最期の願い
そう答えた春佳は、「私たち、不思議な会話をしてるな」と思った。
自分たちは本当の兄妹ではない赤の他人なのに、いまだ二人ともお互いを兄妹として接している。
愛しても問題ない存在だと知って安心したはずなのに、二人の心の中には十九年続いた兄妹としての絆があった。
――私たちは、どこまでも一つ掛け違えたままだ。
心の中で呟いた春佳は、頬に添えられた兄の手に己のそれを重ねる。
そして胸を高鳴らせて願った。
「キス、して」
灯り一つない海岸にいると、あまりに暗くて互いの顔の判別がつかない。
それでも冬夜が優しく笑ったのが、気配で分かった。
彼は指で春佳の唇の位置を確認したあと、身を屈めて優しい口づけをしてきた。
ふわり、と体の中で最も柔らかい部分が触れ合い、冬夜の温もりを己の唇で感じる。
――これが、キス。
想像していたより百倍優しくて静かな愛情表現に、春佳の心がふるりと震えた。
同時に、これが最期のキスになるのだと思うと、悲しくて、惜しくて、涙を零してしまった。
「……なんで泣くんだよ」
指に熱い涙を感じた冬夜は、顔を少し離して苦笑混じりに尋ねる。
「……もったいなくて。こんなに素敵なもの、私、ずっと知らなかった」
「……俺も知らなかったよ」
予想外の事を言われ、春佳は弾かれたように顔を上げ、信じられないと目を瞬かせて言った。
「……嘘……」
確かに恋人はいなかったかもしれないが、モテる兄の事だからキスやセックスは経験済みなのだと思っていた。
すると冬夜はおかしそうに笑って言う。
「嘘じゃないよ。……確かにモテていたかもしれないけど、俺は父親にレイプされた男だ。それを知ればどんな女性だって引いて、逃げていく。学生の時に一度だけ付き合った事があったけど、本当の事を言ったら逃げられた。だから誰の事も、もう信じないと思ってたんだ」
冬夜の心に刻まれた深い傷は、彼から一人の男性として生きる事すら奪っていた。
「真剣に探せば、そんな俺でもいいという奇特な人を見つけられるかもしれない。でも傷付くかもしれないのに、星の数ほどいる女性の中から、トラウマごと俺を愛してくれる人を見つけるなんてできなかった。付き合ってから過去の事を話して、『気持ち悪い』『幻滅した』と言われて傷付く。……それを何度も繰り返す? ……狂気の沙汰だ」
最後は吐き捨てるように言い、冬夜は荒っぽい溜め息をつく。
そんな兄の手を、春佳はおずおずと握った。
「……私は、……拒絶しないよ。お兄ちゃんの全部を受け入れるよ」
冬夜はしばし黙ったあと、妹の華奢な手を握り返してその細い指を辿る。
そして、試すように言った。
「……じゃあ、俺の最期の願いも聞いてくれるか? ……好きな女を抱いてみたい」
潮騒に混じって冬夜の熱を帯びた声が耳朶をかすり、春佳は胸を高鳴らせる。
――嘘みたい。
決して結ばれる事のない二人だと思っていたのに、いま自分は冬夜に告白し、兄もまた自分を求めてくれている。
――どうせ死ぬなら、なんだってできる。
そう思った春佳は、胸の奥に覚悟を宿して頷いた。
「……いいよ。……私も、経験してみたい」
そっと兄の胸板に手を置いて返事をすると、温かな胸の奥からドクッドクッと彼の命の鼓動が伝わってきた。
「ありがとう」
冬夜は礼を言い、微かに震える息を吐いたあと、春佳の手を握ったまま海とは反対方向に歩き始めた。
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