好きな人とキスをしてみたい
しばらく、二人は息が整うまで黙って海を前に立っていた。
体は冷え切り、指先はかじかみ、喉はヒリヒリしている。
(このまま、ズタズタになるまで自分を痛めつけて、この世からいなくなってしまってもいいのかもしれない)
――お兄ちゃんが一緒なら。
思いきり叫び続けると、まるで自分が空っぽになったように感じられた。
禊は済み、〝空〟になった自分なら何でもできる気がした。
ビュウビュウと吹きすさぶ潮風になぶられていると、ネオンが光り騒がしい都心にいたのが嘘のようだ。
――私たち、このまま人知れずここで終わるのかもしれない。
そう思いながら立ち尽くしていると、冬夜がそっと手を握ってきた。
「……なぁ、春佳」
「ん?」
兄に話しかけられ、春佳は穏やかな顔で大好きな男性を見た。
「このまま、二人で死ぬか」
彼はまるで、「散歩にでも行くか」というような気軽な声で心中に誘う。
どう答えるべきか黙っていると、ザァァァン……、ザァァァン……、と、潮騒が鼓膜に刻みつけられていく。
強い潮風が髪をなぶるさまは、まるで運命に翻弄される自分たちのようだ。
(……そうだね。もう終わらせてもいいのかもしれない)
心の中で返事をした春佳は、暗闇の中で小さく微笑んだ。
暗くて冬夜の顔はよく見えないが、彼も笑っているように見える。
――うん。お兄ちゃんと一緒なら。
頷いた春佳は、とても穏やかな気持ちで返事をした。
「いいよ」
泣きたくなるほど美しい天の川の下、この世でたった一人の妹が自分を肯定してくれる。
彼女の答えは、追い詰められた冬夜にこの上ない安らぎを与えた。
――もう、何も考えたくない。
二人とも、思っている事は同じだ。
――ならばこのまま……。
一歩ずつ海に向かって歩くたび、静謐な死が包んでくるように思える。
覚悟を胸にキュッと冬夜の手を握り返した時、春佳はある事を思って兄に話しかけた。
「……ねぇ」
「ん?」
冬夜は返事をし、歩みを止める。
「私、死ぬ前に好きな人とキスをしてみたい」
それはずっと胸に宿していた、ささやかな願いだ。
ささやかながらも、今までは冬夜を実の兄だと思っていたから決して叶わない望みだと思っていた。
けれど、今なら――。
「私、ずっとお兄ちゃんが好きだった。……優しくて格好良くて、何でもできて、自慢の人で、憧れだった」
冬夜は妹の告白を黙って聞く。
「でも〝お兄ちゃん〟だから、自分の想いは〝完璧な兄への憧れ〟だと思うようにした。血の繋がった兄に惹かれてるなんて言ったら、頭がおかしいと思われてしまう。でも友達がお兄ちゃんを『素敵だね』って言うたび、嬉しいはずなのに嫉妬してしまっていた。兄に嫉妬するのは間違えているから、『凡庸な自分は何でもできる兄にコンプレックスを抱いている』と置き換えるようにしていた」
そこまで言い、春佳は溜め息混じりに笑った。
「けど、今なら素直に異性として好きだって言える」
けれどもう、何もかも遅すぎた。
「ごめんね。お兄ちゃんが『あの家を出ろ』って言ってくれた時に、素直に言う事を聞いて二人で生活をしていれば、こんな事にはなかったかもしれない」
冬夜はゆるりと首を左右に振り、春佳の謝罪を否定する。
「……あの時の春佳は物事を判断できる状態になかった。謝る必要はない」
彼は穏やかな声で言うと、妹の頬を両手で包み、親指で唇の輪郭を辿った。
「……俺でいいのか?」
そう言われ、春佳は破顔して返事をした。
「お兄ちゃんじゃないと嫌だよ」




