めることになった。ユカも同様だ。
ユカの親は、裁判を起こすと決めたようだ。最初は示談で済ませようとしたのだが、提示された金額がかなりの高額で、とても払えない、と歩の両親が抗議した。
もう少し下げてくれないかとの懇願に、ユカの両親は断固拒否した。一円も負けてやる気はない、と言い、それでも尚加害者側が払わない、という態度のままでいるのを悟ると、裁判を起こすことにした。
歩は、どんな罰を受けるのだろうか。
幼い子どもがやったことだ。いかに暴行の内容が苛烈で悪意に満ちていたのだとしても。
少年法で守られる年齢だ。しかもまだ7歳である。
まだ人間とも呼べないような年頃だ。
もちろん店側も過失を問われた。たっぷりと賠償金を払うことになり、本社から来た人間は、店長である俺に怒りをぶつけた。
「お前にも責任として店長を辞めてもらうことになったから。店の面目を保つためだ。ああ、でも会社自体をクビになるわけじゃないから、そこは安心しろよ」
覚悟はしていた。どの道、この店はもう終わりだ。じきに閉店するだろう。こんな事件が起こった子カフェに来ようと思う客なんていない。
以前の恵まれた店舗から離れてまで手に入れた、せっかくの店長の座。
副店長の仕事よりも、店長の仕事の方が楽そうに見えたから、今度新しく出す店舗の店長にならないか、という誘いに乗ったのだ。
店長の立場は、居心地の良いものだった。
一人で仕事に集中していれば、あっという間に時間が過ぎる日々。店長は基本的に子どもたちとの関わりが薄い。
何年も子カフェで働くうちに、子どもたちと話したりするのが、だんだんと気まずくなっていった。
アルバイト時代にはそんなことはなく、気軽に子どもたちを笑わせたり、逆に子どもたちに笑わせられたりしていた。
俺は、昔のようにコミュニケーションが取れなくなった原因は、俺が歳をとったことにある、と考えていた。幼い子たちと波長が合わなくなって、ノリについていけなくなったのだ、と。
だから、店長になって関わり合いになることが減ってホッとしていた。
この先頑張ったとして、再び店長を任される見込みはほぼゼロだ。せっかく懸命に勤めてきたのに、全て水泡に帰した。
だというのに、俺はまったく悲しさも悔しさも感じていなかった。
むしろ、安心感さえあった。
これ以上会社にいても、出世を望めないというのなら、いっそ完全に退職してしまう方が良いのかもしれない。
会社を辞めて転職する。子カフェとはまったく関係ない業種に行く。
そのアイデアは、俺の心をパッと照らした。
胸が高揚感で満たされた。ずっとかかっていた負荷から解放され、急に呼吸が楽になったかのような感があった。




